ナリの意識が暗い無意識の中から、ゆっくりと浮かび上がった。眠りから覚めるように、ぼんやりと周囲の状況が見えてくる。

 ナリは長い列に並んで暗い道を歩いていた。右手はナルヴィの手を握っている。ナリはしっかりと弟の手を握り直した。

 前を行く人の背中について、右も左も見えない暗闇の中を歩いていく。振り返ると、ぼんやりした表情の人々が列をなして続いているのが見えた。隣を歩くナルヴィの顔も似たり寄ったりで、目は開いているのにどこを見ているのか検討もつかない。

「ナルヴィ、ナルヴィ」

 耳元で呼びかけて肩を揺する。途端にナルヴィの丸い目が、ぱちぱちと瞬いた。

「ナリ?」

 ナリは黙って頷いた。前後の人並みに合わせて歩き続けながら、視線で辺りを示した。

「ここがどこだか、わかるな?」

 小さな声で囁く。無言の人たちの中で大声を出すのは、なんとなく良くないことに感じられた。

 隣を歩くナルヴィが息を呑む。それでも、数瞬後には覚悟を決めた顔で首を縦に振った。ナリが改めて弟の手を握りしめる。自分では勇気づけるためのつもりだったが、もしかしたら本当は、ただすがりつきたかっただけかもしれない。

「いよいよ、これからだ」

 ナリが出した声は、情けないことに微かに震えていた。そのことにナルヴィは気づいただろうか。繋いだ手が強く握り返される。たったそれだけのことが、とても心強かった。

「オレたちは、父さんたちを縛り付ける鎖になんか、ならない」

 今度はちゃんと震えずに宣言できた。ナルヴィが黙ったまま静かに頷いたのを確認して、ナリの肩から少しだけ力が抜ける。ナリは正面に向き直って、大きく息を吸い、改めて自分を奮い立たせた。

 列の先頭に辿り着くまでは、まだしばらく時間がかかるだろう。

 

 もはや立ち枯れてしまったユグドラシルを仰いで、ヘイムダルは目を閉じ、耳を澄ました。冬はすっかり溶けてしまったが、春の芽吹く音は一向に聞こえてこない。

 地の奥深くまで根を張った霜は未だ溶けきらず、それどころか、パキリパチリと音を立てながら種子を氷漬けにし、大地を包み込むように成長していた。

 ――何が見える?

 澄ました耳の底で彼の声が聞こえた気がして、ヘイムダルは苦笑を浮かべて目を開いた。確かに、こんな風に潮目が変わる時は、いつも彼が訪ねてきていた。今なら、自分は彼になんと答えるだろうか。

 ――時とは巡り廻るものだと思っていたが、流れゆきて還らぬこともあるのだな。

 時の輪が解けてしまったのは、一体いつだったのだろう。暖かな陽気になれど、草は芽吹かぬ今この瞬間か。冬の神が死んだ時か。それとも、彼の力が増大していった時か。あるいはもっと前、神々がアスガルドの城壁を手に入れたとき、契約を騙し討ちで破ったあの瞬間に、すでに綻び始めていたのかもしれない。

 ラグナロクへの準備が着々と進んでいるのが見えるようだ。

 ヘイムダルは右手を腰へ伸ばし、ベルトに吊ったギャラルホルンを掴んだ。角笛の腹に施された金の象嵌細工が、冷えた感触を伝えてくる。吹き口を抑え、親指で撫でるように形をたどる。こいつを吹くべき時は確実に近づいてきている。

 心臓が妙な感じに胸を打つ。腕の内側がピリピリと痺れるようだ。浅くなりがちな呼吸を意識して深く吐き出す。

 ――まだだ。まだ、今ではない。

 ヘイムダルはまぶたを閉じたまま、意識して最後まで息を吐き切った。次いで、限界まで肺を膨らませる。そして、もう一度ゆっくりと息を吐く。

 いくら繰り返しても体を駆け巡る緊張感は、ちっとも軽くならなかった。ラグナロクの始まりを告げる、という予言だけで、これだけ気持ちが重くなるのなら、世界を閉じると言われた彼は、今まで一体どんな気分を味わってきたのだろうか。

 

 死者には二つの種類がある。

 一つは戦いの栄光の中で死ぬ者。彼らはオーディンの座すヴァルハラに迎え入れられ、死後も鍛錬を積んでラグナロクの戦闘に備える。

 いま一つは、事故や病気で死ぬ者たちだ。彼らは等しくニブルヘイムで死後の時をすごす。

 ニブルヘイムを訪れる死者は、誰もが生への未練に溢れた哀れっぽい表情をしている。特に若くして死んだ者はその傾向が顕著で、例外といえば高齢で大往生した老婆くらいなものだ。

 だから、挑戦的とも言える表情で顔を輝かせている幼い兄弟に、ヘルは驚くと共に随分と珍しい物を見ているなと思った。

 珍しいといえば、若くして殺されたのに、やたら満足気な顔をしている奴もいた。彼がニブルヘイムを訪れたのも、つい先日のことだ。あれも不可解だった。死して希望を見出すとは、一体どういうことなのだろう。

 彼らの共通点と言えば、滅多に死者としてニブルヘイムを訪れることがない神であることくらいだろう。神とは皆こういうものなのか、それとも神の中でも彼らが特別なのか、ヘルには判断がつかなかった。

「それで?」

 ヘルは、挑むように見上げてくる兄弟を見て、ため息をついた。

「一体、何を企んでいる。ニーズヘグを見てみたいだなんて」

「だって――」

 言い掛けて口をつぐんだナルヴィに対して、ヘルは片眉を上げて続きを促した。

「だから――」

 口ごもる弟を押し退けて、ナリが大声を出す。

「だって、竜だぜ! 火を吹くんだろ! そんなの見たことないもん! 見てみたいに決まってんじゃん!」

 ヘルはこめかみに指を当てて首を振った。どう聞いても子供の言い分だ。分かりやすいと言えば、分かりやすい。

「ならぬ。ニーズヘグがいるのは、川の向こうだ。一度、大河ギョルを渡った死者は、二度とあちらへは行かせぬ。そういう掟だ」

「えー!」

「ケチー!」

「ヘル姉の意地悪!」

 次々と不満を口にする二人に、ヘルは厳然と言い放った。

「掟は絶対、というのが先代の教えだ」

 それまで広間の端で三人のやり取りを面白そうに眺めていたバルドルが口を挟んだ。

「厳しいなぁ。ちょっとくらい例外にしてあげてもいいんじゃないの? 何も生き返りたいって言ってるわけじゃないんだし、川の向こうだってニブルヘイムには変わらないんでしょ?」

 ヘルは、バルドルの言葉など一切何も聞こえなかったかのように続けた。

「それに、万一、お前たちがあちらへ行くことに許可を出せるとしても、ニーズヘグは危険すぎる。あれは太古の生き物。とても私の手に負えぬ。ガルムとは違うのだぞ」

 兄弟にすっかり懐いてしまった地獄の番犬を思い出して、ヘルは眉間のしわを深めた。喉元を常に死者の血で染めていると恐れられているガルムも、二人の前では愛らしいペットの犬と変わらない。

 口をとがらせる兄弟に、ヘルは首を横に振ってもう一度宣言した。

「ならぬ」

 ナリとナルヴィは、しばらく不満げにヘルを睨みつけていたが、少しも堪えた様子のないヘルに諦めて肩を落とした。

「あーあ」

「見たかったのになぁ、黒竜」

 しょんぼりと去っていく兄弟の背中に、ヘルの胸の奥がチクリと痛む。目を閉じたヘルは、ゆっくりと息を吐いた。窓の外へと視線を移して、城壁の向こうにあるユグドラシルを透かし見るように目を眇めた。

 

 ヘルの館のすぐ外で、ナリとナルヴィは額をつき合わせていた。周囲には誰も居ないのに、極小さい声でナリが尋ねる。

「どうする?」

 ナルヴィが、同じように小声で囁き返す。

「正直に言っちゃう? 父さんたちを助けるためだって」

 ナリは首を横に振った。

「言ったからって聞いてくれるとは思えない」

「ちょっとくらい見逃してくれてもいいのにね」

 肩をすくめたナルヴィに、ナリは真面目な顔をして異を唱える。

「ダメだ。ヘル姉は支配者なんだ。ニブルヘイムの掟をみんなが守ってるのは、ヘル姉が誰に対しても平等だからだ。家族だからって、オレたちだけ贔屓したら、ニブルヘイムがむちゃくちゃになる」

「そっか……。じゃあ、やっぱり、……やるの?」

 ナリは深呼吸して、ぐっと大きく頷いた。

「やる」

 その答えにナルヴィは不安げな表情でユグドラシルを振り仰いだ。根しか見えない世界樹は、空へと伸びる巨大な柱のようだった。

「うまくいくかな? 」

「いくさ。今まで散々考えたじゃんか」

 ナルヴィと同じようにユグドラシルを見上げて、ナリが答えた。軽い調子とは裏腹に、ナリの声には不安が滲んでいた。つられるように、ナルヴィも眉尻を下げる。

「うん。だけど、やっぱり心配だよ。本当に父さんは自由になると思う?」

 ナリはため息をついて、先程までの軽い調子を引っ込めた。

「……わからない。未来のことは誰にもわからないだろ。予言だって、今までは外れたことがないってだけだ。『予言されたから起こった』のか、『起こることだから予言できる』のか、『予言は外れることもある』のか、そんなの誰にもわからない。ただ、『予言は外れたことがない』だけだ。いろんな人が予言された未来を変えようとしてきたのに、今まで一度だって外れたことがないんだ」

 ナルヴィはコクリと一つ頷いて、今までに何度も考えに考え抜いてきた予言の言葉を繰り返した。

「『ロキが戒めから逃れ、破壊者として神々に終末をもたらすまで』、『一艘の船が、東からやってくる。ムスペルの軍勢は海原を渡ってくるであろう。舵をとれるはロキ』、『古きギャラルホルンで、運命の幕は切って落とされる。そびえ立つユグドラシルは恐怖に震え、老樹はうめく。(とりこ)は自由を手に入れる。ヘルの道筋にある者はことごとく恐れおののき、やがてスルトの身内は老樹を呑み込む。』」

 それは、数えきれないくらい確認してきた予言だった。自分たちに課せられた運命を打破するために二人が見い出した、唯一の武器だ。変えられないものを、あえて変えようとこだわるのは、バカのすることだ。変えられないのなら変えられないなりの対処のしようがある。

「ユグドラシルが倒れれば、ラグナロクが始まる。ラグナロクには、父さんは自由になってる」

「でも、ラグナロクが来たら、世界は滅んじゃうんでしょ?」

 心細げに呟いたナルヴィにナリは肩をすくめてみせた。

「ユグドラシル、枯れかけてたじゃん。倒れるタイミングが、ほんのちょっと早くなるだけだよ。それにさ、予言の先を考えろ、だろ?」

「……うん」

 ナルヴィはまだ少し不安そうだった。そんな弟の手を握って、ナリがもう一度宣言する。

「ニーズヘグを怒らせて、ユグドラシルに火を付ける。やるぞ」

 ナルヴィは握られた手を力を込めて握り返した。大きく息を吸って唇を噛む。

「うん」

 今度はナルヴィもしっかりと頷いた。

 

 静まり返った部屋の窓辺で、バルトルは息を吐いた。気温が低いはずの地下の国で、寒さも感じなければ、息が白く広がることもないのが、なんとも不思議だった。

 ナリとナルヴィが出て行った途端、ヘルの屋敷は必要以上にがらんとして感じられた。女主人も、その従者たちも、ひっそりと音を立てずに生活しているからだろう。

 小さく区切られた窓格子には薄い氷州石が嵌めこまれている。バルドルのいる位置からは、屋敷の正面に位置する橋がよく見えた。氷州石の特性で、窓の向こうの世界は少しばかり二重にぶれている。

「お前も、私は意地が悪いと思うか?」

 女主人の静かな声が部屋に響いた。バルドルは笑みを浮かべて、背後を振り返った。

「気にしてるの? アスガルドの主神を追い返した時には、そんなこと全然気にしてないように見えたけど」

 ヘルは無言でバルドルから視線を逸らした。彼女の長い髪が、左半身と共にその表情までをも覆い隠してしまう。

「そうだね。僕のことも生き返らせてくれなかったしね」

 にこにこと嬉しそうにバルドルが言う。ヘルは無言のまま、床に落とした視線を動かさなかった。バルドルは少し笑みを深くして、窓の外へ向き直った。

「でも、意地が悪いとか、冷たいってのとは、違うんじゃない?」

 ヘルが弾かれたように顔を上げた。バルドルは向けられた視線に振り返ることなく言葉を続ける。

「公平や平等って言うのはね、冷徹じゃないと出来ない態度だよ。だからって、冷徹な人が冷酷なわけじゃない」

 バルドルの美しい指先が木枠に嵌めこまれた氷州石をなぞる。透き通った氷のような石は、しかし、彼になんの感覚ももたらさなかった。冷たさも、硬さも、感触も、何も。

「それに優しさって、無制限に配って歩けるようなものじゃないでしょう? だから、優しい人はいつだって不平等だ」

 バルドルは小さく息を吐き出して、軽く肩をすくめた。

「もっとも、彼らは大抵、そのことに気づこうともしないし、僕はいつも優しさをもらって歩く方だけどね」

 氷州石を透かして、屋敷の正面に位置する橋がよく見えた。大河ギョルに架かる、向こう側へと繋がる橋だ。巨大な犬が、背中に幼い兄弟を乗せて、河を渡って駆けて行った。

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