灰色の空から次から次へと白い雪片が落ちてくる。フレイとフレイヤは深刻な表情で現状について話し合っていた。二人の吐き出す息は白く凍り、フレイヤは少しでも暖を取ろうと分厚い外套の襟元を掻き合わせた。
「一体どういうことなのでしょうか」
フレイヤが空を見上げて物憂げに呟く。青空に雪が舞ったあの日以来、気温は夜を追うごとに下がり続けた。ついには夏らしい夏も、秋らしい秋も来ないうちに暦の上でも雪の季節が来てしまった。
夜が来る度に日の出は遅くなり、日の入りは早くなっていく。勢いづいた狼にでも追い立てられているように、太陽が空の上に顔を出している時間はどんどん短くなっている。このままでは昼間がなくなってしまうのではないか、と不安でしかたがない。
「今年も冬が至る日はちゃんと来るのでしょうか」
ぽつりと不安がフレイヤの口をついて出る。
「来る、と言いたいところだが……」
フレイは眉を寄せて溜め息をついた。
「断言はできないな。今年の夏は冷夏とは違った。気温が上がらないどころじゃない。夏も来ずに冬が来るなど前代未聞だ。恐らく何か原因があるのだろうが、心当たりはあるか?」
問われて、フレイヤは首を横に降った。
「原因がわかっていたら、夏か、遅くても秋の時期までにとっくに取り除いていますわ」
「雪が降り始めたのは夏至の日からだったよね。その前後に何か変わったことがあった、ってことかな?」
突然、背後から話しかけられて、フレイヤは盛大に肩を跳ねさせた。
「まあ、バルドル! 驚かさないでちょうだいな!」
「ごめんなさい、二人の話がつい気になったものだから」
バルドルが眉を下げて謝ると、フレイヤはふくよかな胸に手を当てて大きく息を吐き出した。
「別によろしいですけど。確かに、寒くなり始めた時期を考えると、そうなるのでしょうね」
「いや、前後というのはおかしい」
フレイが厳しい声で、ぴしゃりと言った。
「雪が降りだしたのが夏至の日なのだから、原因は少なくとも夏至よりも前になる」
「でも、夏至の前に何か変わったことなんてありましたかしら?」
何か思いあたりがあったのか、バルドルが「あっ」と、声を上げた。フレイヤの不思議そうな視線に晒されて、気まずそうに視線をそらす。
「い、いや。これは全然関係ないから気にしないで」
「気にしないでと言われると、かえって気になってしまいますわ。関係なくても構いませんから仰ってくださらない?」
「えっと、ホズのところにナンナさんが越してきたのが、ちょうど夏至の三夜前だったなぁと、思っただけで……」
バルドルの声が自信なさげに尻すぼみになっていく。そんなことよりも、フレイヤはバルドルが挙げた名前が気にかかった。
ナンナ。以前からよくホズを訪ねてきていたが、そう言えばどういう素性の人物なのかは知らない。
黙りこんでしまったフレイヤを見て、バルドルは焦った様子で付け足した。
「ね? 全然関係ないでしょう?」
思考の海に沈みかけていたフレイヤは目を瞬き、慌てて相槌を打った。
「えっ? ええ、そうね。関係ありませんわね」
「そうだよね! たとえ彼女が霜の巨人族だったとしても関係ないよね。だって、ほら、ゲルズがアスガルドに来た時には、こんなことは起こらなかったんだから。ねぇ、フレイ?」
フレイヤと同じように思考の海に沈み込んでいたフレイは、突然同意を求められて瞠目した。
「あ、ああ。ゲルズの時には起こってないな」
「ほらね、ただの杞憂だよ」
バルドルは軽い調子で言って肩をすくめたが、フレイヤはその言葉に引っ掛かりを覚えた。
ただの杞憂。
はたして、本当に杞憂で済ませても良いものだろうか。少なくとも時期は一致する。ナンナが越してきたのに続いて雪が降り始めたのだから。バルドルがことさらに関係ないと強調するのは、弟が騙されて利用されているわけがないと思いたい身内の欲目なのかもしれない。
フレイヤは白い息を吐いて首を振った。
いいや、バルドルの言うように杞憂であるはずだ。第一、ヘイムダルが黙っているのだから問題なんてない。いいえ、だけれども――
絶え間なく沸き上がってくる不安や疑問のように、じっとりと湿った雪が次々に落ちてきては折り重なって積もっていく。見上げた空は、ぶ厚い雲に覆われていて、太陽の面影さえ見つけられなかった。
その噂が口から口へとアスガルド中を渡っていくのに、さしたる時間は必要なかった。
冬はアスガルドのみならず、ミッドガルドやアールヴヘイム、ヨトゥンヘイムをも覆い尽くし、ついにはムスペルヘイムの辺縁にさえ雪を降らせ始めていた。
もはや一刻の猶予もない。広がり続ける冬に対して早急に対処することが望まれていた。
そう。アース神たちは、焦っていたのだ。
原因の分からない問題に、都合のいい可能性を与えられ、彼らはその噂に飛びついた。
――冬が広がり始めたのには、霜の巨人族が関わっているらしい。
その噂は、彼らにとても都合がよく出来ていた。
霜の巨人族は常若の女神イズンを誘拐したり、雷神の鎚ミョルニルを盗んだり、幾度となくアスガルドに災いをもたらして来た。災いの原因として実に説得力があった。
――そいつは、盲目になった可哀想なホズをたらし込んでアスガルドに侵入した。
情況も一致していた。彼女が越してきたのは、ちょうど夏至の数夜前だ。それに、「ホズを騙している」や「ヘイムダルにも気づかれていない」といった要素は、彼らの優越感や密やかな英雄願望をくすぐった。
外部に原因を得た彼らは、原因が内部にある可能性から目を逸らした。いや、そうでなかったとしても、彼らは真の原因には、とても気づけなかったに違いない。
彼らにとって、純真にして善良なるバルドルは、災いの発生源として最も遠い存在だった。
玄関からぞろぞろと入ってきた神々と冷たい風にナンナは身を竦ませた。気配に気づいたホズがイスから立ち上がり、ナンナを背後に隠すように一歩前に出る。
さして大きくはないホズの家は、入ってきた十人ほどの神々であっという間にいっぱいになった。出入口を占拠され、気圧されたナンナはジリジリと壁際に後退った。
「友人の家を尋ねるにしては随分と物々しいんじゃないですか」
ホズが毅然と言い放つ。その左手が背後を探るように微かに動く。気づいたナンナはすぐに右手でホズの手に触れた。彼女の手を守るように、ぎゅっと強く握りこまれる。大きな手に包まれて、ナンナは自分の鼓動が少し落ち着くのを感じた。
「そうですね。けれども、現状をこれ以上このままにしておくことはできませんわ」
居並ぶ神々の中心に立つ麗しき女神が厳しい調子で言った。フレイヤだ。両足で床に踏ん張り、両手は腰に当てて、一歩も退く気はないと全身で表現していた。
それを受けて立つようにホズは女神の顔のあたりを見据えた。
「ナンナのことですか」
フレイヤが緊張した面持ちで頷く。
「はい」
「噂は事実無根です」
ホズにしては珍しい怒りの滲んだ声だった。彼の手を握るナンナの手に思わず力が入る。
「状況が、それを許しません」
フレイヤの硬い声は、ともすれば張り詰めすぎて震え出しそうにも聞こえた。
「疑わしきは罰せず、と言うじゃありませんか」
言葉こそ軽い調子だったが、ホズの声にも、表情にも、軽い様子など、どこにも見られなかった。
「それが、そうも言っていられないのです」
フレイヤは覚悟を決めるように大きく息を吸い込んだ。
「アスガルドではイズンの林檎の木さえ氷付き始めましたわ。今年ついた小さな実は全て熟すことなく落ちてしまった。アスガルドだけではありません。ミッドガルドでは小麦が育たず、夏に穫れるライ麦や燕麦でさえも、雪に降られて収穫できなかった畑がほとんど。人も動物も飢えの備えなく冬に挑まなければなりません。世界は壊れかけているのです! 喜んでいるのはヨトゥンヘイムの霜の巨人族くらいですわ!」
最期には涙声になりながらフレイヤが悲痛な叫び声を上げる。けれども、ホズは硬く冷静な態度を崩さなかった。
「現状が大変厳しいことは知っています。しかし、それらとナンナは関係がありません」
にべもない答えに、それでもフレイヤは食い下がった。
「関係がないと、なぜ言い切れるのです?」
ホズが反論を口にする前にフレイヤが捲し立てる。
「彼女は霜の巨人族ですね。しかも、夏至の三夜前にアスガルドに越していらした。雪が降りだしたのは夏至の日ですわ。それもアスガルドから広がり始めたのです。わたくしが言わんとする事、おわかりになりますね?」
「ナンナがアスガルドに来たのは僕が頼んだからです。それに彼女はミッドガルドやヨトゥンヘイムにまで影響を与えられるような力は持っていませんよ」
「ホズ、他人を信頼するのはあなたの良い所です。けれども、あなたは人が良すぎる」
フレイヤは厳しい声でぴしゃりと言った。
「ここはアスガルドなのです。ユグドラシルやフリズスキャルヴ、世界に対して媒介として働くものには事欠きません」
「僕は魔術には詳しくありませんが、それらをナンナが使ったという証拠はありませんよ。あるわけがない。彼女は使っていないのですから」
フレイヤが口を開く前に、神々の中から別の声が上がった。声は穏やかに、まるで純粋に疑問だとでも言うように問いかけた。
「それなら、なぜ、彼女は本名を名乗らないのかな?」
ナンナの全身が恐怖と緊張からビクリと強張る。なんとか安心させるように、ホズが繋いだ手に力を込めた。
「バルドルっ……!」
「名乗れるわけないよね。彼女が最初につけられた名前は『災厄の運び手』。あの怪物の三兄妹の母親でしょう? その名の通り、世界に災厄を運んできた張本人だ」
神々の間にざわめきが走った。
「なんだって!」
「そんな話は聞いてない!」
「なんて奴だ!」
「偽の名で我々を騙していたのか!」
「これ以上の証拠がどこにある!」
事情を説明しようとホズが負けじと声を張り上げる。
「違います! それは――」
「ホズは黙っていて頂戴!」
「いいえ、黙りません!」
常になく強情なホズにフレイヤはアスガルド一の怪力の持ち主である雷神の名前を呼んだ。
「トール!」
呼ばれた赤毛の大男は、すまなそうな表情でホズを引き倒した。離れていくホズの手を追いすがって、ナンナがよろけるように一歩前に出る。唇を噛みしめて、ホズの手が離れていった右手を胸の前で強く握り込んだ。
床に押さえ込まれたホズがなんとか抜け出そうともがく。けれども、トールの怪力に敵うはずもない。惨めに這い蹲るホズの姿をナンナは見ていられなかった。
ホズがそうされるいわれなど、本当はどこにもない。こうなったのは自分のせいだ。自分の味方をしているがために、ホズは不当な扱いを受けている。自責の念に耐えられず、ナンナは金切り声を上げた。
「もういい! やめて!」
騒がしかった部屋が静まりかえった。ナンナは大きく息を吸い込みながら次に言うべきセリフを考えていた。どうすれば、ホズには目を向けさせずに自分だけが悪者になることができるだろうか。
「そうよ! あたしはアングルボダ。あなた達がアスガルドに囚えているヴァナルガンド、フェンリスウールヴの母親よ!」
「ナンナ」
ホズが心配そうに見上げてくる。すぐにでも側に駆け寄り、かがみ込んでその手を取って立ち上がらせ、怪我の有無を確認し、抱きついて、子供たちを取り上げられたときにそうしてくれたように私の心を守って欲しいと訴えたい。けれども、ナンナはそうしなかった。
代わりにナンナは毅然としてまっすぐに立ち、目を閉じてもう一度大きく息を吸い込んだ。
ホズがそっと彼女から視線を外し、顔をうつむけた。まるで、これから何が起こるのか全て知っているかのように、その表情には悔しさが滲んでいた。
ゆっくりと息を吐き、ナンナは瞼を上げた。できるだけ勝ち気に見えるように口の端を持ち上げて笑った。
「ふふっ」
少し笑い声を漏らすと、上手く気分が乗ってきた。含み笑いが徐々に哄笑に変わっていく。これならば、充分うまくやれそうだった。
フレイヤが恐ろしいものを前にしたように眉を顰めて呟く。
「いったい、何を笑っているのです……」
ナンナは笑った。おかしくってたまらないと、神々の愚かしさを嘲笑ってやった。そうだ、こんなこと笑わずにはいられない。
「あーあ、もうバレちゃったの? ざーんねん。ホズは優しいから、もっと一緒にいられると思ってたのになぁ」
「やはり、そうでしたのね。あなたは、ずっとホズを騙して……」
フレイヤは得心するとともに眦をつり上げる。ホズが床を向いたまま叫んだ。
「嘘だ!」
そのあまりに悲痛な響きにナンナは胸が締め付けられた。そうだ、嘘だ。でも、本当だ。もっと一緒にいたかった。
「ホズ……」
フレイヤが痛ましそうに呟くのが、なんとも滑稽だった。フレイヤの中で、ホズは完全に性悪女に騙された被害者に確定したようだった。
ナンナが喉の奥で笑う。怒りを煽られたフレイヤが柳眉を逆立ててナンナを睨みつけた。それでもナンナは笑い続けた。ホズがトールの拘束を振り払おうと必死に足掻いている姿から、ナンナは意識的に目を逸らした。
久しぶりに会うスヴェルテインのことを思う。これからは、ずっと一緒にいられると知ったら、あの子は喜ぶだろうか、それとも悲しむのだろうか。
後ろ手に拘束され、引っ立てられながら、ナンナは不思議な充足感を感じていた。最期くらい、自分の大切なものを守れただろうか。
ナンナを連れた神々が去って行く足音を聞きながら、ホズは唇を噛んだ。床に押しつけられながら、もがく。息を詰めて顔が熱くなるほど力を入れても、怪力の雷神はビクともしなかった。
下を向いたまま、唯一自由な口でホズは叫んだ。
「こんなやり方は不当です! 裁判を要求します!」
足音が一人分、立ち止まって振り向いた。
「いいでしょう。それであなたが納得できるのなら」
フレイヤだ。ホズは顔を上げた。
「ですが、事態は一刻を争います。今日一日だけ待ちますわ。夜が来る前に、彼女の無実を証明してください。できるものなら、ね」
「ナンナ!」
ゆっくりと振り返る靴音がした。彼女がどんな表情をしているのか、今のホズには想像もできなかった。
「待っていてください。必ず、助けてみせますから」
ナンナからの返答はない。かわりのようにフレイヤの哀れむような、呆れたようなため息が聞こえてくる。
ナンナを連れて行く神々の足音が遠ざかっていくのを黙って聞きながら、ホズは彼女を救うべく次に何をするべきか考え始めていた。
「もういいですよ、トール。暴れ出したりしませんから、放してくれませんか」
言われて、それまでずっとホズを押さえ込んでいた雷神は、ホズの手をとって立ち上がらせた。
「ホズ、あんた騙されてたんだ。あの女が、ついさっき自分でそう言ったじゃないか」
トールが心からホズのことを痛ましいと思っているのが、彼の人の良さそうな声に滲んでいた。眉根を寄せたトールの表情が想像するまでもなくホズの脳裏に浮かんでくる。
「黙ってやらせてください、トール。彼女が僕を騙していたにしても、そうじゃないにしても、自分でたどり着いた結論ならば納得することができます。僕から、その機会を奪わないでください」
「ホズ……」
「そうだ! 僕のことを心配してくれるなら、ロキの所に連れて行ってくれませんか? フレイヤはあの通りだし、魔術のことを訊くなら彼が最適だと思うんです」
「しかしだな」
トールは困ったように頭を掻いて口ごもった。
「それとも、ロキのことも信用できませんか? おかしいな、僕はロキのことを一番重用しているのは、父と言うよりもあなただと思っていましたけど」
「そりゃあ、ロキのことは信用している。そうじゃなくてだな、」
ホズはトールに最後まで言わせずに次々と質問をたたみ掛けていく。
「ああ、それじゃあ疑われているのは僕の方かな。オーディンの息子である僕の判断力をトールは毛頭信じる気がない、と。そういうことですか?」
「そうは言わんが――」
「では、どういうことですか?」
「いや、だからそれは――」
自分の感じている不安を言いあぐねいてトールは意味もなく口を開閉させた。ホズは笑顔を崩さずに首を傾げて続くはずの言葉を待った。
先に根負けしたのはトールだった。うなり声を上げて、ぐしゃぐしゃと両手で頭をかきむしる。
「ああ、もう、わかった。わかったから」
やっと得られた望んだ答えにホズは、にっこりと笑った。
「ありがとうございます」
トールは肺が空になるほど深々と息を吐き出した。
「本当に、こんなところだけは兄弟でそっくりだな」
ホズの顔に、さっと影が落ちる。
「似てますか?」
「え? ああ、あんたら、自分の要求を通したいときには相手を質問責めにするだろう。オーディンも問答好きだし、遺伝なんだろうなぁ」
軽い調子であはは、と笑ったトールに対し、ホズは顔をしかめた。
「そう、ですね。似ているのかもしれません」
確かにこれからやろうとしていることを考えれば、自分はバルドルの言うように酷い嘘つきなのだろう。偽善者にはなれても、善人になどとてもなれそうにない。
「どうした?」
不思議そうなトールの声にホズは首を横に振って答えた。
「いえ、なんでもありません」
「じゃあ行くか」
引かれた手が温かみのある堅いものに触れる。どうやらトールの肩のようだった。ホズは首を傾げた。
「どうにも俺は器用じゃないんでな。今日は雪が深いし、先導して歩くよりも担いでいった方が早そうだ」
トールがごく真面目な声で言うのが妙におかしくて、ホズは忍び笑いを漏らした。
「では、遠慮なく。よろしくお願いします」
「おうよ」
背中におぶさったホズをトールは軽々と抱え上げた。