ウルドの泉は、世界樹の根本にある。ユグドラシルは、その名に恥じぬ巨大なトネリコの木だ。枝葉は九つの世界の上空に広がり、根は神々の暮らす天と人間の世界である地、さらには死者の国である地下にまで伸びている。
そのユグドラシルの天に伸びる根のそばに小さな泉がある。アスガルドから少し離れたその場所に、ノルニルと呼ばれる三人の姉妹が住んでいた。
彼女たちの名前は長女から、ウルド、ヴェルザンディ、スクルド。三姉妹は運命を定め、人生を取り決め、予言を告げる。
長い長いタペストリーに刺繍を施していた黒髪の女が、針を止めて顔を上げた。床に付くほどに伸ばされた髪が、さらりと流れる。
「来た」
隣で布を織っていた妹も、姉であるウルドの言葉に手を止めた。肩まで伸びた茶の髪を耳にかける。立てて使う機織り機で織っている最中の布に、ヴェルザンディはそっと触れた。
「来た」
姉二人の言葉に、とうとう末の妹も糸を紡ぐ手を止めた。金髪を短く切り揃えたスクルドが、ふふっと笑みを漏らした。彼女の足下で、縒った糸を巻き付けられた紡錘が、くるくると回る。
「来た」
作業の止まった静かな部屋に館の扉を叩く音が響いた。
扉を開いたシギュンの目を最初に引いたのは、奥の壁際に湧き出している泉だった。家の中に泉を造るなんて、いや、泉を囲うようにして家を造ったのか、どちらにしても普通は考えられない構造だ。
「ようこそ、ウルドの泉へ。ここを訪れるものは滅多にいない」
呼びかけられて、シギュンはウルドへと視線を移した。ウルドは刺繍針を止めることなく、淡々とした口調で言った。おまけに無表情では、とても歓迎されているとは思えなかった。
「この館を訪れる者は二通りしかいない」
手元の羊毛を細く引き出しながら、スクルドが言った。目線は足下のスピンドルに向けて、シギュンの方を見ようともしない。
妹の言葉を継いで、同じように機織りの手を止めることなくヴェルザンディが続ける。
「すなわち、予言を求める者と、予言の変更を求める者。そのどちらか」
「……予言を貰いに来たわ」
シギュンは三人のノルニルを真正面から見返して、きっぱりと言い切った。スクルドが視線を一瞬シギュンに向けて、おもしろそうに口の端を上げた。
「予言は望んだ未来を約束してくれるわけじゃない」
シギュンは口を引き結んだままスクルドを見返した。シギュンの強気な態度にスクルドは笑みを深める。
「我らは定められたことしか言わぬ。これまでに蓄積された過去によって」
ウルドが織り上げられた布に針を刺し、過去の勲しの刺繍を施していく。
「今この瞬間に選び取られる選択によって」
ヴェルザンディが機織り機に横糸を通していく。織り上げられていく布の模様は、縦糸と交わる横糸の色で決まっていく。
「あるいは、宿命として定められた未来について」
スクルドが引き出した羊毛はスピンドルの回転によって縒りがかけられ、細い糸に変わっていく。糸は布や刺繍糸も含めた様々な物になれるが、いずれにしても糸であることには変わりない。
「今、お前について言えることは余りに少ない」
ヴェルザンディもウルドも手を止めることなく己の仕事を続ける。
「我らが織るのは世界の歩み。その中でお前の果たしてきた役割は余りに小さい」
シギュンは口を挟むことはせず、静かに次の言葉を待った。
「なに、アンタ。何もかもわかってます、みたいな顔しちゃってさ」
スクルドが糸を引き出す作業は続けたまま、シギュンの方へと視線を向ける。
「……アタシ、そういうの大好き」
スクルドはニヤリと笑って、糸をスピンドルに巻き取ると道具をテーブルの上へと置いた。
「いいよ、アンタについての予言、アタシがしてあげる」
楽しげにスクルドがシギュンの前へと足を進める。
「スクルド!」
「好きにさせておやり」
咎めるヴェルザンディをウルドが止めた。黙ったまま、シギュンは唾を飲み込んだ。
「だけど、今はまだ未来が定まってない。アンタが今ここで、予言の内容を決めるんだよ」
スクルドが手首をつかんでシギュンに顔を寄せる。ぐっと近くなった視線を、シギュンは逸らすことなく受けとめた。
「覚悟はいい? さあ、決めなさい。愛を貫いて苦しみ抜くか、愛を諦めて平穏に暮らすか」
真剣な面持ちでスクルドが告げる。シギュンはふっと笑って緊張を解いた。
「覚悟なんて、とおの昔に決まってるわ。私にとっての苦しみは、あの人の隣にいられないこと。もうこれ以上、私は苦しみたくないの」
「アンタ、やっぱりおもしろいわ」
笑みを深めたスクルドは、一つ息を吐き出すと瞼を閉じた。大きく息を吸って目を開くと、表情の消えた顔で予言を告げる。
『煙立つ森に、世界を閉ざす者が縛られ横になっているのを、私は見た。滴る毒を壺に受け、貞淑な妻は命と引き替えに奔放な夫を解き放つ。
人々はいかに。巨人たちはいかに。ニブルヘイムはどよもし、ユグドラシルは轟音を立てて倒れ伏す。
古木の跡に息吹あらん。小さな木の芽は大きく広がり、やがて朝毎に滴る露が陽に輝くだろう』
「……とても希望の持てる予言をありがとう」
目的通り予言を手に入れた「貞淑な妻」は、ほほえんで踵を返した。予言に全く動じていないシギュンの反応に、スクルドは唇をとがらせた。
「それだけ? せっかく劇的な死の予言をしてあげたんだから、もっと驚いたり、絶望したりするのを期待したのに」
あーあ、つまんないの。
スクルドの呟きに、シギュンは扉の前で足を止めて振り返った。
「生きているものは死ぬものよ。それは人も妖精も、小人であろうと神であろうと変わらない。世界も同じ。始まりがあれば終わりもある。そんなこと誰でも知ってるわ。夏の後には冬が来るのと変わらない。予言なんて、その程度のものよ」
言うだけ言って、シギュンは館を後にした。
閉じた扉を見つめてスクルドが笑う。
「予言なんてその程度のもの、ね。やっぱおもしろいよ、アンタ。普通はみんな、そうはいかないんだから」
過去に予言を聴いた者達が、いかに予言を重要視し、振り回されたかを思い出して、スクルドは笑いをこらえながら糸を縒る仕事を再開させた。
やがて彼女の笑い声も消えて、館には世界の運命を紡ぎ出す音と泉の湧く微かな音だけが響く静けさが戻ってきた。
ハンノキの幹に背中を預けて、シギュンはのんびりと草を食む馬たちを眺めていた。白い雲が風に乗ってゆったりと流れていく。目を閉じれば、まぶたの上に穏やかな午後の日差しが降り注ぐ。シギュンはうとうとと、まどろみかけていた。木々の葉がこすれる微かな音に、ときおり鳥の声が混じって聞こえてくる。
不意に、乱暴に牧草を踏みわける音が聞こえてきてシギュンは目を開けた。見れば、大股で近づいてくる人影があった。彼らしくない動作の粗雑さに、怒っているのだと知れた。シギュンはハンノキから背中を離して立ち上がる。心臓の鼓動が早くなる。
「ロキ、何かあっ――」
シギュンは言い終えることができなかった。いつの間にか自分の右足の先を見つめていた。小さな花芽が風に吹かれて揺れていた。頬を叩かれたのだ、と気づくまでにしばらくかかった。
「お前、最悪だ」
シギュンは息を止めた。バレたのだ。直感的にそう思った。予言を貰ってきたことが彼の耳に入ったに違いない。
「どうしてお前は! そうやって、いつもいつも関係ないことに首を突っ込むんだ!」
怒鳴りつけるロキをシギュンはキッと睨み返した。突然、怒声をぶつけられて腹の辺りから急速に怒りが膨らんでいく。シギュンは右手を振り上げた。
「……関係ないなら、関係ないなら叩かないでよ、バカ!」
頬を張った小気味いい音があたりに響いた。痺れる右手を胸の前で握りしめて、呟く。
「そうよ、関係ないわよ。あなたが何をしようと私には関係ないし、口を出す権利だってない。だけど、それなら私が何をしようとあなたには関係ないし、口を出す権利だって同じようにないじゃない! 私が何をしようと私の勝手だし、誰を好きでいようと私の自由よ!」
「関係あるだろ、こっちの迷惑も考えろ!」
「私、別に迷惑なんてかけてない!」
シギュンが叫び返した。涙が浮かんでくる。怒鳴り合いはお互いに歯止めが利かないまま激しくなっていった。
「迷惑なんだよ、ふざけんな! 今まで、俺がどれだけ努力してお前を遠ざけて来たと思ってんだ。それを全部水の泡にしやがって!」
「そんなの知らないわよ!」
「お前なんでそんなに不幸になりたがるんだ! 普通、女は俺みたいなヤツとは遊んでも本気で熱を上げたりしないだろ!」
「どうしてかなんて、わかんないわよ! 確かにあんた最低よ! 女癖は悪いし、冷たいし、昔みたいに笑いかけてくれなくなったし、ちっとも優しくないし! 嫌いになれたらって、何度も思った! それでも好きなんだから、もうどうしようもないじゃない! いいから、もう放っておいてよ! 私がどうなろうと、あんたには関係ないでしょ!」
「関係あんだよ!」
「なんでよ!」
「俺は!」
ロキは思いっきり息を吸ってから続く言葉を叩きつけた。
「俺は、お前が不幸せだと困るんだよ!」
シギュンは息を飲んだ。止めようもなくあふれていた涙が唐突に引っ込んだ。
「……なんで、あんたが困るのよ」
シギュンは慎重にゆっくりと問いかけた。胸の中で心臓が強く鼓動している。けれども、それは先程までの嫌な高鳴り方とは違っていた。
ロキはちらりと一瞬シギュンに目を向けたあと、すぐに視線を逸らして観念したようにため息を付いた。
「好きな奴の不幸を願う奴なんていないだろ……」
聞いた瞬間にシギュンはロキに抱きついていた。一度引っ込んだはずの涙が再びあふれ出してくる。
肩口に額を押しつけてくるシギュンの背中に、ロキは腕を回さなかった。代わりに、両腕で肩をぐっと押しやってシギュンを引き離す。シギュンが涙に濡れた目で、不思議そうにロキを見つめる。
「だから、俺はお前と一緒になれない。早く次の恋人を見つけろ」
「どうして?」
「お前は知らないんだ。俺が――」
「予言の子だから?」
「……知ってたのか?」
シギュンは黙って頷いた。
「俺が生まれたときに、どこからか巫女がやってきて、予言と名前を残していった。俺の名前は閉ざす者、俺は世界を滅ぼす、世界を閉ざす者だそうだ」
「予言なんて――」
「どうにでもなるってか? 俺も最初はそう思ってたさ。でも、違うんだよ。どうにもならない、定められてるんだ。それは、死みたいなあらかじめ決まっていることの場合もあるし、冬の準備を充分にしなかった奴が飢えや寒さで死ぬような、ある時点で決定されて、それ以降は動かせないようなことの場合もある。いずれにしても、予言できる時点でそれらはもう確定地点は過ぎていて、以降の変更は不可能だ。変更が利くのは予言される前だけだ」
「だったら、私たちにできることは、いいえ、私たちのすべきことは、予言を変えようと抗うことではなくて、定められた中でいかに良く生きるか、でしょう? 生き物は死ぬことが定められているから、みんな不幸なの? 違うでしょう。どんなに抵抗したって、いつかは死ぬものよ。不老不死を望んで一人で生き続けるよりも、子をなして、次の世代に命を繋いで死んでいく方がずっと自然で幸せな生き方だわ。世界だって、いずれ終わる。そういう定めなんだから」
「世界の終わりと、生き物の生き死にを一緒にするな」
「いいえ、同じよ」
シギュンの声は確信に満ちていた。
「今の私たちの世界だって、前の世界の上に成り立っているのよ」
ロキは胡乱気にシギュンに視線をよこした。
「世界の成り立ちを知っている?」
「ギンヌンガ・ガップの話か? それがどうした?」
ロキの答えにシギュンは神妙な顔で頷いた。
世界の初めには、ギンヌンガ・ガップと呼ばれるただ暗いだけの虚空が広がっていたと言われている。一方には氷に覆われたニブルヘイムがあり、他方には炎渦巻くムスペルヘイムがあった。
ニブルヘイムの氷とムスペルヘイムの炎は、徐々に勢力を拡大し、ギンヌンガ・ガップの上で激突した。炎と氷が混じり合い、命を持った滴となって滴り落ちた。
最初の滴は巨人の始祖ユミルとなり、続く滴は雌牛アウズフムラとなった。食物もない中で、ユミルはアウズフムラの乳で腹を満たし、アウズフムラはニブルヘイムの氷をなめて糊口をしのいでいたと言う。
「神の始祖ブーリが、どうやって現れたか、覚えている?」
「そりゃ、アウズフムラが舐めていた氷の中から出てきたんだろ」
シギュンの問いかけにロキは少し戸惑いながら答えた。そんな古い話がいったいどうしたというのだ。
「そうよね。じゃあ、彼がどうして氷漬けになっていたのかは、わかる?」
「それは……」
言い掛けてロキは口ごもった。神々の始祖であるブーリがアウズフムラに発見される前の話なんて、今まで一度だって聞いたことがない。
「ブーリだけじゃないわ。オーディンは死者の国からルーン文字を持ち帰った。ルーンはそれまでは、『死者しか知り得ない失われた過去の文字』だったのよ。じゃあ、そのルーンを使って栄えたかつての人々のことを私たちは何か知っている?」
「いや……」
「おかしいわよね。世界は、私たちが今立っている大地や空や月や太陽は、オーディンがユミルの体から造りだしたものなのに、そのオーディンさえ知らない『過去に生きた人たち』が死者の国で眠っているのよ」
ロキは黙り込んでシギュンの言葉を胸の中で反芻した。シギュンはそんなロキの様子を息を詰めて見つめていた。
不意に腕を掴まれてシギュンは目を見開いた。そのままロキに強い力で引き寄せられる。驚いた心臓が胸の中で大きく跳ねた。
「えっ、なに?」
しかし、次の瞬間、目に飛び込んできた光景にシギュンは顔を青ざめさせた。握り拳ほどもある燃える木片が、ロキの足下のすぐわきに落ちてきた。もしも、腕を引かれなかったら、その木片をシギュンは自分の背中で受け止めることになっていた。
シギュンは燃える木片から目を逸らし、ロキを見上げた。彼の視線につられるようにして、木片が飛んできた南の空を振り返る。そこには、天を焦がさんほどの勢いで遠くに巨大な火柱が上がっていた。
「なに? なんなの?」
「ムスペルヘイムだ……」
誰にともなく、ロキが呟いた。こんなことは今まで一度だってありはしなかった。
「シギュン、急いで馬を連れて城壁の中へ戻れ。早く!」
背中を押されたシギュンは振り返ってロキに頷いてみせると、放牧していた馬達を集めるために走り出した。
彼女の仕事を手伝うために、ロキは反対側にいる馬達を追い立てて回った。牧場の中央でスレイプニルが嘶いて仲間を呼び集めている。
全頭を無事に馬屋へ収容した後、ロキはヒミンビョルグへと向かった。そのすぐ後をシギュンは必死の思いで追いかけた。
ヒミンビョルグのテラスから身を乗り出して、ヘイムダルは南の空に目を凝らしていた。遠く離れていると言うのに、勢いよく吹き出している火柱を見ていると、じっとりと汗が滲んでくるようだった。
「何が見える?」
聞き知った声の問いかけに、ヘイムダルは抑揚のない声で応えた。
「ここからでは、何も……。火炎に紛れてしまってムスペルヘイムの様子まではわからない」
「……そうか」
ヘイムダルは火柱から目を離して振り返った。予想通りの人物の隣に、予想外の女性がいて、ヘイムダルはわずかに瞠目した。
視線に気が付いたシギュンが遠慮がちにほほえむ。
「あの、どうも……」
彼女の左手をロキが掴んでいるのに気づいたヘイムダルは、ああ、と頷いて彼女に微笑み返した。
「伝えたかいがありましたね」
「あの……」
いったい何のことだろう、とシギュンが目を瞬く。
「ヘイムダル!」
シギュンが口を開く前に、ロキの声が割って入った。少し苛立っているような調子だった。
「オーディンには?」
「まだだ。だが、気づいているだろう」
ヘイムダルがいつもどおりの平静な態度で答えると、ロキは頷いて掴んだままのシギュンの左手をぐいっと引いた。まずは彼女を安全なヴァラスキャルヴへ。話はそれからだ。
「来い」
「えっ?」
はじめからシギュンの返事を確認する気などなかったのだろう。ロキはシギュンの腕を掴んだまま、急ぎ足でヒミンビョルグを後にした。