暗闇は感覚を狂わせる。
八本足の馬の背に揺られながら、フレイは方向感覚はもとより、前後左右、上下の感覚さえ分からなくなりそうだった。普段自分で手綱を操るのとは違い、他人の後ろに乗っているのでは馬と呼吸を合わせるのもなかなか思うようにいかない。
まして、自分の手の先を見ることさえ難しい暗さである。もはや、自分が目を開いているのか、閉じているのかさえ不確かに思えてくる。感じるのはただ、湿った土の香りと冷たい空気をかき分けていく感覚、それに躍動するスレイプニルの筋肉の動きだけだ。こんな悪路で、ロキはどうやって道を見つけているのか、はなはだ疑問だった。
時間の感覚さえ狂う頃、フレイは突然の眩しさに目が眩んだ。しばらくして見えてきたのは、なんとも不思議な光景だった。
広がる空は黒々として、太陽はおろか、月も、星さえもない。そのかわり、川向こうにある町はぼんやりと光っていた。まるで、町全体が発光しているかのように、橙色の光に満ちている。その町明かりがこちら側までをも明るく照らしていた。よく見れば、それらは木々や地面に張り付いた氷が小さなロウソクの明かりを幾重にも反射して増幅させているようだった。
吐き出す息の白さにフレイは身震いした。振り返れば、太い根が張りだしている脇に先程出てきたと思われる暗い穴が地面にぽっかりと口を開けていた。
「お、前に使った簡易釜戸が残ってる。ついてるぜ」
川岸でロキはスレイプニルを止めた。すぐそばに、石を組んで作った小さな釜戸があった。火が焚かれたのは随分と前なのだろう。焦げ後の上から霜が張り付き、釜戸全体が白く凍っていた。
馬の背から降りて、足の裏に感じる堅くしっかりとした地面の感触に、フレイは我知らず深く息を吐き出した。暗闇の中でおぼろげだった感覚が戻ってくるようだ。
三十尋はあろうかという大河の表面には寒さのあまり氷が張っている。分厚い氷を透かして川底の丸い石の影が見て取れた。死者の国との境界、ギョルと呼ばれる大河だ。目をすがめれば、遠く橋が架かっているのが見える。
「渡るなよ。この河から向こうは死者の国だ。オーディンでさえも、手を出せない」
フレイは一瞬黙り込み、河から目をそらした。
「……言われなくとも」
振り向けば、ロキはスレイプニルに括り付けていた荷を解き始めていた。持ってきたのは彫金の道具のようだった。
ふいごにやっとこ、坩堝に糸鋸にヤスリ、それに乾いた薪などが次々と袋から取り出されていく。
それらの様々な彫金の道具を並べた後、ロキは最後に腰に吊った皮袋から歪な形の銀貨を数枚取り出した。ところどころに黒いサビが浮いている。
「随分と古そうな銀貨だな」
「これは少しばかり特別なものだからな」
「特別?」
「まあ、俺にも少ないながら貢いでくれる人間もいたってことさ」
フレイは内心で首を傾げたが、深くは尋ねずに聞き流した。尋ねたところで、誤魔化されることは目に見ている。
ロキは銀貨を坩堝に投げ入れると薪を組んで釜戸に火を入れた。熱せられた銀が徐々に赤銅色に色づいていく。
「何か手伝えることはあるか?」
「そうだな、じゃあ、水を汲んでおいてくれないか」
「水って、この河のか」
フレイは大河を振り返った。すぐそばを流れるギョルは、……流れるという表現は果たして正しいのだろうか、馬に乗ったままでも危なげなく渡れるだろうほどに分厚い氷に覆われていて、水の姿はその氷の向こうに朧気にうかがえるだけだ。
「他のどこに水がある? ニブルヘイムの冷気が必要なんだろ? 俺たちはこの河のためにここまで来たんだからな」
言いながらロキはフレイに向かって革袋を投げて寄越した。開けてみれば、中には手斧と金鎚、それに鑿が入っていた。
フレイは小さくため息をついた。肩をすくめて袋から鑿と金鎚を取り出すと、ギョルの水を汲み出すべく足下の氷へと当てた鑿に向かって金鎚を振り下ろし始めた。
硬く分厚い氷に穴をあけるのは、思っていたよりも大変な作業だった。
何とか小さな桶が通るくらいに広げた穴から顔を上げて、フレイは額に浮かんだ汗を拭った。岸辺ではロキがふいごを使って炉の火を赤々と燃え立たせている。
フレイはギョルの水で桶を満たしてロキの隣に立った。
「水を汲んできたぞ。他には何かあるか?」
ロキは振り返って、ニヤリと口の端をあげて礼を言った。
「他にはない。まあ、見てなって」
フレイが言われるままに坩堝の中をのぞき込めば、銀はすっかり溶けきって赤く輝きながら対流していた。ロキは坩堝を炉から取り上げると、まず溶けた銀を四角い鋳型に流し込み板状にした。
赤く光っていた銀は、熱を奪われて急速に輝きをなくし、黒く変色していく。銀全体が黒くなったら、桶の水につっこんで完全に熱を取る。
できあがった銀板を糸鋸で切り抜き、指先で曲げ、槌で伸ばしていく。一つ作業をする毎に硬くなった銀に火を入れてなます。その都度、銀は桶に入れられ、氷河の水は音を立てて泡立ち、銀から熱を奪っていった。
ロキの作業を隣で眺めながら、フレイがポツリと呟く。
「なあ、ロキ。私は最近、考えることがあるんだ。このままで本当に良いのだろうか、と」
糸鋸で銀を切る手元から顔を上げることなく、ロキは聞き返した。
「ん? なんだよ、改まって」
相手の顔を見ないで済むことにフレイはわずかに安堵した。
「前にノルニルがラグナロクの予言をしていっただろう。あれ以来、ヨトゥンヘイムの巨人族の動きは活発になっているし、オーディンはエインヘルヤルを増やしている」
日々、剣戟の音の絶えないヴァラスキャルヴの光景を思い、フレイは目を伏せた。
「それと共に妻や義母への、巨人族の出であるゲルズやスカジへの、風当たりも強くなっている。私は思うのだ。はたして、このままで良いのだろうか、と」
ロキは相変わらず手元の作業から目を離さなかった。
「自身はヴァナヘイム出身で、今でこそ馴染んでいるとはいえ、本来アスガルドでは異邦人。何の因果か、妻と義母は対立種族の出身者。あんたとしては、現状が気になるわけだ」
「できれば、なんとか和解で終わらないものか」
フレイの呟きに、ロキは答えなかった。何度も糸鋸を往復させて、少しずつ少しずつ銀を切り裂いていく。
「なぁ、フレイ……」
作業の手を止めて、おもむろにロキが口を開いた。
「世界を滅亡させる原因が目の前にあったら、お前なら、一体どうする?」
二人の間に沈黙が落ちる。フレイは答えられなかった。それを咎めることも、気にした風もなく、ロキはまた糸鋸を動かし始めた。静けさの中で、銀を切る音と、ときおり薪がはぜる音だけが響いていた。
しばらくしてできあがったのは、手のひらほどの大きさの丸いブローチだった。外套を留めるのにちょうどいい大きさだ。外側の円環には透かし彫りでルーンが描かれている。
細工は細かいが、一見して何か特別な力があるようには感じられない。
フレイは眉間にしわを寄せてブローチを眺めた。
「それで、上手くできたのか?」
「ま、それに関しては、帰ってからのお楽しみってことで」
上機嫌で返すロキにフレイは上手くいったのだろうな、と胸の内で独りごちた。
「さあ、もうここに用はない」
言って、ロキは彫金に使った道具を手早く片づけ始める。手伝おうにも手を出す隙もなく、その鮮やかさにフレイは舌を巻いた。
友人に余計な仕事を背負わせた罪悪感から付いてきたものの、結局のところ大した役に立っていない。これでは本当に「どうしても」と無理を言って連れてきて貰った子供のようだ。
フレイが改めて何か謝罪の言葉を口にしようとしたとき、背後から水が凍るときに出すパキパキという音が響いた。振り返れば、大河の水を使うために先程あけた穴に氷が張り始めていた。氷は見る見るうちに小さな穴を塞ぎ、その厚さを増していく。
そういえば、押し滲むような寒さも、吐き出す息の白さも、先程からより強く、より濃くなっている気がする。
「……お出ましだ」
ロキが言うのと、それが見えたのはほぼ同時だった。大河ギョルの向こうにそれは見えた。白い靄のようなそいつは、雪崩のように泡立ちながらすごい早さでこちらへと迫ってくる。
「寒気だ。あれに捕まったらヤバい。急げ!」
一も二もなく、二人は動いた。木に括り付けてあったスレイプニルの手綱をほどいて、代わりに荷物を括り付ける。
すでに荷をまとめ終わっていたことが幸いした。スレイプニルがロキとフレイを背に乗せて駆け出すまでに、そう時間はかからなかった。
手綱をさばきながら、ロキが早口でルーンを唱える。足下の霜柱が育ち、木々が凍り付いていくパキパキという音がやけに耳に付く。しばらくして見えてきた地面にぽっかりと空いた穴に、フレイはふと疑問を覚えた。
来たときに通ったのと同じ穴だ。しかし、おかしい。あの穴の出口はアスガルドの地面に開いているはずだ。ニブルヘイムは地下にある。普通、地面に穿たれた穴を通ってきたなら、ニブルヘイムの天井(空のように見えるがあれは天井だろう。太陽も月も星もないのだから)につながっているのではないだろうか。
あれはいったい、どういう仕組みで――。
「フレイ! 今は寒気から逃れることだけを考えろ!」
フレイは、ハッとして背後を振り返った。白い靄が薄明かりを反射してキラキラと輝いている。靄のように見えているのは、細かい氷の粒だ。その粒がはっきり見えるほど寒気はすぐそこまで迫っていた。
あれに追いつかれたらどうなるかなんて、想像するまでもない。ぞっとして血の気が引くのと、目の前の視界がなくなったのは同時だった。
アスガルドへと続く穴の中に入ったのだ。
ユグドラシルの虚から朝日のきらめく空の下へ出て、フレイは大きく息を吸った。随分と久しぶりに呼吸をしたような気がする。感覚を狂わされる暗闇の旅は、どうにも好きになれそうにない。
「た、助かった……。一時はどうなることかと思ったぜ」
スレイプニルの首に上体をもたせかけたロキが息も絶え絶えに呟いた。二人を乗せて全速力で駆けてきたスレイプニルも苦しげに荒い息をついている。
フレイは馬から降りて後ろを振り返った。ユグドラシルの虚は、馬など通れそうにない元の大きさに戻っていた。ニブルヘイムの今までに見たことのない恐ろしい寒気を思い出し、フレイは自分の腕をさすった。同時に、あの時に感じていた穴への疑問が戻ってくる。
「この虚、とてもニブルヘイムまで続いているとは思えん。それに、地下にあるはずのニブルヘイムで、私たちは地面の穴から出てきた。普通なら、天井から出てくるのではないか? 一体どうなっている?」
ロキはスレイプニルに身体を預けたまま、「全くこれだから……」と口の中で呟いた。
「お前は本当に呪術に向かないな、フレイ」
フレイは首をかしげてロキを見返した。
「その穴が直接ニブルヘイムに繋がってる訳じゃない。言っただろ、ニブルヘイムは空間が少しねじれているんだ」
「繋がっていない? じゃあ、私たちはどうやってニブルヘイムに行ったと言うんだ?」
「だぁかぁらぁ……!」
説明するために大きく息を吸ったロキは、結局それをため息として吐き出した。
「やめた。上手く説明できそうにねぇし。重要なのは、ニブルヘイムの冷気をちゃんと持ち帰ったってことだよ」
ロキは肩をすくめて、先ほど彼が作ったブローチをフレイに投げてよこした。それを危なげなく受け止めたフレイは改めてブローチを見つめた。
急拵えの細工は細かいとは言えないが、外周は優美な曲線を描き、円環状にぐるりと透かし彫りになったルーンは、いかにもそれらしい雰囲気を醸し出している。
「仕事は終わりだ。とっととオーディンの元に持ってってくれ」
「お前は行かないのか?」
「これ以上の面倒事はごめんだね。それに、こいつを馬小屋に返さないとな」
ロキがスレイプニルの脇腹を叩くと、神馬は返事のように尻尾を降った。
「ああ、わかった。これはオーディンに渡しておこう」
「頼んだ」
背中越しに片手をあげてロキが去っていく。一人になった後も、フレイはしばらくブローチを見つめていた。