シギュンは額に浮かんだ汗を拭った。落ち着いた気持ちで改めて眺めてみれば、この洞窟はそう悪いところではないように思えた。地面も壁の岩も暖かく、あちこちに開いた隙間からは時折、思い出したように湯気が上がった。この分では近くに温泉でも沸いていそうだ。たぶん、探せば見つけられるのだろう。

「ナリとナルヴィ、どうしてるかしら……」

「大丈夫だろ、あいつらなら。ヘルにも懐いてたし」

 ロキが頭上の鍾乳石を眺めながら答える。蛇の毒を受けるための水瓶を支えたまま、シギュンは懐かしさに目を細めた。

「いいお姉ちゃんよね。初めて会わせた時のこと覚えてる?」

「珍しくナルヴィが騒いだんだったか」

「そうそう、『会いたい会いたい会いたいー!』って、地団駄踏んで」

 くすくすとシギュンが笑みをこぼす。こんな状態でも思い出話は懐かしく、愛おしく、また次々と溢れてくるのがおかしかった。

「大好きなお兄ちゃんの話に出てくる『かわいい小さな妹』に会ってみたかったんでしょうね」

「まあ、会ってみれば『小さな』とは、とても言えなかったわけだが……。でも、ナリは案外動じてなかったな」

「ナリは話を聞いての印象が悪かったみたいだったから。実際に会ったときの印象は、逆に良かったみたいね」

「そのせいか。ミズガルズオムルにも会いたいって言い出したのはナリだったな。あれは大変だった。船の調達とか面倒だったし、寒かったし、転覆するかと思ったし、無口だし、何考えてるのかわからねぇし。なんであいつらはあれに懐くんだか」

「あなた、アンの子たちには冷たいわよね」

 前から思ってたけど、とシギュンが少しばかり咎めるように言うと、ロキはわずかに口をとがらせた。

「向こうだって俺にいい印象持ってねぇよ。あいつらが閉じ込められた原因だからな」

「そんなの気にすることないのに」

「みんながみんな、お前みたいに理解があるわけじゃねぇの」

 完全に拗ねてしまったロキの物言いに、シギュンは笑いながら話題を変えた。

「ねぇ、私たちが初めて会った時のことも覚えてる?」

「それって、お前がくしゃくしゃの赤ん坊の時のことか?」

「もう、からかわないでよ!」

 言いざまシギュンはロキの腹を叩いた。痛いとうめく声が聞こえたような気がしたが、シギュンは取り合わなかった。

「う~ん、でも確かに『初めて会った時』じゃないかも……」

 よくよく考えてみれば、『ロキと初めて会ったのはあの時だ』と正確に思い定められるほどの強烈な印象など残っていなかった。だから、シギュンには最初に会った時というのは実はよくわからない。せいぜいが物心つく前の薄ぼんやりとした記憶にすぎなかった。

 けれど、そういった中でも、その人物を色鮮やかに認識した時のことは覚えている。その人が自分の人生の重要人物として、記憶という真っ暗な舞台上で突然スポットライトを浴びたかのように登場する瞬間がある。

 シギュンにとって、ロキに関するそれは、暗い部屋で熱い溶鉱炉の中を眺めていた時のことだった。

「ほら、小さい時、私よく父さんの隣で作業を見てたでしょう。あの頃よ。火の残った溶鉱炉に、よく蛍石のカケラを投げ込んで遊んでたわ」

 最初はシギュン一人きりで眺めているだけだった。そこに時折ロキが訪れるようになり、いつのまにか黙って二人で炉の中を覗き込むことが増えていった。

「蛍石を投げ込んでしばらくするとね、ポゥッ、ポゥッ、って、灯りがともるように石が光って弾けるの。とっても綺麗で不思議だった。蛍石を入れると金属は早く溶け出すようになるのよね。ゴツゴツした硬い鉄鉱石がとろけていく瞬間がすごく好きだった。あの時よ、『そんなに溶ける様子が好きなら』って、あなたが蛍銀をくれたの!」

「ほたるぎん?」

 聞き覚えのない名前にロキが首を傾げる。眉を寄せた彼の顔は、そんなことがあっただろうかと、記憶を手探りしているようだった。

 シギュンにとっては重要な思い出でも、きっとロキにとっては他愛のない気まぐれの一つにすぎなかったのだろう。シギュンは、それで全然構わなかった。

「いい名前でしょ。私が付けたのよ! 手のひらで温めると溶け出すんだもの、きっと蛍石がたくさん入ってるに違いないって思って」

 何を思いだしたのか、シギュンはますます楽しそうに笑い出した。

「そう言えば、あれでいたずらをして大目玉を食らったことがあったわ。私、何を思ったのか、蛍銀を父さんの打ち出し途中の剣にかけてみたのよ。今考えれば、金屎(のろ)の方にしておけばよかったのに、馬鹿よね。すごい剣幕で怒鳴られたわ。当たり前よ、だって父さんが丹精込めて作ってた剣が……そうよ、そう、そうだわ」

 シギュンは一人で得心して、腰紐に下げた小さな革の鞄の中を探り出した。支えを失った水瓶がロキの腹の上で危なっかしく左右に揺れる。

「なんだ、どうした?」

 シギュンの様子を見ようとロキが頭を起こす。シギュンはロキの言葉など耳に入らない様子で鞄の中をかき回している。腰紐に通した鍵束が騒がしく音を立てた。

「持ってたかしら、持ってるはずよ。ロキに貰ったんだもん。持ってないはずないわ」

 自分に言い聞かせるように呟きながら、シギュンは次々と鞄の中のものを引っ張り出し始めた。髪紐、ハンカチ、ナイフ、糸、それも生成り、黒、赤の三種類、包帯、指輪が二つ、細いが丈夫そうなロープ。あの小さな鞄のどこにそんなに入っていたのか、ロキが目を白黒させる。シギュンは鞄の底から、ようやく目的のものを探り当てた。

「あった!」

 それは白い石をくり抜いて作られた小さな瓶だった。大きさはシギュンの掌よりも少し小さいくらいか。シギュンは慎重に小瓶の蓋を回して、黒い鎖の上で意気揚々と小瓶をひっくり返した。

 小瓶の口から何が出てくるのか、息を殺して、じっと待つ。待つ。待つ。

 ロキが不思議そうに首を傾げる。時折吹く隙間風に混じって、どこか遠くで角笛の音が聞こえた気がした。

「……何も出ないぞ」

 シギュンは眉を寄せて、小瓶の口から中を覗き込んだ。けれども、暗くて中はよく見えなかった。シギュンはさらに眉間のシワを深くして、瓶の底のほうをコツコツと掌に当ててみる。中身が動いているような感触はしなかった。

「中で固まっちゃってるみたい」

 シギュンは小瓶を両手で包み込んだ。じんわりと掌の温度が移っていくが、中まで熱が伝わるには長い時間がかかりそうだ。

 そんな悠長なことはしていられない。シギュンは小瓶から顔を上げて周囲を見回した。少し離れた床の亀裂から湯気が立ち上っている。

 これなら――。

 シギュンは小走りで移動し、しゃがみ込んで湯気の吹き出し口に小瓶を当てた。

「おい、なんなんだよ!」

 シギュンの行動の理由が解らずに置いてきぼりを食らったロキが不満気に声を上げる。シギュンは小瓶を亀裂から離さずに、振り向いて叫んだ。

「思い出したのよ! あの時、大目玉食らった理由! 私が蛍銀をかけた打ち出し中の剣は、ボロボロに脆くなってしまったの! だったら、蛍銀をかければ、この鎖だって、脆くできるかもしれない!」

 ひゅう、とロキが息をのむ音がした。彼の腹の上に置かれていた水瓶が均衡を崩してぐらりと傾く。

「溶けた!」

 小瓶を振って確かめたシギュンが、一目散に磐座に近づいてくる。

「馬鹿が、待てっ!」

 ロキの制止する声など耳に入らない様子で、シギュンは素早くかつ慎重に鎖の上に小瓶の中身を垂らした。美しい銀光沢を放つ液体が、小瓶の口から黒い鎖の上へと滴り落ちる。その滴を追うようにして、毒を満たした水瓶が斜めに傾ぎ、シギュンへと落ち掛かっていく。

「シギュン、離れろ! 早く!」

 シギュンが顔を上げた。視界いっぱいに水瓶の口が広がっていた。たっぷりとした毒の水面が揺れている。シギュンは目を見開いて息をのんだ。

 聞こえたのは、チャリと、鎖の遊ぶ音。間一髪、ロキの大きな手が水瓶の側面を抑えて、シギュンに倒れかかるのを防いだ。

 言葉もなく二人の視線が交差する。水瓶の縁に当たって跳ねた毒液が、シギュンのスカートに焦げ穴をあけた。

「シギュン、早――」

 ホッと息を吐いたのもつかの間、ロキの体勢が、がくんと崩れる。魔力が一気に吸い上げられている。

 ――こんなタイミングで……!

 始まったのだ。仕掛けておいた魔法陣が発動した。水瓶を支えきれず、ロキの手が震える。

 落ち掛かってくる水瓶を留めようとシギュンが手を伸ばす。ずるっ、とお互いの手が、水瓶を挟んですれ違い滑った。支えを失った水瓶が、シギュンの方に大きく傾いた。

「ああああああああああああ!」

 悲鳴が洞窟の中いっぱいに反響する。シュウシュウと焼けるような音と表皮の焦げる吐き気がするような臭いが充満する。

 毒のほとんどをシギュンの上にぶちまけ終えた水瓶が、床に当たってガシャンと派手な音を立てて砕け散った。

 シギュンが両手で顔を覆ってうずくまる。倒れ伏したロキは、シギュンの悲鳴混じりの荒い呼吸を聞きながら、思い通りにならない身体に唇を噛み締めた。束縛を解いた黒い鎖が、磐座から垂れ下がって所在なげに揺れている。

「シギュン!」

「あ、あぁ……」

 シギュンの言葉通り、蛍銀は硬い鉄を脆く変えた。蛍銀を掛けられた部分の鎖は崩れ去り、もはや拘束の意味を成さない。しかし、それが何になろう。ロキは右手を握りしめた。

 呪いの言葉を吐く代わりに強く唇を噛みしめる。爪が掌に食い込み、唇に血が滲む。

 望んだのは、こんな事ではなかったはずだ。自分なら、もっと上手く立ち回って、そつなくやれたはずなのだ。こうなるから、こうなることが解っていたから、ずっとシギュンを遠ざけて来たのに。結局、最後はこの様だ。もっと上手くやるはずだった。もっと上手く――。

 シギュンが、そっとロキの手に触れる。途端に皮膚の焼ける匂いが鼻を突いて、シギュンは慌てて手を放した。そのシギュンの手を、ロキが追いかけて強く掴んだ。手のひらに鋭い痛みが走って、ロキは眉を寄せた。何千本もの研ぎたての針を、一斉に押しつけられたかのようだった。それでも、決して放すまいと力を込める。

 シギュンがおずおずと口を開く。火傷のために引きつれた口元から出てきた言葉は不明瞭だったし、声は不自然にかすれてしまっていた。

「あの、ね。タイミングが、少し悪かっただけよ。私が、後先考えないで、突っ走っちゃったから……。私ね、あなたの隣にいられて幸せだった。毎日、楽しかったし、充実してた。あなたの隣は居心地良かった。ロキは……? 私と一緒にいて幸せだった?」

 ロキは胸の奥から込み上げてくるものをこらえて、シギュンの手を強く握りしめた。こんなことしか出来ない自分が、悔しくて、情けなくってたまらなかった。

「ばか、そんなこと、訊くまでもないだろ。幸せだった。シギュンの隣は、ものすごく居心地が良かった」

 ロキの返答にシギュンは満足気に微笑んだ。

「私、もう逝くね。向こうで待ってるから……。大丈夫、またすぐに会えるわ」

 シギュンのまぶたがゆっくりと降りていくのと同時に、目の端から涙がこぼれた。しおれた花が頭を垂れるように、シギュンの全身から命が抜け落ちていく。

 とても見ていられなくて、ロキは俯いてシギュンから視線を逸らした。床に落ちた涙がパタパタと微かな音を立てる。

「……っ」

 せり上がってくる嗚咽を喉を締めてこらえた。何か言ってやりたかったが、こんな時に限って気の利いた言葉は何も浮かんで来なかった。それに、たとえ浮かんで来たとしても、シギュンに聞かせるには遅すぎる。

 ――覚悟していたはずだった。そう、覚悟していたのだ、彼女は。できていなかったのは自分の方だ。

 目を閉じ、ただ息をすることだけに集中して深呼吸を繰り返す。世界樹の成長が落ち着いたのだろう。少しずつ、魔力が戻って来ている。

 ロキは慎重に時間をかけて上体を起こした。右手を握りしめては開くのを繰り返し、感触を確かめる。火傷を負った皮膚が引きつれて、ぴりぴりと痛んだ。深く息を吐く。いつまでもこうしていても仕方がない。ロキは立ち上がって、床からシギュンを抱え上げた。

 ぐったりとした身体は普段以上に重く感じられた。なかば引きずりながら、なんとか洞窟の外まで引っ張り出し、枯れ草の上に横たえる。せめてもと思い、胸の上で手を組ませた。

 そのままシギュンの隣に崩折れるように倒れ伏し、天を仰いで目を腕で塞いだ。息をする度に体力まで空気と一緒に抜けていくようだった。

 静寂が耳につく。鳥の声どころか、風の音さえ聞こえない。波の音にも似た幻の高音が頭の周囲でうるさいくらいに響いている。

 ついと、隣に横たわるシギュンへと視線を向ける。感慨なんて、何も浮かんで来なかった。枯れ草の間から、小指の先ほどもない小さな青い花が顔をのぞかせていた。そっと手をかざし、力を込めて中空を握り込んだ。細い茎が揺れて、四つに分かれた花弁が落ちる。見る間にめしべの根本が膨らんで、真ん中がくびれた形の種子になった。

 ロキはゆっくりと右手を開いた。感触を確かめるように握って開く。握って、開く。

 ――大丈夫、閉ざすのは得意なんだから。

 ロキは立ち上がり、バサリと音を立てて外套を羽織った。一瞬後には黒い鷹が風に乗り、空に向かって舞い上がっていった。

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