低く枝を張りだした巨大な(にれ)の木を見上げて、ゴルモ王は息を詰まらせた。土砂降りの雨が周囲の音をかき消してしまうように、風に揺れる木の葉のざわめきがあたりを包み込んでいる。視界の端々に、見たくないものが、ちらちらと写り込んでくる。押し迫る現実と、胸の奥からこみ上げてくる慟哭に、ゴルモ王は目を閉じることで対抗した。

 王は意識して何度も深呼吸を繰り返し、ようやっと心を決めた。唇を引き結んで目を開けると、振り仰いで梢に向けていた視線を徐々に地上へ移していく。

 つい先程まで人々が笑顔で生活していた町は、見るも無残に様変わりしていた。急激に成長した巨木の根に押し上げられて、町全体が時化の波のようにうねっている。

 ある家は土台から左に倒れ、踏み固められた床がぼろぼろにひび割れて盛り上がっているのが丸見えになっていたし、そのすぐ隣の家は、ひしゃげて屋根が落ち、崩れた壁のいたるところから裂けた横板が飛び出していた。ちょうど谷の部分に当たってしまって、両側から倒れ掛かる家に押し潰されてしまっている家屋もある。あちこちで山をなす瓦礫のほとんどから土煙が上がり、町全体を薄い黄土色に霞ませていた。そのどれもが、ほんの少し前までは誰かしらの我が家だった。

 乾いた土の埃っぽい臭いに王は顔を歪めた。眉間に力が入った拍子に、涙がこぼれそうだった。

 何がどうしてこうなっているのか、訳が分からなかった。今年の夏までは、全てが順調で上手くいっていた。心配事と言えば、息子であるゴトリクの嫁探しくらいなものだった。

 調子が狂い始めたのは、夏の始め頃からだ。確かに気がかりなことが増えた。季節外れの降雪、巨狼を連れた不可思議な訪問者。しかし、ゴルモ王は事態をそれほど深刻に捉えてはいなかった。

 それは、ひとえに信頼感のなせる技だった。幼い頃から見聞きしてきた神の存在は、それだけ彼の中で大きかった。

 ――例えどんなことがあろうとも、あのロプトが、我々にとって悪いようにはしまい。

 国に伝わるサガを聞く度、時折訪れる旅人のような浮世離れした客を迎える度、その思いは強くなった。それなのに――

 一体全体、これはどういうことだろうか。

 ゴルモ王は目の前の現実を到底受け入れられず、ただただ呆然と立ち尽くした。

 どれくらいそうしていただろうか。一瞬だったようにも思うし、随分と長い時間だったようにも感じられた。

「陛下」

 呼びかけられて、ゴルモ王は緩慢な動作で振り返った。すぐそばに、トルキルが緊張した面もちで控えていた。その後ろには心配そうなゴトリクがおり、さらに少し離れたところには先日迎え入れた客人らがいて、遠巻きにこちらの様子を伺っていた。いつの間にか狼の姿は見えなくなっていた。

 王は虚ろな目で彼らを見渡し、しばらくして重い口を開いた。

「なんだ」

「畏れながら、陛下」

 そこまで言って、トルキルは言葉を詰まらせる。気まずそうに視線を逸らす男に、ゴルモ王は顔をしかめた。なかなか話しだそうとしないトルキルに、王の神経がイライラと尖っていく。

 考えてみれば、こんなところで呆然としている暇など本来ならありはしないのだ。自身の不徳で遅れた分を取り戻さなければならないのだから。一刻も早く現状を確かめ、できうる限りの対処をしなければならない。

 ゴルモ王がトルキルのことを脇に置いて、把握すべき状況と確認方法の算段を立て始めた頃、トルキルはようやっと意を決して口を開いた。

「陛下、私が思うに町を破壊したのは、あのロプトとか言う男です」

 命令系統を思い浮かべて、誰に指示を出せばよいか考えていた王は、トルキルの言葉に硬直した。一時、完全に止まった王の思考が、再びゆっくりと回転し始める。

「……なんだって? ロプトが来ているのか。なぜ彼がそんなことをする。いや、そんなことより、ロプトが来ているのなら手を貸して貰いたい。どこにいる」

 矢継ぎ早に質問する王にトルキルは首を横に振った。

「姿を見たのは今時分の話ではないのです。ただ、」

 トルキルは言いよどんだ。なんと伝えれば良いのか迷ったのかもしれない。そんな態度に、ゴルモ王はますます眉間に皺を寄せ、険のある声で問いただした。

「ただ、なんだ。はっきりせい。お前らしくもない」

 トルキルは奥歯を噛みしめて息を詰めた。深く息を吸って覚悟を決める。

「あの楡の木。あれは恐らくロプトの仕業です」

 王が重ねて問う。

「どういうことだ」

「彼らがやってきた時に、」トルキルはホズたちへと、素早く視線を走らせた。「あの男も一緒に来ていたでしょう。あの時です。城の裏手にあやつが何かを埋めて、魔術をかけているのを私は見ました」

「楡の木の種でも植えていたとでも言うのか」

 トルキルは一瞬、目を泳がせた。それから目を瞑って、しかし決然とした口調で言った。

「その通りです」

 王は巨大な楡の木を睨んで、押し黙った。「なにをバカなことを」と一笑に付すことはできなかった。通常ならあり得ない、どんなに荒唐無稽なことも、ロプトになら可能であることを王はよく知っていた。

 トルキルはゴルモ王と同じように楡の木を見上げた。生い茂った若葉が太陽に向かって精一杯に枝を伸ばしている様子は、牧歌的で、いっそ暢気な光景だった。

「巫女の予言で、世界樹はスルトの身内に飲み込まれます。代わりの、新しい世界樹が必要だと思ったのかもしれません。しかし、こんな町の近くでは――」

「ちょっと待ってください!」

 トルキルの言いように、ゴトリクが鋭い声で割って入った。

「聞き捨てなりません。その言い方じゃ、ロプトが町を壊すためにわざとやったと言わんばかりじゃないですか。そんなのありえない!」

 声高に言い募る王子の様子に、トルキルは盛大に眉を寄せた。

 この国の者達は、無条件に彼を信じすぎている。それは、トルキルにはとても危険なことに思われた。これに関してだけは無知蒙昧の極みだ、と。

「しかし、それ以外にどう説明するのですか。だいたい、あなた方は根拠もないのに、あれを信じすぎている」

「それをいうなら、彼が町を破壊する目的はなんだって言うんですか。一体、どんな目的があって、わざわざ町を破壊するのか、当然説明できるのでしょうね?」

 ゴトリクが険のこもった声で言い返した。その隣で王が息子の言葉に黙って頷いている。トルキルは不満そうに顎を引いた。

「それは……」

「それに、根拠ならありますよ! 時間です。私たちが彼と付き合ってきた時間は、あなたが想像しているよりもずっと長いんです」

「そんなもの――」

 少し離れたところで、遠巻きに彼らのやりとりを眺めていたナンナは、ふと感じた周囲を取り巻く空気の違和感に、すん、と鼻を鳴らした。

「ねぇ、なんだか変じゃない?」

 問われたホズはナンナの方を向いて首を傾げた。

「どうかしましたか?」

 ナンナは不快そうに眉を寄せて、右手で鼻を覆った。

「なんだか、きな臭い。煙の臭いがする」

「煙? 世界樹が燃えてるなら、そのせいなんじゃ……」

 ホズが不思議そうに首を傾げる。大きく息を吸ってみても、彼には煙の臭いなど感じ取れなかった。世界樹が燃えているというのも、言葉で聞いているだけのホズにはあまり実感がわかない。

「いや、おかしい。世界樹はここより南、いま吹いているのは北風だ」

 それまで黙っていたゴルモ王が重々しい口調で言った。王の発言にトルキルとゴトリクも、言い争いを中断して周囲を見回した。

「あれだ! 楡の木の向こう!」

 王子が北の森を指さして叫んだ。

 皆がゴトリク王子の示した場所へと目を向ける。突如現れた巨大な樹木、その先に広がる森の向こうに、微かな赤い光が薄く輝いている。

「燃えてる……?」

 光の正体を確かめようとゴルモ王は目を眇めた。視界の端で何かがちらちらと踊る。それも、あちらこちらで。王は頭の先から胸のあたりまで、一気に血の気が引いていくのを感じた。

 北側だけではない。風の勢いを借りて北側が一番早く迫ってきているだけで、西側と東側からも遠く火の手が上がっている。

「ありえない、こんな大規模な火災など」

 ゴルモ王の呟きに応えはなかった。誰もが驚きに言葉もなく、あたりを見回している。

「あれを!」

 ナンナが南へと身を乗り出して叫んだ。

 炎をあげるユグドラシルが、斜めに(かし)いでいる。王が我が目を疑っている間に世界樹はゆっくりと、だが確実に、その傾斜を大きくしていき、ついには地面に倒れ伏した。樹木全体から、ぶわりと炎が舞い上がる。

 息を呑んだ瞬間、轟音と爆風が全身を叩いた。土埃や枯れ葉が風に巻き上げられてピシピシと体に当たる。細かな火の粉も一緒になって飛んできた。

 風の勢いが凪いでから、ゴルモ王は顔をかばっていた腕を下ろした。遠くに立ち上る黒い煙が、青い空を覆っていく。今や誰もが鼻を突く焦げ臭さに眉を寄せていた。王は顔をしかめ、袖口で口元を覆った。どんよりと立ちこめる煙に視界が煤けていく。

 心ここにあらず、と言った様子のホズの口から、予言の一節がこぼれ落ちてくる。

「『太陽は暗く、きらめく星は天から落ちる。黒き霧は地の上、波の上を問わず全てを覆い尽くし、灼熱の舌は高く伸び上がって天をも舐める』」

 盲目の彼の腕に寄り添って、ナンナが顔を伏せた。

「世界が死んでいく。このまま、みんな燃える」

 あちらこちらから聞こえてくる、舞い上がった小枝や乾燥して堅くなった木の葉が地面や木道にあたる細かな音がやけに耳についた。雨音のようなそれは、どこか炎のはぜる音に似ていた。

 風に巻かれてやってきた火の粉が潜り込んだのか、あちらこちらから暗い灰色の煙が立ち上り始めていた。

「そんなはずない……」

 悔しさを秘めた呟きに、王は振り返った。息子であるゴトリクが震えるほど強く両手を握りしめていた。この子は、まだ諦めていないのだ。

「全てが燃えて終わるなら、なぜロプトは、わざわざこんな楡の木を残していった……? 何かあるはずだ。必ず、何か理由が……」

 ゴトリクの言葉に釣られて皆が楡の木を見上げる。青々とした葉を目一杯付けた、瑞々しい大木。

「そういえば、昔、聞いたことがある」

 隣で同じように楡の木を見上げたトルキルが、ぽつりと言った。

「村が燃えたとき、生け垣が火事から家を守ったことがある、と」

 ゴルモ王は眉を寄せた。

「確かに生木は燃えにくいが……」

 森が燃えていくのを眺めていたナンナが振り向く。

「でも、いくら巨大だからって、樹一本じゃあ……。森の木々だって燃えてるのに!」

 ゴルモ王は目線を下げて、赤い炎を吹き出している森を見た。鼠色の煙が立ち上っている。ほんの数刻前まで、そこらは緑の森……ではなかった。

「森の木々は生木だったか? いいや、違う。突然の冬で、木々は立ち枯れていた。枯れていたんだ」

 頭の中で端から詩歌をさらっていたホズは、はっと顔を上げた。興奮した様子でヴァフズルーズニルの歌の一節を歌い上げる。

「私は方々を旅し、色々と試み、神々を様々に試してきた。ミッドガルドからスルトの炎が消えたとき、生き残ったものたちはどこから現れるのか」

 ヴァフズルーズニルの歌は問答歌だ。気づいたゴトリクが応えの部分を高らかに謡う。

「彼らはホッドミミルの根本から現れる。木の葉の露で彼らは命を繋いだのだ」

 王は改めて楡の木を見上げた。

 周りの森の木々はすっかり葉が落ちてしまっていたし、本来なら常緑の針葉樹でさえ、乾燥して茶色くなった葉が申し訳程度に残っているだけだった。突如現れた巨木の枝に生い茂っているものの他に、青い葉は見あたらない。

 それに、町の周囲は牧草地として開墾してある。草原の向こうに広がる森よりかは燃えるものも少ないだろう。ならば、炎の勢いは町に近づくにつれて多少なりとも弱まるはずだ。見つけたときには遙か彼方に小さく見えていただけの火の手は、瞬きする間に燃え広がり、今やすぐそばまで迫ってきている。

 どうせ逃げられないのなら、このまま町にいようが、大樹のそばにいようが大差ない。だとしたら、ほんの僅かでも確率の高い方に賭けるべきだ。

 どうやら、考えることは誰も大して変わらないらしい。ゴトリクとトルキルと目があった王は、力強く頷いて見せた。

「急げ、トルキル。兵に指示を出して民を避難させろ! ゴトリク、先に行って、楡の木の様子を確認して置いてくれ。二人とも、何かあればすぐに知らせろ。かかれ!」

 トルキルとゴトリクが駆け出す。ナンナはホズの手を引き、ゴトリクを追って楡の木を目指した。

 途中、ナンナは足を止めて目線を上げた。黒い鷹が大空を切り裂いて、こちらへと真っ直ぐに飛んでくる。ナンナが見つめる中、鷹は大樹の天辺のあたりに留まった。

 ナンナが立ち止まった理由が判らず、ホズが首を傾げる。

「どうかしましたか?」

「ううん、なんでもないの」

 ナンナは首を振って、枝の先から視線を外した。鷹なんて、珍しくも何ともない。たまたま、大樹の枝先に止まったからといって、なんだというのだ。ナンナは再び、ホズの手を引いて歩き始めた。

 

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