温かい布団に包まれて目を覚ましたブルースは、昨夜のバットマンとジョーカーのやり取りを思い出して頭を抱えた。

まさか、ジョーカーの矛先がこちらを向くなんて予想していなかった。その上、ジョーカーはブルースが出したバットマンに感謝を伝えるという宿題を律儀にこなしていた。なんだそれ、誠実か。可愛すぎるだろ。もっとも、照れ隠しのつもりなのか、いつもの煽り口調のせいでバットマンにはその意図が微塵も伝わっていなかったけれども。

しかし、まさかこう来るとは思わなかった。

今日はジョーカーが破壊した家具の残骸を片付けなくてはならない。一般の搬送業者を使ってジョーカーに脱走されては堪らない。その為にブルースはアルフレッドと相談して休暇まで取ったのだ。食事だって運ばなければならないし、どうしたってジョーカーと顔を合わせないわけにはいかない。

自身がジョーカーに取り込まれてしまわないか、ブルースは途端に不安になった。

ブルースは記録用のカメラを絶対に切らないこと、都度アルフレッドに相談することを心に誓った。バットマンでも、アルフレッドでも、精神科医でもいい、いざとなったら止めてくれる人がいることが重要だ。特にアルフレッドには、ジョーカーが好きだと言うことまで伝えてある。不安に思うことを相談できることが肝要だ。いや、この場合はのろけをぶちまけても、退かずに冷や水をぶっかけて冷静さを取り戻させてくれる相手が必要だ。

ブルースはベッドから起き出し、アルフレッドがいるであろうダイニングへと向かった。

ジョーカーのいる洞窟の階段を降りながらブルースはゆっくりと息を吐いた。妙に緊張している。

今の気持ちをアルフレッドには相談してきた。もしも、ブルースがジョーカーを脱走させたり、一緒になって犯罪を起こすようなら、バットファミリー総掛かりで止めてくれるとアルフレッドは確約してくれた。もちろん、油断すべきではないが、安心材料ではある。

正直、どんな顔をしてジョーカーに会えばいいのか、ブルースはいまいち決めかねていた。不安と後ろめたい期待が入り交じっている。

ジョーカーはどう出てくるつもりなのだろう。ブルースとバットマンが同一人物だと気づいているかは判らない。けれども、記録用カメラには気づいているはずだ。しかし、ブルースがバットマンとジョーカーのやり取りを一々確認していると考えているのだろうか。それなら、昨日のバットマンへの宣戦布告をブルースが知っていることを前提にしてくるか? それとも、知らない振りをしていた方がいいのか?

結局、対応の方針を決めきれないまま、ブルースは階段の下までたどり着いた。一緒に持ってきたアルフレッド選定のお掃除セットを壁に立てかけて、バリアの向こうに視線を向ける。ジョーカーはまだ眠っているようだった。

少しだけ緊張が緩んだブルースは、今のうちにと、バリアを洞窟の内部から入り口へと張り替えた。家具の残骸をジョーカーの部屋から出したら、バリアを戻して外へ運び出す予定だ。新しい家具はまだ用意していない。ジョーカーにとってそれらが必要なのか判らなかったし、ちょっとは不便な思いをして後悔して欲しい気持ちもあった。

ベッドのそばに立ってジョーカーの寝顔を覗き込む。寝ている時でもジョーカーの頬は引きつったような笑いを浮かべていた。その笑みの中に紛れてしまっているが、目を凝らすと左右の口角をバットラングが切り裂いた痕も見える。ブルースは魅入られたように、その傷痕に手を伸ばした。触れるか触れないかの距離を指先でそっと撫でる。途端に手首をぐいと掴まれた。

ジョーカーが明るい緑の目を爛々と光らせてブルースを睨み付けていた。どきりと、心臓が跳ねる。

「……なんのつもりだ?」

抑揚のないジョーカーの声に、ブルースの心臓が走り始める。

「おはよう。ええと、家具を片付けに来たんだ。それで……」

「なんのつもりだ?」

ジョーカーが語気を強めて繰り返した。ブルースは、ひゅっと短く息を吸った。こんな警戒心の強い子が、昨夜はブルースの頼みを律儀に実行してくれたのだ。湧き上がってくる抱きしめてしまいたい衝動をブルースはぐっと理性で押さえ込んだ。代わりにブルースの右手首を痛いくらいの力で掴んでいるジョーカーの手を左手でそっと包み込んだ。

「すまない。ただ、なんというか、その……、君が宿題をこなしてくれたのが、凄く嬉しくて……。この唇が、僕との約束を守ってくれたんだなって」

ジョーカーはブルースを睨み付けたまま沈黙した。その様子はあまりの衝撃に固まってしまったようにも見えた。

しばらく無言でお互いに視線を合わせたままだったが、今回、先に視線を外したのはジョーカーだった。チラリとブルースの背後、天井の角に設置されたカメラに目を向ける。

「……お前、見てたのか、昨日」

「一昨日はバットマンが来なくて、君は随分荒れてただろう。だから、つい、心配で」

実際にはカメラを通して見ていたわけではないが、記憶がある以上、そう言ってしまうのが無難だとブルースは判断した。第一、ジョーカーに迫られた時に『ジョーカーがブルースを落とすつもりだと知らない場合の自然な反応』を演じられるとはブルースにはとても思えなかった。

「ああ、そう」

ジョーカーはブルースの手首を放し、そのまま軽く振ってブルースの左手も放させた。ベッドの上に上半身を起こして頬杖をつくと、上目遣いにブルースを見つめてにやにやと笑った。

「残念だったなぁ。あんたを落とせるかって、闇の騎士様とゲームをするつもりだったのに」

あ、とブルースは得心した。ジョーカーは最初から、ブルースを落とすつもりなどなかったのだ。ブルースがバットマンとのやり取りを知っていれば、今みたいに『標的にバレたからこのゲームはお開き』とすればいい。知らなければ、いつも通りにブルースに接していれば先入観を刷り込まれたバットマンが穿った見方をして勝手にやきもきしてくれる。強いて言えばバットマンにダメージを与えられるだろうから、ジョーカーからすれば後者に転んだ方が有利だろう。しかし、いずれにしろ、どちらに転んでもジョーカーにはダメージなしだ。

だったら、これはちょっとした意趣返しだ。 

「でも、こういう可能性は考えなかったのかい? そもそも、ブルース・ウェインはジョーカーにイカレてる、って」

ブルースは片膝をつき、ジョーカーの右手を取った。上目遣いにジョーカーの顔を覗き込みながら、彼の手の甲に唇を寄せる。

「はぁ、あ?」

ジョーカーはどう反応したらいいのか判らないかのように、目を見開いて動きを止めた。きょとんとした表情でブルースのことを物珍しそうに眺めている。

「君は考えてはみなかったのかい? なぜ、ブルース・ウェインはジョーカーをアーカム・アサイラムからウェイン邸へ移送させたのか。なぜ、君のことを知りたがるのか。なぜ、君に毎日会いに来るのか」

「……手に入れた情報をバットマンに教えて、あいつの手助けをするためだろ」

「バットマンは僕の手助けなんてなくても、いつも君を捕まえてアーカムに連れ戻してるだろ」

ブルースはジョーカーの手を両手で包み込んで、真剣な気持ちで彼の目を見て語りかける。

「僕はね、君に倖せになって欲しい。君が今までしてきた人生の選択は、どれも君にとっては必要で、君にとっては正しいことだったんだ。誰がなんと言おうとね。人は常に正しい行いをする生き物だ。でもそれは、『自分にとっては正しい』という意味だ。だから、その行いが他人にとっても正しいとは限らない」

ジョーカーの返答を待たずにブルースは話し続ける。

「僕は君を倖せにしたい。だから、君のことを知りたいんだ。君が何を思い、どんな選択をしてきたのか。何故それを正しいと思うようになったのか」

ブルースは目蓋を閉じて大きく息を吸った。一瞬息を止め、腹をくくって目を開く。虚を突かれて丸くなっているジョーカーの緑の目を見つめる。

「好きだよ、ジョーカー。君には倖せになって欲しいんだ」

それはある意味で一番残酷な願いだ。彼がきちんと更生して、真の意味で倖せになると言うことは、常に後ろめたさと後悔と懺悔の付いて回る人生を送るようになることと同義だからだ。でも、だからこそ、ブルースはジョーカーの倖せを願わずにはいられない。彼の手による犠牲者をこれ以上増やさないためにも。

「お、前、イカレてやがるな……」

「だから、最初に言っただろ。ブルース・ウェインはジョーカーにイカレてるって。本当のことを言うと、君がバットマンに愛を囁くのも止めて欲しいと思っているくらいだよ」

ブルースはジョーカーに微笑みかけると、立ち上がって部屋の中を見渡した。重たくなった雰囲気を仕切り直すために意識して明るい声を出す。

「さあ、今日の仕事は君が壊した家具の残骸を片付けることだよ」

結局、ジョーカーが壊した家具の残骸をブルースは一人で片付けた。ジョーカーが作業を手伝ってくれないことは最初から織り込み済みだった。

作業を行っている間、ブルースは終始背中にジョーカーの視線を感じていた。ただ、殺気は感じなかったので、首を絞めて脱走する機会を狙っているわけではないらしい。何か言いたいことがあるのか、それとも単にブルースの挙動を観察しているだけなのかは判らなかった。

それなりに形の残っていた残骸を運び終え、箒で細かい木くずをまとめながら、ブルースはジョーカーに背中を向けたまま口を開いた。

「さっきは僕の話を途中で遮ったりせず、最後まで聞いてくれてありがとう。君はいつも『バットマンは話を聞いてくれない』って言うけど、話を聞いてもらえなくて虚しく感じたり、悲しくなったりはしないのかい?」

ブルースは言葉を止めて一呼吸待ったが、ジョーカーからの返事はなかった。返事がないのも想定内だったので、そのまま言葉を続ける。

「もしも、僕が一生懸命に話しているのに相手が信じてくれなかったり、真面目に取り合ってくれなかったりしたら、凄く虚しくなるだろうし、悲しいと思う。だから、さっき君が僕の告白をきちんと聴いてくれたのが嬉しかったよ」

ブルースは掃除の手を止めて振り返り、ジョーカーに微笑みかけた。

「ありがとう」

ジョーカーは黙ったまま不機嫌そうに眉根を寄せて、ブルースのことを奇妙な目新しい害獣であるかのように警戒しながら観察しているようだった。どうやらブルースとの心理的な距離を測りかねているらしい。

木くずを全て塵取りにまとめ、掃除を終えたブルースは、ぽんとジョーカーの頭の上に手を置き、そのまま薬品の影響で軋んだ髪を撫でる。ジョーカーは蠅を追うようにブルースの手を払い、眉を逆立てて睨み上げてきた。ブルースは苦笑して、肩を竦める。

「そう怒るなよ。今日はもう出て行くから。それじゃ、また」

相変わらずジョーカーはらしくもなく黙り込んでいる。ブルースは気にせずにセキュリティを切り替え、かつて家具だった物たちを両手に階段を上がり始めた。バットマンには絶対に見せないジョーカーの不機嫌さが、ブルースは妙に嬉しかった。

バットマンはケイブに降りるとバットコンピュータに視線を走らせた。今日はブルースからのメモは置かれていない。バットマンは息を吐いてデスクチェアに腰掛けた。

喫緊の課題は、ジョーカーに標的として選ばれたブルース・ウェインをなんとかすることだ。どう対処すべきなのか考えるには、彼ら二人がどういったやり取りをしていたのかを確認する必要がある。

『なぁ、バッツ。あいつは随分と俺に入れ込んでると思わねぇか?』

ジョーカーの言うようにブルースがジョーカーに入れ込んでいると感じることはバットマンにもあった。そもそも、ジョーカーをわざわざアーカムから移送させたことがそうだし、精神科医と相談しながらジョーカーにカウンセリングを試みていることもそうだ。ただ、その底意に何があるのかは見えてこない。

バットマンはコンピュータを操作し、画面上に拘禁されているジョーカーの様子を映し出した。ジョーカーは何をするでもなく、ベッドに腰掛けてぼんやりと空っぽの椅子を見つめている。今のところは、何か事を起こす気配はなさそうだった。

ジョーカーを映している監視カメラの様子をモニターの下部に小さく表示させたまま、バットマンはジョーカーの治療記録フォルダから一昨日の録画映像を選択し、再生を開始した。ブルースが記録を確認するのは一度ジョーカーに会ってからにして欲しいと書き残していた日のデータだ。

面接は極当たり障りのないところから始まった。ブルースとのやり取りの中で、いつも聞き流しているジョーカーの戯れ言が続く。曰く、退屈な日常が極彩色の素晴らしい世界に変わっただとか、ジョーカーがゲームを用意するのはバットマンへの恩返しだとか。吐き気を催すような独善的な意見だ。ブルースはそれらをバットマンに伝えるように促していたが、伝えられたからなんだというのか。ブルースがどんな反応をバットマンに期待しているのか、さっぱり解らなかった。

続けて再生した昨日の録画データは少しばかり意外だった。ジョーカーが不機嫌そうにしていることもそうだったし、ブルースが一切攻撃をせずにジョーカーを押さえ込んだことにも驚いた。ブルースの身のこなしはまさにバットマンなのに、彼は決してジョーカーに対して手も足も出さなかった。これがもしバットマンだったら絶対にパンチやキックの五、六発はお見舞いしている。

ただ、ここでも主な話題になっているのは「ジョーカーのくだらない御託をいかにバットマンに伝えるか」で状況に特に進展は見られない。それどころか、正しく現状を理解しているのはブルースよりも、むしろジョーカーの方だった。バットマンはジョーカーの気持ちを顧慮するつもりなど全くない。加害者の理屈が、被害者の心情よりも優先されるなんてことは絶対にあってはならないからだ。

苛立ちを感じながら、バットマンは今日の録画データを再生した。見なければ良かったと思った。ブルースが、つまりは自分が、自分の声で、自分の身体で、ジョーカーに倖せ になって欲しいとほざき、好きだとぬかす。不愉快さに胃が捩れ、ねじ切れそうだった。

もしかしたらブルースは本気ではなく、あれは昨夜のジョーカーがしたブルースを堕とすという宣言へのカウンターなのかもしれない。どうかそうでありますように、とバットマンは心の底から願った。

ブルースのジョーカーへの態度がブラフだとして(絶対にそうだ。あんなのはったりだと思わないとやってられない)、それを加味してブルースをジョーカーの魔の手から救えだと? いや、無理だろ、普通に。

ジョーカーはブルースには計画がバレたからバットマンとのゲームは止めにすると言っていた。だが、ジョーカーからしてみれば、自身に好意を寄せているブルースを利用しない手はない。脱走や犯罪の幇助など、ブルースを使って何らかの要求を通そうとするに違いない。

バットマンは額に手を当てて、深い溜息を吐いた。見え透いた罠に自ら掛かりに行っているのが自分だと思うと気が重く、椅子ごと地核まで沈み込んでしまいそうだった。

ブルースが自分自身である以上、彼を閉じ込めたり、逆に屋敷から閉め出したりすることでジョーカーとの接触を強制的に断つ手段は使えない。ブルースと直接話す手段はなく、せいぜいがメモや手紙を残す程度だ。やり取りするには時間がかかりすぎるし、彼の真意を探ることや、ましてや説得することは、とてもではないが不可能だろう。

だからといってジョーカーをなんとかできるとも思えない。あれは人の手で制御できるような代物ではない。

バットマンが再び重苦しい溜息を吐いた時、バットコンピュータからジョーカーの声が聞こえてきた。

「なあ、バッツ。あいつ、なんなんだろうな」

バットマンは顔を上げてモニターに目を向けた。画面の中のジョーカーは相変わらず空の椅子を見つめていて視線が合わない。あのジョーカーが監視カメラに気づいていないわけはない。こちらに話しかけるつもりなら必ず画面越しに視線が合うはずだ。つまり、どうやらこれは独り言らしい。

「初めはただの金持ちのお坊ちゃんだと思った。ウェイン産業っていやぁ、ゴッサムで知らねぇ奴はいない大企業だからな。表情もぽけらっとしてて、いかにもいい奴そうだ。……いい奴すぎる」

ジョーカーはいかにも嫌そうに鼻に皺を寄せた。

「俺は犯罪者だぜ? 人殺しだ。強盗で金を稼いできたし、何度もゴッサムを恐怖のどん底に陥れてやった。なのに、なぜ、俺を恐れない。俺に怒らない。それどころか、俺に謝るだって? イカレてる」

肩を竦めたジョーカーは、ベッドに両手をついて天井を仰いだ。

「まあ、俺も大概イカレてるけどな。なんたって、バットマンの正体はあいつなんじゃないかと疑ったことがあるんだ。あいつがバットマンの訳がねぇ。バッツィは俺を正しく恐れてくれているし、俺に対して怒ってくれるしな。馬鹿げたことを考えたのは、あいつの身のこなしのせいだ。資金援助の見返りに稽古でも付けてやってんのか? それにしても、お前と似過ぎてる気がするけどな」

設置されているマイクは随分と性能がいいらしい。ジョーカーがこぼす微かな声すらもはっきりと聞こえてくる。

「人のことを好きだと言ってみたり、クソどうでもいいことで感謝してみたり、なんなんだ、あいつ」

ジョーカーは、はぁ、と盛大に溜息を吐いて頭を抱えた。

「それにしても、あいつのこと考えるとなんだかむしゃくしゃする。あいつに好きだとか、ありがとうとか言われると肺のあたりがちょっと痛むのは何なんだよ。意味が分からねぇし、ムカつくし、それ以上にぞっとする」

しばらく無言のまま両手で頭を掻き毟ったジョーカーは、長い沈黙の後にぽつりと呟いた。

「……なんなんだよ、まったく」

……なんなんだろうな、本当に。

バットマンはモニターを眺めながら溜息を吐き、ジョーカーとこんなに意見が一致するのは初めてだな、と思った。

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