ゴードン本部長の執務室を飛び出したバットマンは、バットモービルからアルフレッドに連絡を取ろうとしていた。
呼び出し音を聞きながら、バットマンは内心舌打ちしたい気分だった。アルフレッドに確認を取るという基本的、かつ、極簡単なことに、今の今まで思い当たらなかった。ブルース・ウェインがジョーカーの専門治療に乗り出した、という第一報の衝撃に実は相当動揺していたらしい。
通信機の呼び出し音が途切れ、代わりにアルフレッドの落ち着いた声が聞こえてきた。
「旦那様、どうかなさいましたか?」
それはいつも通りの声色で、動揺や焦りは感じられず、ウェイン邸や彼の家族に普段と違うことが起こっているようには聞こえなかった。
「今日のジョーカーのニュースを見た。一体どうなっている?」
「どうなっている、とは? ニュースの通りでございますよ」
アルフレッドの言葉にバットマンは後頭部を殴られたような衝撃を受けた。自分にはそんな記憶はないのだから、ブルース・ウェインがジョーカーを移送したなどと言うことはありえない。それなのにアルフレッドまでもが、それをごく当たり前のことのように受け止めている。
「そんなはずはない……。それなら、ジョーカーは一体どこに居るというのだ」
奥歯を噛みしめたまま、唸るように言ったバットマンに通信機の向こうに居るアルフレッドから困惑した気配が伝わってくる。アルフレッドの声には心配と動揺が滲んでいた。
「どこにいるとは? 旦那様御自身がジョーカーを移送なさっていましたよ。詳細な場所は私にも明かしてくれませんでした」
そいつは偽物だ!
叫び出したいのを抑えて、バットマンは低く唸った。クレイ・フェイスのように姿を変えられるものか、ジャービス・テッチのように催眠術で相手の認識を誤魔化せるものか、あるいはその両方か。
いずれにしても、相手はジョーカーを利用して、あるいはジョーカーと協力して、何かしようとしている。そいつの目的が何であれ、まずはジョーカーを見つけることが重要だ。そうすれば、犯人の手がかりも見つかるだろうし、運がよければジョーカーと一緒に居るところを捕まえられるだろう。
「アルフレッド、詳細な場所は明かしてくれなかった、と言ったな? おおよその場所はわかるのか?」
「ウェイン邸の近くだと伺っていますが」
アルフレッドの返答にバットマンはすぐさまギアを入れ、アクセルを踏み込んで移動を開始した。
「わかった。それから、ジョーカーを移送したブルース・ウェインは私ではない」
「いいえ、旦那様御自身ですよ」
間髪入れずにきっぱりと言い切ったアルフレッドの返答が、やけに確信に満ちて聞こえて、バットマンは苛立ちと焦燥感に奥歯を強く噛みしめた。
バットマンは一度バットケイブに戻ってくると、バットモービルを降りて、すぐにまた外へ出た。バットモービルにも様々なカメラやセンサーが搭載されているが、慣れた土地では自身の目と足で確認していった方がより些細な変化に気づきやすい。
ウェイン邸の周辺は自然が造った洞窟や古い下水道が複雑に入り組んでいる。何かを隠すのにはうってつけの土地ではあるが、犯人はなぜここを選んだのだろう。
第一、バットケイブに近すぎる。ブルース・ウェインがバットマンの後援者であることは公にされているが、ウェイン邸の地下にバットケイブが存在していることを知っている者はいないはずだ。バットマンの正体を知っているぞ、という脅しだろうか。
そもそも、犯人がブルース・ウェインになりすます意図はなんだろうか。ブルース・ウェインは単なる人の良い慈善家だ。バットマンとの関係を除けば、特筆すべきこともない。慈善家の顔でアーカム・アサイラムから患者を引き取っても不自然ではないが、そうすることで利益を得る者がいるとも思えない。
思索しながらの探索で、目的の場所は案外あっさりと見つかった。まるで隠す意図がない、と言うよりも、見せつけるような場所だった。
ウェイン邸の正面玄関から外門に向かって右側に、かつてエリック・ボーダーとセス・ウィッカムが落ちた縦穴洞窟がある。洞窟自体を埋め立てることは難しいために蓋をして人が落ちないように補修をしてあったが、その洞窟の蓋が外されていた。しかも、洞窟内は整備され、ご丁寧に階段まで設けられている。
バットケイブとは繋がりのない洞窟だが、屋敷の前庭に位置する以上、ブルース本人やアルフレッドに気づかれずに整備することは不可能だ。バットマンは眉間にしわを寄せ、洞窟に足を踏み入れた。階段を降りながらも、頭の中では答えの見つからない疑問が渦巻いていた。一体誰が、いつ、どうやって、ここを整備したのか。
階段を下りきると、薄いバリアの向こうにジョーカーが居るのが見えた。ジョーカーの居る部屋は、ベッドがあり、小さなデスクがあり、クローゼットや鏡台まである。前面が壁の代わりにガラスのようなバリアで区切られていること、部屋の一角にシャワートイレが設置され目隠し用の極薄いカーテンが用意されていること、そして窓がないことを除けば、ごく普通の居室のように誂えられていた。
「ジョーカー、そこで何をしている?」
バリアの向こうでデスクに向かい、なにやら薄い書類のような紙を覗き込んでいたジョーカーが顔を上げた。
「バッツィー! 待ってたぜ!」
ジョーカーが目を輝かせ、元々吊り上がっている唇を、機嫌よさげにますます吊り上げた。
「ジョーカー、そこで何をしている?」
一言一句違わずに繰り返したバットマンに、ジョーカーは苦笑して肩をすくめた。
「相変わらずだな、バッツ。そうだな、あえて言うならあんたを待ってた」
「待っていた? 捕まっているの間違いでは?」
「だったらなんだ? 俺をここから救い出してくれるのかい、ダーリン?」
しなを作ってみせるジョーカーにバットマンは顔をしかめた。
「お前をアーカムから連れ出し、ここに閉じ込めたのは誰だ」
「おや、俺はてっきりニュースになってるもんだと思ってたぜ。俺をここに移送させたのはブルース・ウェインだよ。あいつがあんたの後援者だってのは本当らしい。この檻だって、あんたがメタルについて調べてた時に俺を閉じ込めてたのとそっくりだ。もっとも、」
ジョーカーは先程まで覗き込んでいた書類をくしゃくしゃと丸めてバリアに向かって投げた。紙のボールがバリアにぶつかった瞬間、稲妻のように電気が走った。哀れな紙は煙を上げて炭化し、地面に落ちると砕けて黒い粉に変じた。
「少しばかり改良してあるみたいだがな」
バットマンはますます顔をしかめた。ジョーカーの言うとおり、目の前の檻はメタルについて調査するためにジョーカーを拘禁していた時に使用していたものと同じ仕組みのようだ。ウェイン邸の前庭に、こんなものを設置して誰にも怪しまれない人物を、バットマンは二人しか知らなかった。一人はウェイン家の執事であるアルフレッドであり、もう一人は当主であるブルース・ウェインだ。
アルフレッドも、ジョーカーも、これを行ったのはブルース・ウェインだと言う。しかし、そんな記憶は一切ない。第一、なぜ私が、ジョーカーをわざわざアーカム・アサイラムからウェイン邸へと移送しなければならないのか。
「難しい顔して悩み事かい、バッツィ」
「お前には関係ない」
吐き捨てたバットマンにジョーカーは肩をすくめた。
「ああ、そうだ、忘れるところだった。バッツ、今日の昼間、自分が何をしていたのか覚えているか?」
「それを私がお前に言うと思うのか?」
「俺もブルーシーにそう言ってやったぜ。でもよ、あんたが俺に答える必要はないんだと」
バットマンはマスクの下で眉をひそめ、口を真一文字に引き結んだ。
「どういうことだ? なぜ、ここでブルースの名前が出てくる?」
「頼まれたんだよ、あんたに会ったら訊いてくれって。あんたが昼間何をしていたのかを考えること、そのものに意味があるんだそうだ。あんたが考えればいいんだから、俺が答えを聞く必要はないらしい。俺には何のことだかさっぱりだね。あれもなかなか、イカレてるな」
ジョーカーは顔をしかめ、頭の横で人差し指を立てた右手をくるくると回してみせた。
バットマンは眉間にしわを寄せたまま黙りこくった。様々な疑問が脳裏に渦巻いていた。
ここにジョーカーを拘禁しているブルース・ウェインを名乗る人物は一体何を考えているのか。何が狙いで、ジョーカーに質問をさせたのか。そして、何よりも不可解でバットマンを不安にさせたのは、ブルース・ウェインとして過ごしたはずの昼間に自分が何をしていたのかが、まったく思い出せないことだった。
「なぁ、バットマン。ブルース・ウェインは何を企んでいるんだろうな?」
「彼は……」
それ以上は言葉が続かなかった。
ブルース・ウェインは自分のはずだ。つまりは、ジョーカーをここに拘禁している人物はブルース・ウェインを騙る偽物にすぎない。それなのに、なぜ。
なぜ、誰も、アルフレッドさえも、彼を偽物だと見抜けない。なぜ、昼間のことが思い出せない。なぜ、こんなにも胸が騒ぐ。
不意に、小型通信機からアルフレッドの声が響いた。
「旦那様、バットシグナルが点灯されました」
「わかった。すぐに向かう」
ジョーカーのことは重要だが、この場所に閉じ込められている以上、すぐに悪事を働くことは出来ない。今は市中に居るヴィランへの対策を優先させるべきだ。
踵を返したバットマンの背中をジョーカーの含み笑いが追いかけていった。
ジョーカーをウェイン邸の敷地内に移送した翌日、ブルースは朝の早い時間に食事と共にジョーカーの元を訪れた。昼間に社会人としての活動を余儀なくされるブルースにとって平日に自由になる時間は少ない。必然的に使える時間はバットマンが活動を終えた後から仕事が始まるまでの早朝か、仕事を終えてバットマンが活動を始めるまでの夕方から宵の口までになる。昼間に次の策を考えられるように、早朝の内に昨晩の成果を確認しておきたかった。
前庭の洞窟に降りたブルースは朝食の載った盆を壁に設けられた差し込み口に置いた。高さ20センチ幅40センチ程度の差し込み口は、食事や本、書類の受け渡しを想定して用意した物だ。もちろん、人体は細かく切断でもしない限り通れない。
ブルースは壁をノックして、ベッドに横になっているジョーカーに呼びかけた。
「おはよう、ジョーカー。昨夜はどうだった? バットマンとは話せたかい?」
昨晩に行われたバットマンとジョーカーのやり取りをブルースはもちろん思い出せたが、ジョーカーがどう思ったのかを彼の口から知りたかった。
「ブルーシーか? こんな時間に何の用だ?」
ジョーカーはむくりと起き上がり、もそもそと頭を掻いた。目は開ききらずに、瞼が重そうに瞳にのしかかっている。
「朝食を持ってきたよ。それに、昨日、バットマンと何を話したのか聞かせて欲しくて。今日は昼間は時間が取れそうになくて、朝の内に来てみたんだ」
眉尻を下げてのブルースの言葉に、ジョーカーは思いっきり口を開けてあくびをして応えた。
「俺をここに閉じ込めたのは誰だか、しきりに気にしてたな。バッツは、あんたはブルース・ウェインじゃないと思ってるようだった。お前、本当にブルース・ウェインなのか?」
探るような目で覗き込んでくるジョーカーに、ブルースはにっこりとよそ行き用の笑顔を浮かべてみせた。
「もちろん、僕はブルース・ウェインだよ。それで、バットマンに昼間は何をしていたのか訊いてくれたのかな?」
「おいおい、お坊ちゃん。俺がその質問に答えると思ってるのか?」
にやりと笑うジョーカーにブルースは笑顔を引っ込めた。
あの質問の「バットマンはジョーカーに答えなくてもよい」という但し書きは、重要なのは「質問に対する答え」ではなく、「質問への反応」ひいては「質問することそのもの」だと言うことを暗に示唆している。ジョーカーはその意図を正しく汲み取っていた。
「バットマンの不利になることは言わない、か」
「宮廷道化師は忠誠心が高いのさ」
ジョーカーはそううそぶいたが、ブルースにバットマンの情報を渡さないのはもちろんのこと、バットマンにもブルースの情報はほとんど提供していない。それでいて、ブルースが用意した鎌はしっかりとバットマンに掛けていて、反応を探っていた。情報を独占し、双方を手玉に取るつもりなのだろう。その強かさに、ブルースは肩をすくめた。
「そうか、それならこれ以上バットマンに探りを入れるのは止めておくよ。代わりに、君のことを教えて欲しい」
「俺の何を? 昔のことなら覚えてねぇけど」
「そうだな。例えば、バットマンのどこが好きなのかとか、罪を犯してまでバットマンの気を引きたがるのは何故かとか」
そこまで言ってブルースは腕時計に目を走らせ、肩をすくめた。
「でも残念だが、そろそろ仕事に行く支度を始めなきゃならない。質問するのは夕方まで取っておくから、なんて答えるか、よく考えておいてくれ」
言い置いて、ブルースはジョーカーの返事を聞く前に洞窟を後にした。