今でも時折、折に触れて考えずにはいられない。
あの時、彼の言葉に従って彼の狂気の世界に飛び込めていたならば、きっと、今とは全く違う世界が目の前に広がっていたのに違いない、と。
The World Branch Hypothesis
世界分岐仮説
Side Joker
ゴッサムの住人で犯罪界の道化王子を知らないものはいない。
華々しく残虐な犯罪の手口はもちろんのこと、その容姿だって殊更目を引く。明るい緑の髪、暗闇の中でも目立つ白い肌、いつも羽織っているジャケットだって陽気な紫色だ。
だから、ジョーカーは変装が得意だった。何しろ、いつもド派手な『ジョーカーの格好』をしている分、髪を隠し、顔にファンデーションを塗り、地味な服を着てしまえば、誰も向こうから歩いてくるのがジョーカーだなんて思いもしないのだから。たとえ、その人物が引き吊れた笑顔を浮かべていようとも、もしかしたら、と思うものさえいなかった。
ジョーカーはその日もそうやって人混みの中に紛れていた。ゴッサムの街をそぞろ歩きながら、次のパーティの企画案を練る。
花火はどうだろう。夜空を照らす豪快な爆発には、見物人もたくさん集まるに違いない。水遊びもいいかもしれない。天に向かって吹き出す真っ赤な噴水。鉄錆びた匂いがジョーカーの脳裏に広がる。そのままお絵かきをして、街を赤く染め上げるのはどうだ? いやいや、もっと凝った物語仕立ての舞台を用意してやる方がいいか? 主役はもちろん蝙蝠で、闇の騎士が悪のヴィランをやっつける、みんな大好きなお決まりのパターンだ。もっとも、脇役に選ばれた奴らはご愁傷様だが。
ふと、目に止まった妙な男にジョーカーは息を潜めた。真面目そうな地味目の男だ。売れないコメディアンをやりながら化学工場で働いていそうなその男は、口元にささやかな笑みを浮かべて足早にこちらに向かってくる。
その男に得も言われぬ薄気味の悪さを感じるのは、それが自分自身であると根拠もなく確信させられてしまうせいだ。
すれ違いざま、ジョーカーは男の腕を掴んで立ち止まらせた。困惑した表情で振り返った男と目が合う。
この世界には様々な地球があり、それぞれに似て非なる自分が、あるいは表面上は異なるが根本は同じ自分がいるらしい。幸いにしてジョーカーは別アースの自分に直接会ったことはなかったが、実際にそのもう一人の自分を目の前にするとこんな感じを受けるに違いない。
「あの……」
腕を掴んだまま黙り込んでいるジョーカーに、男が遠慮がちに声をかけた。
しかし、戸惑っているのはジョーカーも同じだった。
男のもたらすあまりにも奇妙な感覚に思わず捕まえてしまったが、さて、どうしたものか。
「お前、蝙蝠は好きか?」
そう問いかけた瞬間、男の目の色が変わった。瞳孔が拡大し、底の方に沈殿した暗い狂気が顔を覗かせる。ああ、俺の好きな表情だ。蝙蝠の王様も瞳の奥にいつもこの表情を隠している。間近で覗き込んだ時にしか見ることができない。何人たりとも侵し得ぬそれは、信念という名の狂気。狂信だ。
ジョーカーは口の端を吊り上げた。
「いいねぇ、その表情。教えてくれよ、あんたはどんな王様に仕えてるんだ?」
男の希望で大通り沿いにある公園のベンチに場所を移した。通りに二人で突っ立って通行妨害をすることに別段面白みは感じないので、ジョーカーにも特に否やはなかった。夕暮れ間近の公園からは既にだいぶん人が減っていた。
ちょうど仕事帰りなんだ、とその男は言った。口元に笑みを浮かべていたのは会社でいいことがあったかららしい。
会社! 懐かしい響きだ。自分もかつては会社に通い、決められたことを決められた通りにこなし、稼ぎを得ていたような気がする。
「俺は次の仕事をどうするか考えていたところだ」
ジョーカーがそう返すと、男は楽しそうにくつくつと喉を鳴らした。
「愛しの蝙蝠のために?」
「愛しの蝙蝠のために。あんたは? そんな格好で会社に通って、道化師の仕事は引退か?」
「引退? まさか!」
男は大げさに目を見開いて肩をすくめて見せた。
「むしろ、仕込みの真っ最中さ。あんた、信じられるか? あの蝙蝠は、人間には生まれながらに善性が宿っているし、悪人は更生できるし、社会正義は実現されるって信じてるんだぜ」
それもここゴッサムでだ、男が楽しそうにケラケラ笑うのにジョーカーは肩をすくめた。相変わらず蝙蝠はどこにいても、どこまでいっても、おめでたいヒューマニズムの信奉者であるらしい。
人間は利己と合理の化け物だ。奴らにとって他人はいつだって騙し、自分のために利用するためだけに存在する。我が身を守るためなら、人はどこまでだって無慈悲で冷酷になれる。利己から発生する残酷さこそが生命の本質だ。
人間に備わった善性や社会性なんて、己がその被害に遭わないようにするための社会的な相互監視機能でしかない。
そして、社会的な相互監視機能が通用しない人間は、常に一定数存在する。
しかし――
「それにしても、今のあんたは、まるでその幻想を信じている善人みたいに見えるぜ」
「人の信念が一番揺らぐのはどんな時か、知ってるか?」
男の拡大した瞳孔が、赤く染まった夕日を受けてキラキラと輝いている。男の瞳の底に宿る狂気が血のような光を浴びて嬉しそうに舞い踊っている。
あまりに楽しそうな男の様子にジョーカーは興味を引かれ、素直に合いの手を差し出してやる。
「信じているものに裏切られた時」
「そう! それも、寄せる信頼が大きければ大きいほど、身につけた自信が絶大であるほど、突き崩されたときの絶望はでかくなる」
男は我が意を得たりと、ますます瞳をきらめかせた。
「思いも寄らない成功体験で自信を付け、有頂天になったときに取り入り、信頼関係が強固になった後に現実を知らしめる。あいつはどんな顔をしてくれるだろうなぁ」
胸の前で両手を組み、男はうっとりと日が沈みゆく空を見上げた。
「つまり、バットマンに取り入っている最中だ、ってことか?」
男はくるりと振り返り、ジョーカーに笑いかけた。
「ジョーカーが犯罪をやめてもゴッサムの様子は相変わらずだ。マフィアがのさばり、アーカム・アサイラムからの脱獄囚が通りを闊歩し、警察や政治家は賄賂三昧。司法は市民の訴えを棄却してばかり。それなのに、最近の蝙蝠はすこぶる機嫌がいい。なぜだか解るか?」
「街一番の道化師が、王の手を取り、その望み通りに踊っているからか」
あの蝙蝠が自分の思い通りに踊ってくれたら、そりゃあ気分がいいだろう。ちょっと想像してみて、ジョーカーは短く口笛を吹いた。蝙蝠にとっても、道化師が自分の思い通りになるのは、同じように気分がいいに違いない。
なぁ、解るだろ、と男は幸せそうにため息をついた。
「毎夜のパトロールから疲れた顔をして返ってきたあいつが、玄関で出迎える俺に気づいたときの表情をあんたにも見せてやりたいよ。『この街は相変わらずだが、君を見ると希望が持てるよ。人は必ず変われるんだって、自信が持てるから』だってさ。笑っちまうよなぁ。俺が更生したって信じてるんだぜ。完全に狂ってやがる」
その時のバットマンの様子を思い出しているのだろう、男は腹を抱えて笑い始めた。
「あいつのオモチャ、凄いだろ。その金と技術力を、今は俺を普通にすることに注力してる。この髪や肌を見ろよ。いくら見た目を普通にしたって、俺はもう直りゃしないのにな」
相手に踊らされているように見せて、その実、自分が手のひらの上で相手を踊らせているのなら、男の上機嫌さは納得だった。ジョーカーは自分がもし同じ状態なら、と想像してみる。楽しそうなのは確かだ。けれども、そんなまどろっこしいことは、ジョーカーにはできそうにないことも、また事実だった。
「それで、フィナーレはいつの予定だ?」
ジョーカーが訊いた途端、男はぴたりと笑い声を納め、急に静かになった。顎に手を当て、ふむと悩ましげに眉を寄せる。
「目下の問題はそこさ……。あいつの絶望する顔も見たいが、もう少しおちょくっていたい気もしてね。なにより――」
「なにより?」
その先が言葉にならないのか、男は言いさしたまま黙り込んだ。男の様子にジョーカーは肩をすくめて立ち上がった。どうやら、そろそろ潮時らしい。
目の前にいるこの男は、蝙蝠の狂気に抱かれ過ぎたのだ。彼の狂気に身を任せるうちに、侵され食い尽くされようとしている。せっかく盛大なフィナーレを用意しても、実行できないんじゃ骨折り損だ。そんなことになる前に、とっとと離れて次のお遊びの計画を立てた方が建設的だ。
いいや。そんな理由は、本当のところただの言い訳に過ぎない。
この狂おしい世界で生きていくためにどうしたって狂気が必要ならば、ジョーカーは蝙蝠の狂気を選んだっていいはずだった。あの蝙蝠の強迫観念じみた狂信の中にたゆたうのは、どんな心地なのか夢想することさえあった。それでも、ジョーカーには蝙蝠の狂気に身を任せる勇気はなかった。怖かったからだ。この狂気を手放したら、自分が自分でなくなってしまいそうで。不条理が支配する現実に、押し潰されてしまいそうで。
「最後に一つだけ、訊いてもいいか?」
ジョーカーが本題の質問を口にする前に、背後に残ったままの男から返答があった。
「だって、そうするしかないじゃないか。あいつが堕ちてこないから、俺が堕ちることにしたんだよ」
だって、どうしても欲しかったんだ。
風に紛れるようにして微かに聞こえた最後の一言に振り返れば、男が座っていたはずのベンチは既にもぬけの殻だった。