意気消沈したシギュンの歩みはのろく、ともすれば止まりそうだった。おまけに、行きには味方した風が帰りにはまた向かい風になり、アングルボダとシギュンの足は遅々として進まなかった。家につく頃には太陽はすっかり沈み込んで、あたりは暗くなっていた。
アングルボダはまずシギュンを椅子に座らせ、ゆりかごを置いてから急いで灯明に明かりを灯した。その間も、シギュンは一言も話さなかった。岸辺で男と会ってから、シギュンはまるで声を失くしてしまったかのように黙りこくっていた。
「シギュン?」
アングルボダがシギュンのそばに椅子を引いてきて腰掛けた。反応を示さない彼女の手を取る。
「ねぇ、シギュン。何があったか話してくれない?」
静かで穏やかな声に、シギュンは首を動かしてぼんやりとアングルボダを見た。
「あの海岸で本当は何をするつもりだったのか、あの男とどういう関係なのか。婚約者じゃなかったの?」
アングルボダは握った手を優しく撫でた。
「婚約者じゃない……」
ぽつり、とシギュンが言った。
「婚約なんてしてない! 私はただ——!」
シギュンは立ち上がって半狂乱で叫んだ。
「でも、将来の妻だって……」
振り払われた手を引いたアングルボダが、少し怯えながら口に出した。シギュンはハッとしてアングルボダを見た。そのまま崩れるようにして、ストンと椅子に座った。
「ごめんなさい。あなたが悪いんじゃないのに」
アングルボダは黙って首を横に振った。
シギュンは一度、大きく息を吐きだしてから、訥々と話し始めた。
「今日行った海岸は、かつて神々がヒトを創り出した場所なの」
「神々がヒトを……?」と、アングルボダは眉を寄せた。
「そう。古い詩にこう歌われているわ。『やがて、これらの群れの中から、三人の、強いが、優しい神々が岸辺に来る。岸辺で彼らは、無力で自らの運命を知らぬアスクとエムブラを見つけた。彼らは息を持っていなかった。心も持っていなかった。生命の暖かさも身振りも、良い姿も持っていなかった』」
「それ、昼間の?」
シギュンは頷いて続ける。
「そう。そして、こう続くの。『オーディンは息を与え、ヘーニルは心を与え、ローズルは生命の暖かさと良い姿を与えた』」
「生命の暖かさと、良い姿」
「そうよ。だから、彼らならなんとかしてくれるんじゃないかと思った。彼らを呼べなくても、せめてヒトを創った時の魔力の痕が残っていれば、それでなんとか出来るんじゃないかって。だけど……」
「彼が来るとは思ってなかったのね?」
アングルボダの問いかけに、シギュンは無言で頷いた。
「神界の歴史は長いのよ。名は聞いても見たことのない神もいるわ。ヘーニルもそう。私は彼を見たことがないの。遠い昔にヴァナヘイムと盟約を結ぶために旅立って、そこで暮らしているって聞いたわ。アスガルドには一度も帰ってきていないんですって。だから——」
「ローズルという神も何か事情があってアスガルドにいないだけだと思ってた?」
シギュンは、こくりと首を縦に振った。
「オーディンが来たらどうするかは、考えてなかったけど……。でも、あの人は王侯貴族の面倒を見るのに忙しくて、小さな出来事には目を向けない人だから」
こんなところには来るわけがない、と言外ににじませて、シギュンはまた口を閉じた。
「ロキとは……」
そこまででアングルボダは言いさした。今、訊いていいことなのか自信がなかったし、なんとなく気まずい心地がしたからだった。代わりにアングルボダはこう尋ねた。
「どうして、あたしのことを助けてくれたの? こういう場合って、普通はあたしのこと憎く思ったりするものなんじゃないの?」
シギュンは胡乱な目をアングルボダに向けると、口の端をつり上げて皮肉っぽく笑ってみせた。
「あの人と寝た、なんて理由でいちいち憎らしがってたら、こっちの身が持たないわよ。そうしたら私、アスガルド中の女神を憎んでなくちゃならなくなるし」
アングルボダは目を見開き、シギュンの言った言葉を無意識に反芻した。
「……アスガルド中?」
「そうよ」
さらりと肯定するシギュンをアングルボダはまじまじと凝視してしまう。
そうだこれはきっと誇張表現に違いない。シギュンは彼を好きなあまり、彼がモテるのを大げさに表現しているだけなのだ。
「まさか、冗談でしょ?」
「私が冗談言うように見える?」
シギュンは肩をすくめて、軽くため息をついた。
「まあ、だからこそ、私には希望があるわけだけど……」
「希望……。つまり、シギュンも彼と寝てるってわけ?」
だから一度(どころかどうも何度も?)他の女と交わろうが気にしないってことなのだろうか。
「バカね。逆よ、逆。彼、遊び以外じゃ寝ないから」
「それって」
「私が本気だってこと、向こうもわかってるってことよ」
シギュンは自信ありげに微笑んだ。
「それに、ロキの子供は私の子供みたいなものだし」
言いながら、肩に乗ったヨルムンガンドに頬を寄せる。
「あなたのところに来たのは、この子たちのため。人の形をしてない子が生まれてきたら誰だってびっくりするだろうしね」
ヨルムンガンドはシギュンの言葉に応えるようにちろちろと舌を出した。
「そうよ。私には希望があるし、ロキの態度だって今までと大して変わってないじゃない。何も悲観することなんてないわ。ねぇ、そう思わないアン?」
ぺらぺらと一人で饒舌に語ったシギュンは、最後にアングルボダを見て首をかしげた。
「え、うん。そうかもね」
「そうでしょう? そう思うわよね」
一人納得した様子のシギュンに、アングルボダは雰囲気に流されるまま頷き返した。何はともあれ、元気になったのならよかった。
——あれ? でも、それって付きまといなんじゃないのかな?
わき上がってきた疑問を、アングルボダは頭を振って胸の内から追い出した。視線の先では、すっかり機嫌の直ったシギュンが指先でヨルムンガンドの頭をつっついていた。
空が白み始めたアスガルドの城壁に一羽の鷹が舞い降りた。鷹は小首をかしげると、綿密に積み上げられた石の上から、城郭の内側へ飛び降りた。すい、と周囲を見回す。人気のない城壁の内側で、鷹の姿はいつの間にか若い男の姿に変わっていた。
男は未だ暗い城下へ足を踏み出そうとして動きを止めた。左首のすぐそばで鋭い切っ先が白く暁光を反射していた。
「こんな夜更けに何をしている、ロキ?」
感情を伺わせない声で問いかけられ、若い男は大げさに肩をすくめて振り返った。
「夜更けだって? もうすぐ夜が明ける時間だよ、ヘイムダル君?」
「宵っ張りでも布団に入っている。寝込みを襲うには理想的な時間だな」
「へぇ、そいつはいいことを聞いた。次からの参考にするよ」
ロキは笑いながら首筋に当てられていた剣をやんわりと押し返した。ヘイムダルは素直に剣を引いた。
「それで?」
ヘイムダルが剣を鞘に収めるのを眺めながら、ロキが問いかける。
「わざわざ嫌みを言うためだけにヒミンビョルグから出て来たわけじゃないだろう。なぁ、ヘイムダル」
口の端を上げて悪辣な表情で笑うロキに、ヘイムダルはため息をついた。
「訊くべき立場なのはむしろ私の方なのだがな。ロキ、貴様いったいこんな時間まで何をしていたのだ」
「それはアスガルドの門番としての尋問か? 白き神よ」
「いいや、私個人の心情から出た質問だ。奸計に長ける者よ」
ヘイムダルの返答にロキは笑みを深めた。
「それなら、俺がその質問に答える義務はないね」
「ああ、そうだな」
ヘイムダルは否定しなかった。彼はロキの性質をよく心得ていた。
このロキという男は大変な天邪鬼で、求められれば言いたくなくなるし、求められなければ言ってまわりたくなる質だった。
「別に、何かをしていた訳じゃないんだ。ただ……」
ロキは言いよどんだ。自分でも何を言いたいのか、わからなかった。
「心配しているのか?」
「心配してるかだって? 俺が? 誰を?」
ロキは考える前に口に出した。脳裏に浮かんだのは、昼間にまみえた金髪の女だった。
ヘイムダルはロキから視線を外して空を見上げた。空はいつの間にか夜明け間近の薄青色に染まっていた。一瞬の後、竪琴の弦を弾く清かな調べが風に乗って響いてきた。
お互いに口を閉ざしたまま、しばらく竪琴の微かな調べに耳を澄ました。
「いい音色だ」
旋律の聞こえてくる方向に向かってロキが呟いた。ヘイムダルは頷いて同意を示し、言った。
「しかし、聞く耳がなければ、どんなに美しい演奏も虚しいだけだ」
ロキは隣に立つヘイムダルに視線を移した。
「耳が聞こえていることと、聞く耳を持っていることは違うからな」
ロキは何も言わずに視線を空に戻した。草木の芽生えさえ聞き取るヘイムダルの耳には、いったいどんな世界が聞こえているのか思い巡らせながら。