さらざんまい 久慈 誓考察

~切れたから叶う願いもある~

 幾原監督の『さらざんまい』、無事に完走しましたね。非常に明るく爽やかな終わり方と、当初からの「手放すな、欲望は君の命だ」というメッセージを最終話で見事に物語として着地させてくれて、安心して好きと言える作品になりました。

 幾原監督の作品で最後まで主人公たちが作中世界で生き残ったのは『劇場版 少女革命ウテナ アデュレセンス黙示録』以来ではないでしょうか。

 今回は、そんな『さらざんまい』で個人的に気になった『悠の涙が弾ける描写』から、久慈 誓の繋がりと願いについて考えていきたいと思います。

・個人的にとても気になった『悠の涙が弾ける描写』

 真っ黒い画面の中心で涙が物に当たったように弾けて白くきらめく。

 この『悠の涙が弾ける描写』は『さらざんまい』作中に二回、類似表現が一回出てきます。

 一回目は、9皿目Cパート久慈誓の死亡シーン。二回目は11皿目、忘却シーン後の悠の「大切な物を失うのは、嫌だ!」のセリフ直後。そして類似表現として10皿目Cパートの燕太が目覚める直前のシーン。ここでは金の希望の皿が割れる様子が「真っ黒い画面の中心で希望の皿が割れて弾け、白い欠片がきらめく」という非常によく似た表現で描写されます。

9皿目の悠の涙
11皿目の悠の涙
10皿目の希望の皿

 10皿目の金の希望の皿が割れるシーンと9皿目と11皿目の『悠の涙が弾ける描写』を類似表現として描写したのは、これら三つのシーンが同じことを表象しているからだと考えられます。これらの表現が表象しているのは「願いが叶えられたこと(願いが聞き届けられ、これから叶っていく瞬間)」ではないでしょうか。

 10皿目の金の希望の皿が割れるシーンが「願いが叶えられたこと」を表していることに異論はないと思います。金の希望の皿が使われるシーンは2皿目アバンでも描かれており、この時、燕太の願いを叶えた希望の皿は割れてしまいます。また、10皿目で金の希望の皿が割れたシーンでは、直後に燕太が目を覚ましており、その後の悠のセリフと併せて一稀が希望の皿を使って燕太の命を救ったことが判ります。

 11皿目の『悠の涙が弾ける描写』は、直前の悠のセリフ「一稀……燕太……。大切な物を失うのは、嫌だ!」と、続く三人でのさらざんまいによって繋がりが結び直され、悠は一稀と燕太との繋がりを失わずに済む、という状況を考えれば、こちらも悠の願いが聞き届けられ、これから願いが叶っていく瞬間の表現であることが判ると思います。

 さて、問題は9皿目Cパートです。

 上述の10皿目、11皿目の描写を踏まえると、誓死亡時の『涙が弾ける描写』も誰かの願いが聞き届けられ、これからその願いが叶っていく、という表現なのではないでしょうか。では、誰の、どんな願いが聞き届けられたのでしょうか。私は、それは「誓の、悠に生きてほしい」という願いなのではないかと思うのです。

・呪いとしての久慈 誓

 悠にとって、誓はとてもアンビバレントな存在です。誓との繋がりは、一方では生きていくための支えであり、同時に他方では生きづらさを抱え込む原因でもあります。

 他人によって抱え込まされる生きづらさ、これは呪いと言い換えることができます。

 例えば、誓の信念である「上手くいかない時は全部捨てる」という行動原理を悠も内面化しています。これによって悠は「サッカー選手になりたい」という欲望を手放すことになります(一稀にミサンガを託すシーン)。また、11皿目で、悠が繋がりを断ち切ろうとするのも、誓の「上手くいかない時は全部捨てる」という信念を悠も内面化しているからだと考えられます。

 同じように内面化された「この世界は悪いやつが生き残る」という信念は、「生き残りたければ、悪い奴でなければならない」となり、悠から社会的な更正の道を奪っています。

 これら誓の価値観を内面化し、誓を追いかける悠(誓に呪いをかけられている悠)は、誓と同じように裏社会へと足を踏み入れていくことになります。

・相反する誓の願い

 悠にとっての誓がアンビバレントな存在であるのと同じように、誓が悠に対して抱いている感情も相反するものであるように見えます。

 2皿目や9皿目Aパートの誓の悠に対する態度は「危険な裏社会に生きる自分に関わらせたくない」一方で、「悠の気持ちを尊重して傍にいてやりたい」という矛盾した二つの思いの間で揺れているように見えます。

 また、9皿Bパートでは誓の「生き残りたい」という欲望が前面に描かれています。

 誓自身の「生き残りたい」という欲望を叶えるためには、「上手くいかない時は全部捨てる」「この世界は悪いやつが生き残る」という信念の元に行動選択をしていくことになり、これらの選択肢は「悠の兄(庇護者)」としての行動理念と真っ向から対立しています。

 この葛藤が一番よく出ているのが、9皿目Bパートのラストシーンです。

 このとき誓が生き残るためには、「邪魔な弟を捨て」「弟を撃つ悪いやつ」になる必要がありました(実際の状況はともかく、誓の持つ信念では、「邪魔な弟を捨て」「弟を撃つ悪いやつ」になれれば生き残れるはずでした)。言うまでもなく、「悠の兄」としての行動理念は「弟を見捨てず」「弟を撃てない良いやつ」になることを誓に迫ります。

 誓の「生き残りたい」という欲望は、9皿Cパート直前に悠を庇ってしまったことによって、手放さざるを得なくなります。

 しかし、「生き残りたい」という欲望を手放すことで、もう一方の悠を大切にしている「悠の兄としての誓」が露見します。生命の基本である食事の心配をしてやることや、胸ポケットに大事に持っていた悠だけ塗りつぶされていない写真によって、彼が悠のことをどれだけ大切に思っていたかが悠と視聴者に明かされます。

 誓が死ぬことによって、悠と誓の生者同士の関係という意味での繋がりは切れてしまいます。しかし、同時に誓が悠のことを大切に思っていたことが悠に伝わって『悠の涙が弾け』、誓の願いが叶い始めます。

・呪いを断ち切る11皿

 『さらざんまい』の11皿目は悠が誓の呪いから解放されていく様子を描いています。

 悠は誓の姿で現れたカワウソを「俺のことは俺が決める」と言って撃ち殺し、一稀、燕太との繋がりを捨てずにさらざんまいする(繋がる)ことを選ぶことで、内面化していた誓の信念を否定し、呪いとしての誓と決別します。

 また、悠が内面化していた誓の価値観から解放されたことは、誓が刑事罰を受けずに裏社会で生きることを選択したのに対し、悠が刑事罰を受けて表社会で生きることを選択した、という対比によっても表現されています。

 誓の存在は確かに悠の行動を制限し、破滅的な方向へ向かわせる呪いのような面がありました。その一方で、誓が悠のことを大切に思い、悠が誓を生きる支えにしていたことも、また真実なのです。

 誓は今回幾原監督が表現したかったことの一つである「切れたからこそ、叶う願いもある」を担った重要なキャラクターの一人なのではないでしょうか。

 悠の救済は、誓への盲目的、妄信的な繋がりを断ち切ることで行われます。これは、さらざんまいのテーマの一つである、「切れたからこそ叶う願い」の一つです。誓は死によって、悠にとっての呪いであることから開放されたのです。誓から呪いの側面を取り払えば、あとに残るのは「悠だけ塗りつぶされていない写真」に象徴される「悠の兄(庇護者)」としての側面です。

 そう考えると11皿の悠の救済は、誓の願いの加護のもと行われた、と考えることもできるのではないでしょうか。

 『輪るピングドラム』の陽毬は、世界を乗り換えて救済されることで兄との繋がりを失い、冠葉と晶馬のことを忘れてしまいました。

 悠は陽毬と同じように兄との繋がりを失い、また自ら呪いとしての誓との繋がりを断つことで救済されました。けれども、悠は誓のことを忘れることはないでしょう。それは喪失という痛みをずっと抱えていくことでもあります。

 悠の救済は誓との繋がりが切れたからこそ成されたものです。悠の救済が同時に誓の願いでもあったと考えると、「悠が生きていくことで、誓もまた悠との繋がりを持ち続けていく」とも言えるのではないでしょうか。

 そういえば、雫が弾ける表現は、『少女革命ウテナ』では扉が開く前兆の表現でした。扉が開く表現は、心を開いて思いが通じ合うことをも表象していました。最終話でウテナとアンシーの思いが「繋がった」ことも、雫が弾けて薔薇の門が開かれることで表現されていました。

 悠と誓の思いが繋がったからこそ、悠は呪いとしての誓を断ち切ることができたのかもしれません。

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