音楽表現は、言語表現よりも優れているのか

 恩田 陸の『蜜蜂と遠雷』を読んで、どうしても納得できない部分があります。これは、何も恩田陸に限ったことではなく、前々から、気に入らないなと思っていたことが、今回どうして気に入らないのか解ったので、せっかくだから記事にしたいと思います。

 それは、「音楽表現は、言語表現よりも優れている」という認識についてです。

・演奏された音楽と書かれた小説を比べるのはフェアではない

 どうして音楽と小説(言語作品)を比べる時に、【演奏された】音楽と【書かれた】小説を比べようとするのでしょうか。これでは、比べる対象の条件が整っておらず、小説に限りなく不利な比較の仕方になっています。

 たとえば、同じ金属であっても、固体の状態の銀と液体の状態の水銀を比べてみることを考えれば、【演奏された】音楽と【書かれた】小説を比べるのがどれだけおかしなことか解るでしょう。

 「銀と水銀はどちらも銀光沢を持っている。しかし、銀は変形しにくく一定の形を保つのに対して、水銀は固有の形を持たないためどんな器にもフィットすることができる。そのため、水銀は銀より優れている」と説明されたら、大抵の人は「それは違う」と感じるのではないでしょうか。

 なぜなら、変形しにくく一定の形を保つのは固体の性質であり、銀だけの特徴ではないからです。同じように、固有の形を持たないのは液体の性質であり、水銀だけの特徴ではありません。

 また、銀も熱すれば液体になるため、「固有の形を持たない状態」になりますし、同じように水銀も冷やせば固体になるため、「変形しにくく一定の形を保つ状態」になります。

 このような、「その物質の特徴ではない部分を比較して、どちらがより優れているかを判断すること」は、間違いです。

 音楽と小説を比較するときにも、ちょうどこれと同じ誤謬が起こっています。

 演奏されて空気中に響いている音楽は、いわば気体の状態です。これと比べるなら同じ気体としての小説と比較しなければなりません。気体の状態の小説は、読み上げられて空気中に響いている「朗読」がこれに当たるでしょう。音楽には不利かもしれませんが、「小説を再現している」という観点でみれば、映画やドラマ、そして何よりも演奏された音楽により近い形態である演劇を含めることができると思います。

 同じように、文字として紙に書かれた小説は、いわば固体の状態です。これと比べるなら同じ固体としての音楽と比較しなければなりません。固体の状態の音楽は、音符として紙に書かれた「楽譜」がそれに当たるでしょう。

 つまり、【演奏された】音楽と比べられるのは、同じく【演じられた】朗読であるべきだし、【書かれた】小説と比較するのならば、同じく【書かれた】楽譜であるべきです。

・「音楽には言語の壁がない。音楽は言葉よりも優れている」という、酷い勘違い

 音楽好きの人は、割と悪意なく「小説には言語の壁があるが、音楽にはない」とか、「音楽こそが真の言語だ」とか言って、言葉を侮辱することが多いように感じられます。けれども、これは大いなる勘違いであると言わざるを得ません。

 言葉が理解できなくても通じ合えるのは、「音楽」の特徴ではなく、「音」そのものの特徴だからです。

 例えば、誰かの恐怖に引きつった悲鳴を聞けば、それが「怖い」という言葉になっていなくても、聞いた人は「誰かがとても怖がっている」のが解ります。悲鳴を耳にした人は、悲鳴を上げた人の「恐怖感を共有すること」ができるのです。「音」には感情を伝える力があるからです。つまり、「音楽」である必要性なんてないんですよ。だって、耳障りな悲鳴でだって同じ効果が得られるんですから。

 そう、「音」には感情を伝える力があります。

 だから、魂のこもった演奏で「音」として表現された音楽を聴いて、「感情を共有すること」ができるのはあたり前なのです。でも、それは「音楽」の力ではありません。「音」の力です。

 同じように、感情を込めて読み上げられた全く知らない言語の「朗読」を聴いても、あたり前のように「感情を共有すること」ができます。それが「音」の持つ力だからです。

 言葉も音として聴けば、音楽と同じように「感情を共有すること」は可能なのです。たとえ何を言っているのか解らなくても、大声でわめき散らしている人がいれば、怒っていることは伝わります。

 もちろん、知らない言語の「朗読」を聴いても、「意味」を理解することはできません。それによって、母国語の朗読を聴くよりも、物語に対する理解度は格段に劣るでしょう。

 けれども、「意味」を伝えることができないのは音楽も同じです。

 音楽で「意味」や「概念」を伝えることはできません。「ねこふんじゃった」が世界中で様々な題名で呼ばれていることが、「音楽で意味は伝えられないこと」の傍証になるかと思います。音楽で意味を伝えられるのなら、「ねこふんじゃった」の曲名が国によって「カツレツ」や「チョコレート」に変わるはずがありません。

 音楽に「言語の壁を超える力があるわけではないこと」は、楽譜について考えてみればすぐに判ります。

 たとえば、琴の楽譜をクラシック音楽しかやったことがない欧米人に見せた場合、そこにどんな曲が書かれているのか、見せられた人は理解できるでしょうか。

 雅楽も、クラシックも音楽です。「小説と違って、音楽には言語の壁がない」のなら、当然、「どちらも音楽だから」という理由で、琴の楽譜を初めて見る人でも、クラシック音楽の知識があれば、そこにどんな曲が書かれているのか判るはずですよね。だって、「音楽には言語の壁がない」のですから。

 私が、どんなにおかしなことを言っているか、解りますか? でも、「小説と違って、音楽には言語の壁がない」と無邪気に言う人が小説に対して課している条件って、こういうことですよ。

 壁があるのは「言葉と言葉の間」ではありません。「違う形式で書かれたものの間」です。音楽だって、楽譜として「書かれたもの」になった瞬間にその曲の文化的背景による壁、つまりは、言語の壁(ここでは、五線譜と絃名譜の壁)ができるのです。

 【書かれたもの】としての「小説」と比べるのならば、同じく【書かれたもの】としての「楽譜」と比べなければ、正しい比較にはなりません。

・「小説家」と「ピアニスト」は似ていない

 あと、恩田陸は「小説家」と「ピアニスト」は似てると書いていますが、私に言わせるとこれっぽっちも似ていません。

 小説家と比べられるべきなのは作曲家で、ピアニストと比べられるべきなのは役者です。

 まあ、これは「業界の体質が似ている」という点に重きが置かれていて、実際にやっていることは全然違うのは恩田陸本人もわかっているでしょうし、多くの読者も改めて言われることなく違うことは解っているでしょう。

 「小説家と役者」「作曲家とピアニスト」が全然違うように、「小説家」と「ピアニスト」は全く違います。

 「自分の引き出しの中から自分の伝えたいことを書き出していく作業」と「書かれたものから表現していく作業」が、なぜ比べられるのか個人的には理解に苦しみます。「書かれたものを表現すること」を考えれば、ピアノ業界に似ているのは、文芸業界じゃなくて演劇業界・芸能界だと思うのですが、きっと自分のいる世界に引きつけたかったのでしょう。

 私は、全然似てないと思いますけど。ええ、ほんと全然似ていないと思いますよ。

・音楽好きの人は、どうか小説を、言葉を、侮辱しないでほしい

 中段でも述べましたが、「小説と違って、音楽は言葉の壁を越えられる」というのは、大いなる勘違いです。この記事で、そのことに納得頂けた方は、どうか、「音楽は言葉よりも優れている」等の発言は控えて頂けると嬉しいです。

 「音楽は、言葉よりも優れている」のではありません。「音楽は、言葉と同じように優れている」のです。

 私は、人の歴史というか、文化の黎明は、音楽と神話(神話は物語であり、やがて小説に繋がっていく)によって始まったと考えておりますし、楽譜を読むのは好きではないけれども、音楽を聴くことは大好きです。

 けれども、「音楽は言葉よりも優れている」系の発言を聞く度に、言葉を、そして何よりも小説を愛している私は、「俺の怒りが有頂天だぜ!」と、腹に据えかねる思いがします。

 音楽は言葉よりも優れていると言う人には、お願いですから、どうぞ、言葉よりも優れていると仰る音楽だけを使ってお話しをして頂きたいと思います。音楽は言葉よりも優れているんですから、そんなことになっても全然困らないですよね。だって、音楽の方が言葉よりも優れているんですから。

 だって、ほら、スター・ウォーズではR2-D2が電子音の「メロディだけを使って会話すること」を実践していますものね。ピーター・パンのティンカー・ベルも、鈴の音だけで感情を表現していますしね。

 音楽は言葉よりも優れていると言う人には、是が非でも、言語を介さずに、音楽で伝えることを実践して欲しいです。そうすれば、こちらには「言語を侮辱する言葉」も伝わることがなく、不愉快な思いをすることもないでしょうから、伏してお願いいたします次第でございます。

戻る inserted by FC2 system