海底の氷が割れる音にヨルムンガンドはゆっくりと瞼を上げた。目を覚ましたのは随分と久々な感じがした。

身じろぎをしようと、しっぽの先から順番にゆっくりと力を入れていく。その間にも、瞼を開いているのが辛くなってきた。ヨルムンガンドは仕方なしに目を閉じて、体を動かすのに集中することにした。少しでも油断したら、また眠り込んでしまいそうだった。

ここのところ、どんどん意識が朦朧としてきている。海底の水温が低すぎるのだ。

最初にそのことに気が付いたのは、夏の始めだった。岩場に白いヒビが走っていた。しっぽの先で触れてみて、すぐに判った。

白いヒビの正体は、氷だった。

ニブルヘイムから漏れ出した冷気が、地中の狭い割れ目を伝って海水を凍らせていた。それが石英脈のように地層に白く浮かび上がっていたのだ。

ヨルムンガンドが見つけたときには鱗一枚分程度の幅しかなかったヒビは、夜毎に大きくなっていった。次の夜には鱗二枚分になり、その次の夜には、シギュンの二の腕くらいの幅になった。九夜たつ頃には、あたり一面を薄い氷が覆っていた。氷はその後も、厚みを増し続け、水温はどんどん下がっていった。ヨルムンガンドの意識にかかる霧は、水温が下がると共にだんだんと濃くなり、その深さを増していった。

体のあちこちに力を入れて起きあがろうとするけれども、なかなか上手くいかない。ヨルムンガンドは顔をしかめた。霞がかった意識の中で、何もかもがぼんやりとしている。

――このまま眠るようにして死んでしまうのかしら。

色々と工夫してみても、体は一向に自由になる気配がない。いつまでたっても砂袋みたいに重いままだ。もう、諦めてしまおうか。まどろみの中でヨルムンガンドは、記憶の底に響くいつかの声を聞いた。

――約束だ。お前とはいつか決着をつける。

ああ、そんなこともあったなぁ。ヨルムンガンドは口の端を吊り上げて苦笑いした。

赤毛の彼とは何度か対峙した。

一度目の時なんて、彼ときたら丸々と太った雄牛を餌に、釣り竿一本でヨルムンガンドを釣り上げようとしたのだ。

二度目の時には酷く驚いた。突然、腹のあたりがもぞもぞすると思ったら、いきなり海底から体が持ち上がったのだから。なんでも、どこかの国の幻術に長けた領主が、ヨルムンガンドを『猫だ』と偽って、彼に「力自慢だというのなら、この猫くらい持ち上げられるであろう?」と、力比べをやらせたらしい。あれには本当にびっくりした。

そうやってヨルムンガンドと顔を合わせる度に、彼は言うのだ。「約束だ。お前とはいつか決着をつける」と。

ヤクソク。

それは不思議な暖かさを持つ言葉だった。しかし、どうも約束は果たせそうにない。ヨルムンガンドは凍えきっていて、おまけに沈んでいた。

不意に頭上から暖かな海水が流れ込んできて、ヨルムンガンドは再び目を覚ました。力を振り絞って全身を動かし、のたうちながら暖かな海水を目指して、なんとか鎌首をもたげさせる。

顔に当たる柔らかな暖かさに、ヨルムンガンドは、ほっと息をついた。じんわりと熱が流れ込んでくる。彼は胴体を屈め、なんとかして海中へ跳躍した。

膜のような温度の境目を突き抜けた途端、全身を暖かさが包み込んだ。温泉に浸かったときのように体の末端まで血管が開いて、わっと一斉に血が流れ込んでいく。縮こまっていた筋肉がほぐれて、関節が音を立てて動き出す。久々に味わう感覚に、自然と笑みがこぼれた。

ぐっと全身に力を入れて、思いっきり体を伸ばす。ヨルムンガンドは、さっき入れた力を全て抜いて海中にぼんやりとたゆたった。そうして、きらきらと光を砕いて輝く海面を目指して、ゆっくりと海水を蹴った。

海面から頭が出たところで、思いっきり息を吸い込んだ。しかし、久々に胸を満たした空気は、予想を裏切って喉にからみつき、いがいがと肺を刺した。ヨルムンガンドは激しくせき込みながら、しかめっ面で周囲を見渡した。

陸はどこと言わず、あたり一面が炎に包まれていた。あちらこちらから暗い灰色の煙が立ち上り、周囲は白く煙っている。なるほど、空気が肺を刺すわけだ。

煙を追って空を見上げて、ヨルムンガンドは目を見開いた。太陽の馬車を走らせているソールが随分と焦った顔で手綱を握り締めている。

それもそのはず。太陽を飲み込もうと、いつも彼女の引く馬車を追いかけている狼、スコルがソールのすぐ後ろ、普段よりもずっと近いところに迫っていた。しかもその距離は今もぐんぐんと縮まっていっている。

ヨルムンガンドは、瞬きも忘れてソールとスコルの様子を見つめ、息を詰めた。スコルはどんどん速度を上げていく。ソールがスコルとの距離を確認しようと振り返った瞬間、ヨルムンガンドは、あ、と思わず声を漏らした。

勢いをつけて跳躍したスコルが、とうとうソールに追いついて、馬車ごと太陽を飲み込んでしまった。途端に極夜が訪れたように、あたりは薄闇に包まれた。

その光景は、まるで偉大なる神々の運命(ラグナロク)を象徴しているかのようだった。この世界は、今まさに終わりを迎えようとしているのだ。

もう次はない、と思った。

彼と決着をつけるなら、今を逃したら、二度とチャンスは巡ってこない。

ヨルムンガンドは空を見上げたまま、闇と黒煙を透かし見るように目を細めた。アスガルドは、その向こうにある。ヨルムンガンドは大きく息を吸い込んで、空に向かって一気に飛び上がった。

彼を海中に引き留めようとするかのように、周囲の水が体中に重くまとわりつく。けれども、それさえ振り切ってしまえば、ほとんど抵抗もなく、ヨルムンガンドはすいすいと自在に空を泳いでいった。

そのうちに、視界の先に遠く駆けている巨狼の灰色の背中を見つけて、ヨルムンガンドは目を見張った。こんなに大きな背中は初めて見るはずなのに、覚えている。喉の奥に言いしれぬ懐かしさがこみ上げてきて、ヨルムンガンドは深く息を吸い込んだ。

「ヴァナルガンド!」

声の限りに呼ばわれば、相手は振り返って驚いた顔をした。やっぱり、そうだった。ヨルムンガンドは涙が喉に詰まる感じがして、泳ぐのが少し辛くなるほどだった。

それでもなんとか速度を上げて、足を止めてくれたフェンリルの元に急ぐ。ヨルムンガンドが隣に並ぶと、フェンリルは鼻の頭にしわを寄せて唸った。

「お前まで来ることなかったのに」

「ヴァナルガンドこそ」

間髪入れずに言って、ヨルムンガンドは口を尖らせた。

まさか言い返されるとは思っていなかったのか、フェンリルは意図せずに変なものを飲み下してしまったかのような、なんだか難しい顔をした。

「私は、来る必要があった。確かに絶対ではないかもしれないが。少なくとも、ナンナとホズのそばに居るわけにはいかなかった。オーディンは私が拘束から抜け出したのを知っているし、それに、予言が本当なら、あのジジイが最後に対峙するのは私だ。だったら、私のそばにいない方が安全だろ」

ヨルムンガンドは頷いて、少し考えてから答えた。

「僕も、必要はなかった。でも、約束した。決着を付けるなら、きっと、最後のチャンス」

「そうか」

フェンリルは、柔らかく表情をゆるめた。彼はそれ以上、ヨルムンガンドを押しとどめようとはしなかった。

「いくか」

フェンリルの言葉に、ヨルムンガンドは無言でこっくりと頷いた。二人はアスガルドを目指して、並んで空を蹴った。

辿りついたそこは喧噪の嵐だった。兵士達の喚声、走り回る足音、恐怖に引きつれた悲鳴、鎧や武器がぶつかる金属音、かすれた断末魔、飛沫を上げて血溜まりを踏む水音。

百ラスタ四方はあるだろうか。見渡す限りの平原では、薄暗闇の中で霜の巨人族とエインヘルヤルとが入り乱れて戦っていた。

ヨルムンガンドは目を細めて目的の人物を捜した。人数が多い上に暗いのが手伝って、誰がどこにいるやら見当もつかない。

一方、フェンリルはもっと手っ取り早い方法を採った。あたり一面に広がる(やかま)しさに負けない大音声で探す相手の名を呼ばわったのだ。

「オーディン!」

声は騒がしさの上を響きわたった。甲冑で身を固めてスレイプニルに跨がったオーディンは、振り向きざま挨拶代わりに右手に握っていた黄金の槍を投げてよこした。

渾身の力で投擲されたグングニルは真っ直ぐにフェンリルに向かってきた。かつてロキがアスガルドにもたらした黄金の槍は、一度投げたら決して狙いを外すことがない魔槍である。

槍が突き刺さる寸前、フェンリルは素早く左に身をかわし、白刃取りよろしく槍を噛み喰わえた。正面に向き直ったフェンリルは、槍を喰わえたまま顎にぐっと力を入れ、重たい黄金の持ち手をいとも易々とひん曲げて見せた。息を呑んだオーディンが目を剥くのを横目に、もはや用を足さなくなった槍を吐き捨てる。

巨狼はオーディンを睨みつけたまま耳を伏せ、身を沈めて低く唸る。対するオーディンは右の唇を吊り上げて笑い、スレイプニルに跨がったまま腰の剣を抜きはなった。

フェンリルの隣で、なおも目を凝らしていたヨルムンガンドは人垣に埋もれている目的の人物を見つけて、すっと鎌首を高く上げた。

ヨルムンガンドから半丁ほど向こうで、巨人が次々に血しぶきを上げ、吹き飛んでいく。丸くぽっかりと開いた空間の中心に彼がいた。筋骨たくましい赤毛の男神。肩で息をつき、分厚い革手袋をはめた手には赤い血をまとった黄金の鎚を握りしめている。

「トール!」

ヨルムンガンドの呼びかけに男神は顔を上げた。鎌首をもたげる大蛇を認めて、彼はニッカリと笑顔を見せた。

「決着をつけに来たか」

ヨルムンガンドが頷くと、トールは何も言わずに笑みを深めた。いつだって大声を上げて笑う彼にしてみれば珍しい笑い方であった。

トールが左足を引き、ミョルニルを構える。男神の手から黄金の鎚が放たれる前に、ヨルムンガンドは地面に低く身を伏せて、するするとトールに向かって滑り出した。

勝負の決着がどう着くのかは、もう判っている。約束は、果たすことにこそ、意味があるのだ。

(にれ)の梢に腰掛け目を閉じたまま、ロキは深く息を吸い込んだ。鼻を突く焦げた臭いに首の後ろあたりから、ざわざわと血の気が引いていく。

瞼を上げれば、周囲にはくすんだ淡黄色の煙が漂っている。生い茂る葉を透かして足下に目を向ければ、燃え立つ炎は灯明の明かりのように小さく見えた。それが海のようにどこまでも広がっている。時に波打ち、時にうねりながら、乾いた熱気と黒い煙を吐き出し続けている。

ロキは楡の幹に背中を預け、もう一度目を閉じた。遠く吹き荒れる風の悲鳴。それに応える楡のざわめき。生憎とそれ以上の音は聞き取れない。少しだけヘイムダルを羨ましく思う。

――こんなものか。

ロキの脳裏に浮かび上がってきたのは、そんな言葉だった。

世界中が火に覆われても、予期したような強い感情は沸いてこなかった。怒りも、絶望も、愉悦も、何も。もしも、ヘイムダルのように、ありとあらゆるものが見え、聞こえたならば、この身に抱く感情も真に迫った激しいものになっていただろうか。

そう考えて直ぐ、ロキは口元に皮肉気な笑みを浮かべた。自分が一番大切にしてきたものは、すでに失われた。残りものの世界に、意味はあるのだろうか。

ロキは静かに息を吐き出して、ゆっくりと目を開いた。

――いいや。世界なんて曖昧で不確かなもの、守ったところで何になる?

この目で見える範囲。この手の届く範囲。この足で行ける範囲。それが、俺にとっての全てだ。寄せられる信頼に応えるのでさえ精一杯なんだ。より多くを望めば、望んだだけ、取りこぼしが増えていくだけだ。今だって、多すぎるくらいだというのに。

ロキは細く息を吐きながら、肩口でマントを止めている銀のブローチに右手を添えた。刻まれたルーン文字が魔力に反応して青く浮かび上がる。ニブルヘイムで鋳直したその銀は、彼らが、正確には彼らの父祖たちが、自分に対して差し出した感謝と信頼の証。おそらく、その思いは彼らを、いや、彼らの子孫達を、守ってくれるだろう。

空いている左手で、ロキは腰に吊った短剣を引き抜いた。それを逆手で持ったまま、寄りかかっている楡の幹に突き刺す。短剣の赤みがかった刃が樹皮に食い込むと、小さな炎がボッと音を立てて一瞬だけ燃え上がった。

ロキは注意深く、ゆっくりと息を吸った。意識して、呼吸を深くしていく。

――やれるだけのことはやってきた。後はもう、ノルニル達の好きにさせてやるさ。

ロキは笑みを浮かべ、目を閉じた。

「我がロキの名において、ここにルーンを刻む。いまし、土より(いで)て根は底つ国の(いわお)に達し、葉は(あま)つ国の風に遊ぶ。いましを通じ()は燃え上りて(あまね)く広がり、()は凍り落ちて、土に留まる――」

銀のブローチに浮かび上がったルーン文字が炎のように揺らめきながら空へと昇っていく。

一方、ロキが左手を添えた短剣からは赤銅色の光が、木の幹に沿って氷晶のような模様を描きながら地面目指して絡みついていく。

冷気は上へ、熱気は下へ。ロキは呪文を唱え続けた。

大切なもののなくなった世界で、もう一つだけ、守りたいものがあるとすれば、それは――。

信頼だ。

神の威光は人を助け、人の思いが神の威光を増す。

数えるのも面倒になるくらい昔から、ずっと彼らを見守ってきた。たとえるなら、季節ごとに顔を合わす親戚の子供たちのようなものだ。

――願わくば、俺がいなくても、彼らが上手くやっていけることを。幸せであることを。

どうせ、もう失うものは残ってない。声が枯れようとも、魔力が底をつきようとも、止めることなく呪文を唱え続けるつもりだった。

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