イズンに手を引かれてアスガルドを歩いて行くうち、スヴェルテインは段々と不安になってきた。

綺麗に舗装された石畳は、苔と柔らかい下草の感触になれた足には硬かったし、木造のこぢんまりとした素朴な家しか見たことがないスヴェルテインの目には、盾や赤い黄金や輝く白銀で葺かれた屋根を持つ立派な屋敷は眩しすぎた。

「あれ、スヴェルテインちゃん?」

聞き覚えのある声に呼びかけられて、スヴェルテインは顔を輝かせて振り返った。淡い金髪の青年が、不思議そうな顔をして首をかしげていた。

「パパ!」

イズンの手を振り払って、スヴェルテインはホズに抱きついた。驚きに目を見開きながらも、青年は危なげない様子で、幼女を抱きとめた。

「ぱぱぁ?」

イズンが片眉を上げてホズの顔を覗き込んだ。

「え……っと?」

ホズは戸惑いながらも、スヴェルテインの目線に合わせてしゃがみこんで尋ねた。

「今日はどうしたの?」

「シギュ、会いにきた!」

見知った顔に安心したのか、スヴェルテインは元気よく答えた。

「その子のこと、知ってるの?」

両手を腰に当てたイズンに、探るような疑いの表情で問いかけられて、ホズは困って眉を下げた。

「えっと、ちょっと、この子の母親と会ったことがあって……」

「随分とあなたに懐いてるみたいだけど?」

「ええ、そう、ですよね……」

相変わらず、イズンは疑いのまなざしをホズに向けている。悪いことをしているわけではないのに、ホズはなんだかいたたまれない気分になってきた。

「あの、良かったら、僕がこの子を預かりましょうか? 知り合いに会いにきたみたいですし」

「知り合いっていうか、パパに会いにきたって聞いたけど……」

イズンは腰に手を当てたまま前屈みになってスヴェルテインの顔を覗き込んだ。スヴェルテインは慌ててホズの後ろに隠れた。ホズのズボンの裾をシワになるほど強く握りしめている。

「ええっと……」

「まあ、いいわ。ホズもオーディンの息子だったのねぇ」

イズンは上体を起こして腕を組むと、何を納得したのか一人で頷いている。

「あの、それって、どういう……」

「あんまり火遊びしてると、後ろから刺されるわよ、パパ」

「え、ちょっと!」

ひらひらと手を振って、イズンはリンゴ畑へと戻っていく。なんだか多大なる誤解をされたような気がするが、呼び戻して言い訳するのもどうかと思って、ホズは足元に隠れるようにしているスヴェルテインへ視線を向けた。

「えっと、シギュンさんに会いに来たんですよね?」

ホズの足にしがみついたままのスヴェルテインが、こくんと頷いた。

「じゃあ、行きましょうか」

ホズが差し出した手を握りしめ、スヴェルテインはにこりと笑って頷いた。

ヴァラスキャルヴの馬屋が突然、騒然とし出した。馬たちはきょろきょろと周囲に首をめぐらしたり、怯えたように嘶いたり、前足で地面を引っかき始めるものもいる。つい先程まで、みんな思い思いに過ごしていたというのに、一体どうしたことだろう、と困惑しながら、馬屋番は慌てて馬たちをなだめて回る。

「なんなの?」

スレイプニルにブラシを掛けてやっていたシギュンが声を低くして尋ねた。

『狼の気配がします』

周囲に目をやりながら、ごく落ち着いた様子でスレイプニルが応えた。

「おおかみ?」

シギュンはブラシをかける手を止めて、注意深くあたりを見回した。アスガルドの城壁の中にただの狼が侵入できるとは思えない。誰かの使い魔か、それとも巨人が化けているのか。

警戒した視線を走らせる中で、入り口から恐々と覗いた頭にシギュンは目を瞬いた。

「スヴェルテイン!」

「シギュ!」

駆け込んできた幼子をシギュンは膝をついて抱き上げた。そして、アスガルドに侵入を果たした狼について合点がいった。

「ヴァナルガンドも来てるのね?」

スヴェルテインはシギュンの胸に顔をうずめたまま、こくこくと何度も頷いた。

誰にも見とがめられずにここまで来たのなら、ヴァナルガンドは犬のふりでもしてるのだろう。しかし、動物は敏い。馬屋の中まで入ってくれば、馬たちの反応から正体がバレてしまうかもしれない。

「シギュ! ママ、寂しいなの。シギュ、ママに会いに来るよ」

一生懸命に訴えるスヴェルテインの様子にシギュンは胸の奥がちくりと痛んだように感じた。

『誰ですか?』

シギュンに抱き上げられているスヴェルテインにスレイプニルが鼻を近づける。

「あなたの兄妹よ」

『ああ、異母? ……異父? まあ、そんな感じの』

「そうよ」

シギュンは頷いて、ほとんどの馬をなだめ終えた馬屋番に声をかけた。

「すみません! ちょっと出てきます!」

振り返った馬屋番にスヴェルテインがよく見えるように抱き直す。

「ああ、今朝の仕事はもう終わるから、夕方までには帰ってきてくれよ! キミがいないと困るんだからな!」

「はい!」

シギュンはスレイプニルに向かって肩をすくめて見せると、スヴェルテインを抱いたまま馬屋の外へ向かった。

馬屋の外では赤い首輪をつけたヴァナルガンドが不機嫌そうな顔をして待っていた。首輪に繋がれた紐をホズが握って立っている。思いがけない取り合わせに、シギュンは吹き出しそうになるのを堪えなければならなかった。

「おはようございます、ホズ様」

「おはようございます。すみません、スヴェルテインちゃんが、シギュンさんと会いたがっていて、ここまで連れてきたのまでは良かったんですが、突然この子が――」

ホズは右手に持っている赤い紐をかかげてみせた。

「押しても引いても全然動かなくなってしまって。紐を離して逃してしまってもことですし。困ってたんです」

「賢明な判断ね、ヴァナルガンド」

シギュンは灰色の仔狼に向かって笑いかけた。

「あとは任せても大丈夫ですよね?」

ホズは赤い紐をシギュンに差し出した。

「ありがとうございます、ホズ様」

ヴァナルガンドの紐を受け取りながらシギュンが応えた。

「それじゃあ、僕はこれで。あの、……ちゃんと、帰ってきてくださいね」

シギュンは一瞬驚いた顔をして、すぐに嬉しそうな笑顔になった。

「はい。ありがとうございます」

ホズは、ほっと胸を撫で下ろして背を向けた。歩き出そうとした途端に、背中を引かれて振り返った。スヴェルテインが眉間にしわを寄せた不機嫌な顔で、ホズの服を思いっきり強く掴んでいた。

「……パパも、一緒に行くの」

「スヴェルテイン? この人はパパじゃないでしょう」

スヴェルテインは口唇を噛んで首を横に振った。

「ええっと……」

まったく身に覚えのないことにホズは眉根を寄せて頭をかいた。

シギュンは首を傾げてヴァナルガンドを見たが、仔狼も首を傾げて肩をすくめた。スヴェルテインの鞄から顔を覗かせたヨルムンガンドも不思議そうに妹を見つめていた。

見る間にスヴェルテインの目元に涙が盛り上がっていく。今にも大声を上げて泣き出してしまいそうだ。

「あの、時間があるようならホズ様も一緒に来てくださいませんか? アンも人数が多いほうが喜ぶだろうし」

「どうも、その方がいいみたいですね」

ホズは、どうしてこんなに自分が好かれているのだろう、と戸惑いつつも首を縦に振った。

ノックの音に扉を開けたアングルボダは、その向こうにシギュンが立っているのを見て顔を強ばらせた。

「久しぶり」

少し気まずそうなシギュンに対して、アングルボダは眉をつり上げた。

「何しに来たの」

「アン……」

「帰ってよ。ここはあなたの居るべき場所じゃないでしょ」

アングルボダは扉を閉めようと腕を引いた。そうはさせない、とシギュンも扉をつかんだ。

「待って、アン。聞いて」

「早く帰って、仕事に戻りなさいよ」

「アン、お願いだから、そんなロキみたいなこと言わないで!」

「帰りなさいよ! あたしは、あんたに都合のいい逃げ場に使われるのなんて、まっぴらなんだから!」

「アン、聴いてちょうだい! 今朝の仕事は終わらせてきたわ!」

アングルボダの手から力が抜けた瞬間を逃さず、シギュンは扉を開け放った。

「それに、夕方の仕事に間に合うように、ちゃんと帰るわ」

先ほどまでの必死の攻防で息の上がったシギュンが、真っ直ぐにアングルボダを見つめる。

「ねぇ、アン。私は、あなたの友達にはなれないの?」

アングルボダはシギュンを見つめて顔を歪めた。あっという間に盛り上がった涙が溢れていく。

「シギュン! あたし、……寂しかったよぉ!」

声を上げて泣き出したアングルボダをシギュンが力強く抱きしめた。

「私も、寂しかったわ……」

二人の様子をホズは少し離れた場所から見守っていた。その腕に抱かれているスヴェルテインがホズの袖を引っ張って尋ねた。

「ママ、泣いてる。シギュ連れてきたのに、ママ、まださみしいなの?」

ホズは微笑んで首を振った。

「アングルボダさんは、嬉しくて泣いてるんですよ」

「嬉しいのに、泣くの? 悲しくないの?」

「そういう時もあるんですよ」

ホズに頭を撫でられながら、スヴェルテインは不思議そうに二人を見つめていた。

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