ポッカリと口を開けた雪原の中心にナンナは立っていた。彼女の髪が風に煽られて揺れている。風は周辺の雪を巻き上げ、灰色の空にきらめく雪粒を運んでいく。

後ろ手に縛られながらも、ナンナは精一杯胸を張って集まった神々と対峙していた。たとえ首に縄が掛けられようとも、毅然として顔を上げているつもりだった。

不意に、ナンナを遠巻きに囲んでいる神々がざわめいた。彼らの間から出てきたのは、長弓を携えたホズだった。全体、これから何が起きようとしているのか。ナンナの後頭部が、ぞわりとそそけ立った。

ホズが手にした矢を高く掲げた。

「この矢は必ず、冬の原因を貫く」

ホズの張り詰めた声から周囲に緊張が伝染する。皆が皆、ホズが矢をつがえ、弓を構えるのを息を詰めて見守った。

「なんで……」

まっすぐに矢尻を向けられて喉が詰まった。決して下げないと決めたのに、顔がうつむきそうになる。

ナンナは唇を噛みしめてまっすぐに前を見た。後ろに控えたロキの声に従ってホズが照準を微調節している。矢尻の先は、ナンナの心臓に向けられていた。

ここに来るまでにホズの心境にどんな変化があったかなんて知らないし、想像もつかない。心変わりがあったのだとしても、裏切られたのだとしても、この方法で彼を守ると決めた以上、みじめに命乞いするつもりなどなかった。

低く弓弦の音が鳴って、ヤドリギの矢がホズの手からまっすぐに飛び出してくる。

その瞬間をナンナが目撃したのは、何があっても絶対に目を閉じないと堅く決意していたからにほかならない。

矢は、彼女の心臓に到達する前に、まるで鉄の壁に阻まれたかのように直角に軌道を変え、バルドルの心臓へ突き刺さった。

時間が止まった。誰もが目を見開いて、矢の行き着いた先を凝視することしかできなかった。白い雪の上に、じわり、と赤い血が広がっていく。

どん、と何かがぶつかってきて、ナンナはよろめきながら目をまたたいた。途端に止まっていた時間が動き出す。

「走って!」

ホズに命じられるままナンナは背を向けて走り出した。腕が振れなくて上手く走れない。何がなんだかわからないまま、肩を揺すって必死に足を動かす。積もった雪が足にまとわりついて、ナンナは何度も転びそうになった。

「ぶつかるっ!」

ホズが躊躇もなく森に向かって突っ込んでいくのにナンナが悲鳴を上げた。目が見えなくては、乱立する木々を避けられない。

視界の端を灰色の疾風が通りすぎた瞬間、身体が宙に浮いた。目の前に灰色の毛並みが見える。ナンナは狼の背に乗って、ホズに後ろから抱え込まれていた。

「ヴァナルガンド!?」

どうしてここに。二の句を継ぐ前にヴァナルガンドが低く唸った。

「どこへ行けばいい」

鉄の森(イアールンヴィズ)へ」

耳元で聞こえた応えに鼓動が跳ねる。狼は一つ頷くと立ち並ぶ木々の間を縫って駆け出した。

――くそ、くそっ。()められてる。絶対に嵌められてる。

フェンリルは苛立ちをぶつけるように白い森の中を駆け抜けていた。すぐそばの原野を横目で睨みながら喉の底でグルグルと唸る。刻印を施された喉が脈打つ度に、じくじくと焼けるように痛んだ。

いつか神々と巨人の戦いの舞台となると予言されている原野、ヴィーグリーズに神々が集まっている。その輪の中心にナンナが立たされているのが見てとれた。

思わず舌打ちする。

人並みを割ってホズがナンナの正面に立ったところでフェンリルは足を止め、低く伏した。ホズとナンナのちょうど真横で、向かい合う二人の様子がよく見えた。

――あいつの思惑に乗って協力するわけじゃない。ただ、あのまま何もせずに二人が捕まるのを指を咥えて見ているのが許せなかっただけだ。だからこれは、あいつに協力するわけじゃない。

いくら内心で否定してみたところで、こうしてここで飛び出す一瞬を図っていることが全てだった。毛皮ごしに雪の冷たさが立ち上ってくる。

びぃん、と遠く弓弦の音がするのをフェンリルの鋭敏な耳が捕らえたと同時に後ろ足を強く蹴った。

二人が雪原の端に辿り着く時点を目算しながら速さを合わせる。あまり早く雪原に飛び出してはいけない。二人を森の中に入らせてもいけない。耳目を引かないように雪原の端ギリギリのところで二人をかっさらうのが上等だ。

「ぶつかるっ!」

ナンナが叫んだ瞬間、フェンリルは木々の間から抜け出し、二人の服に牙を引っ掛けて前方空高く放り投げた。落下点に身を滑り込ませ、直ぐに森へと戻る。

「どこへ行けばいい」

低く問えば、同じく囁くような声が返された。

「鉄の森へ」

――一体全体、それのどこが相手が探さないような場所なんだ?

告げられたのが神々が一番最初に捜索の手を向けそうな場所であることに内心舌打ちしつつ、それでもフェンリルはできうる限りの速さでイアールンヴィズへと向かう。いつの間にか、喉の痛みは感じなくなっていた。

「これは……、どういうことだ……」

目の前の光景にオーディンはただ呆然と呟くことしかできなかった。微笑みを浮かべた最愛の息子が、まっさらな雪の上に転がっている。胸元の赤い染みが目に眩しかった。じわじわと血が滲み出し、大きく広がっていく。

「こんなことはありえない」

オーディンの漏らした言葉に重なって、耳をつんざくような悲鳴が上がった。フリッグが息子に駆け寄り、バルドルの名を呼びながら必死に彼の肩を揺する。

「バルドル! 返事をなさい! お願いだから! バルドル! バルドル!」

何度も何度も繰り返し呼びかける。しかし、バルドルはまぶた一つ、指先ひとつ動かさなかった。事切れている。

オーディンは取り乱す妻の肩に手を置いた。フリッグは反応を返さない息子に呼びかけるのをやめ、唇をわななかせた。僅かな沈黙の後に決壊した涙が、ぼたぼたとバルドルの白い頬に落ちかかった。

空間にざわめきが戻ってくる。

「そんな……」

「……嘘だろ」

「なぜ……」

「だって、あの時、確かに……」

仰向けに転がった体に注がれていた視線が、まるで何者かに操られているかのように一斉にヴィーグリーズの中央に向かっていく。

男は、そこに立っていた。まるで何事もなかったかのように。周りから向けられる疑心と猜疑に満ちた視線にも動じることなく、堂々と。その口元には微かに笑みさえ浮かべていた。

「ロキ! 説明しろ!」

突き刺すようなオーディンの声に、ロキは芝居じみた動作で肩をすくめた。

「説明も何も、皆さん見ていたでしょう?」

ぐるりと首を巡らせるロキを指さしてテュールが答えた。

「ああ、確かに見ていた。ホズの後ろでお前が何か小細工をしているのを」

ロキは不敵に笑うとツカツカとテュールに歩み寄り、彼が突きつけてくる人差し指を右手でいなした。

「小細工だなんて、人聞きの悪い。俺はただホズにナンナの正確な位置を教えてやってただけさ」

「だったら、なぜ……!」

歯噛みするような声が背後から聞こえてロキは振り返った。周りを取り囲む聴衆に向かって白い息を吐きながら声高に演説する。

「なぜ? ウケイの宣誓どおりに、矢は冬の原因を貫いた。それだけだ。何を疑問に思う? 何も問題はない。元々、冬の原因を処刑するためにヴィーグリーズに集まったんだろう?」

「貴様、よくも悪びれもせず!」

「バルドルは……」

小さく震える低い声に皆が一斉にフリッグを見た。フリッグの上ずった声が少しずつ高くなっていく。

「何者にも傷つけられない。誓わせたのです、何もかもに。ホズにも。ロキ、あなたにも!」

「そうはおっしゃいますがね、フリッグ、神々の貴婦人よ。果たして、そんなことが本当に可能だとお思いですか? 誰からも愛され、誰からも必要とされ、誰からも嫌われない。そんなことが本当にありえるだろうか?」

ロキは言葉を切ると応えを求めるように、集まった神々の顔を見回していく。充分な間をとって、誰からも返答がないことを確認するとロキは言葉を続けた。

「事実、あなたは小さなヤドリギから誓いを取り付けることができなかった」

バルドルを抱えたフリッグの肩が怯えたように震えたのをロキは見逃さなかった。

「覚えがあるでしょう。ヴァラスキャルヴの西、リュングヴィに生える楢に付いた小さなヤドリギですよ」

囁くようなロキの声を遮ってフリッグが金切り声で叫ぶ。

「もう結構よ! その穢らわしい口を閉じなさい! あなたの言葉は、まるで質の悪い呪いのようです」

ロキは言われた通りに口を閉じると、にんまりと唇を吊り上げた。優雅に一礼して踵を返す。フリッグは唇を噛みしめて去っていく全ての元凶を見送った。

「こんな結果は間違いです。なんとかしなければなりません」

「けれども、どうするおつもりですの……?」

「ヘルに掛け合います。誰か、わたくしの使者としてニブルヘイムまで赴くものはおりませんか!」

大声で呼ばわるフリッグを止めようと、オーディンが彼女の肩に手をかける。

「フリッグ、落ち着け。いくらなんでも……」

「わたくしは落ち着いております!」

フリッグは叩きつけるように言うと、すぐさまもう一度呼ばわった。

「誰か!」

「必要ならばわしが行く。良いから落ち着け!」

「わたくしはっ……!」

反論しようと振り返ったフリッグをオーディンが力強い腕で拘束し、彼女の顔を自分の肩に押し付ける。わずかの後、くぐもったすすり泣きが小さく聞こえてきた。

「トール、すまんがバルドルをヴァラスキャルヴまで運んでくれ」

「あ、ああ、わかった」

戸惑いつつも気遣わしげにバルドルを抱え上げたトールにオーディンは一つ頷いてみせた。バルドルを抱えたトールを先頭に、集まった神々がのろのろとヴァラスキャルヴへと行進する。オーディンは妻の肩を抱いて、さらにゆっくりと彼らの後に続いた。

雪をかぶった白い木々が乱立するだけの世界に、懐かしい家の屋根が見えた時、フェンリルは喉の奥に込み上げてくる悲しみとも安堵ともつかない感覚に涙を浮かべた。白い息が風に流されて後ろへと流れていく。

日頃の運動不足がたたって随分と息が上がってしまっている。意識して大きく息を吸い、時間をかけて吐き出す。こんなに自由に体を動かしたのは久しぶりだった。

玄関前に金髪を風になびかせた女が立っている。シギュンだ。そんなことはないはずなのに、随分と会っていなかったように感じられた。

「何故ここに?」

家の前まで来てフェンリルはシギュンに問いかけた。

「潜伏先まで案内するためよ」

低い声で囁き返され、フェンリルは驚きに目を見開いた。

「ここが最終目的地なわけ無いでしょ。見つけてくださいと言わんばかりじゃない」

咎めるように言ってシギュンがフェンリルを睨みつける。

「じゃあ、どこへ行くつもりなの?」

フェンリルの背中から降りないまま、ナンナが尋ねた。

「呪文の枝を隠すなら山の中、貝を隠すなら海の底。けれども、隠すのが獰猛な狼なら、森ではなくて人里へ、よ」

「そんなことわざ、聞いたことありませんけど」

訝しげに眉を寄せたホズにシギュンは肩をすくめた。

「そりゃそうよ。さっき私が考えたんだもの。さぁ、行きましょ」

シギュンは遠慮など微塵も見せずにフェンリルの背中によじ登り、ホズの後ろに収まった。首を回してフェンリルがシギュンの姿を追いかける。

「で、どこへ行くんだ?」

「私の生まれ故郷へ」

にやりと笑って、シギュンは目的地の方向を指し示した。

雪をかぶった木々が途切れ視界が開けた。白い屋根の家々が集まり、その直ぐそばを山から流れ出た川が通っている。周囲の斜面に広がる雪原の下にあるのは、畑か、それとも牧草地だろうか。喉の底から込み上げてくるものに、シギュンは目を閉じて胸を膨らませた。

――ここを最後に訪れたのはいつだったかしら。

立ち並ぶ家の数は以前とは比べ物にならないくらい増えたし、かつてはなかった石の城壁が家々の周りをぐるりと覆っている。もう村が狼に襲われる心配はないだろう。いや、もはや村と呼べる規模ではないか。

何もかもが変わったと思われるのに、懐かしさに胸が締め付けられる。ああ、でも、周囲の山や森の様子は変わっていない。

「こんなところに里があるのか」

フェンリルが感心したように呟いた。森の深いところだ。人間が歩けば、一番近い人里まででも三夜はかかりそうだった。

「ここは元々刀剣で栄えた村だった。技術秘匿のために職人集団が街から離れて住んでいたの。今はごく小さな王国よ」

シギュンがフェンリルの背から雪の積もった地面へと降り立つ。その音を追ってホズが問いかけた。

「ヴァナルガンドくんを見たら、みなさん怖がるんじゃないですか?」

「まあ、なんとかなると思うわ。たぶんね」

軽い調子でそう言って、シギュンは先頭に立って歩き出した。曖昧な返答を信じて良いものか、三人は眉を寄せて顔を見交わした。

ゴルモ王の宮廷に、ばたばたと足音を響かせて門兵が駆け込んできた。

「陛下、大変です! 表に!」

よほど慌ててきたのか荒い息をつく門兵をトルキルが睨む。

「何だ騒々しい」

「あ、あの、大変なんです……!」

睨まれた門兵は身を縮こまらせながらも王に訴え出る。ゴルモ王は鷹揚に頷いてみせた。

「申してみよ」

「はいっ! 城門前に人を丸呑みできるような巨大な狼が――」

「なにを悠長に構えている! すぐに兵隊長に知らせ、民を守らせろ!」

門兵が言い終わらないうちから一息に言うと、ゴルモ王は歯噛みした。

「しかし、なぜ今になってシギュンの祈りの効力が切れたのか。ついこの間ロプトが来たばかりだというのに」

「そ、それが陛下! 狼を連れてきた娘が、シギュンと名乗っているのです! どうか狼を匿って欲しいと」

「まさか! なぜ、シギュンが狼を連れている。いや、そうじゃない! あれは伝説(サガ)の中の話だぞ。シギュンがこの地に生きていたのが何百年前の話だと思っている!」

「そうです! ですから、誰も人相から判断のしようもなく――!」

門兵の反論に王は続く言葉を失った。人を呑み込めるほど巨大な狼だと? それを伝説上の人物が連れてきたって? 一体全体、何が起こっているのだ。

衝撃に黙りこんでしまった父に変わってゴトリクが席を立つ。

「とにかく、一度会ってみましょう。狼が制御されているなら、決めるのはそれからでも遅くはないはずです」

門兵は頷き、二人は早足で城門へと急いだ。

閉ざされた城門を横目で見ながらフェンリルは溜め息をついた。鉄の鋲を打った木製の扉の向こうからは兵たちが怒鳴り合う声と右往左往している足音が漏れ聞こえてくる。無理もない、と内心同情せずにはいられない。

「……大騒ぎじゃないか」

「そうね」

声に出して呟けば、なんとかなると豪語した女は大して気に留めた風もなく頷いた。

「やっぱり、まずかったんじゃないですか?」

心配そうに中の様子を伺うホズにも、シギュンは取り合わない。

「大丈夫よ」

泰然としているシギュンにナンナが首を傾げた

「ねぇ、ここって人間の国よね?」

「そうよ」

変わらず淡々とした調子で答えたシギュンにナンナは重ねて尋ねた。

「じゃあ、どういうことなの? ここがシギュンの生まれ故郷って。シギュンはアース神族でしょう?」

「んー、その話って長くなるのよねえ」

シギュンはようやっと考える素振りを見せた。相変わらず慌ただしげな扉の向こうに目をやって肩をすくめる。

「まあ、いいか。向こうの対応が決まるまで時間がかかりそうだし、簡単にね」

シギュンは腕を組んで城壁に背中を預け、壁の向こうにわずかに除いている家々の屋根を見上げた。

「私は元々、この村で巫女をしていたの。まだ城門も城壁もない時よ。その頃は村全体で三十人くらいしかいなかったかな。長い飢饉の冬があって、その年は男たちが早めにヴァイキングに行って食料を買い込んでこようって雪の溶けきらないうちに村を出たの」

シギュンは淡々と話し出した。自分の昔語りをするというよりは、最近聞いた面白かった話の報告をするような、どこか他人事めいた口調だった。

「狼って頭いいのよねー。女子供しか残ってない村を群れで囲って襲ってきたのよ。ほら、狼も長い冬でお腹すいてたから」

忍び笑いを漏らして、シギュンは空を覆う灰色の雪雲を見上げた。

「私、巫女だし、非力だし、武器を持つ訓練なんかしてこなかったから、みんなのために祈ることしかできなかったの。神様に対してお願いする時は、きちんと生け贄を捧げてお祈りするものでしょう? だけどその年はね、飢饉だったから」

シギュンはそこで言葉を切って目を閉じた。心に立ったさざなみを落ち着けるように、息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

「とにかくなんでもするから村を救って欲しいって祈って、自分を生け贄にしたわけ。死ぬ覚悟で祈ったんだけど、命の代わりに私自身をアスガルドに取り上げてくれたのよ」

言葉とともに吐き出した溜め息が白く漂い、風に吹かれて消えていく。

「まあ、そういう理由で今はヴァラスキャルヴの侍女をやってるわ」

最後に肩をすくめ、話を終えたシギュンは周囲の面々を見回した。三者三様に呆気に取られた顔が見返してくる。

「なんか、そーぜつ……」

「そう?」

半ば呆然と呟いたナンナにシギュンは首を傾げた。

「でも、シアルヴィとロクスヴァの兄妹とか、ビュグヴィルとか、案外多いわよ。元人間で侍女や侍従をしてるのも」

「そうなんだ……」

具体的な人物を上げられても、姿を見たこともなければ、名前を聞いたこともないナンナは、ただそういうものらしいと、納得するほかなかった。

その時、まるでシギュンが話し終わるのを見計らったように、ゆっくりと城門が開いて中から身なりの良い青年が現れた。

「さあ、勝負はここからよ」

シギュンはロキによく似た勝ち気な表情で微笑むと、寄りかかっていた城壁から背中を浮かせた。

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