ホズはむせ返るような草木の青い空気の中で深呼吸した。

鉄の森(イアールンヴィズ)と聞いていたから、いったいどんな場所なのかと思っていたが、何のことはない普通の木々が生えた森だった。ただ、なんとなく、空気が重いというか、濃いような気がした。他よりも樹齢の長い木々が多いようで、その幹や根元は苔が生えて緑に染まっている。見上げれば、白樺や箱柳の白い幹や枝が広がっている。若緑色の葉を透かして見る木漏れ日は、なんだか少し弱々しい印象を受けた。

がさり。

すぐ近くで下草を揺らす音がして、ホズは身を強ばらせた。音を鳴らしたモノの正体を探ろうと、じっと息を潜めて視線をあちこちに走らせる。

もう一度、がさりと下草が鳴って、音の正体が姿をあらわした。それは、小さなオオカミだった。灰色の毛並みをしていて、興味深そうな目をしてホズを見つめていた。

ホズは身を固くしてオオカミを見つめ返した。息を詰めて、獣の黒い目から目を逸らすまい、と腹に力を入れる。幼獣とはいえオオカミだ。飛びかかられてはひとたまりもない。

「ばーなー! どこー?」

森の奥から聞こえてきた女の子の声に、オオカミは耳をピクリと動かして振り返った。

「危ない! 来てはいけない!」

とっさに叫んだが間に合わなかった。がさりと、目の前の藪がざわめいて幼い女の子が顔を出した。オオカミの前足が地面を蹴る。ホズは思わず顔をそむけて目を閉じた。

きゃっきゃっと女の子のはしゃぐ声を聞いて、ホズは恐る恐る目を開けた。オオカミに地面に転がされた女の子が、顔を舐められながら笑っている。何が起こっているのかわかってくると、ホズの肩から徐々に力が抜け落ちていった。

オオカミは随分と女の子に馴れている様子だった。もしかしたら、生まれた時から人間に飼われてきたのかもしれない。

片膝をついて女の子に目線を合わせたホズは眉をひそめた。彼女の左頬から腕にかけて、皮膚が青黒く変色していた。女の子はまだ三つか、そこらに見える。一人でこんな森の奥まで来たとは思えない。置き去りにして捨てられたのでなければ、近くに親がいるはずだ。いや、いると思いたい。

「こんにちは」

なるべく優しい声音でホズが挨拶すると、オオカミと戯れていた女の子はきょとんと目を丸くしてホズを見つめた。

「こんにちあ」

女の子は上半身を起こして挨拶を返した。そのすぐ隣にオオカミが座ってホズを見つめる。まるで幼い彼女を守っているかのようだった。

「はぐれてしまったのかい? パパかママはどうしたの?」

女の子はぱちぱちと瞬いて、にこりと笑った。

「まま、おうち、いるよ!」

「そうなんだ。おうちはどこかわかる? 送っていくよ」

「うん! こっち」

女の子は頷いてホズの手を握って森の奥を指さした。オオカミが咎めるかのように一声吠えたが、女の子はちっとも気にしない様子でホズの手を引いて歩き出した。

女の子の歩みが思いの外しっかりしていて、ホズは内心ホッと息をついた。どうやら、捨て置かれたわけではないらしい。その証拠に、程なくして木々の間から小さな家が見えてきた。

とたんに女の子はホズの手を離し、笑いながら駆け出していった。そのすぐ後を仔狼が追いかけていく。

「まま! まま!」

女の子の声に家の扉が開いて、若い女が顔を覗かせた。

「スヴェルテイン。そんなに、はしゃいでどうしたの?」

女はスカートにまとわりつく女の子を抱き上げると、親しげに笑いかけた。

「まま! ぱぱ、きたよ!」

「え?」

女は驚いて顔を上げ、家から少し離れたところに立っているホズに気がついた。彼女の大きな目と、ホズの見開かれた目が同じタイミングで瞬きした。

ホズは目の前のテーブルに出されたお茶に恐縮して、首をすくめた。

「あの、ありがとうございます。すみません、突然訪れたのに。ご迷惑でしょう? すみません」

女は椅子にかけながら、ころころと楽しげに笑った。

「いいのよ。こんな辺鄙なところだから、お客さんも滅多に来ないし、たまには目新しい話し相手もいなきゃね。あたしはアングルボダ。この子はスヴェルテイン」

言って女は膝の上に座らせた幼子の髪を撫でた。

「そう言って貰えるとありがたいです。僕はホズと言います」

ホズは会釈すると肩の力が抜けた気がした。

「スヴェルテイン、『こんにちは』は?」

「こんにちあ!」

スヴェルテインはくりくりした目をホズに向けて笑いかけた。

「かわいいですね」

ホズが微笑んでスヴェルテインに向かって小さく手を振る。アングルボダは無言でスヴェルテインの頭をなでた。

「ばーなー!」

テーブルのすぐそばで伏せていた仔狼に気づいたスヴェルテインが両手を伸ばす。アングルボダはもう一度スヴェルテインの頭を撫でてやってから、そっと膝からおろした。

きゃっきゃっと楽しそうに笑い声を上げながらスヴェルテインが仔狼を抱きしめる。仔狼は仕方がないとでも言いたそうな顔で、スヴェルテインの好きなようにさせていた。

「随分と慣れているんですね。生まれた時から飼っているんですか?」

「家族だから。スヴェルテインにとって、ヴァナルガンドはお兄ちゃんなの」

アングルボダは慎重にホズの顔色を伺ったが、彼の表情から特別なものを読み取ることはできなかった。

「兄妹仲がいいなんて、ちょっと羨ましいな」

ホズは少し淋しげに微笑んだ。

「それで、ホズさんはどうしてこんな森の奥に? どこかへ向かう途中?」

「それが、人を探しているんです。シギュンという女性なのですが、ご存知ありませんか?」

「彼女なら、きっともうすぐ……」

「ただいまー!」

アングルボダの言葉は元気よく帰宅を告げる声と扉の音に遮られた。

「帰ってきたわ」

アングルボダは肩をすくめて椅子を立った。

「ただいま、アン。いい薬草がたくさん採れたわ。それに、ブルーベリーにラスプと……」

玄関扉のすぐ前にいたシギュンは、アングルボダの姿を認めると、外套を脱ぎながら早口でまくし立て始める。それを片手を上げて止めると、アングルボダは奥を指さしていった。

「シギュン、あなたにお客さんが来てるわ」

「私に?」

シギュンは言いかけていた言葉を飲み込んでアングルボダを見つめた。

「……ロキ、じゃないのね?」

「違う。ホズって若い男の人だけど」

アングルボダは肩をすくめて視線でテーブルを示した。首を傾けて、彼女の肩越しにのぞき込んだシギュンが息を飲む。

「ホズ様? どうして?」

シギュンは慌てて外套と薬草や果実の入った藤カゴをアングルボダに押し付けるとホズの座っているテーブルへと駆け寄った。カゴの中からヨルムンガンドが興味深そうに、そろそろと顔を覗かせた。

「あたしに聞かれてもわからないわよ」

アングルボダは肩をすくめるとシギュンの後ろからついていった。

小走りで近寄ってきたシギュンを見て、ホズは得心した。柔らかな金の髪、それなりに整った顔立ち。屋敷で何度か見かけたことがある女性だった。

確かにヘイムダルの言うとおり、「見ればわかる」のだ。ただ、著しい特徴がなく、他人にわかりやすく彼女のことを説明するのは難しいだろうと思われた。目の覚めるような美人でもないし、ことさら容姿に難があるわけでもない。金髪の娘などありふれているし、それは体型にしてもそうだった。いかにも平均的といったところで、特に良くもなく、悪くもないといったところだ。

「シギュンさん、ですね?」

シギュンは頷いて、丁寧に礼をとった。

「あの、あまりかしこまらないで下さい。あなたの雇い主は父であって、僕ではありませんし、それに今日、僕は一つお願いしに来たのです」

「お願い、ですか」

シギュンは顔を上げて首をかしげた。主神の令息から頼まれるようなことが、彼女には思いつかなかった。

「ええ、馬屋のことなんですけど……。父の愛馬であるスレイプニルはご存知ですね」

「はい」

「どうも、あなたが顔を出さなくなってから、餌を食べていないようなんです」

「え?」

シギュンは目を瞬いた。

ホズは真剣な面持ちで続けた。

「それで、残った馬屋番が随分と困ってしまっているんです。わかっていらっしゃると思いますが、スレイプニルは父のお気に入りですし、ことが知れたら大問題になる可能性があるんです。父の怒りに触れたら、あなたはアスガルドにいられなくなってしまう」

シギュンは両手で口元をおさえて首を振った。

「だけど、どうしてスレイプニルが……」

ホズは眉を下げた。下を向いて組んだ手を見つめる。

「僕にはわかりません」

「……帰ってきてほしいんじゃないの?」

マントと藤カゴを片付けてきたアングルボダがシギュンの隣に腰掛けながら言った。

「帰る? だけど……」

シギュンはアングルボダを見て言葉を詰まらせた。

「シギュンが本当にいるべき場所は、ここじゃないでしょ?」

シギュンは何か言い返そうと何度か口を開いたが、何も言えずに目線を床へと落とした。よく踏み固められた土の上に自分が履いている革の靴のつま先が見えた。

「僕は、どうしてあなたがアスガルドを出てここで暮らそうと思ったのかはわかりません。だけど、自分の居場所は大切にすべきです」

「居場所?」

シギュンは顔を上げてホズを見つめた。彼は一つ頷いた。

「誰にでもあるものではありませんし、望んだところで簡単に得られるものでもありません」

「だけど……」

言いよどむシギュンの背中をアングルボダが励ますように軽く叩く。

「帰りなよ。あたしはもう大丈夫だから」

アングルボダの言葉に同意するように、仔狼がシギュンの手の上に頭を載せた。青い目を見つめてくぅん、と小さく鳴いてみせる。

「しぎゅ……」

仔狼についてきたスヴェルテインも、同じように円い瞳でシギュンを見つめた。

とうとう諦めてシギュンは大げさに肩をすくめた。

「わかったわ。帰るわよ。帰ればいいんでしょ。みんなして私をこの家から追い出すつもりなのね。そりゃそうよね。私は招かれざる客だし、あなた達の家族でもないんだし」

「シギュン!」

鋭く声を上げたアングルボダにシギュンは笑って両手を上げる。

「冗談よ! 意地悪を言っただけ。あんな啖呵切っちゃって、帰りにくいものだから」

シギュンは椅子を立ってホズに対して頭を下げた。

「帰ります。私なんかのために、こんなところまで来て頂いて、お手数をお掛けしました」

「いえ、僕が望んでしたことですから」

ホズも椅子を立ち、二人は連れ立ってアングルボダの家を後にした。

「寂しいですか」

二人がいなくなったテーブルを見つめたまま黙りこんでしまったアングルボダに仔狼が言った。

「寂しいわ。正直言うとね。だけど、ここにはスヴェルテインも、ヨルムンガンドもいるから」

アングルボダは扉を見つめているスヴェルテインを膝の上に抱き上げた。カゴから這い出してきたヨルムンガンドが、するするとアングルボダの腕を上っていく。

「……わたしは数に入りませんか、母上」

「もちろん、数に入るわよ。ヴァナルガンド」

アングルボダは笑って、仔狼の頭を撫でてやった。

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