結局、精神科医がウェイン邸を訪れたのは10時過ぎだった。アルフレッドに案内されて応接室にやってきた医者は壮年の男性で、人の良さそうな丸顔の紳士だった。

バットスーツなしに他人と対面するのは、なんだか酷く心許なく感じられる。緊張しながら正面のソファー席を勧めると、医者は「こちらの方が緊張せずに話せるんですよ」と言って、テーブルの角、バットマンから見て右斜めの椅子に腰掛けた。

「あなたと会うのは初めてですね」

「……わかるのか」

「これでもプロですから。口調と立ち居振る舞いで、なんとなく。何か問題があったのですね?」

穏やかな口調で問いかけた医者に、バットマンは何から話すべきかと思考を巡らせる。精神科医に相談することで、ブルースと話し合いができるようになればいいと考えたが、その根本の問題はジョーカーだ。

「ジョーカーの治療についてだ。元々、あれはブルースの独断なんだ。私はジョーカーの治療に賛成していない。そもそも治療できるとは思わないし、奴が更生するとも思えない」

言い切ったバットマンに気を悪くした風もなく、医者は穏やかに問い返した。

「そうだったのですね。ジョーカーを治療できないと考える理由を教えてもらってもいいですか?」

「今までも何人もの精神科医がジョーカーを治療しようとして失敗してきている。殺された者もいるし、ヴィランになった者もいる」

「ブルースもそうなるのではないかと、あなたは心配なのですね」

「もうジョーカーの罠にかかっている。早く止めないと、大変なことになる」

「確かに、それは大変ですね。罠にかかっていると判断した理由を教えてもらえますか?」

「……ブルースがジョーカーに気を許しすぎている。クインゼル博士の時と同じだ。クインゼル博士のことは?」

「聞いています。今はハーレイ・クインとして活動していますね。けれども、精神科医は患者に心を許してもらわなくては治療ができません。その為には、私たち精神科医も患者に心を許す必要がある。ブルースは資格のある正式な医師ではありませんが、ジョーカーのカウンセリングをする上では、ある程度心を許すことも必要なことですよ」

「しかし、あれでは……」

そこまで言って、バットマンは口ごもった。

この医者に対してブルースはどこまで話しているのだろう。少なくとも電子カルテには、ブルースがジョーカーに好きだと告白したことは記載していなかった。彼らの感情面でのやり取りは、ある種非常にプライベートなことであり、バットマンがブルースの許可なく他人に開示することは(はばか)られた。

「すまない、少し話を整理しよう。あなたはブルースからジョーカーの更生に対して協力を求められた」

「そうです。それと、彼自身の症状についても。つまり、あなたとの関係についても協力して欲しいということでした」

バットマンは頷いて、改めて医者に問うた。

「では、あなた自身はどうか。ジョーカーの更生は可能だと思うか」

「成否を問われると辛いところです。本人次第ですからね。ですが、やってみる価値はあると思っています。これまでジョーカーによってもたらされた被害は大きく、しかも彼は再犯性の非常に高い犯罪者です。アーカム・アサイラムでの監視にかかっている人手も多く、殺害される可能性を加味されている分、人件費も高く警備費は莫大です。彼がこれからも更生することなく犯罪を続けるなら、被害に遭う人は最悪の場合、四桁を超えるでしょう。更生が可能なら、それに越したことはない」

医者の言い分にバットマンは面食らった。なんというか、もっと心理的、精神的な話をされるのかと予想していたからだ。数字を出されて更生させられなければ金がかかる、死者が増える、と言われるとは思わなかった。

バットマンがよほど驚いた顔をしていたせいか、医者は眉尻を下げて言葉を続けた。

「……ああ、すみません。クセなんですよ。犯罪者の更生は無理だと端から決めつけておられる方も多いのです。そういった方でも、更生した場合としない場合の損得の話をすると、可能なら更生した方がいいと判っていただけるもので」

「いや……。最悪の場合、四桁を超える被害者か……」

呟いて、バットマンは苦い思いを噛みしめた。

ジョーカーが収容されているのは精神病院アーカム・アサイラム であって、刑務所ブラックゲートではない。司法の手に委ねた場合、ジョーカーは決して死刑にはならない。

バットマンは人を殺さない。たとえどんな命であろうとも、命は大切だからだ。それに殺人は問題を解決しない。詰まるところ、バットマンもジョーカーを殺したりはしない。

だからこそ、何も手を打たなければ被害者の数は増え続ける。死によってジョーカーを止めることができないのならば、残る手段は更生だけだ。理屈では解っているが、どうしても感情的に納得がいかない。

「だが、ジョーカーは倖せになるべきではない」

今、ブルースが取ろうとしている手段は、ジョーカーを倖せにすることを前提にしている。そんなやり方は承服できない。血も涙もない殺人鬼が被害者を差し置いて倖せになるなど、絶対に許されてはならない。

言い切ったバットマンに対して、医者は思案するようにしばし目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。

「あなたは、幼い頃にご両親を亡くされていましたね」

「……そのことは、今は関係がない」

バットマンが低い声で唸った。医者は頷いて、穏やかな口調で続けた。

「そうですね。けれども、少し想像してみて欲しいのです。あなたのご両親を殺害したジョー・チルは、13才で学校を退学し、ずっとゴッサムの裏通りで暮らしていた。親の愛情にさえ触れたことはなく、信頼できる友人も、恋人もいない。きちんとした職に就いたことはなく、金もなく、安心できる家も、温かいベッドで眠ったこともない。そんな人間には、あなたがどれほどご両親を愛していたかなんて解らないし、ご両親がどれだけあなたを愛していたかなんて想像もつかないでしょう。ましてや、倖せがどんなものかなど、夢見たことさえないかもしれません」

バットマンは拳を握り込んだ。どうせ犯罪者は更生などしない。ゴッサムのヴィラン連中の高い再犯率がそれを明示している。

黙り込んでいるバットマンに対し、医者は静かに問いかけた。

「では、あなたから奪われたものがどれほど貴重で有り難く大切なものだったのかを、ジョー・チルの様な人間に解らせるために最も有効な手段は、どんなものだと思いますか?」

バットマンは目を閉じ、深い溜息を吐いた。酷い誘導尋問だと思った。

医者が言いたいことは解っている。彼らは愛されたことがない。だから、愛するものを奪われる気持ちが解らない。それならば、彼らに必要なことはまずは愛されることだ。そして、愛する人を得ることなしに、愛するものを奪われる気持ちが解るようになる道理はない。倖せを知らない人間には、倖せを奪われる辛さなど解りようがない。持ってもいないものを失うことを想像するのは困難だ。こういうことだ。しかし、例えそうだとしても――

「彼らが、それを理解することはない」

「それは手に入れたことがないからです。人は自分が手にしたことのないものには、なかなか想像力が及ばないものです。それに想像するのと、実際に実感するのでは天と地ほども違いがあります」

「同じものを手にすれば、彼らにもその価値が実感できる、と。そう考えているのか」

「少なくとも、一度も手に入れたことがない状態よりは」

穏やかな口調のまま、それでも毅然と言い放った医者に、バットマンは溜息で応えた。頑ななバットマンの様子に、医者は苦笑いを浮かべた。

「あなたが納得できないのは解ります。犯人を赦せないと思うのは自然なことですし、赦す必要もありません。犯罪者なんて不幸になれ、と願ってしまうのも仕方のないことです。彼らに倖せになる資格なんて、本当はないのかもしれません。けれども、倖せの価値を知ることで、彼らが後悔し、身を切るような罪悪感にさいなまれるようになる姿を私は見てきました。更生は、倖せな経験の後にしか望めないのです」

バットマンは口を閉じたまま黙り込んだ。ジョーカー一人の倖せで千人以上の命が救われるのなら、確かにそれは安い買い物なのかもしれない。経済人としては、それを選ぶのが正解なのだろう。だが。

バットマンは無言で眉間に皺を寄せた。なかなか腑に落ちない様子のバットマンを気遣って、医者が助け船を出す。

「迷うような問題なら保留にしておく、というのも一つの方法ですよ。あなたは更生に反対でも、ブルースは賛成している。そういう価値観や感情の矛盾があるから、あなたたちは別々の人格を持つことで生活を上手くやりくりしている状態なのですから」

「……別々の人格でやりくりしている、か」

それは現状を上手く言い表しているようにも、一人の人間としては矛盾しているようにも聞こえた。通常、人は相手によって仮面(ペルソナ)を使い分ける。誰だって職場で同僚に見せる顔と家で恋人に見せる顔は大なり小なり違うものだ。

要は、そのペルソナが表面的な部分だけではなく、価値観という深いところまで違うのがバットマンとブルースの関係だ。医者の言うとおり、最終的なジョーカーの処遇に関しては保留としておくのが無難なのかもしれない。

「分かった。ジョーカーの治療については一先ず保留にする。しかし、ジョーカーの罠にかかっている可能性について、ブルースに警告する必要がある。何か手段はないか?」

話題を切り替えたバットマンに、医者は相変わらず穏やかに応じた。

「普段は二人で話したりはしないのですか?」

「しない。いや、できない。違うな、やったことがないと言うべきか。置き手紙くらいしか連絡を取り合う手段がない」

「そうですか。確かに置き手紙では説得したり、意見を擦り合わせたりするのには不便ですね。頭の中で声が聞こたり、自分のものではないと感じる感情が沸き上がったりすることはありませんか?」

「ない」

きっぱりと言い切ったバットマンに対して、医者は、ふむ、としばし思考を巡らせた。

「USPTを試してみますか」

「USPT?」

さすがのバットマンも精神医学の専門的な用語にまでは精通していなかった。聞き返したバットマンに医者は一つ頷いて答える。

「Unification of Subconscious Personalities by Tapping Therapy.タッピングによる潜在意識下人格の統合治療。膝を交互に軽く叩いて浅い催眠状態を作りだし、そこで別人格と話し合いをして人格統合を目指す治療です。私のような医者が誘導する方法もありますし、患者が自分で行う方法もあります。対話による融和・統合を目指すものですから、上手くいけば話し合いができます」

「……上手くいかなかったら?」

「あまり心配しなくとも、ブルースはあなた自身ですから、たとえ失敗したとしても悪いようにはならないですよ。上手くいかなかったら、相手が出てきてくれないか、沈黙されて話し合いにはならない、という感じですね」

バットマンは頷いた。

「いいだろう。やり方を教えてくれ」

「私が誘導しましょうか? それとも、御自身でやられますか?」

「自分でやる方法を知りたい。その……」バットマンは気まずさに一瞬口ごもった。「いくら医者相手でも、あまりにもプライベートなことは話しづらい」

医者はくすくすと苦笑を漏らし、では、と口を開いた。

「御自身でやる方法をお伝えしますね。もし、あまり上手くいかないようでしたら、私が誘導することもできるので、今日みたいに呼んでくださいね」

「ああ。その時はよろしく頼む」

医者は頷いて、詳しい方法を説明し始めた。

呼ばれている、とブルースは思った。

不思議な感じだ。身体の感覚はあるのに、動かす自由はない。金縛りみたいだが、恐怖感はない。目を閉じているため視覚は暗く、代わりのようにバットマンの感情が感じられる。

まるで周囲に張られた薄い紗幕の向こうからバットマンの感情が漏れ出しているかのようだった。自分のものではない感情が同じ身体の中に同居している。強い怒りと深い悲しみと、微かな恐れ。

「ブルース、出てこい」

バットマンに呼びかけられてブルースは戸惑った。出てこい、と言われても、どうすればいいのか。

「ブルース」

「なに?」

思考した途端、ざわりと周りがどよめいた。口には出していないが、バットマンには伝わったらしい。紗幕の向こうから驚きが伝わってくる。

「ジョーカーから手を引け」

「なんで?」

ブルースの考えに反応したのかバットマンが苛立っている。なんとなく、会話のコツを掴んできた気がする。

「なんでも何も、相手は殺人鬼だぞ。好きだなんてどうかしている」

ブルースはムッとして反論した。

「だから、更生させようとしているんじゃないか」

「無駄だ。ジョーカーが更生なんかするわけがない」

「やってみないと判らないだろ」

「今まで何人の精神科医が犠牲になってきたと思ってる。医師免許もないくせに、自分は特別だと勘違いしているんじゃないか?」

「勘違いなんかじゃない! 僕は――」

特別だ、と続けようとしてブルースは心を閉ざした。ジョーカーにとって特別なのはバットマンだ。ブルースではない。

バットマンが溜息を吐いた気配がした。

「ブルース、騙されるな。人は変われない。人殺しはずっと人殺しのままだ。自身の行いからは逃げられない」

「いいや、バットマン。人は変われる。人殺しだって更生できる。償うことはできなくても、悔悟することはできる」

平行線をたどる話し合いにバットマンの不満が段々と大きくなっていく。

「無理だ。変わるわけがない。いくら努力しても、何も変わらないじゃないか。ゴッサムも、人も。どんなに足掻いたって、失われたものは二度と戻らない」

「いや、何もかも変わり続けている。ゴッサムも、人も、何もしなくても変わっていく。失われたものは戻らなくても、新しいものが生まれてくる。変われないのはジョーカーじゃなく、きみじゃないのか、バットマン」

次の瞬間、ブルースは急速に意識が薄れていくのを感じた。どうやらバットマンが話し合いを打ち切ったらしい。強烈な睡魔に絡め取られる時のように、なすすべもなくブルースの意識は暗転した。

鋭く息を吸い込んで、バットマンは目蓋を開けた。薄暗いバットケイブの光景が目に飛び込んでくる。デスクチェアに背中を預け、深く息を吐き出した。

先程までのブルースとの会話が脳裏に蘇ってきて、バットマンは頭を振った。

あれは本当に自分か? 同一人物のはずなのに、どうしてこうも考え方が違うのだろう。

不意に背後に気配を感じて、バットマンは振り返った。銀の盆を持ったアルフレッドが静かに(たたず)んでいた。

「旦那様、夕食をお持ちしました」

「アルフレッド」

呟く間にバットマンの前に料理が供されていく。裏ごしされたゆで卵の黄身が鮮やかなミモザサラダ、淡い緑色のほうれん草のポタージュ、こんがりときつね色に焼かれたバターロール、真っ赤にゆであげられたロブスターからは白い湯気が立ち上り、バターと香草の食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。その不愉快さに、バットマンは眉間に皺を寄せた。

「すまない。食べる気分じゃないんだ」

「しかし、昨晩から丸一日、何も召し上がっていらっしゃいません」

アルフレッドが片眉を上げて指摘した。好物のはずのロブスターを睨み付けたまま動こうとしないバットマンに、アルフレッドはやや大げさに溜息を吐く。

「あなたはご存じないかもしれませんが」バットマンが無言でテーブルの上の皿を追いやるのを見ながら、アルフレッドはもったいつけて続けた。「眠りもせず、食べもしなければ人は死んでしまうのですよ」

「わかっている。ただ」

「ただ……?」

「食欲がないんだ。本当だ」

アルフレッドに鋭く睨まれて、バットマンはそれだけ言うのが精一杯だった。アルフレッドの視線を気まずく思いながらも、バットマンはふと感じた懐かしさに苦笑いを浮かべた。

以前にもこういうことがあった気がする。両親が死んで直ぐの頃は食事も喉を通らず、食べ物の匂いも受け付けなかった。その時もアルフレッドは今のように、皮肉交じりに何くれとなく世話を焼いてくれた。

「お前は変わらないな、昔から」

「それはあなたが変わらないからですよ」

アルフレッドの返答に、バットマンは目を見開いて父親代わりの執事を見上げた。アルフレッドにしてみれば、それは特別な意図など何もない、ただの何気ない一言だったに違いない。けれども、バットマンにとっては違った。つい先程、変われないのは君じゃないか、とブルースに言われたばかりのバットマンにとっては。

「私は、変わらない、か?」

低い声で呟いたバットマンのただならぬ雰囲気にアルフレッドが眉を寄せる。

「……旦那様?」

「だったら、ゴッサムはどうだ? 変わったか?」

「突然どうしたのです?」

戸惑うアルフレッドにバットマンが声を荒げる。

「いいから答えてくれ! ゴッサムは変わったか?」

アルフレッドは僅かに瞠目し、しかし、落ち着いた声で答えた。

「変わりましたよ。バットマンが表れて、少しずつですが、いい方向に向かっていると、わたくしには思われます。人々の表情が明るくなった。悪に対して戦うこともできるんだ、ここで踏ん張れば助けがあるんだ、と希望を持てる人が増えたように感じます」

「……そうか」

アルフレッドの返答に、バットマンは全身から力が抜け落ちていくのを感じた。軽い目眩に足下がふらついて、(くずお)れるようにデスクチェアに沈み込んだ。視線を上げ、改めてアルフレッドの様子をよく見れば、その顔には細かな皺が増えているし、いつの間にか白髪も随分と目立つようになっている。

――何もかも変わり続けている。ゴッサムも、人も、何もしなくても変わっていく。

脳裏に響いた声にバットマンは額を右手で覆い、溜息を吐いた。

「すまない、アルフレッド。一人にしてくれないか」

アルフレッドは後ろ髪を引かれる様子で、ときおり振り向きながらも黙ってケイブを去って行った。アルフレッドの気配が完全に消えると、バットマンは両手で顔を覆った。心なしか、目の奥がつんと痛む。

ブルースの言うとおり、変われていないのは、私だけなのだろうか。

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