今でも時折、折に触れて考えずにはいられない。

あの時、彼の言葉に従って彼の狂気の世界に飛び込めていたならば、きっと、今とは全く違う世界が目の前に広がっていたのに違いない、と。

The World Branch Hypothesis

世界分岐仮説

Side Bruce

ブルース・ウェインは横断歩道の向こうで信号待ちをしている男の姿に目を見開いた。夜ごと繰り返されるヴィラン達との大運動会と会議続きで鈍ってきていた思考が瞬時に高速回転をし始める。

道の向こう側に立っている男は、どう見ても自分のようだった。クレイフェイスの変身か、それとも、もっと何か他の悪巧みがあるのか。ブルースは息を詰め、男から片時も目を逸らすことなく信号の色が変わるのを待った。

熱い視線を向けられたせいか、信号待ちをしていた男の方でもブルースの存在に気がついた。こちらを向いた男の唇が、にんまりと吊り上げられる。その笑顔は、なぜかブルースに、常に笑顔を浮かべている厄介なヴィランのことを思い起こさせた。

信号機の色が青に変わり、ブルースは男に向かって足を踏み出した。男は親しげに片手を挙げてブルースに近づいてきた。男の余裕のある態度にブルースの心臓が早鐘を打ち始める。こいつは、危険だ。

先に声をかけたのは、男の方だった。

「やあ、ブルース。まだ自警団まがいのことをしているのかい?」

それはまるで、自分自身の声を聞いているような奇妙な感覚だった。

「お前は――」

クレイフェイスはバットマンの正体を知らない。いや、この街のどんなヴィランもバットマンの正体を知らない。その正体を知っているのは、忠実な執事と、養い子達と、それから、

「ブルース・ウェイン。ここで会ったのも何かの縁だ。少し、話をしないか? 例えば、そこのお気に入りの店で」

笑顔を浮かべたままの男が指し示したのは、ブルースがこれから行こうとしていたカフェだった。ウェイン・タワーのすぐ近くにあるその小さなコーヒー・ショップは、会議が続いた時に眠気覚ましと散歩をかねてブルースが決まって足を運ぶ店だった。

この男は、ブルース・ウェインのことをよく知っている。それは一種の脅迫だった。

妙なことになった。

ブルースは目の前の男に視線を向けたまま顔をしかめた。

こぢんまりとした店の奥、あまり人目につかないテーブル席にまるで鏡あわせのようにブルース・ウェインが二人、向かい合って座っている。

一人は口の端を吊り上げて笑顔を浮かべ、一人は唇を引き結んだ仏頂面だ。

自分自身と向かい合うこの奇妙な感覚にブルースは嫌と言うほど覚えがあった。むしろ忘れろ、と言われても無理な相談だった。何しろあの時には、ダーク・マルチ・バースからやってきたブルース・ウェイン達に散々な目にあわされたのだから。

自然、ブルースの声はいつにも増して冷たく硬いものになった。

「お前は何を企んでいる?」

対する男の声は陽気だった。

「なんにも、特には」

軽い調子で肩をすくめる男の仕草は、あまりブルース・ウェインらしくない。むしろ、そう、自分よりもあの男に似ている。ブルースの脳裏にけたたましい笑い声が響く。

「どうもたまにこういうことが起こるらしい。違うアースに居ても強い願望に引き寄せられる」

男はリラックスした様子でコーヒーに口を付け、話を続ける。

「私は何度か経験があるよ。君は初めてかい? どうも私は、どのアースでも相当あの男が気がかりらしいね」

心配しなくても、ちょっと世間話をして、数分もすれば私は元のアースに帰るよ。そうじゃないと彼との約束に遅刻してしまうし。

男は話し続けていたが、ブルースが引っかかりを覚えたのは男が元のアースに帰る云々の話ではなかった。

「あの男……?」

男が片眉を上げて、にやりと笑う。その表情は、唇の裂けた道化師の笑い方によく似ていた。

「今でも後悔しているんだろう? あの時のこと」

ブルースは息を呑んだ。思い当たる場面が口をついてこぼれ落ちていく。

「あの時。奴の背を追って、向こうのビルへ飛べていたら」

彼の狂気の渦に、共に飛び込んでいけていたなら。

けれども、その続きは決して口に出してはいけない望みだった。誰にも知られてはいけない。自分自身に対してさえも。

しかし、目の前の男は残酷にもその続きを、決して明かされてはならないブルースの秘めた願いをあっさりと暴いて見せた。

「今頃私は、彼の隣に居られたのだろうか」

頭の中で、犯罪界の道化王子が腹を抱えて笑っている。

「いいや、そんなことは――」

あり得ない、と言おうとしたブルースは、はっとして目の前の男を凝視した。

違うアースに居ても強い願望に引き寄せられる、どのアースでも相当あの男が気がかり……。

「お前、まさか……」

たどり着いた結論にブルースは目を見開いた。ダーク・マルチ・バースからやってきた『笑うバットマン』はジョーカーを殺してしまった己の姿だった。思えば、敵としてあれほど厄介な相手もいなかった。

目の前の男は『笑うバットマン』ともまた違った印象を受ける。けれども、その笑顔がジョーカーを思い起こさせる点は同じだった。

ブルースから驚きと困惑と忌避と嫌悪が入り交じる視線を向けられても、男は何でもない様子でコーヒーを口に運んでいる。

「殺したのか。あいつを」

ブルースの両手にあの夜の感触が蘇る。病的に白いが血の通った温かい肌の温度、頸動脈が拍動するリズム、首を絞める両手に力を込めても鳴り止まない耳障りな笑い声、頬を伝う熱い雨の流れ。

「いいや、違うな」

男の言葉にブルースは無意識のうちに止めていた息を吐き出した。強ばりかけた肩から意識して力を抜く。

「だが、私は自分のルールを少し変えた」

男はコーヒーカップをソーサーの上に戻して続けた。

「そして、彼も犯罪のルールを少し変えた」

ブルースが眉をひそめて先を促す。男は口元に笑みを浮かべたまま、ひたとブルースに視線を合わせた。

「君は何度も見てきただろう。悲惨な事件現場。恐怖に見開かれた被害者の目。他人を傷つけること、そのものを楽しめる人間。君だって、考えたことがあるんじゃないのか。世の中には死んだ方が社会の為になるような人間もいるのではないか、と」

ブルースは瞬きして自分を見つめる男の目から逃れようと視線を逸らした。

「それでもバットマンは、人を殺さない」

両親を殺した犯人と同じ場所に堕ちるつもりはない。それがブルースの信念だったし、誇りでもあった。自分を守り育ててくれたアルフレッドの望みでもある。それに、どんな人間であっても、更生の道は残されてしかるべきだ。

「そうだな。バットマンは、人を殺さない」

含みのある言い方にブルースは視線を上げて男を見つめた。目の前の男は相変わらず、にたにたと笑っている。

「彼も犯罪のルールを少し変えた、そう言ったな。お前が殺しているんじゃない。殺させているんだな……?」

ブルースの言葉に男はますます唇を吊り上げた。

間違いない。こいつは、『死んだ方がいいような人間をジョーカーに始末させている』のだ。腹の底で熱い怒りが燻り始める。ブルースは感情のまま男を睨み付けた。

男は気にした風もなく、左腕にした時計に視線を落とした。

「私が頼んだわけじゃない。ただ……」

「ただ?」

「お互いの利益が多少重なった。それだけだ。彼が協力的になってから、ゴッサムの凶悪犯罪の総数は激減した。これが事実だ」

ブルースの中で焼けるような怒りが膨れ上がった。それが目の前の男が他者の命に手をかけていることに悪びれもしないことに対してなのか、彼がゴッサムを恐怖で縛り付けていることに対してなのか、自身は潔白な顔をしてジョーカーに手を汚させていることに対してなのか、それともこんな男と取引をしているらしい彼の世界のジョーカーに対するものなのか、あるいはその全てに対してなのかはブルースにも解らなかった。

「さて、私はそろそろお暇するよ。君も、もう一度よく考えてみるといい。方法は一つじゃない。でも、君が本当にそれを望むのであれば……。狂気を捨て去るべきなのは、君の方なんじゃないのか」

怒りで燃えるブルースの心に男の最後の言葉は決して解けない霰の一粒のように冷たく突き刺さった。

だから、席を立って店を出て行く男を追いかけるのが一瞬遅れた。

ブルースが店の扉から通りを見渡したとき、男の姿は既にどこにも見当たらなかった。

狂気を。

己の狂気を捨てて、彼の狂気の世界に飛び込めていたならば――。

ブルースは未だ滞留する熱い怒りを吐き出すように、深いため息をついた。

そんなことはあり得ない。たとえ、どんな人間であっても、更生の道は残されてしかるべきだ。たとえ、どんな人間であろうとも、だ。

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