ブルースは自然と口角が上がるのを抑えられなかった。テーブルに頬杖をついて、向かいのジョーカーを眺める。ブルースにじっと見つめられて、ジョーカーは居心地悪そうに視線を逸らしている。不満そうな半眼と頬に差した赤みに、ブルースの口角はますます吊り上がる。

「いい加減、人の顔を見て にやつくのは止めろ」

ジョーカーが眉間に皺を寄せて文句を付けると、ブルースは右手で口元を覆った。それでも、目元の表情から誤魔化しきれないだろうことは自覚している。

「ああ、うん、ごめん。昨日はバットマンを助けてくれて、ありがとう」

ジョーカーは半眼のままブルースを睨むと、盛大な溜息を吐いた。

「別に。バッツを変えて、人殺しに堕としてやろうと思ってやっただけだ。最初からこうなるように仕向けてたわけじゃない」

「それでも、バットマンに選択の余地を残してくれた」

「俺が残してたんじゃない。あいつが自分で気が付いたんだ。あんたは――」

ジョーカーは言いづらそうに何度か口を開閉させ、意を決して続きを口にした。

「なんで俺に選ばせた」

問いかけられて、ブルースはにやにや笑いを引っ込めた。視線を逸らしているジョーカーの横顔に向かって、柔らかい声で答える。

「選ぶことが、自由意志の本質だからだ」

ジョーカーはゆっくりとブルースへと視線を向けた。

「俺が、バットマンを悪い方に変えるとは思わなかったのか?」

「思ったよ」

ブルースは正直に答えた。

「君にはバットマンを悪に堕とすことができるだろうと思った。そして、そうする動機も、そうしたいという欲望もあるだろうと思った。同時に、それでも君がそうしない、という可能性もあると思った」

あの時、ジョーカーがどちらを選ぶ可能性が高いのか、ブルースには判らなかった。だから、ジョーカーを信じて任せたとか、彼の良心に賭けたと言えば、それは嘘になる。

けれども、いや、だからこそ、ブルースはジョーカーの意志を尊重したかった。

「自由意志の本質は選ぶことだ。選択肢を示されずに誘導された行為に意志はない。善悪両方の可能性を示されて、どちらかを選ぶからこそ、そこには意志が、価値がある。僕は、君が選ぶこと、選ぶという行為そのものに価値があると思った」

ブルースは目の前に居るジョーカーの緑の目を見つめた。その目は、戸惑ったような色で揺れていた。揺れる目を見つめたまま、ブルースが続ける。

「君だって、バットマンが選ぶことに価値があると思ったから、彼に選ばせたんだろう?」

「どっちを選んでも正解じゃない。騙し討ちにするための二択だ。なのに、バッツが正解に気づいたから。……俺は話の流れに乗っただけだ」

「それでも、正解を選んだバットマンを君は受け入れることを選んだ」

ジョーカーは首を横に振り、重ねて否定した。

「俺が選んだんじゃない、バッツが」

ブルースはジョーカーの言葉を遮って口を挟んだ。

「いいや、君が選んだんだ。バットマンの選択を受け入れることを、君が、選んだんだ。選んだ責任から逃げるな」

ジョーカーは言葉を失い、何かすがりつくものを探すように左右に視線を彷徨わせた。

「俺は、ただ……」

「ただ?」

「ただ、バッツと一緒に居られるなら、なんでもいいと思っただけだ」

ジョーカーはぼそぼそと口の中で呟いた。頭を振り、溜息を吐いて続ける。

「なぁ、ブルース。俺には、正しい方を選び続けることなんてできない。あんたが望むことを選び続けることなんて無理だ。今回はたまたま正解を選んだに過ぎないし、第一、相手がバッツだったからだ。今後も間違わない保証なんてどこにもない」

「そんなの、みんな一緒だよ。誰だって間違えもするし、失敗もする。僕だって、アルフレッドには心配をかけたり、眉を顰められたりばかりしているよ」

ブルースは苦笑して、おどけて肩を竦めて見せた。

「それに、これからはバットマンの愚痴を聞いてくれるんだろう?」

「できるか分からない。バッツには大見得を切ったけれど、きっと上手くいかない。バッツが俺に会いに来てくれなかったら? 殺人衝動が抑えられなかったら? あんたを殺して、自由になりたいと思い始めたら? あんたの手首を切り落として、あのコントロールパネルに押し当てて、バリアを解除することばかりが頭を占めるようになったら?」

不安げなジョーカーを見つめてブルースは微笑んだ。

「本当に変わったね、ジョーカー」

ブルースは右手を伸ばして、ジョーカーの額にかかった前髪を払った。

「今回の更生プログラムを組んでくれた精神科医が言っていたよ。更生が期待できる受刑者は、出所の時にみな不安を口にするそうだ。君は今、不安を口にしている。つまり、君は、更生の見込みが十二分にあるってわけだ」

ジョーカーがそろりと視線を上げる。その目を見つめ返しながら、ブルースは右手を滑らせジョーカーの頬を包み込んだ。

「それに、君の愚痴を聞く役目は、僕に任せてくれるんだろう? 今みたいに」

ジョーカーは視線を逸らし、こくりと頷いた。

「……あんたが嫌じゃなければ」

「嫌じゃないよ。だって、君の心の、一番深いところが手に入るんだろう?」

見る見るうちにジョーカーの頬が赤く染まっていくのに、ブルースは笑みを深めた。ジョーカーはブルースの手を振り払うと、紅潮した頬を隠すように俯いた。

「あんたなんか嫌いだ……」

「僕も好きだよ、ジョーカー」

ブルースの言葉に、ジョーカーは両手を頭に突っ込んで髪の毛を掻き毟った。

「ああ、そうだよな! あんたはそういう男だよ!」

苛々と尖った声を出すジョーカーと対照的に、ブルースは口元が緩むのを抑えられなかった。

ポン、と明るい電子音がしてバットコンピュータの真ん中で新着通知を告げるポップアップが点滅した。次々と通知音が鳴って、その度に新たなポップアップが表示される。

『ジョーカー治療完了!? 専門治療の成果は?』

『ブルース・ウェイン氏、次の狙いはブラックゲート』

『捨て置かれるアーカム! ジョーカーの治療は、やっぱり無理だった!?』

バットマンはいくつものポップアップの中からゴッサム・ガゼット紙の記事を選んで表示した。

『ブラックゲートが新しい更生プログラムを導入

本日、ブラックゲートの所長は改善指導に新しい更生プログラムを導入する予定だと発表した。この新しい更生プログラムによって、出所後の元受刑者の再犯率の低下が期待できるという。

先日ブルース・ウェイン氏がジョーカーの専門治療を行うと発表したが、今回ブラックゲートに導入される更生プログラムは、ジョーカーの専門治療に用いられたものを一部修正したものであるという。ジョーカーの治療で効果が認められたため、ウェイン氏の推薦によりブラックゲートの改善指導に導入されることとなった。

一方でアーカム・アサイラムの他の患者については、精神障害との同時治療が必要になり、より難しい対応が必要となるため、今回の導入は見送られた。

記者会見に同席したウェイン氏はジョーカーの治療は順調としながらも、社会復帰の見込みについては明言を避けた。また、この更生プログラムを受けた受刑者を対象に、出所後の生活支援を行うとして、ウェイン産業で優先的に雇用することを約束した。ウェイン氏は、ゆくゆくはアーカム・アサイラムの他の患者への改善プログラムの適用も考えているという。

ジョーカーの治療成果は世間に具体的には公表されていないため、更生プログラムの効果は未知数だ。今回のブラックゲートへの導入で、犯罪率の低下に実際に効果があるのかが試されることになる。』

記事を読み終わり、バットマンは椅子に深くもたれかかった。そのタイミングを見計らったように、いつの間にか背後に立ったジョーカーが背もたれに白い手を滑らせて、バットマンの肩口からモニターを覗き込んだ。

「おー、ブルースのゴッサム再建計画か。刑務所の改善指導のプログラムなんて、普通なら載っても官報の隅っこだろうに、やっぱり億万長者の有名人がやると注目されるんだな」

くつくつと喉を鳴らすジョーカーを見上げ、バットマンは静かに口を開いた。

「お前はどう思う?」

「どうって? いいんじゃねぇの?」

ジョーカーはバットマンに視線を向け、きょとんと目を瞬かせた。時折見せるようになったジョーカーの表情の素直さは、バットマンを未だに信じられない気分にさせる。そして、それを引き出したのが自分ではないと思うと、バットマンの胸中には忸怩たるものが広がった。

「私は、あまりいい気はしない。今まで私がマフィアやヴィランと戦ってきたのは無意味なことだったんじゃないか、と思えてくる。本当に必要なのは、自警者ではなく、法を守り、人を導く地道な活動なんじゃないのか?」

バットマンは唇を噛んだ。胸の中にわだかまる心情を口に出すべきか迷い、これはジョーカーに人を殺させないためだから、と自分に言い訳をして話し始めた。

「いくら彼らをブラックゲートやアーカムに送り込んでも、脱走したり、刑期を終えれば、彼らは再び犯罪行為に手を染める。それをまたバットマンがブラックゲートやアーカムに送り込む。バットマンは結局、何一つ変えられずにゴッサムにとって無意味な対処療法を繰り返しているだけじゃないか? しかも、繰り返しているうちにゴッサムは薬効の効きが悪くなり、逆に犯罪者共は薬剤耐性を身につけて犯罪行為をエスカレートさせていく。バットマンはむしろ――」

口ごもったバットマンの言葉をジョーカーが引き取って続ける。

「ゴッサムに悪影響しか与えていないんじゃないか、ってか?」

バットマンは唇を引き結んだ。眉間に皺を寄せたバットマンの表情に、ジョーカーはけたけたと笑い声を上げた。

「そりゃあ、バッツとの追いかけっこは最っ高に楽しいからな。それが癖になっちまうのはしょうがねぇ。諦めな」

ばっさりと切って捨てたジョーカーに、バットマンは我知らず肩を落とした。ジョーカーに慰めてもらおうなど、土台無理な願望だった。

「でもよ、ブラックゲートの連中にしても、アーカムの連中というか、俺にしても、あんたに捕まってなけりゃ、ブルースの更生プログラムとやらを受けることは絶対にないわけだろ?」

バットマンはジョーカーを振り返った。ジョーカーは唇に笑みを浮かべたまま、肩を竦めた。

「役割分担、ってやつだよ。あんたがとっ捕まえて、あいつが変える。ゴッサムには、あんたらの両方が必要だ。そうだろ? だいたい、ブルースはお前だろう? あれもあんたの一面なんだよ。お人好しすぎる、ふざけた野郎だけどさ」

これ見よがしに溜息を吐いてみせるジョーカーに、バットマンの口角が自然と弧を描く。

案外、愚痴をこぼすのも悪くない。

バットマンはポップアップした他の記事にも軽く目を通し、モニターをゴッサム各地の監視カメラの映像に切り替えた。

せいぜい、一人でも多くの犯罪者をとっ捕まえてやろうじゃないか。

ジョーカーはゆったりとしたデスクチェアに座りバットコンピュータの巨大なモニターを眺めていた。画面のほとんどはゴッサムの街のあちらこちらに仕掛けられた監視カメラの映像を流している。だが、中央の一角は特定の人物の行動を追っていた。ブルース・ウェインは今はウェイン社の社屋に居るようだ。

ジョーカーは元いた洞窟からバットケイブの一部へ居住を移されたが、外や屋敷へ出ることはまだ許されていなかった。今はブルースが仕事に出ているので一人でお留守番だ。

しっかし、いいのかねぇ。オモチャ触り放題だぞ。

ブルースは脱走防止のためバットケイブ内をバリアで区切った。車庫はバリアの外側にあるのでバットモービルやバットポットは例外だが、ほとんどの秘密道具に自由に触れてしまえる状態だ。ジョーカーはブルースにもバットマンにも、触っていいとも、触るなとも、言われていない。まあ、今のところ触ってみたいとはあまり思わなかった。わざわざ手間をかけてオモチャにいたずらを仕掛けなくてもバットマンが構ってくれるからだ。

モニターに映っているブルースが女性社員と何やら楽しそうに話し込んでいる。ジョーカーは眉を顰めた。やっぱり、オモチャに何か仕掛けてやろうか。

ジョーカーが何をしようかと考えている間に、話を終えたブルースがこちらを向いてにっこりと微笑んだ。ブルースの狙ったようなタイミングでの微笑みに毒気を抜かれ、ジョーカーは椅子に沈み込んだ。監視カメラの位置も、その映像をジョーカーが見ていることも解ってやっている。

ふと背後に気配を感じ、けれども、全然動く気になれない自分に内心で溜息を吐く。

なんだか、自分が腑抜けになってしまったような気がする。今までだったら、侵入者がいれば躊躇なく撃ち殺していた。ましてや、それが単なるネズミではなく翼の生えた小さい思い上がりなら、殺したことに対するバットマンの反応を想像してゾクゾクしたのに。

「おい、こんなところに一人で入り込んだらバッツに怒られるぞ」

銃声の代わりに声をかけてやったら、相手はびくりと動きを止めた。バレていないと思っていたのか、馬鹿め。

「言われなかったのか? 危険だから、今はバットケイブに近づくなって」

「言われたわよ。だから来たの」

ジョーカーが椅子ごと反転すると、暗がりから黒いスーツに身を包んだ赤毛の女が姿を現した。バットガールだ。

「言いつけが守れないなんて悪い子だな」

「ふざけないで。その椅子はあんたが座っていいものじゃないのよ」

静かだが怒りを滲ませた声に、ジョーカーは瞠目した。バットガールの怒りを的外れで滑稽だと感じた自分に驚いた。一呼吸遅れて、笑いがこみ上げてくる。

「何が可笑しい」

バットガールが訝しげに顔をしかめても、ジョーカーは笑いを抑えられなかった。

この小娘は、何も知らないのだ。バットマンのことも、ブルースのことも、ジョーカーとの関係も。単にニュースで見たことと、ケイブに近づくのを禁じられたことを繋ぎ合わせて推測しただけ。

ジョーカーの全身を強い感情の波が駆け巡っていった。優越感と満足感、それに圧倒的な自信と安心感。

自分だけが、彼らのことをよく知っている。自分だけが、彼らの心に踏み込むことを許されている。小娘も、駒鳥たちも、ブルースの悩みも、バットマンの不安も、何も知らない。彼らはただ庇護されるべき存在として、守られ大切にされているだけ。それは、ジョーカーとバットマンやブルースとの関係とは違う。

ああ、こういう感情は、初めてかもしれない。

「いつまで笑ってるのよ。早くその椅子から降りなさい」

「悪い子な上に、無礼な奴だな。そんな口をきける立場か?」

居丈高に命令するバットガールにジョーカーは顔をしかめた。

この生意気な小娘をどうしてくれよう。ケイブで見つけた遠隔電波攪乱器で、腰椎の装置をイカレさせてまた半身不随にしてやろうか。それとも、今度は肩を打ち抜いて腕を使えなくしてやるか? いっそのこと心臓をぶち抜いて二度と生意気な口を叩けなくしてやるべきだろうか。

そこまで考えた時、不意にジョーカーは恐怖に囚われた。もし、ジョーカーがバットガールを殺せば、バットマンやブルースからの信頼は失われるだろう。それは、その可能性が脳裏によぎっただけでも、足下が崩れ去るような怖さをジョーカーに感じさせた。

なるほど、こういう支配の仕方もあるのか。

ジョーカーは笑顔の形に顔を歪ませた。他人を支配するのに最も簡便な方法は恐怖と期待を使うやり方だ。恐怖は人の足をすくませ、望まぬ行動を止めさせる力を持っている。一方で、期待は人の足を進ませ、望む行動を取るように促す力を持つ。

相手からの信頼によって得られる自信や自尊心などの心理的な報酬を期待することと、失望され、見捨てられることへの恐怖は表裏一体の関係だ。失望されることを恐れるからこそ、相手の信頼に報いたいと思い、また、信頼に報いれば報酬が得られると期待するからこそ、相手を失望させる裏切り行為には歯止めがかかる。

そして、おそらくブルースのような、いわゆる「善人」と呼ばれるタイプの人間は、この構造の恐怖が担う面には無自覚だ。

いいだろう。暴力による恐怖を否定するなら、お前の使う恐怖で勝負してやろうじゃないか。

ジョーカーは口の端を吊り上げた。見せつけるように、意識してゆっくりと椅子に深く座り直し、胸の前で指を組む。

「なぁ、バットガール、お前のためを思っての言いつけなのに、それを破られたことを知ったら、バットマンは少なからず傷つくだろうなぁ」

バットガールは、つんと顎を逸らし強気に言い返した。

「告げ口しようっての? あんたにしては、随分と弱気な策じゃない。おあいにく様。バットマンはそのくらい想定内よ」

「ああ、そうだな。バッツは表面上は気にしないかもしれねぇな。なにしろ、いつ誰に裏切られてもいいように、ジャスティス・リーグのメンバーを殺す手段を常に用意している男だしな。だが、お前の親父はどう思うかな。娘がマスクの下に顔を隠して危険な自警活動をしていると知ったら、ジム・ゴードンはどうするだろうか」

バットガールは咄嗟に反論し損なった。中途半端に開いた口が、言葉を探して開閉する。

「ショックだろうなぁ。自分たち警察を娘が全く信頼していないと知ったら。それに、自身の不甲斐なさを責めるだろう」

「違う! 警察を信頼してないわけじゃない!」

声を荒げるバットガールに、ジョーカーは笑みを深めた。

「へぇ? じゃあ、なんでバットマンと一緒になって自警活動なんてしているんだ?」

「それは、」

「それは?」

「それは――」

口ごもるバットガールの言葉をジョーカーが引き継ぐ。

「それはな、ゴッサム市警じゃヴィランを止めたり、逮捕したりするには力不足だって思ってるからだ」

「違う! 私はただ、みんなを守るために――」

反駁するバットガールの声を遮って、ジョーカーは嘲笑った。

「何が違う? お前が本当に親父さんを信じてるってなら、同じように刑事になりゃよかったじゃねぇか。父親と同じようにヴィランどもと対峙すればいい。法を遵守して、堂々と、顔を隠さず。要するに、お前は、父親を裏切ってるんだよ。そのマスクとスーツで、バットガールになることによってな」

彼女が強く拳を握りしめるのを見て、ジョーカーは攻撃の切り口を変え、二撃目に出た。

「ああ、それに、弟のジェームズのことも、更生したとも、症状が改善したとも、本当はちっとも信じてないんだろう。だから、犯罪者が更生する可能性を反射的に否定しちまうんだ。これに関しちゃ、俺のことはともかく、バットマンの言うことだって信じちゃいねぇんだろ。だから、ここに様子を見に来たんだ。新しい更生プログラムをブラックゲートへ導入したって、どうせ上手くいきゃしねぇって思ってるんだろう。違うか?」

バットガールは唇を噛んで顔を逸らした。おいおい、敵から視線を逸らすなんて基本的な教育がなってねぇぞ、と内心バットマンに文句を言いつつ、ジョーカーは最後の一押しを口に出した。

「家族でさえ信じていない人間を、一体誰が信じてくれるって言うんだ? なぁ、バーバラ・ゴードン」

バットガールは俯いたまま、荒い呼吸を繰り返している。それは、傍目には泣くのを我慢しているようにも見えた。

しばらくして、やっとの思いで絞り出したのだろうバットガールの声はか細く震えていた。

「……うるさいっ。あんたなんかに、何が解るって言うのよ!」

解りゃしねぇよ……。

ジョーカーは反射的に思ったが、それを口には出さなかった。代わりに盛大な溜息を吐く。

彼女もお優しいバット・ファミリーの一員だ。ジョーカーが一人でいる時にケイブに忍び込んだからといって、ジョーカーを殺したり、動けないように身体を壊したりすることが目的ではなかっただろう。

大方、バットマンが騙されているんじゃないかと心配して様子を見に来ただけで、元々はバレないうちにケイブを出て行く予定だったのではないか。この分じゃ、バレた場合の対処にしても、いいとこ釘を刺してやるくらいに思っていたのがせいぜいだ。

一人でなんでも抱え込んで、自分だけで解決しようとするところはバットマンに似ている。まあ、似ているからこそバット・ファミリーの一員なんてやっているんだろう。

「いいから、今日はもう帰んな。バッツには、ここにお前が来たことは言わないでおいてやるから」

ジョーカーが溜息交じりに告げると、バットガールは顔を上げて訝しげな表情でジョーカーを睨み付けた。

「どういうつもり?」

ジョーカーはわざとらしく肩を竦めて見せた。

これは餌だ。このまま帰るという行動を起こせば、バットマンからの信頼を保てるという期待を持たせるための。そして彼女は、その期待に逆らえない。

「別に、俺は全然構わないぜ。お前がここに居座ったって。バッツに直接詰め寄ってやりゃいいだろ。あなたのことを私は全く信じていません、って」

バットガールは唇を噛んで黙り込んだ。ジョーカーの言うことを聞くのは癪だが、このままバットマンが帰ってくるまでケイブに居れば、まさしくジョーカーの言うとおりに、バットマンのことを信じていないことが本人に露見することになる。だから、どちらを選ぶべきか葛藤しているのだろう。

ただ待つのに飽きたジョーカーが、爪の先のゴミを気にし始めた頃、バットガールが短く口を開いた。

「帰る」

「どうぞ、ご勝手に」

ジョーカーはデスクチェアに腰掛けたまま、ひらひらと手を振ってバットガールを送り出した。

彼女の姿が闇に紛れ、気配が消えた後、ジョーカーは口元に手を当てて小さく唸った。

自分のテリトリーへの侵入者を放逐するのに、かすり傷の一つも負わせないなんて、今までだったら絶対にあり得なかった。

けれど、暴力なしでやっていくことも、それほど難しいことではないかもしれない。ちょっとばかしゲームの難易度が変わるだけだ。暴力というアビリティの代わりに、別の種類の恐怖と期待を使ってやればいいだけ。

少なくとも、恐怖を使うことに難渋することはない。問題は期待、つまり報酬の方だ。

ギャングどもへの報酬は金や女や薬でよかったが、それらはバットマンやブルースに対しては報酬にならないだろう。

一体何だったら彼らを期待させ、喜ばせられるのだろう、と考えながら、ジョーカーはモニターに映るブルースに目を向ける。自身の頬が自然と緩んでいることに、ジョーカーは全く気がついていなかった。

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