「いやぁ、本当に助かったよ。このままスレイプニルが餌を食べなかったらどうしようかと思ってたんだ」

ヴァラスキャルヴの馬屋に気のいい男の声が響いた。隣でスレイプニルにブラシをかけてやっている黒髪の娘は返事の代わりに、苦笑いをして曖昧な声を出した。毛並みを整えられているスレイプニルも、未だにどこか不満そうな目で娘を睨んでいる。

そんな一人と一頭の様子には気づきもせず、馬屋番は喜びのあまり鼻歌を歌い始める始末だった。娘は上機嫌な馬屋番を横目に小声で名馬に話しかける。

「我慢しろよ、スレイプニル。大体、お前があの男の世話を拒否するなんて馬鹿なことを始めるから、俺がこんな格好するはめになったんだろうが」

スレイプニルは不満げに尻尾を振って低くいなないた。

『元はといえば、あなたが母さんをしっかり捕まえて置かないからじゃないですか』

「ああん? お前の母親はこの俺だろうが!」

娘が顔を近づけて凄んでみせるも、スレイプニルはどこ吹く風で遠くを見つめてため息をつく。

『ああ、母さん。早く帰ってきてください』

「おい、聞いてんのか。こら!」

スレイプニルは一度尻尾を振っただけで、これ以上は話すつもりがないらしい。娘はため息をついて、またブラシをかけ始めた。

不機嫌そうな一人と一頭など目に入らない様子で、馬屋番の男が呑気に声をかける。

「それにしても、キミ、見ない顔だなぁ。普段はどこの屋敷で働いてるの? セスルームニル? ビルスキールニル? あ、ブレイザブリクとか?」

曖昧に首をかしげて男の問いかけを受け流していた娘は思わずといった様子で声を上げた。

「誰があんな奴の下で!」

スレイプニルが低く(いなな)いて尻尾の先で娘を叩いた。我に返った娘は慌てて苦笑を取り繕う。

「相手に迷惑をかけるから、お仕え先は決して話すな、と主人にきつく言い含められておりますので」

どうか、これ以上の詮索は勘弁して欲しい、と言外ににじませれば、男は同情したのか眉を下げて頷いた。

「悪かったよ。キミほどの美人なら絶対に噂になってるはずなのに、ちらとも聞いたことがなかったから。ご主人は、よっぽどキミのことを気に入ってるんだろうな」

――そりゃ、俺の主人は俺自身だからな。大事にもするわ。

娘は心のなかで毒づいて、顔では困ったように微笑んでみせた。

「しかし、それでもこうやってシギュンの為に手助けに来るなんて、キミにとって彼女はとても大切な存在なんだね」

男の言葉に娘は表情を消した。

「……そんなんじゃありません」

「そうかい?」

娘の様子に男は怪訝そうに首をひねったが、それ以上の詮索はやめることにしたらしく、干し草を取りに馬屋を出て行った。

『嘘つき』

静かになった馬屋でスレイプニルが拗ねた口調で言った。

「嘘じゃねぇよ」

ほとんど反射で無意識に言葉を返す。感情の乗らない、淡々とした声だった。

「お前、どうしてシギュンを母さんって呼ぶんだ?」

『僕にとっては、彼女が母親だからですよ』

「母親、ねぇ」

神界一の名馬と名高いスレイプニルの家族関係は複雑怪奇だ。

父親はスヴァジルファリという立派な牡馬だ。アスガルドの城壁を造った巨人の馬だったスヴァジルファリは、緻密で堅牢な城壁に使われている巨大な石の建材を毎日、大変な量を牽いてアスガルドに運び入れていた。スヴァジルファリの力がなければ、難攻不落と言われるアスガルドの城壁は造れなかっただろう。

一方、母親は馬ではない。ロキだ。

スヴァジルファリの主人は城壁の報酬に太陽と月、それにアスガルド一の美女であるフレイヤまでを望んだ。巨人には報酬を与えずに城壁だけを手に入れたいと望んだ神々は、当初巨人が提示した一年半という工期を一冬に変更させた。その上、もしも、夏の最初の日に少しでも工事に仕残しがあったら報酬は一切支払わない、と取り決めて巨人の申し出を受け入れた。

しかし、石工とスヴァジルファリの働きぶりは目を見張るほどで、夏の始まる三日前には城壁はほとんど完成していた。

慌てたのは、報酬を払うつもりなどこれっぽっちもなかった神々の方である。

アース神達は集まって、侃々諤々(かんかんがくがく)、お互いに、いったい誰がこんな取引を勧めたのか、と議論した。そして、それはロキに違いない、と言うことに衆議一決した。哀れ、ロキは最初の取り決めを交わす際に「馬くらい使わせてやれよ」と言ったばかりに、やり玉に挙がってしまったのだ。

なんとしてでも石工との取り決めを破談にしないとろくな死に方はできないぞ、と散々神々に脅されたロキは、牝馬になってスヴァジルファリを誘惑した。この作戦は功を奏し、スヴァジルファリが牝馬にうつつを抜かして建材運びを放棄したため、城壁は後一歩のところで石材が足りずに未完となった。期日までに城壁を完成させられなかった巨人は、本来ならば手に入るはずだった報酬を受け取ることなくこの世を去った。

この時の策略の副産物がスレイプニルだ。

『産みの親の配偶者の女性なら母親でしょう。継母ですけど』

黒髪の娘に姿を変えている『スレイプニルの産みの親』は、黙り込んだ。

『それに、小さい頃から僕の面倒を見てくれたのは彼女ですからね。薄情な産みの親じゃなくて』

「悪かったな、薄情で」

『世の父親なんてそんなものですよ』

「俺は父親じゃないだろう」

スレイプニルに背中を預け、ロキは自嘲気味に笑った。

『そうでもないですよ。育ての母の配偶者の男性なら父親でしょう』

「俺はあいつの配偶者じゃない」

『これからそうなりますよ』

「何故そう思う」

『彼女がそう言っていましたから』

「俺の意思は無視か」

『普通、いくら好きな男の子供だからって、仔馬のことを自分の子供だとは思えないですよ』

「……」

『彼女は普通じゃない。あなたはそこから逃げている』

「逃げ切れないと思うか?」

『無理ですね。だってあなた、もう捕まってるじゃないですか』

ロキは俯いて胸元で揺れる黒髪と、足元にまとわりついているスカートを見下ろした。

確かにそうかもしれない。自分はこんな不本意な恰好を、彼女のためにしているのだから。

ロキは不満気にため息をついた。この恰好からも、この仕事からも、早く解放されたい。

ことは深刻だ。一刻も早くシギュンに帰ってきて欲しかった。

アスガルドの門前でシギュンは思わず足を止めた。心臓が妙な感じに高鳴っている。シギュンは胸の上に左右の手を置いて息を吐いた。重ねた両手が緊張で微かに震える。

「大丈夫ですよ。父にはまだバレていないはずですから」

シギュンの顔をのぞき込んで、ホズは安心させるように微笑んだ。シギュンは小さく頷いて、大きく息を吸い込んだ。意識してゆっくりとはき出せば、手の震えが治まっていく。心臓はまだ嫌な感じで鼓動していたが、シギュンは前を向いて歩き始めた。

ヴァラスキャルヴの門を抜けて、胸の鼓動はいよいよ高鳴った。シギュンが本日十四回目の深呼吸で心を落ち着けようとしている時、馬屋番の男が鼻歌を歌いながら顔を出した。男は細長い水桶の一端を持っていた。

我知らず、息が止まる。

黒髪の娘が、水桶の反対側を支えながら馬屋から出てくる。二人で井戸のそばまで水桶を運ぶと中の水を流した。男は馬屋へと戻り、娘は井戸水を使って水桶の汚れを洗い始めた。それは本当なら、シギュンのやるべき仕事だった。

「あ……」

あふれ出てくる何かを抑えるかのように、シギュンは口元を押さえた。

自分は、なんてバカだったんだろう。私の代わりなど幾らでもいる。この世に私でないとできないことなどありはしないし、私でなければならない理由など、この世のどこにもありはしない。私の居場所など、ない。

シギュンの身体がぐらりと傾いた。足元から、世界が、崩れ落ちていく。

「大丈夫ですか?」

ホズがとっさに手を伸ばして身体を支える。シギュンはホズの顔を見上げた。足は地面についているはずなのに、宙に浮いているようだった。

「ごめん、なさい」

手を添えて、支えてくれた腕を外させる。弱々しいが有無を言わせない雰囲気に、ホズは黙って手を離した。

「私、やっぱり、帰ってくるべきじゃなかった……」

シギュンは口の中で呟いた。聞き取れなかったホズが身を(かが)める。

「え?」

「ごめんなさい」

もう一度そう言って、シギュンは踵を返して走り出した。どこか、ここではない場所に行きたかった。

必死に腕を振って、足を動かす。喉が焼けるようなのは、乾いた空気が擦れるせいか、それとも、こみ上げてくる涙のせいだろうか。どこに向かっているのかなんてわからない。流れる涙を袖口でぬぐいながら、ただ今ここから逃げたい一心で走り続けた。

一体どれくらいそうして闇雲に走っていただろうか。突然、強く腕を掴まれて、シギュンは蹈鞴(たたら)を踏んだ。振り返れば、先ほど水桶を洗っていた黒髪の娘が、息を弾ませて立っていた。

「どこへ行くつもりだ」

シギュンの目から、ぽろぽろと音もなく涙がこぼれ落ちていく。息が苦しいのは走ったせいか、胸を塞ぐ感情のせいか。

「あ、私……」

シギュンは知らない娘に強い目で見据えられて戸惑った。何を言えばいいのか、わからない。

「シギュン、早く――」

黒髪の娘は言いかけて、迷いながら続く言葉を変えた。

「仕事に、戻れ……」

シギュンはまじまじと追いかけてきた娘を見つめた。こんな綺麗な娘は自分の知り合いの中にはいない。しかし、彼女の目元と黒髪には覚えがあった。

「……ロキ?」

瞬間、娘は顔を逸らした。それはシギュンに確信を持たせるのに十分な反応だった。

「どう、して?」

「……こんな格好、俺がいつまでもしていたいと思うか?」

「そりゃ、思わないけど……」

シギュンは戸惑った。そういう意味で訊いたのではない。どうしてそんな不本意な格好までして、シギュンの仕事を肩代わりしてくれたのかを尋ねたつもりだった。

「スレイプニルは、お前じゃないと嫌なんだと」

ため息をつきながらロキはシギュンに近づき、肩に手を置いた。温かな手の感触に、シギュンの心臓が大きく跳ねた。

「……居場所は大切にしろ。何もしないでいて、いつまでも当たり前のようにあるものじゃない」

低い声で言って、ロキはシギュンの背中を押した。押された勢いに乗って、シギュンは一歩二歩と、重い足を動かす。三歩目、四歩目には普通に歩き出していた。そしてすぐに、歩みは駆け足に変わっていった。

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