ガルムが走る速度を緩めるのを感じて、ナリは伏せていた顔をそろそろと上げた。目の前に迫る光景に息を呑む。

 空から突き出した巨大な樹の根が、四方八方へ広がりながら、ついには地を穿ち、更に下を目指して伸びている。複雑に絡まりあった根は、所々で小部屋のような空間を形作っていた。

「見て!」

 ナルヴィがナリの腕を引いて上を指差した。見上げると、ユグドラシルの根の隙間を何か小さいものが素早く移動している。ナリは目を凝らした。茶色くて油断するとすぐ樹の色にまぎれてしまう。あれは――

「リス?」

 ナルヴィは頷いて、囁き声で叫んだ。

「ラタトクスだよ!」

 兄弟が見守る中、リスは巧みな所作で根の間をくぐり抜けていった。その姿がすっかり見えなくなってから、二人は詰めていた息を吐き出した。

「あの先にニーズヘグがいるのかな?」

「ああ、たぶんな」

「フレースヴェルグからの伝言を伝えに行くんだよね」

「ああ」

 ナリは頷いて空を仰いで目を細めた。暗闇に紛れて、ラタトクスがどこを通ってやって来たのか、はっきりとは見通せない。けれども、その遙か先にフレースヴェルグがいるはずだった。

 古い詩歌によれば、ユグドラシルの天辺には一羽の鷹が止まっている。あらゆる風を生み出す鷹だ。名はフレースヴェルグ。元は巨人だったこの鷹が飛び立とうと翼を広げると世界中に風が吹き抜ける。

 枝の上にいるフレースヴェルグと根の下にいるニーズヘグは仲が悪く、いつもお互いの悪口を言い合っている。ラタトクスは罵り合う二匹の言葉を携えて、絶えずユグドラシルを駆け回っている。

 ナルヴィはラタトクスが入っていた隙間を覗き込んだ。手のひらほどの狭い通路。人はおろか、うさぎも通れそうにない。いくら二人が小さな子どもだからといっても、腕を突っ込むくらいが精々だ。

「どうする?」

 眉根を寄せるナルヴィに、ナリはユグドラシルの周囲を見回しながら口を開く。こういう時は、諦めるのが一番の悪手だ。

「どこか違う場所に、ニーズヘグが使ってる通路があるはずだ」

 目の前の通路からラタトクスが顔を出した。茶色いリスは二人に向かって鼻をヒクヒクとうごめかせると、首を傾げて大樹を駆け上がっていく。

 暗がりに紛れていくラタトクスの姿を目で追っていたナルヴィが、ハッと息を吸い込んだ。

「ちょっと待って! ラタトクスだ!」

 興奮した様子で兄の腕を掴んで引っ張る。

「なにも、僕たちが直接ニーズヘグに会わなくてもいいんだよ!」

 ナリは隣に立つ弟に訝しげに視線を向けた。ナルヴィの言わんとすることがわかってくるにつれ、ナリの目が輝き出す。

 考えてみれば簡単なことだ。ニーズヘグを焚きつけるのに、何もわざわざ直接会ってやり取りする危険を冒す必要などないのだ。

「そっか! ラタトクスだ!」

 ナリはナルヴィと、顔を見合わせてしっかりと頷きあった。

 

 ラタトクスは退屈していた。最近、どうにも張り合いがない。繰り返される毎日にうんざりしている。きっとフレースヴェルグとニーズヘグの悪口の応酬に、かつてのような勢いと情熱を感じられないからに違いない。

 長年やりあってきているだけあり、とうの昔に罵詈雑言のレパートリーも尽きている。今はどちらも惰性で罵り合っているだけだ。ラタトクスだって、喧嘩する二人を見物することにおもしろみを感じなくなって久しい。もはや、ただの習慣としてユグドラシルを往復する日々だ。

 毎度のごとく聞き慣れてしまった悪口を抱えてユグドラシルを駆け下りていると、なにやら話し声が聞こえてきた。

「すごいよなぁ。こんなに大きくなるのに、何千年かかったんだろう」

「でも、枯れかけてるんでしょう? 葉っぱが落ちてるのを見たよ!」

 こんなところに誰かいるとは珍しい。それも、どうやら子供のようだ。ラタトクスは思わず足を止めて耳を澄ました。

「そりゃそうさ。だって、ニーズヘグがユグドラシルの根っこを噛じってるんだぜ。さすがの世界樹だって、伝説の黒竜に食い荒らされちゃあ一溜まりもないよ!」

「なに言ってんのさ。ユグドラシルが枯れかけてるのは、枝のてっぺんにいるフレースヴェルグが葉っぱをぜーんぶ吹き飛ばしちゃって、おひさまから栄養をもらえないからだよ!」

 ラタトクスは鼻を動かしてヒゲをそよめかせた。面白そうなケンカの匂いがするぞ。

「お前、知らないのか? 草木ってのは、根っこから栄養を吸い上げてるんだ。だからニーズヘグの方が凄いんだよ」

「違うよ! 根っこより葉っぱの方が重要なの! フレースヴェルグの方が凄いに決まってるもん!」

 ラタトクスはしたり顔でにんまりと笑った。これは最高に面白くなるに違いない。熱いケンカを巻き起こしてやるぜ。

 

 こんな爽快な気分を味わったのは久々だ。ラタトクスは腹を抱えて笑い出したいのを堪えて、全力でユグドラシルを駆け上った。

 ニーズヘグのあの表情! 思い出すだけで頬が緩む。

 お前の噂話をしていたぞ、と言ったときの訝しげな顔。褒められていた、と教えてやった瞬間の驚きと、それが照れと隠しきれない優越感に変わっていく様子。そして何よりも、浮かれた満足感が崩れさり、フレースヴェルグへの憎しみに取って代わられるまでのせめぎ合い。

 この調子で、フレースヴェルグのことも上手いこと煽ってやる。

 ラタトクスは早速、頭の中で計画を練り始めた。気分はもちろん絶好調。今なら何だってできる気がする。それでも、事は慎重に運ばなければならない。あの、文字通りにお高くとまった鷲は、ニーズヘグと違って一筋縄ではいかないんだから。

 見れば、先程の子供達はまだユグドラシルのそばで言い争いをしている。

 よーしよし、いいぞ。

 ラタトクスは、にやりと唇の端を持ち上げて足を止めた。素早く根の影に身体を寄せて、しばしの間、二人のケンカに耳を傾ける。

 できることなら、もうしばらくの間、そのままケンカしていて貰いたいものだ。そうすれば、上手いことあの二匹を煽って、燃え上がるような言い争いにしてみせてやる。

 

 ナリはユグドラシルの根を透かし見るように、息を詰めてじっと目を凝らしていた。ナルヴィは遠く頭上の枝を眺めるように、ユグドラシルを見上げていた。

 二人の前髪をそよ風が揺らす。不意に勢いを増した風が二人の髪の毛を巻き上げ始めた。ナリもナルヴィと同じように太陽も星もない暗い空を仰いだ。

「フレースヴェルグだ……」

 強い風が耳元で唸り声を上げる。ナリとナルヴィはどちらともなく、お互いにしっかりと手を握り合った。風に煽られた服がバタバタと音を立てる。ナリは慌てて目の前のユグドラシルの根に手を回した。しっかりと張った太い根でさえ、風に煽られてびりびりと震えている。ナリは目一杯両足に力を入れて地面を踏みしめた。少しでも気を抜いたら糸の切れた凧のように飛んでいってしまいそうだった。

「見て!」

 ナリと同じようにユグドラシルに掴まっていたナルヴィが顎で前方を指し示した。ナリが恐る恐る薄く目を開いた途端、逆巻く風に涙があふれてきた。こぼれ落ちる涙を透かして、なんとか目を凝らす。

 最初に見えたのは小さな赤い点だった。それは一呼吸する間に大きなくなり、ゆらゆらと揺らめきだした。ユグドラシルが燃えている。

「ニーズヘグだ!」

「マズイ……!」

 周囲を渦巻く風の力を借りて、炎は爆発的に燃え広がっていく。早くここから逃げ出さなければ。このままでは、あっという間に消し炭になってしまう。

「ガルム! ガルム!」

 いつの間に離れていったのだろう。周囲にガルムの姿がない。まるで鉄砲水のような突風が、必死で掴まっていたナルヴィの手をユグドラシルからもぎ取っていく。バランスを崩したナルヴィの足が宙に浮いた。繋いだ手に引っ張られて、ナリの手までがユグドラシルの根から離れてしまった。

 途端に襲ってきた衝撃に目を閉じる。何か柔らかく温かいものに背中からぶつかったようだった。風圧の中で目を開ければ、すぐそばで明るい吠え声が響いた。

「ガルム!」

 飛ばされないようにしっかりと毛皮を掴みながら、ナルヴィと協力して急いで巨体によじ登った。風を避けるためガルムの背に低く身を伏せる。

「ヘルの屋敷へ、早く!」

 ガルムは、わかっている、とでも言いたげに一声吠えて走り出した。

 首筋に、乾いた木が火の粉を吹き上げるパチパチという音を感じる。風に乗って炎の熱気が迫ってくる。ナリは首をすくめて、あらん限りの力でガルムに、ぎゅっと、しがみついた。

 ガルムが速度を上げるにつれ、熱気は少しずつ遠ざかっていった。遠く、角笛の音が聞こえる。

『古きギャラルホルンで、運命の幕は切って落とされる。ヘイムダルは角笛を高々と掲げて吹く。

 そびえ立つユグドラシルは恐怖に震え、老樹はうめく。(とりこ)は自由を手に入れる。ヘルの道筋にある者はことごとく恐れおののき、やがてスルトの身内は老樹を呑み込む。』

 風が弱まったのを感じて、ナリは伏せていた上体を起こした。振り返れば、ユグドラシルの周りで赤い風が竜巻みたいに渦巻いているのが見えた。

 ナリは目を見開いて息を呑んだ。いまや、ユグドラシルは燃え盛る炎に完全に呑み込まれてしまっていた。

「スルトの住むムスペルヘイムは火と熱の国。スルトの身内は炎そのもの……」

 ナリの呟きにナルヴィが続ける。

「予言の通りだね……」

 確かにそうだ。けれども、何もかもが本当に予言の通りになったのかはわからない。ニブルヘイムにいる二人には、確かめるすべもない。

『虜は自由を手に入れる』

 本当にそうなっていることを祈るばかりだった。

 

 ホーネルンの城に用意された一室で、ホズとナンナ、それにフェンリルは膝を寄せて話し合っていた。

 ホズが目隠しを当てた顔を曇らせて言う。

「昔、僕が生まれる前の、父が世界を創ってから間もない頃の話です。父は、冥府で一人の巫女に世界の始まりから終わりまでを語らせたんです。その時の予言が『巫女の予言』」

「予言、か」

 フェンリルが低く唸った。

「今のところは、全部予言の通りになってるのよね?」

 不安そうなナンナの言葉にホズが頷く。

「予言が外れたという話は聞いたことがありません。あれだけ全力を傾けていた父でさえ、結局のところ予言の実現は防げなかった」

 フェンリルが噛みしめた歯の間から低く唸る。

「他に、予言されていることは?」

 問われてホズは記憶の中から慎重に詩句を探る。

「『オーディンが狼に戦いを挑み、ベリの輝く殺し手がスルトを相手に回すとき、二度目の悲しみがフリッグに迫る。彼女のいとおしい夫は、そこで倒れるであろう』ここに出てくる狼は、たぶんフェンリルくんだと思います。あとは、『大地の帯は空高く大口を開き、恐ろしい蛇の両顎が広々とあけられる。ミッドガルドの守護者は、怒りにまかせて蛇を討つ。お返しに毒を被ったフィヨルギンの子は、蛇の前から九歩退いたが、これは恥ずべき事ではない』。同じくここはヨルムンガンドくんかと」

 ホズはしばし沈黙して、息を吐いた。

「僕たちに関わってくるのは、このあたりでしょう。あとは、世界樹が倒れる時にヘイムダルが角笛でラグナロクの始まりを告げるとか、ラグナロクの終わりには世界が炎で包まれるとか」

「予言はともかく、あのジジイには一矢報いてやりたい気持ちはあるな」

 皮肉げに笑ったフェンリルは、首を傾けて後ろ足で耳元を掻いた。

「予言の通りなら、フェンリルくんの願いは実現しそうですが……」

 ホズの浮かない表情にナンナが心配そうに眉を寄せる。

「なに? どうしたの?」

「いえ……」

 ホズは言葉を切り、しばし逡巡した。けれども、簡潔で明快な答えは見つからない。諦めに似たため息と共に、ホズは言葉を吐き出す。

「わからないんです。果たして、これでよかったのか。どこかで、なにか間違ったんじゃないか。あなたを助けるにしても、もっと違う方法があったんじゃないのか。今の僕の状況は、『予言されているから仕方がない』と、大して考えもせずに流されてしまっているだけなんじゃないか。全てがあらかじめ予言されているなら、僕らの意思はどこにあるというのでしょう」

 重苦しい沈黙が落ちた。誰も明確な答えを持ち合わせていなかった。

「予言は変えられない。それなら問題は、変えられない予言をどう生きるのか」

 ナンナが口の中で小さく呟いた。かつて、シギュンが言っていたことだ。静けさの中、明かり取りの窓の向こうで、白い雲が青い空をゆっくりと泳いでいく。

 不意に遠く角笛の音が聞こえた気がしてホズは顔を上げた。

「聞こえましたか?」

「え? なにが?」

 ナンナが目を瞬いて首を傾げる。一方、フェンリルは周囲の様子を伺うように耳を動かした。

「聞こえた」

「だから、何が?」

 ホズとフェンリルの顔を交互に見ながら、ナンナが不思議そうに繰り返した。ホズが深刻そうに眉根を寄せる。

「あれは、恐らく……角笛の音、だと思います」

「角笛? 戦が始まるの?」

「いや、多分もっと悪いな」

 フェンリルが何かを嗅ぎ取ろうとするかのように、すんと、鼻を鳴らした。兵士や女中の足音が慌ただしく廊下を駆けて行く。動揺した声が切れ切れに響きながら、足音と一緒に通り過ぎていった。

 三人が三人とも、無言のまま廊下に目を向けた。どうやら、城にいる大半の人間に角笛の音が聞こえたようだった。

 誰ともなく一斉に立ち上がり、ナンナがホズの手を取った。

「行こう」

 

 暗い玄関ホールの扉が開け放たれ、そこから白い光が漏れ出していた。薄闇の中でホズの手を引きながら、ナンナは外の眩しさに目を細めた。扉の向こうに居並ぶ人々は、皆一様にこちらに背を向けて空を見上げている。扉をくぐって外に出た途端、思わずナンナも同じようにして目をむいた。

 そこにあったのは天地を貫く巨大な火柱だった。振り仰いでも、どこまで続いているのか皆目検討がつかない。ナンナは自分の口が馬鹿みたいにぽかんと開いているのを、どこか遠く他人事みたいに感じた。

 眉をひそめたフェンリルが戸惑ったように低く唸る。

 ナンナは大きく息を吸い込んで、奥歯を噛み締めた。

 ユグドラシルが燃えている。

 得体のしれない感覚にナンナの背筋がぞわぞわと粟立つ。自分を落ち着けるように、ナンナは繋いでいたホズの手を強く握りしめた。

「何が――」

 周囲の異様な気配を感じ取ったのか、半ば声にならないホズの問いかけに、ナンナは隣へと視線を移した。

 そうだ。彼には、この光景は見えていないのだ。なんとか説明しなくては。ナンナが深く息を吸う。それを言葉にして吐き出そうとした瞬間だった。響き渡った轟音にフェンリルがビクリと耳を伏せる。

 今までに聴いたことがないたぐいの音が、ごちゃごちゃに混じっているようだった。何かが土に食い込むような音。それとも、岩を砕くような音。何かを無理やりに引き延ばすようでもあり、張り詰めていたものが次々と弾けるようでも、閉じていたものが一斉に開くようにも聞こえた。

 両手で耳元を覆っても、鼓膜をつんざくような音の前には、ほとんど意味を成さなかった。

 頭が痛くなるような音の中で突然、足元が蠢きながら盛り上がって、ナンナは息を呑んだ。ついで、悲鳴が口を突く。

「いやぁあ!」

 まるで巨大なもぐらが何匹も地面の下を移動しているかのようだった。波打つ地面に立っていられなくなったナンナが、崩折れるようにして屈みこむ。頭を抱えて、ぎゅっと目を瞑る。縮こまって震えるナンナをホズが何も言わずに抱き寄せる。

 揺れがおさまったのを感じて、ナンナは恐る恐る目を開けた。見えてきた光景に思わず喉を詰まらせる。周囲の状況から守るようにホズがナンナの身体に腕を回す。ナンナはその腕にしがみついた。

 その場の誰もが思っただろうことをフェンリルがぼそりと呟く。

「なんだ、あれは……」

 城の向こう、ちょうど火柱の反対側に突如として天をつくような巨大な楡の木が現れていた。大樹は太陽に向かって瑞々しい若葉を空いっぱいに広げている。

 こんもりと張り出した枝と根は、さながら、我こそは新たなる世界樹であると、無言の内に全身で主張しているかのようだった。なにしろ、その楡の木の大きさは、町の半分以上が広がる枝に覆われて、木陰になっているほどもあるのだから。

「いったい何が……」

 戸惑うホズの声にナンナは彼の腕を掴む手に力を入れた。ゆっくりと息を吸う。説明、しなくては――。

「ユグドラシルが、燃えているの。それで、城の裏手に木が――、急に育って、まるで、まるで、世界樹みたいな大きさで……」

 喋りながら、ナンナは自分を抱きしめるホズの腕に力が込められるのを感じた。ゆっくりと背中を撫でてくれる。

 フェンリルがナンナを慰めるように脇腹に鼻面をすり寄せる。腕の下から潜り込んできた狼の頭をナンナは半ば無意識に撫でた。手のひらに感じる柔らか体温と温かな毛並みに、ようやく少し息を吐く。

 彼らのすぐそばで、王の相談役が苦々しげに舌打ちをした。

「あの男……」

 トルキルは吐き出すように呟いて、突如現れた巨木を睨みつけた。木の生え出している場所に、嫌というほど心当たりがあった。トルキルはあの日、あの男が、あそこに何かを埋めたようだと考えた。しかし、おそらくあの男は埋めていたのではなく、植えていた(、、、、、)のだ。

「一体、何をしようというのか――」

 呟いてはみたものの、トルキルも本当はわかっていた。時が来た。あの男が言っていた、最期の仕上げの時が。

 世界の終わりを告げる狼煙が、今まさに上がったのだ。

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