昔々、あるところに、美しい王子様が住んでいました。希望の光に包まれた王子様の国は、あちらこちらが、きらきらと煌めいて、それはもう、ため息が出るほどの美しさでした。  王子様の白亜の城には、一人のお抱え宮廷作家が居ました。お抱え作家は、魔法のペンを持っていました。作家のペンにかかれば、この世のどんなものも、希望に満ちた、明るい輝きを放ち始めました。  作家が「お城の周りは、うっとりするような花畑だった」と書けば、みる間に小さな可愛らしい双葉が城の周りに現れて、ぐんぐん大きくなったかと思うと、次の瞬間には青や紫や赤や黄色の花々が咲き乱れました。  作家が「今日は楽しい雨の日」と書けば、国中はとたんに、ざあざあと陽気な雨の歌に包まれ、みんな傘を差したり、合羽を着たりして、長靴を履いた足で、水たまりをバシャバシャやって、笑い声を上げました。  そんな国にも、ごくたまに敵が侵入してくることがありました。心配とか、悩みとかいう、黒い奴らです。  でも、そんなのは全然へっちゃらでした。国には、王子様を勇敢に守る騎士も居たからです。騎士は勇気の剣を使って、黒い奴らをやっつけて自信とか、期待とかの明るい光に変えることで、王子様の国をそれまでよりも大きく、豊かにしていきました。  けれども、幸せは長くは続きませんでした。ある時、フィアーという恐ろしい怪物が、お城の中に現れたのです。  フィアーは、国の力の源である王子様を取り込もうと、お城の中をさまよい歩きました。フィアーが歩いた後には、あの嫌なジメジメとした黒カビが生えたかのように、白亜の壁が黒い染みに飲まれていきました。  騎士の勇気の剣も、作家の魔法のペンも、フィアーには全く効きませんでした。剣は粉々に砕け散り、ペンは魔法の力を失って黒いカビまみれになってしまいました。  いよいよ玉座の間にたどり着いたフィアーを、王子様は毅然とした態度で迎えました。もう、誰もフィアーを倒せないことを、王子様は解っていました。それでも、泣いたり、逃げたりせずに、王子様はフィアーと向き合いました。だから、王子様の体が緊張のあまりに、ちょっとばかし震えていたとしても、それは恥入るようなことではありません。  王子様と対峙したフィアーは、元の大きさの二倍にも、三倍にも膨れ上がりました。それに伴って、白亜の部屋に黒いカビが広がっていきます。初めは床を伝い、そして、壁も、天井も、いちめんの真っ黒になってしまいました。  フィアーが王子様に向かって、不気味な黒い手を伸ばしました。このままでは、お城も、国も、フィアーの黒いカビに侵されてしまいます。だから、王子様は最後の手段を取ることにしたのです。  王子様は、国に伝わる古い魔法を使って、フィアーを玉座の間に閉じこめました。封印されたフィアーは、もう国に手を出すことはできません。  けれども、いくつか問題がありました。  フィアーを封印したために、王子様自身も、玉座の間に閉じこめられてしまったのです。  国はフィアーのために、魔法のペンも、勇気の剣も、王子様までをも失ってしまったのです。暖かい光にあふれていた白亜の城は、暗くジメジメした嫌な場所に変わってしまいました。  魔法と希望にあふれていた国は、誰も口にしたがらない国になりました。  やがて時が流れて、王子様も、王子様の国のことも、いつの間にか、忘れさられてしまいました。やがて時が流れて、誰も口にしたがらない国は、いつしか、誰にも思い出されない国になりました。  でも、誰にも思い出されない国の玉座の間で、フィアーは、今この瞬間にも、もぞもぞと不気味にうごめいているのです。