フレイは空を見上げて目を細めた。抜けるような青の中を一羽の鷹が風に乗って舞っている。ゆるやかに弧を描く水平線が、はるか彼方で空と交わる。白い帆を張った一艘の船が、鷹に導かれるようにして白波を割って進んでいる。それらはまるで、スカルド詩人が吟唱する物語の一場面のようで、どこか現実味に欠けていた。

 鷹はどこへ行くのだろうか――。

 フレイは小さくため息をついて口の端を上げた。我ながら、さすがに野暮すぎる。

 船がやってくるのを待ちながら、フレイは右手に握った牡鹿の角を握り直した。いつの間にやら、すっかり馴染んでしまった手触りさえ、今は掴みどころがなく、なにか遠く感じる。

 最高の武器を手にしたことがあるというのは、なんという不幸だろう。

 フレイはかつて所有していた剣を思い出していた。ずっしりとしていながら重心のバランスが良く、振れば剣自体に意思があるかのごとく自在に動いた。あの剣を振るっていたのは、もう随分と昔のことだ。それなのに、今でもありありと感触が手の中に蘇る。

 ――あれはスキールニルにやったのだったな。

 彼の働きと引き換えに、従者であるスキールニルに剣を与えた。そのことに全く心残りがないと言えば嘘になるだろう。けれども、あの時には最高の剣など比べ物にならぬほど欲するものがあった。

 しかし、そう、確かあの時だ。剣に関して予言を残されたのは。

 ――ムスペルの子らが来て荒らし回るときには、剣がなくて困ることになるだろう。

 あんな予言、気にするほどのこともないと思っていた。事実、新しい剣はあの後すぐに手に入った。

 レーヴァテイン。前のとは真逆の性質を持った剣だった。軽く、薄く、骨を断つ時でさえ手応えを感じさせないほどの切れ味の良さ。今から思えば、あれほどの業物は後にも先にも見たことがない。

 ――あれを手放した時には、予言のことなど気にも留めなかったな。

 剣など、また直ぐに手に入る。そう考えていたし、事実、新しい剣はいともたやすく手に入った。問題は、どのような剣も全く振るう気になれないことだった。

 これ以上はない剣を手にした経験は不幸だ。もはや、それ以下の得物では満足できない。いや、満足できない剣を振るうのは、相手にも、鍛冶屋に対しても失礼だとさえ感じられた。

 それに、剣なしでも戦いには不自由なくすごしてきた。アスガルドを襲撃してきた巨人と対峙した時も、牡鹿の角で存分に叩きのめしてやった。

 ――あの巨人、確かベリと名乗っていたか。

 頭上から甲高い鷹の声が降ってきて、フレイは顔を上げた。いつの間にか、すぐ目の前に船が迫ってきている。甲板に立つムスペルヘイムの巨人達の為に、船は炎を吹き上げて燃えているように見えた。

 不意に、ぴたりと思考が嵌った感覚を覚え、フレイは唇に笑みを刷いた。

『オーディンが狼に戦いを挑み、ベリの輝く殺し手(、、、、、、、、)がスルトを相手に回すとき、二度目の悲しみがフリッグに迫る。彼女のいとおしい夫は、そこで倒れるであろう』

 さて、予言の続きはどうなっていただろうか。ベリの輝く殺し手の結末は、描かれていただろうか。

 

 帆を畳んだ船からスルトが浅瀬へと降り立った。彼が飛沫を跳ね上げると同時に海水は音を立てて泡立ち、スルトの姿を覆うように白い湯気を上げる。

 その光景に、フレイは笑みを浮かべたまま、ゆっくりと口を開いた。

「久しいな、スルト」

「イングナル・フレイか。因果なものだ。まさか、あんたに出迎えられるとは……」

 スルトが海から砂浜へ上がってくる。立ち上る湯けむりの中を抜けてくる姿は、彼が魔術的な靄の中から突如として立ち現われた様に錯覚させた。

 前回印象的だった豪奢なマントはなく、動きやすそうなスルトの格好は旅装束のようにも見える。しかし、その印象を腰に佩いた幅広の剣が裏切っていた。どっしりとした重量感のある剣は、ひとたび振るわれれば、さぞ高い殺傷能力を発揮することだろう。

 フレイはスルトの後方へ目を向けた。頭領の後ろで、彼の民は船に乗ったまま降りるかどうか迷っている。その中にはスルトの妻であるシンモラの姿も見えた。両手で足りるほどの人数であることを鑑みれば、戦闘員というよりも護衛なのかもしれない。

「出迎えない訳にはいかないだろう。そのような装束では、物見遊山に来たようには見えないからな」

「そのわりには、随分と見くびられているようだが。まさか、この私に一人で剣も持たずに相対するつもりか」

「あまり人員が割けない状態でな。私の武器については気にしないでくれ。私の得物はあんたの妻が持っている。それ以外の剣は、どうにも振るう気になれなくてね。……いいものを知ってしまうと、人は我が侭になるのだな」

 フレイの返答にスルトは訝しげに顔をしかめた。彼の足元の砂浜は、すでにすっかり水分を失ってしまったのか、もはや湯気を上げることもなく焼けて赤くなり始めている。スルトが口を開きかけたところに、フレイは先手を打って言葉を重ねた。

「一つだけ、確認しておきたいことがある」

 フレイは真正面からスルトと相対して、大きく息を吸った。あの時された質問が、未だに頭から離れないでいる。

 ――もしも、世界を滅ぼす存在が目の前にいたら、あんたならどうする?

 答えた時にはあんなに自信に満ちていたのに、今更になって迷っている。自分の選択は間違っていたのだろうか、と。

 後悔しているのだろうか? あの時、誰も死なない選択をしたのは、単なる問題の先送りに過ぎなかったのかもしれない、と。

ミッドガルド(ここ)に何をしに来た」

 スルトが真剣な顔でフレイを見返す。フレイは構わず言葉を続けた。

「返答いかんによっては、ここで斬り捨てる」

「賛同したからだ」

「賛同? 何にだ?」

 眉を寄せ、詰問するフレイに答えたのは目の前にいるスルトではなかった。

「火入れだよ」

 聴き馴染んだ声に、フレイは身体を強張らせた。声のした船へと視線を走らせる。見慣れた黒髪の男が軽やかな身のこなしで船べりを飛び越え、浅瀬へと降りたった。跳ね上げられた海水が派手な音を立てる。

「ロキ!」

 フレイが眉根を寄せて低く唸る。

「わざわざのお出迎えに痛み入るぜ。……ヘイムダルの差し金か?」

「拘束を抜け出して、一体全体なにを考えている!」

「言っただろう、『火入れ』をするんだよ」

 フレイは眉を潜めた。

「火入れ? まさか、世界樹に火をかけたのはお前か?」

 フレイの頭にアスガルドの様子がよぎる。以前にムスペルヘイムの炎を収めたことで、完全に油断していた。危機は過ぎ去ったと思っていた。まさか、勘違いだったとは。

 ロキは一瞬目を見開いてきょとんとした。そして、得心した様にニヤリと笑った。

「ああ、なるほどね」

「……笑うな。あれのせいで、アスガルドは大変なことになっている」

 世界樹が燃えることによる単純な火事の被害もあるが、そんなことよりも神の敵対者たちにとって、あれは狼煙なのだ。

 迫り来る巨人族や死者の軍隊に抗するために、オーディンは集めに集めたエインヘルヤルを率い、決戦の場所として予言されているヴィーグリーズに布陣している。多大な犠牲を払う戦になるだろうことは、火を見るまでもなく明らかだった。

「心配しなくても、これからもっと大変なことになるぜ。お前だって、わかってただろ」

 まるで共犯者に語りかけるようにロキが笑う。フレイは眉を寄せて奥歯を噛み締めた。

 そうだ、その通りだ。予言を前にしてどう振る舞うのか、私は、いや、私たちはずっと問われてきた。そして、この状況こそが、私の出した答えの結果だ。

「お前は以前、私に聞いたことがあったな。もしも、世界を滅ぼすものが目の前にあったら、お前はどうする、と」

 フレイの問いに、ロキの顔からニヤニヤ笑いが剥がれ落ちた。

「今、私はお前に問い返したい。お前こそどうするのか、と」

 ロキは静かに息を吐いて、周囲を示すように両手を広げた。その顔には、再び笑顔が貼り付けられている。

「俺が世界を滅ぼす運命(さだめ)なら、俺はその定められた理不尽にあえて逆らうことはしない」

「それなら、私は――」

 フレイは右手に握った牡鹿の角を、ロキに向かって真っ直ぐに構えた。

「全力で持って、お前の定めを、変えてやる」

 ロキは呆れたように肩をすくめる。

「その方法は、オーディンが何度も試した」

 軽いため息をついたロキは、感情を排した声で冷たく言い放った。

「そして、ことごとく失敗している」

「だったら、私がここで成功させてやる」

 フレイがロキを睨みつける目元に力を込める。しかし、そんなことは歯牙にもかけず、ロキはしたり顔で頷いた。

「なるほど、確かにあんたと真正面からやりあったら、俺に勝ち目はない。でもさ――」

 ロキの言葉を聞きながら、フレイは牡鹿の角の先端を真っ直ぐ相手の喉元に向けて構えた。一方、ロキは余裕の笑みを浮かべたまま、腰を心持ち沈める。

 次の瞬間、フレイは切っ先を左脇へ下ろし、右肩から突っ込むようにして間合いを詰めた。勢いと体重を乗せて、ぶつかる寸前に一気に切り上げる。空を切った手応えに、フレイは素早く角を構え直した。

 牡鹿の角の先端を僅かな差で躱したロキが、にやりと自信満々に唇を吊り上げる。

「俺が何の準備もしていない、なんてことがあると思うか? この地に刻まれしルーンよ、我がロキの名において――」

 言葉に呼応してロキの足元から光が広がっていく。まるで水が模様を描いて流れていくかのように、枯れた大地に光の魔法陣が描かれていく。

「させるかっ!」

 素早く間合いを詰めながら、フレイが何度も牡鹿の角を振るう。しかし、ロキはその度に二、三歩退がっては、ひらり、ふわりと、僅かな差で角の先端を逃れた。高く低く、独特な抑揚を持った声が途切れることなくあたりに響く。軽い身のこなしで攻撃を避けていく姿は、ともすれば優雅に謡い踊っているようにさえ見えた。

 不意に、ロキが目を見開いて息を呑んだ。つまずいた体が、バランスを崩して後ろへ大きく傾く。その隙を見逃さずにフレイが牡鹿の角を振り上げる。倒れ込みながら、ロキが鋭く叫ぶ。その口元は笑っていた。

「スルト!」

 フレイは思わず振り返って、スルトの姿を探した。スルトは走りながら腰に佩いた幅広の剣を抜き放ち、巨大な魔法陣の中心に向かっているようだった。

「待てっ! 何を――!」

 フレイは直感した。この大仕掛な魔法の発動に必要な工程は既にロキの手からスルトの手へと移っている。スルトを止めなければ、ロキを殺しても意味が無い。

「それじゃあ、運命を変えるべく、精々頑張ってくれたまえ」

 半ば呆然としながら、フレは声のした足元へと視線を向けた。素早く立ち上がって距離をとったロキが、巻き上がる風の中で外套を羽織る。次の瞬間には、重たい羽音と共に鷹が飛び立っていった。

 遠く、呪文を唱える女の声が潮風に乗ってやってくる。シンモラの声だ。人魚の歌声にも似た美しい響きは、フレイにはずいぶんと場違いに思えた。女の呪文に応えるように、魔法陣が赤く発光し始める。 不意に我を取り戻して、フレイは振り返った。スルトは魔法陣の中心部にたどり着いたらしい。頭上高くに掲げられた両腕の先には、逆手に握った幅広の剣が見える。日に輝く刀身のきらめきが、振り下ろされるに従って弧を描くのが、やけにゆっくりと目に写った。

 フレイは反射的に魔法陣の上から退いた。それが正解だった。

 ごうごうと暴風を巻き起こしながら目と鼻の先に火柱が上がる。頬を擦る熱気に、フレイの全身から、どっと冷や汗が吹き出した。フレイは慌てて可燃物のない砂浜まで後退った。

 呪文の最後の響きが美しい余韻を残して消えていくのと歩調を合わせて、間欠泉のように吹き出していた火柱も収束していく。

 炎が治まるにつれて、魔方陣の中心に一人立つスルトの姿が見えてくる。燃える草地の中心に彼は佇んでいた。周囲に広がる枯れ草を舐めるように、魔方陣の縁からまばゆい野火が這い出していく。

 ゆっくりと、だが、確実に野火は勢いを増していった。燃える舌先が、足元の枯れ草や落ち葉はもちろん、枝だけ残った藪や木立など、触れたもの全てを次々と飲み込んでいく。炎に包まれた木々があちこちで燃え上がる様は、さながら空を照らす巨大な松明のようだった。

 フレイは為す術もなく、目の前で世界が燃えていくのを眺めていた。誰にともなく呆然と呟く。

「なぜ」

 こんなことは、ありえない。

 いくら予言のことを言われようとも、フレイはどこかで信じていた。皆に邪険にされようとも、結果的にであっても、幾度となくアスガルドに益をもたらしてきたロキという存在を。信じたかった。いや、信じていたかった。たぶん、その方が楽だからだ。他人を疑うのは、案外しんどい。それが信頼している相手なら、なおさらだ。

 ――このまま世界は、終わってしまうのだろうか。

 見開かれたフレイの青い目に赤い炎が映り込んでいる。それは、抜けるような秋空色の中で、収穫を前にした垂穂が燃えているかのように見えた。

 ――これが、私の選んだ結末だろうか。

 もし、予言で全てが決まっていて、変えることができないなら。こうなることが、全て初めから決まっていたというのなら――

 私の意志に、私のしてきた選択に、私が今まで生きてきたことに、一体全体どんな意味があったというのだ。

 自身の存在を揺るがす疑問を前にフレイは立ちすくんだ。頭の中が真っ白になって、何事か考えられているのかどうかさえ怪しいほどだった。

 炎の中から歩いてくるスルトに気づいて、フレイは緩慢に視線を向けた。意思の抜け落ちたような声で呟く。

「なぜだ」

 問いかけにスルトは足を止めたが、黙したまま答えなかった。フレイの声が苛立ちを帯びる。

「なぜ、こんなことをする。以前、お前は言っていたな。かつて、ムスペルヘイムの隆盛が世界を滅ぼした、と。ならば、なぜこんな均衡を崩すようなことをする。これでは前回の二の舞いではないか」

 フレイの剣幕に、スルトの目が僅かに見開かれた。

「……気づいていないのか」

 フレイは訝しげに眉を寄せた。

「何にだ」

「なるほど、奴が苦労するわけだ……」

 スルトは空を仰いで、溜め息をついた。

「ミッドガルドの土は刺すように冷たい。冷たすぎる」

「それは、ムスペルヘイムに比べれば、どこの土地だって温度は低いだろう」

 スルトは首を横に振って言った。

「いいや、以前はここまでではなかった」

 フレイは眉をひそめたままスルトを睨みつけた。

「わからないか? 均衡は既に崩れている。思い当たる節があるだろう」

 目を伏せたフレイが小さくまさかと、呟いた。

「あの異常な寒さ……。ニブルヘイムか」

 スルトは頷いて口を開いた。

「一度崩れた均衡は、生半可なことでは元に戻らない。小康状態に見えても、その実、底冷えするような冷気が地下深くから漏れ出してきている。凍った土地に火入れをして、それでバランスが取れるものなのか、俺には分からん。前回同様、ムスペルヘイムが残るのかどうか、誰も保証できない。それでも、何もせずに世界が凍っていくのを眺めているよりは、いくらかマシだと判断した」

 スルトは目を閉じて、深く息を吸い込んだ。

「俺は、奴に賭けてみることにした」

 再び歩き始めようとするスルトを、フレイが牡鹿の角で遮った。そのまま低い声でスルトに尋ねる。

「賭けの結果は?」

「……勝つことを祈るのみだな」

「そうか」

 フレイは牡鹿の角をスルトの喉元に向けて構えた。あの時、スルトを殺さなかったのは自分だ。だからこそ、今のこの状態がある。その後始末は、きちんと最後までやるべきだと思った。

 たとえそれが予言のせいであっても。あるいは、自分の選択の結果であるなら、なおのこと。

「ならば残念だが、あんたが賭けの結果を知ることはない」

 スルトは黙したまま腰の剣を抜き放った。得物を間に相対する緊張感に、フレイは自分の頭が急速に冴えていくのを感じていた。

 それでも、予言に謡われたベリの輝く殺し手の結末を、フレイはついに思い出せなかった。

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