大河ギョルの手前でホズは手綱を引いてスレイプニルを止めた。すぐ耳元でアングルボダが息を呑む気配がした。
一歩先からニブルヘイムへ続く石橋が始まっている。幅は広く、四頭立ての馬車が二台は並んで通れるだろう。
暗い人影が列をなして石橋を渡っていく。老人と幼い子供がほとんどだったが、まだ若い男や女も幾人か混じっている。ゆっくりと歩いて行く死者の列の中には、立ち止まっているホズとアングルボダを振り返っては不思議そうに首を傾げる者もいた。
『気をつけろよ。河を渡るなら、首を吊るのと変わらない』
アスガルドを出る時に忠告された言葉が脳裏に響いた。渡ってしまえば二度と帰れなくなるような気がした。しかし、渡らなければスヴェルテインに会うことはできない。
アングルボダがホズの腹に回した手に力を込めた。背中越しに彼女の心臓の跳ねるような鼓動が伝わってくる。
「行こう」
アングルボダの声は少し震えていた。声と同じく微かに震えている彼女の手にホズは自分の手を重ねた。
覚悟を決めるしかない。大きく息を吸い込んで、ホズはスレイプニルの脇腹を蹴った。
蹄の音を響かせながら、スレイプニルは冥府への橋を渡っていった。
橋を渡って、しばらく駆けるとニブルヘイムへの入り口にたどり着いた。ヒミンビョルグの門扉とどちらが大きいだろうか。街を囲む氷の外壁は高く、門以外から進入することは到底不可能だろう。もっとも、列をなす死者を迎え入れるために門扉は大きく開かれており、出る時のことさえ考えなければ、入っていくことはたやすいことだった。
門をくぐると目に飛び込んできた屋敷の壮麗さに、ホズは目を見張った。アスガルドにも美しい屋敷は数多くあるが、それとは少し趣が違っている。壁や天井は分厚いが朧気に向こうが透けて見えるほどの氷でできていて、それを木製の黒い柱や梁が支えている。
屋敷の玄関に一人の女が立っているのが見えた。その隣では、長い前髪で顔の左半分を隠した少女が不安げにあたりを見回していた。
「スヴェルテイン!」
ホズの後ろからアングルボダが叫ぶ。声に気づいた少女は、母親を見つけてパッと顔を輝かせた。
「ママ!」
ホズが慌ててスレイプニルを止めると同時にアングルボダが地面に降り立った。駆け寄ってきたスヴェルテインが、両腕を広げる母親の胸の中に飛び込んでいく。
娘を抱きしめるアングルボダの様子にホズは安堵して馬から降りた。屋敷の玄関に立つ女主人に目を向ける。視線に気づいた女主人が優雅に一礼して、三人を屋敷へと手招いた。
屋敷の中も外から見た印象と変わらず、テーブルやイスなどの黒檀でできた一部の家具を除いて、そのほとんどが氷で作られていた。
屋敷の女主人は自らを隠す者と名乗った。死者の管理を引き受けている為にそう呼ばれている、と。
「あの片目の若造も、たまには役に立つことをするものだ。私もそろそろ、引退したいと考えていたものだから」
下男が差し出すお茶を受け取りながらヘルが言った。片目の若造というのは、もちろんオーディンのことだろう。
「あの、それはどういう……」
戸惑うアングルボダの前にも下男がお茶を置いていく。暖を求めてカップに触れたアングルボダは、触れた途端にそろそろと手を引いてスカートの上で擦りあわせた。
出されたお茶は、木製のカップ越しでもわかるほどの冷たさだった。この寒さの中では、とても手をつける気にはなれない。
「スヴェルテイン、といったね」
突然、名前を呼ばれてスヴェルテインは不思議そうにヘルを見上げた。
「お前はここが寒くないだろう」
「さむい?」
スヴェルテインは首を傾げた。出されたお茶を何の戸惑いもなく飲み干していく。アングルボダはあっけにとられた。
そもそも、ホズとアングルボダは寒い場所に行くことが分かっていたため厚着をしてきているが、スヴェルテインは初夏のごく薄い服装のままなのだ。それなのに、全く寒がる様子を見せなかった。
ヘルがスヴェルテインの頭を撫でて、得心したように頷いた。
「強い神から直接、命の温かさを貰った子だね」
「あっ……!」
ヘルの言葉にホズは首を傾げていたが、アングルボダには思い当たりがあった。あの時のルーン・ガルドルがスヴェルテインをこの寒さから守っているのかもしれない。
「それに、その名前」
「名前が関係あるんですか?」
ホズの問いにヘルはゆっくりと頷いた。
「名前は本質を表す。一方で、名前が性質を付与する場合もある。名前は力だ。凍える杖の名は、ニブルヘイムでこそ力を最大限に発揮するだろう」
不敵に笑ったヘルを見て、アングルボダは先程からなんとなく感じていた違和感の正体に気がついた。スヴェルテインもホズも、白い呼気を吐く中で、ヘルの呼気だけが白くない。
「私もそろそろ生き飽いた。いい加減、静かに眠りたい」
「それと、スヴェルテインと、どういう関係が?」
アングルボダが恐る恐る尋ねた。答えは訊かなくても分かるような気がしたが、訊かずにはいられなかった。そして、予想したのと違う答えが返ってくることを願っている。
「私の仕事を、この子に引き継ごうと思っている」
予想通りの答えにアングルボダが声を上げる。
「ちょっと待ってください!」
ヘルが面倒くさそうにアングルボダに視線を向けた。
「そんなの勝手に決められては困ります! 第一――」
ヘルはアングルボダの言葉を遮って深いため息をついた。
「確かに勝手かもしれぬ。しかし、他にどうするつもりだ」
「どうって!」
「あの若造に追放された以上、どのみちこの子は地上では生きられまいよ。ニブルヘイムならあやつの目も届かぬ。ここで、のびのび成長させた方が得策かと思うが?」
「それは……」
アングルボダは口ごもった。
「ママ、あのね、スヴェル、ここから出られないの」
「スヴェルテイン、どういうこと?」
「うん、あのね……」
スヴェルテインが話し終わらないうちに、気づいたアングルボダは鋭い声を出した。
「スヴェルテイン、喉を見せなさい!」
母の勢いに気圧されながら、スヴェルテインはそろそろと顎を上げた。
アングルボダが立ち上がって向かいに座っている娘の喉を検分する。喉仏よりも上、正面を向いた時に、ちょうど顎の影に隠れるあたりにヨルムンガンドに付けられたものと同じルーン・ガルドルがあった。人差し指と中指で、そっと喉元に触れる。
「離れようとすると痛むのね?」
今度は穏やかな声だった。スヴェルテインは上を向いたまま、わずかに首を縦に振った。
「橋を渡ると痛いの」
じわり、とスヴェルテインの目に涙が盛り上がっていく。アングルボダは、くずおれるようにしてイスに座り込んだ。深いため息をついて頭を抱える。
「そう落ち込むな。お前たちと違って、この子はここに向いている。寒気にも耐えられるだろう。若造はニブルヘイムに追っ払った以上、当然死んだと思っておろう。都合のいいことに目も届かぬ。この子は安全だ。何を悩むことがある」
「こんな場所では会いにこられないわ」
「では、どこに暮らす? ミッドガルドもヨトゥンヘイムもヴァラスキャルヴの高御座
ヘルに畳み掛けられて、アングルボダは黙りこくった。理屈が理解できれば納得できるか、というと、必ずしもそうではない。
「ママ、あのね」
スヴェルテインがイスから飛び降りてアングルボダの袖を引いた。
「スヴェル、平気よ。スヴェルね、ここで女王様になるの」
「スヴェルテイン……」
「だからね、心配いらないの。ママ、一人で寂しくても我慢しなくちゃダメよ」
涙がこみ上げてきてアングルボダはスヴェルテインを抱きしめた。まだ細くて柔らかな少女の髪を何度も、何度も撫でる。
スヴェルテインだけではない。子供たちのこれからを思うと胸が締め付けられるようだった。スヴェルテインを抱きしめたまま、見えないように涙を拭う。
「そうね。スヴェルテインが平気だって言うなら、あたしも我慢しなくちゃね」
なんとか笑顔を向けたアングルボダの頭をスヴェルテインが、よしよしと撫でる。
「ママ、偉いね」
また抱きしめたくなる衝動をなんとか堪えて、アングルボダは立ち上がってヘルに頭を下げた。
「娘を、スヴェルテインを、どうぞよろしくお願いします」
「そう畏
「決まっていた?」
アングルボダが首をかしげる。
「未来が見えるのは時に不便なものだ。なぁ、スヴェルテイン」
ヘルはまるでスヴェルテインが同士であるかのように呼びかけた。けれど、スヴェルテインはそれには応えずに、アングルボダの袖を引いた。
「ママたち、早く帰らなくちゃ。すごい雲がおそってくるよ」
「すごい雲?」
スヴェルテインの言葉をヘルが補足する。
「もうすぐ寒気が来る。早く戻らねば、このままここで死ぬことになろう」
アングルボダは屈みこんでスヴェルテインに視線を合わせ、娘の両手を握った。
「スヴェルテイン……」
しかし、それ以上なにを言ったらいいのか分からず、言葉が続かない。
「大丈夫」
スヴェルテインが笑顔で言った。
「大丈夫だよ」
「うん……」
結局、アングルボダはスヴェルテインの頭を撫でてやることしかできなかった。
「パパ、ママを守ってね」
ホズは頷いてアングルボダの肩に手を置いた。
「行きましょう」
アングルボダはゆっくりと立ち上がった。
「ママ、またね」
スヴェルテインが手を振るのに、アングルボダはなんとか笑顔を取り繕って手を振り返した。
アングルボダはホズとともにもう一度ヘルに頭を下げて、ニブルヘイムを後にした。
イアールンヴィズの家に帰り着いた時、太陽はすっかり沈んでしまっていた。暗さのために部屋の様子がよく見えないのは幸いだった。子供たちが家にいないことを改めて認識せずにすむ。
「ホズ、ありがとう」
「いえ、僕は何も」
テーブルの上で一本だけ灯されたロウソクが二人の顔を照らしていた。
「あたし、結局あの子達に何もしてやれなかった」
「そんなことは……」
アングルボダはかぶりを振った。今日あったことを思い返していた。改めて自分についてまわる予言と名前を思う。世界にとって、あの子たちが災厄でその母親が災厄の運び手なら、子供を守れない母親も、あの子たちにしてみれば災厄の運び手、と言えるのではないだろうか。
「災厄の運び手、かぁ」
思わず声に出したら、ホズから返事があった。
「僕は『戦』です」
もちろん、名前の意味が、ということだろう。普段から穏やかなホズの物腰を思い出して、アングルボダは、くすりと小さく笑った。
「合ってないね」
「よく言われます」
平然と返してくるホズに、アングルボダは自嘲気味に言った。
「ホズと違って、あたしの名前はぴったりね。あたしは災いを運んでくるばかりだもの」
「じゃあ、変えてしまいましょうか?」
「えっ?」
アングルボダは目を瞬いた。ホズはいたって真面目な顔で見つめてくるけれど、突然の提案に頭がついていけない。
「ヘルさんが言ってましたよね。名前が性質を付与することもあるって」
「言ってた、けど……」
「だったら、良い意味の名前に変えてしまえばいいんじゃないですか?」
「そんな簡単なことで運命が変わるなら苦労しないわよ」
「簡単なら、ものは試しでやってみればいいんですよ」
アングルボダは肩をすくめてみせたが、ホズは取り合わなかった。
「『恩寵
「恩寵?」
「今まであなたのもたらしたものが、子供たちのことも、今日のことも全て恩寵に変わりますように。これからあなたのもたらすものが、恵みと慈しみに溢れますように」
「本当にそうなればいいけど」
ため息をついたアングルボダにホズは笑顔で請け合った。
「大丈夫ですよ。みんな生きてます。あとでヴァナルガンドくんに、ああ、それにヨルムンガンドくんにも、スヴェルテインちゃんの無事を知らせてあげないと。ヘイムダルさんは、随分とよく見ている人です。やましい所がないのなら、アスガルドに入るのはそう難しいことではありません。ヨルムンガンドくんに会いに行くのに制限はありませんよ。スヴェルテインちゃんに会いに行くのは、ちょっと大変ですけど、僕がまた父からスレイプニルを借りてきます」
「あなたが言うと、まるで何もかもが大したことじゃないみたいに思えてくる」
「大したことじゃないですよ。要は気の持ちようです」
朗らかな声で言い切ったホズに、アングルボダは微笑んだ。
「ありがとう」
微笑んだその目から涙があふれ出す。ぽろぽろとこぼれてくる涙は止めようがなくて、とうとうアングルボダは声を上げて泣き始めた。
「あたし、ずっと味方が欲しかったの! だけど、それじゃダメだって。あたしが味方にならなきゃって。なのに、あたしは……! あの子達に何もしてやれなかった! 味方になってあげられなかった! なにも、なんにも……!」
ホズはアングルボダが落ち着くまで、黙って彼女の背中を撫で続けた。
時は巡る。
神々は捕らえた狼の名前などには興味がなく、ただ沼地に住まうもの
ヨルムンガンドに関して言えば、冷たい海の水は彼の性質に随分と合っていたようだ。ただでさえ早かった成長速度はますます早くなり、ついにはミッドガルドを取り巻いて自らの尾を噛めるほどになった。元々気性の大人しい彼のこと、それだけ大きくなっても人々を騒がせることは滅多になかった。それでも時々は波の上まで顔を出すことがあり、また海底で彼がのた打てば海はたいそう荒れたため、人々は彼を中つ国の蛇
ニブルヘイムにおいて、ヘルは屋敷の東を安住の地と定め、眠りについた。スヴェルテインは彼女の名と仕事を受け継ぎ、ニブルヘイムを訪れる死者たちを統べた。老いも若きも、病める者も健やかなる者も、全ての死者は別け隔てなく彼女のものとなった。ただ、戦場で命を落とした戦士だけは、ついぞニブルヘイムを訪れることはなかった。
時は巡る。
破滅の予言を内に秘めつつも、日々は穏やかに過ぎていった。
みなさん、お疲れ様でした! 一幕は、これにて幕引きです。二幕はいつもどおり一ヶ月ほどの休憩を挟んで、三月中頃に更新する予定です。
アングルボダ=ナンナと言うのは、おそらく大半の方が薄々確信していたことでしょう。あと、コラム読んだ方はこの落とし方はご存じでしたね。
おおよそにおいて自分の書きたいことを理想通りに書けた気がします。ムスペルヘイムのエピソードは書いてみると当初予想より長くなりましたが、その分ロキの葛藤やバルドルの紹介をきちんとできて良かったと思っております。三兄妹も無事に本来の名前と居場所に収まりました。
二幕は、いよいよ序幕から直接の続きとなります。ここまで読んでくださった方は、どうせなので最後までお付き合いいただけると幸いです。