バットコンピュータにジョーカーの治療記録を入力し終えたブルースは、デスクチェアに深く背中をもたれさせ、腕を組んでモニターを睨み付けた。

ジョーカーの治療は、思いも掛けないほど順調だと言っていい。特に一昨日、バットマンへの執着の理由を認識させられたのが大きかった。今朝も、意外なことに本音を話してくれた。他人に弱みを見せることが可能になってきている。

人は弱い。弱いからこそ、「他人に助けを求められるか」が重要になる。弱さを認められない人間は、他人の助けを借りられない。だから、自分でなんとかしようとして道を間違える。

犯罪者の更生を考える時、自身の弱さを認められるかどうかが重要になる。それに比べれば、「人を殺せばバットマンを呼べる」という認識は些細なことだ。自身の弱さを認められるかは心の問題だが、バットマンを呼ぶための方法は知識や理論の問題だ。単なる経験則なのだから、違う経験をさせてやれば修正することができるはずだ。ただそれには、バットマンの協力が要る。

ブルースは目蓋を閉じて溜息を吐いた。

バットマンはジョーカーの変化に懐疑的だ。現状のままでは協力を得るのは難しいだろう。

そもそも、バットマン自体が問題を抱えている。

変わらないでいることは、死んでいることに等しい。生きるとは変化することだ。何を経験するかで人の考え方は変化する。腹が減ったら食事をするし、何を食べたかで身体は変わっていく。考え方を変えることを拒み、食事を頑なに拒否するということは、生きることを拒否しているのと同義だ。

今までは、夜しかバットマンと交代していなかったから気づかなかった。

バットマンと感情が乖離し始めたのはいつだったか。

最初期の頃は、そんなことはなかったはずだ。バットマンとしての活動を初めて、何度も犯罪者に逃げられ、悔しい思いをしたことを覚えている。その度に装備や技を改良して、段々と上手くやれるようになっていったのだ。

そうしてゴッサムの夜には少しずつ静寂が増えていった。犯罪から身を隠すために息を潜める為の沈黙ではなく、心安らかに満足と共に息を吐き出す静寂が訪れることが多くなっていくのに、やりがいを感じていたことを覚えている。

まるで途中で目的を見失ってしまったかのように宝石が一つも盗られていない宝石店での殺人事件に、ぞっとしたことを覚えている。犯人の動機が全く判らなくて、夜通し資料を漁り、ギャングを締め上げていた時の焦りも。

決定的だったのはいつだろう。

あの宝石店を襲った殺人犯の居場所をマフィアに教えた時の、最低な気分を覚えている。悪を持って悪を制す、なんて、解ったような口を叩いて何も解っちゃいなかった。あの夜は生きた心地がしなかった。

その後は?

殺人犯がどうなったか気になって、グリーン製薬に潜入した。悪夢のような緑色の薬品が、彼を押し流していった光景を覚えている。薬品の排水溝の出口で幽霊を見たのを覚えている。満月に照らされて、緑色の髪が濡れたように光っていた。恐ろしかった。自分が何をしでかしてしまったのかを考えると、身体が震えた。

心の凍るような夜が明けて、すぐにまた身の毛のよだつような夜がやってきた。一夜昼ゴッサムで暴れ回ってもバットマンが表れなかったことに業を煮やしたジョーカーは、バットシグナルを考案してバットマンを呼び出した。あの時、彼が生きていることを確認した時の気分を、ブルースは鮮明に覚えていた。

嬉しかったのだ。涙がにじむほど嬉しかった。彼が生きていて。自分は人を殺していない。そう思えることが、神に感謝したいほど嬉しかった。

あの夜は、ジョーカーが生きていたことを神に感謝できた。あの夜には「人を救うのは、どんな命であろうと大切だからだ」と断言できた。「なら、それを証明して見せろ」と、ビルの屋上から身を投げたジョーカーを助けることができた。たとえ、彼がたった一日の間に何百人もの人を傷つけ、何十人と人を殺していようと、目の前で彼に罪のない人を殺されても、ためらいながらでも、それでも、ジョーカーの命を大切だと判断できた。

しかし、それは前日に彼を殺しかけたからに過ぎない。だから、その判断は、いつ反転してもおかしくない。

そのことに気がついた時、ブルースは身震いした。突然、肌寒さが襲ってきて両手で何度も腕をさすった。

どの命も等しく大切なら、一つの命よりも、より多くの命の方が、より大切なはずだ。そう考えるならば、あの夜にジョーカーを助けたのは間違いだったと、判断は変化する。あるいは、身内をジョーカーに殺されたなら。あるいは、協力者の娘を半身不随にされたなら。あるいは、親代わりでもあった忠実な執事の命を奪われたなら。やはりあの時にジョーカーを殺すべきだったのだと、彼に対する判断は容易に変化する。

変化することは、恐ろしいことだ。

バットマンはあの夜の感情のまま、怒りも、不安も、喜びも、変わらずに持ち続けることを、不殺を貫くことを、ジョーカーの命を助け続けることを、決して変化しないことを、自らに課したのだ。

ブルースは眉根を寄せて、唇を噛んだ。

バットマンに対して軽々しく「変わるべきだ」なんて言えなくなってしまった。

それでもバットマンには変わってもらわなければならない。そうでなければ、犠牲者の数ばかりが変わらずに増えていく事になる。

しかし、どうやって説得する?

バットマンが精神科医から教わっていた別人格を呼び出す際のタッピングの方法はブルースも覚えている。だから、ブルースからバットマンに接触することはできる。だが、無為無策のまま話し合ってもバットマンを納得させることはできないだろう。

ジョーカーが変わったと確信できれば、バットマンもジョーカーへの評価を変えるだろうか。でも、ジョーカーが完全に更生するには時間が必要だ。

バットマンが人格交代を回避したように、ブルースもバットマンへ交代しないという手を使うことはできる。ただ、もしもヴィランが表れたら、人格交代しないわけにはいかなくなる。ブルースよりもバットマンの方がヴィランに上手く対処できるのは疑う余地がない。

ジョーカーだってバットマンに会いたがるに違いない。下手に接触機会が減ると彼の自尊心に悪影響が出そうで怖い。

しかし、そうなるとバットマンがまた人格交代を避けるだろう。人が眠らずに活動できるのはせいぜい三日程度だが、三日もあれば様々なことができる。昨日、バットマンは精神科医と話し合いの場を設けていたし――。

そこまで考えたブルースは、自分の頭から音を立てて血の気が引いていくのを感じた。

バットマンは、バットスーツを着ていなくても活動できる。当たり前だ。自警活動を主に担当している人格を便宜上バットマンと呼んでいるだけなのだから、彼が活動するのにバットスーツを着ている必要はない。

そして、バットスーツを着ていないバットマンは、どこからどう見てもブルース・ウェインだ。バットマンはジョーカーに対して好意的ではない。もしも、スーツを着ていないバットマンに、ジョーカーに接触されたら――。

せっかくブルースとして築いたジョーカーとの信頼関係が壊されるかもしれない!

バットマンからすれば、ジョーカーをアーカム・アサイラムへ戻してしまうのが一番手っ取り早い。ジョーカーがウェイン邸にいなければ、ブルースが今と同じ対応をすることは不可能だ。面会時間が限られるし、面会の方法も強化ガラス越しに、ジョーカーは拘束衣を着せられた状態に、戻ってしまう。なにより、アーカム・アサイラムに戻されたジョーカーはブルースに裏切られたと思うだろう。失われた信頼を取り戻すには、一から信頼を築くのに比べて、より多くの努力が必要になる。

ブルースはいつの間にか浅く早い呼吸を繰り返しているのに気づいて、意識してゆっくりと息を吐き出した。

落ち着け。考えろ。

ジョーカーのウェイン邸への移送は、行政と病院、そして、本人の同意に基づいて行われた。事なかれ主義を地で行く行政はともかく、ジェレマイア・アーカム医院長は患者の意志を重視する人物だ。たとえバットマンに強要されたとしても、本人の同意がなければジョーカーの再移送を了承しないだろう。ということは、少なくともジョーカーがウェイン邸での治療の継続を拒否しない限りは、アーカム・アサイラムに強制的に戻される心配はないはずだ。

問題は、ジョーカーがブルースを信じてくれるか、だ。

ブルースは目を閉じて、深い溜息を吐いた。何を話すべきだろうか。何から話すべきだろうか。できることをやるしかない。たとえ結果が絶望的であっても。やれることしかできないのだから。

仕事を終えたブルースは、ジョーカーに会うために洞窟に向かった。入り口から階段へと足を踏み入れると、中から歌声が聞こえてきた。岩壁に反響して低音が幾重にも重なって響いている。明確な歌詞のある歌と言うよりも、鼻歌が気持ちよくなって適当に口を開けて声を出しているようだった。

ブルースはあえて靴音が響くように意識して階段を降りた。ジョーカーがブルースが来たことに気づいて、お互いに顔を合わせる前に口を噤めるように。一人きりだと思っている時の歌はあまり人には聞かれたくないものだ。

案の定、ブルースが階段を下りきる前にジョーカーの歌声は止まった。階段を下りきったブルースは素知らぬ顔でジョーカーに話しかけた。

「やあ、気分はどう?」

「朝よりはだいぶマシだな」

「だろうね」

ブルースはくすりと笑い、壁のコントロールパネルへ向かう。

「退屈なら本でも用意しようか? 本棚と一緒に撤去してしまったけど、本自体は残してあるし」

言いながらブルースはセキュリティの設定を変更して、バリアを切り替えた。立ち上がって移動してきたジョーカーが折りたたみ式のテーブルに手を滑らせる。

「本よりも紙とペンがいい。紙とペン、それから頭がありゃ、色々と『計画』が立てられる」

「それなら、机と椅子も必要だろ。後でバリアの内側に移動させよう」

ブルースが椅子に腰掛けると、ジョーカーもつられるようにしてブルースの向かいに座った。

ブルースは真剣な表情で大きく息を吸い込んだ。

「ジョーカー、話があるんだ」

ジョーカーはブルースを横目に見て眉を寄せた。

「……なんだよ」

「昨日の、バットマンと揉めた話について、詳しく話しておこうと思って」

「俺の治療方針で揉めた、と言っていたな」

ブルースは僅かに瞠目してジョーカーを見た。

「気づいていたのか」

ジョーカーは当然、と鼻を鳴らした。

「気づかないわけないだろ。あんたとの話は明らかにカウンセリングだったしな」

ブルースは溜息を吐いて肩を竦め、苦笑した。

「僕のカウンセリングはどうだった?」

ジョーカーが言いたくなさそうに顔をしかめるのを見て、ブルースはおや、と思った。

「……悪くなかった」

低い声でぼそりとジョーカーが呟いた。不本意だ、とでかでかと顔に大書きされている様子にブルースは苦笑を深める。

「それはよかった。周りの反対を押し切った甲斐があったよ。誓って言うけど、君のことを好きなのは本当だ。君が好きだからカウンセリングをしようと考えたのであって、逆じゃない」

ジョーカーは気まずげに視線を逸らした。その頬に僅かに赤みが差しているのに、ブルースは気づかないふりをして言葉を続ける。

「もし、君がアーカムよりもここの方が居心地がいいと感じられるなら、ずっとここに居ていいし、僕は居て欲しいと思ってる。それに、君がバットマンを呼ぶのに他人を傷つけないなら、この狭い部屋だけではなくてウェイン邸や、ゆくゆくはゴッサムの街に出かけられるように手配する心づもりだ」

ブルースは小型の通信端末をポケットから取り出し、テーブルの上に置いた。電源ボタンと通話開始ボタンしかない、極簡単な携帯電話だ。繋がる先は一つだけ。番号ボタンは不要だから付いていない。

「これは?」

通信端末を見下ろして尋ねたジョーカーにブルースが答える。

「バットシグナルだ」

「はぁ?」

ジョーカーは鼻に皺を寄せて、ブルースを睨み付けた。ブルースはゆっくりと息を吐いて、静かに話し始める。

「あの夜空を照らすバットシグナルは君が考案したと聞いたのを思い出したんだ。あの日は酷い一日だった。朝から気球が爆発して、飛散したガラスで大勢の人が傷つき、命を落とした。楽しいサーカスは悪夢に代わり、我先にと逃げ惑う観客同士が他人を踏み殺した。街のあちこちに、顔面蒼白で笑顔を浮かべた死体が転がっていた。君は最高の舞台(ステージ)を用意して待っていた。なのに――」

ジョーカーは横を向いて視線を逸らした。その横顔にブルースは事実を突きつける。

「バットマンは来なかった」

ジョーカーは無言のまま唇を噛みしめた。ブルースは話し続ける。

「人を殺せばバットマンを呼べる、と君は考えているみたいだけど、それは間違いだ。事実、あの夜はいくら人を殺してもバットマンは来なかった。だから、君はバットシグナルを考案したんだ。お前を呼んでいるんだ、とバットマンに伝えるために」

ブルースはジョーカーからテーブルの上に置いた通信端末へと視線を移した。

「これは、バットシグナルと同じようにバットマンを呼べる。僕がバットマンの後援をしているのは知っているね? 僕は資金面だけではなく、技術面でも全面的にバックアップをしている。この通信端末はバットマンが使用している専用の通信網を介して彼に直接繋がるようになっている。10回コールしても彼が出なかったら、僕に繋がる」

ジョーカーは目を見開いて通信端末を眺め、続いてブルースを見つめた。そうして視線を何度も通信端末とブルースの顔の間で往復させた。

「……何を考えてる?」

「バットマンと揉めて、丸一日以上、僕は君に会いに来られなかっただろう。その間、君は食事抜きだ。バットマンの説得は難航していてね。僕は君は変わった、少なくとも変わり始めていると感じているけれども、バットマンはそれを認めない、いや、認めるわけにはいかない状態なんだ。昨日みたいに僕がここを訪れられない状態になると、最悪の場合、三日から四日程度、あるいはもっと長く、君は誰とも会えずに腹を空かせることになる。だから――」

「そういうときには、こいつでバッツに連絡を取れってか」

ジョーカーが眉根を寄せて通信端末を睨み付ける。ブルースはほっと息を吐いて肩を竦めた。

「そういうこと」

説明を終えて肩の荷が下りたブルースと違い、ジョーカーは顎を引き、腕を組んで通信端末を睨み付けている。

不満そうなジョーカーにブルースは水を向けてやることにした。

「通話ボタンを押せば、そのままバットマンに繋がるようになっているから、電話番号を入力する必要はないよ。ちなみに僕は、僕自身か、バットマン以外は君に会わせるつもりはない。他の人に任せて、君に殺されたり、脱走されたりしては敵わないからね。何か質問は?」

ジョーカーは眉間に皺を寄せたまま目をつぶり、天を仰いだ。低い唸り声を上げ、何事か言おうか言うまいか迷っている様子だった。

ブルースは何も言わずに、ジョーカーが話し始めるのを待った。

ようやく決心をつけたらしいジョーカーは真っ直ぐにブルースを見つめて口を開いた。

「ブルース、お前がバットマンなんだろう?」

「……そうだったら良かったんだけど」

ブルースは微笑んで眉尻を下げた。バレていたか、という思いと、本当にそうだったらいいのに、という思いが複雑に絡み合っている。

「違うってのか? 体格、声、目の色。何より、その体捌き。バットマンはお前だろう、ブルース?」

目を眇めるジョーカーにブルースはなんと答えるのが正解なのか分からなかった。肉体的な面で言えばブルースとバットマンは同一人物だし、人格的には二人は今は別人だ。

「少なくとも『僕』は、バットマンではない」

ブルースは溜息を吐いて首を左右に振った。

「なんていうか、考え方が違うんだよ。僕と、彼とでは。さっきも言ったけど、僕は君は変わり始めていると思うけど、バットマンは変化を認められない。……君のせいだ」

こんな言い方は卑怯だ。それでも教えるべきだ、とブルースは思った。バットマンについてジョーカーは知っておくべきだ。それに、悔しいけれど、この言葉以上に彼の心を満たせるものはないだろう。

「バットマンは不殺のヴィジランテだ。その信念を完成させたのは君だよ、ジョーカー。バットマンを完成させたのはジョーカーだ」

ジョーカーは瞠目して、息を詰めた。ブルースは話し続ける。

「バットマンは君を殺しかけて、殺してしまったと思って、葛藤した。後悔と、自責の念に襲われた。殺人は行為者の魂を殺す。彼は殺人の後味の悪さを、もう二度と味わいたくないと思った。だから、あの夜、バットマンは君を助けることができた。そうして彼は、あの夜から変わらないことを選んだ」

ブルースは視線を落として唇を噛んだ。

「彼は変わらない。少なくとも、僕には変えられそうにない。彼が変わらず、君も変わらないことを選ぶなら、君たちはこのままずっと終わらない追いかけっこを続けていける。それこそ、永遠にね。でも、もし――」

ブルースが視線を上げて、ジョーカーを見る。見開かれた明るい緑の瞳を覗き込んだ。

「君が二人の関係を変えることを選ぶなら、バットマンを変えることが、できるんじゃないかと思う。善い方に、」

ブルースは言いさして、続く言葉を口にするか迷った。その可能性を知らせないこともできる。けれども、それでは意味がない。複数の中から選ぶからこそ、選択には価値が生まれる。だから、これは絶対に提示しなければならない。

「あるいは、悪い方に」

緑の瞳が揺らめいた。ジョーカーはブルースの視線から逃れるように目線を落とした。伏せられた睫毛が震えていた。

ブルースには思いつかない、バットマンを闇に堕とす方法が、ジョーカーの脳裏のあちらこちらで閃いて輝いているのかもしれない。

変化することは恐ろしい。変わるためには必ず何かが失われるのに、結果が吉と出るか凶と出るかは分からない。

ジョーカーは俯いたまま、ブルースと視線を合わせずに尋ねた。

「あんたはどうして欲しい、ブルース?」

ああ、けれども――。

変化しなければ、勇気を出して手を伸ばさなければ、決して手に入れられないものがある。

「……助けて欲しい」

絞り出した声は、ブルースが想像した以上に細く震えていた。

「僕に、君と一緒に居させて欲しい。なんでもない話をするのが楽しかった。くだらない掛け合いをして、君が呆れたり、怒ったりするのが嬉しかった。君がそばにいるだけで、馬鹿みたいに浮かれて、舞い上がっていた。君が隣にいるだけで、僕は倖せだったんだ。だから、君を憎んで、恨んで、追いかけ続けるだけの関係には戻りたくない」

ブルースは、ジョーカーがどんな表情をしているのか知るのが怖くて、俯いたまま顔を上げられなかった。

「ブルース……」

思い詰めたような、困惑したようなジョーカーの声が振ってきて、ブルースは顔を上げた。眉を寄せ、眉間に力の入ったジョーカーの表情は、今にも泣き出しそうにも見えた。

本当に変わったな、と思う。以前ならこんな時には、絶対に声を上げて笑っていただろうに。

「……ごめん。こんなつもりじゃなかったんだ。自分にできないことを、君ならできるかもしれないなんて、根拠もなく頼るのは無責任だった。今の話は忘れてくれ」

ブルースは俯いて右手で額を覆い、立ち上がった。

「テーブルと椅子を移動させよう。紙とペンは後で差し入れるよ」

「おいっ! ブルース!」

つられるようにして立ち上がったジョーカーの胸元に携帯端末を押しつける。

「……助けてあげられなくて、ごめん」

顔も見ずに、それだけ言うのが精一杯だった。

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