子供の成長は早い。子育てをしたことがある大人はみんな口をそろえてそう言うし、ともすれば子育てをしたことがない親戚の小父、小母に小さな子供のご近所さんまでが、異口同音にそう言う。
人の子でさえそうなのだから、まして神の子の成長の早いことと言ったらない。雷神の息子であるマグニは生まれてからたった三日で、アスガルド中の誰も、あの怪力だけが取り柄のトールでさえ持ち上げられなかった石の巨人フルングニルの巨体をひょいと投げ飛ばして、おまけに、はきはきと受け答えまでする始末だった。
だから、生まれて三周間も経とうというヴァナルガンドが理知的な話し方をしても何らおかしくはないし、小指の先ほどしかなかったヨルムンガンドが腕の長さを超えるほどに成長していても当然だし、スヴェルテインが五歳児ほどの見た目と知能を備えていることは、むしろ遅すぎるくらいだと言えるかもしれない。
良き母親にとって子供の成長ほど喜ばしいことはない。三兄妹はすくすくと育っていたが、アングルボダは窓から外を眺めては寂しげなため息をついていた。
そんな母親を横目にうかがいつつ、三兄妹は外で頭を寄せ合っていた。
「ママ、かなしそう。やっぱり、一人はさみしいなの」
スヴェルテインが眉を下げた。
「だからって、どうする気だ? 巨人も人間も呼びこむわけにはいかない」
ヴァナルガンドが厳しい声で言った。スヴェルテインは自分の左頬を抑えた。自分の左半身が他人に好かれるようなものではないことを彼女は知っていた。狼も蛇も、人が好む生き物ではない。
「シギュ……。会いたい……」
心ここにあらず、といった様子で、ヨルムンガンドが呟く。
「シギュは、もう帰って来ないの?」
ヨルムンガンドの寂しさにつられて、スヴェルテインが訊いた。
「帰ってこないよ」
そう言って、ヴァナルガンドは二人に背を向けた。帰ってきて欲しいのは彼だって同じだった。
「もう、スヴェルたちのこと、嫌いになった?」
「そうじゃないさ。そうじゃないけど……」
「会いに行く?」と、スヴェルテイン。
「連れてくる?」と、ヨルムンガンド。
「おい、お前らどうやって……」
戸惑うヴァナルガンドを二人の弟妹は目を潤ませて見つめた。
「——っ、わかった。わかったよ。わたしが考えればいいんだろう。ったく……」
「わぁい! ヴァナ、ありがとう!」
「……!」
スヴェルテインが素直に喜びをはじけさせる。言葉は一言も発しなかったが、ヨルムンガンドも喜色を溢れさせた。
「ヨルは、こういうとき何か言えるようになれよ」
全身であきれたポーズをとりながらヴァナルガンドがため息をついた。きょとんと首をかしげたヨルムンガンドがぽつりと呟く。
「……ありがと」
「どういたしまして」
ため息をつきつつ、ヴァナルガンドは肩をすくめた。そうして空の上、ビフレストの向こうにあるはずのアスガルドへと視線を向けた。さて、どうしようか。
神々の国を守るヒミンビョルグの門は大きく、厚く、頑丈だ。あまりの大きさに三兄妹は、ほとんど空を見上げるようにしてぽかんと口を開いた。三兄妹の力だけでは、とても開きそうにない。それどころか、大人の男であっても数十人が力を合わせないことには扉を開けることはできないだろう。
「おっきい……」
ぼかんと口を開けたままスヴェルテインが呟いた。
「隙間もないし、這い上るのもできなさそう……」
ヨルムンガンドは門の下の方を見ながら、地面を掘ったら入り込めるかしら、と首をかしげた。
「この城門は、巨人族の侵入を防ぐために造られたものだ。外から入り込むことは、まず無理だろうな」
分厚い扉を見つめながら、ヴァナルガンドが軽い調子で言った。
「じゃあ、どうするの? 帰るの?」
スヴェルテインが口を尖らせる。
「バカ言え。外側から侵入できないなら、内側から招き入れてもらえばいいのさ」
ヴァナルガンドは不敵な笑みを浮かべたが、ヨルムンガンドとスヴェルテインは不思議そうな表情で顔を見合わせた。
スヴェルテインは城壁からほど近いリンゴ畑の木陰できょときょととあたりを見回した。肩掛け鞄の紐をぎゅっと握りしめる。わずかに開いた鞄の隙間からヨルムンガンドが外の様子をうかがっていた。
——いいか、いくらアスガルドの守りが堅牢だといっても、何もかもが城壁の中にあるわけじゃない。そこを狙う。
城門前でそう言ってニヤリと笑って見せたヴァナルガンドは、今は首輪をして犬のようにおとなしくスヴェルテインの横に付き従っている。
ヴァナルガンドの耳がピクリと動いた。
「居た。スヴェル、そのまま真っ直ぐ、城壁からもう少し離れたあたりだ。うまくやれよ」
スヴェルテインは緊張した面持ちで頷くと、ヴァナルガンドに言われたとおり、リンゴ畑の中を進んでいった。低く剪定された木のそこここに赤いリンゴが実っている。
すぐに女性の鼻歌が聞こえてきた。若い女性がリンゴの実を摘み取っては、傍らの木箱に収めていた。木箱に入ったとたん、赤いリンゴの実が光り輝いて黄金へと色を変える。
「行け、スヴェル。しくじるなよ」
「う、うん……」
スヴェルテインは緊張しながらも大きく息を吸うと、勢いよく駆け出した。
とん、と足下に衝撃があってイズンはリンゴを摘み取る手を止めた。息を止めたまま足下へと視線を向ける。イズンの足に抱きついている小さな女の子と真正面から目が合った。
「え?」
ぱちぱちと、お互いに瞬きする。
アスガルドに、こんな小さな女の子がいたかしら? 女の子の長く伸びた前髪が、顔の左半分を覆い隠している。こんな特徴的な子供がいれば、わからないはずがないのだけれど。
イズンは首をかしげた。途端に女の子の目に涙が浮かんでくる。イズンが驚く暇もなく、女の子は火がついたように泣き出した。
「え? ど、どうしたの? どこか痛いの?」
イズンはしゃがんで女の子に目線を合わせると、慌てながら矢継ぎ早に質問していく。お腹が空いているのか、迷子なのか、親はどうしたのか、なぜここに居るのか。
女の子の手を取ってイズンは必死になって、笑顔で話しかけた。
「落ち着いて、大丈夫だから。ね? お名前は?」
「す、スヴェルテイン……」
しゃくり上げながらスヴェルテインが返事をする。
「そう、あなたスヴェルテインって言うのね。素敵なお名前ね。お母さんやお父さんはどうしたの?」
名前を教えてくれたことに少しホッとしてイズンが尋ねると、スヴェルテインはますます大きな声で泣き出してしまった。
「え、ええ? どうしよう。きっとはぐれてしまったんだわ」
「うああああん、パパぁぁぁぁぁ!」
泣きわめくスヴェンルテインにイズンが弱り果てていると、小さな犬がスヴェルテインの注意を引くように、わんと鳴いた。首輪をしている。女の子の飼い犬なのだろうと、イズンは思った。
犬は城壁に向かって吠えては、振り返ってスヴェルテインに何かを訴えるように、くぅんと鳴きかける。
「お父さん、アスガルドにいるの?」
首をかしげながら、誰にともなくイズンが呟いた。その通りだとでも言うように、犬が何度もイズンに向かって吠えた。
「ねぇ、スヴェルテイン。パパの名前はわかる?」
スヴェルテインは何度もしゃくり上げ、イズンを散々やきもきさせてから、ぽつりと父の名を呟いた。
「……ロキ」
訊いた瞬間、イズンはこめかみを押さえて深いため息をついた。同情よりも、またか、という思いが先立ってしまう。
「あいつ、またやらかしたのね」
イズンの様子を見て、スヴェルテインが瞬きする。涙はいつの間にか引っ込んでいた。そんなスヴェルテインに笑いかけてから、イズンは立ち上がって手を握った。
「おいで、お父さんに会わせてあげるから」
スヴェルテインは頷いて、イズンの手をぎゅっと握り返した。
二人の背後で、鞄からそっと顔を覗かせたヨルムンガンドとヴァナルガンドが顔を見合わせてニヤリと笑った。
「イズン、今日持って帰るのはリンゴじゃないんですね」
頭上から、どこかおもしろがっているような声が降ってきて、イズンは肩を怒らせた。
「ヘイムダル」
イズンは、出窓から顔を出したヘイムダルを見上げて目を細めた。
「ロキがまたやらかしたみたいなの。この子、父親を探しているんですって」
肩をすくめて、ため息をつく。
巨大な門の上にいるヘイムダルと話すのにイズンが声を張り上げる必要はなかった。何しろ、ヘイムダルは殊更に耳がいい。距離が開いていても、イズンの声を拾うことはヘイムダルにとっては造作もなかった。
ヘイムダルが何か反応したようだったが、イズンには遠くてよく見えなかった。声など聞こえようもない。日除け代わりに額に手をかざして目を細める。イズンは、ごくごく平均的な視力、聴力しか持ち合わせていなかった。叫び返してくれなければ、彼の声は聞き取れない。
「なんなのよ、もう……」
苛立ち紛れに呟けば、すぐに反応が返ってきた。やはりヘイムダルは地獄耳だ。
「すまない! すぐに門を開けよう!」
言葉と同時に、巨大な門が低い音を立てながら開き始める。イズンは、少し腑に落ちないように感じながらも、スヴェルテインの手を引いて門をくぐった。