『劇場版少女革命ウテナ アデュレセンス黙示録』

 TVシリーズに続いて、劇場版も観賞しました。中学生くらいの時に2回観賞したはずなのですが、意味不明過ぎて、「ウテナが車になった」こと以外は印象に残っていませんでした。TVシリーズと大幅に設定が変わっているため、TVシリーズの続きとして見ていた私の脳は容量オーバーになっていたようです。

 今回、見直してやっと「ああ、なるほど」と、腑に落ちました。しかし、『アデュレセンス黙示録』はTVシリーズよりも解りやすい、と言う人が多いですが、それって、TVシリーズをちゃんと見てる人の錯覚なんじゃないかな、という気がします。

 『少女革命ウテナ』の通底音的テーマは、「心的固着からの解放」だと私は思っています。そして、このテーマを表現するだけなら、劇場版では決闘や薔薇の花嫁とのエンゲージ、世界を革命する力といった表象は必要ないし、初見の人にはむしろ邪魔なのではないか、と感じました。まあ、劇場版のターゲット層はTVシリーズの視聴者のはずですから、入れた方が観客の受けがいいのは間違いないんですけどね。

 でも、劇場版だけで解るかっていったら、やっぱり解りにくいのでは? それというのも、劇場版はTVシリーズ版の文脈に則って表現されているので、TVシリーズを見ていないと「世界を革命する力を求める理由」や「ウテナと冬芽が別れる告白昇降室の役割」、「鳳学園から出る意味」等が解らないからです。

 TVシリーズの第一話や、他の黒薔薇編、鳳暁生編などの一話目を見ると、制作者が随分丁寧に視聴者に対して説明しているのが解ります。一方、劇場版ではTVシリーズでの丁寧な説明は感じられません。それは、劇場版がTVシリーズの視聴者に向けて作られているからで、TVシリーズの文脈を踏まえて描かれているからです。

 たぶん、劇場版の方が解りやすいと思った人は、自分がTVシリーズの文脈を踏まえていることに無自覚であるか、最後のカーレースの疾走感に引っ張られてるせいでそう感じているのではないかと思います。

 全編を通して表象的で、場面同士の論理的な意味結合が弱く、印象的なシーンだけが強く心に残るのは無意識が見せる夢のようだ、と思いました。相当計算して画面作ってるんじゃないかな。

 これがウテナで上手くいっていて、ピングドラムで上手くいっていないのは、ウテナは舞台である『鳳学園』という異界の創出に成功しているのに対して、ピングドラムは現実を舞台にしてしまった故なのだろうな、と、異界すぎる鳳学園を見て感じました。

 というわけで、以下感想。

・心的固着からの解放

 ウテナの通底音って、結局これなんだと思うんですよ。

 一番解りやすいのは樹璃関連のエピソードで、特に瑠果編あたり。彼女は「枝織に想いを伝えられない」故に秘めた想いに執着し、秘めた想いに執着しない自分になりたいと願いながらも、なかなかそれが叶わないわけです。

 しかし、「空より淡き瑠璃色の」で樹璃は瑠果からの想いに向き合います(ラストシーンの椅子の向きで、樹璃が瑠果の想いに向き合ったことが解る)。その後、樹璃はウテナに対して直接「きみの写真をくれないか」と、言えるほどに想いを秘めることがなくなります。

 これは、「好きな相手には、自分が相手を想っていることを決して知られてはならない」という、樹璃の固定観念(世界の殻)が破られた(革命された)ことを示唆しています。

 他のデュエリストも基本的に同じです。彼らは思い悩み、傷つきながらも現実に向かっていくことで、心的固着から解放されていくのです。

・御影草時は男版ウテナであるらしい

 これ、TVシリーズを見てると腑に落ちにくいのですが、劇場版を見ると腑に落ちます。

 決闘前の御影のセリフ「僕たちは二人とも、思い出のイリュージョンによって生かされているんだ」は、TVシリーズよりも劇場版のウテナによく当てはまります。

 かつて王子様と共に過ごした幸せな時間を失ったウテナは、王子様を失ったことを「なかったこと」にすることで自分の心を守ります。しかし、それは同時に「問題の隠蔽」であり、「心的成長の拒絶」であり、薔薇の花嫁のように「永遠の苦しみに苛まれること」でもあります。

 これは、時子の心を失ったことを隠蔽し、御影草時へと名前を変え、時を止めて鳳学園に存在し続ける根室教授と同じ構図です。

 TVシリーズだと王子様を失ったのはアンシーであり、ウテナはアンシーを救うために王子様になる決意をする、と上記の設定が二人のキャラクターに分裂しているために、御影との共通点に納得しがたいのです。その点、劇場版では、上記の設定がウテナ一人に集約され、過去に囚われる問題点が鮮明になっています。

 御影と同じようにウテナが過去の経験に囚われているからこそ、劇場版の彼女は告白昇降室で過去を思い出すのです。

・世界の果てとは、認めたくない現実のこと

 心的外傷までいかなくても、生きていく上で「どうしても認めたくないこと」にぶち当たることがあります。そんな時、私たちはついつい、その「認めたくない現実」から目を逸らしてしまいがちです。

 それがごく他愛もない事柄であるならば、目を逸らして忘れてしまうのも一つの手です。けれども、そうはいかない程度に大きな問題であることも、そう珍しいことではありません。それなのに、目を逸らして問題を「なかったこと」にし始めると、御影のようにそれは「永遠の苦しみ」に変化してしまいます。

 この、「認めたくない現実」こそが、告白昇降室で脇役たちが吐露する心情であり、暁生が誘う「世界の果て」なのではないでしょうか。

・認めたくない現実を認めることが、革命の第一歩

 かつて、世界中の女の子を救う王子様だったディオスは、「一人では世界中の女の子を救えない」という現実に打ちのめされます。劇場版で暁生が元々蠅の王だったことを考えると、「世界中の女の子を救う王子様」自体が、ディオスとアンシーがそう錯覚していただけの幻想だったのかもしれません。

 ディオスは現実を受け入れられず、かつての王子様の力を取り戻そうとディオスの力に固執する「世界の果て」になってしまいます。過去の力を取り戻すことに固着する暁生は、過去の罪をなかったことにしようとする御影と同じです。

 認めがたい現実は、認められないからこそ潜在意識に堆積し、抑圧された価値観(シャドウ)として絶大な力を発揮します。それこそ、当人にとっては「永遠の苦しみ」であり、身体の時を止めると思われるほどの力を持つように感じられます。

 世界を飲み込む「永遠の苦しみ」から逃れる方法はただ一つ。世界を革命し、古い世界から新しい世界へと出て行くことです。その為には問題の原因を、「認めたくない現実」を直視するしかありません。

 御影も、黒薔薇編の生徒達も、生徒会メンバー達も、デュエリストです。彼らはウテナとの決闘を通して、認めたくない現実に直面し、結果的にでもそれを直視することになります。いや、それを直視しようともがくからこそ、彼らはデュエリストなのです。

 認めたくない現実を認めざるを得なかったデュエリスト達は、もはや鳳学園という「時の止まった偽りの楽園」に居続けることはできません。御影は卒業させられ、ウテナは姿を消し、他の生徒達もやがて卒業していくことが示唆されます。認めたくない現実を認めることが、世界の殻を破る第一歩なのです。

 しかし、暁生はデュエリストではありません。認めがたい現実を認められず、最後までディオスの力を取り戻すことに固着し続けます。だから、彼はいつまでも鳳学園の中にいて、学園を出ようとも思いません。彼は世界の果てを名乗りながらも、自身の世界の果て、自分の限界を認めることができないのです。

・外へ向かうのには勇気が要る

 認めがたい現実を認め、あるいは、直視せざるを得なくなっても、そこから世界の殻を破るには、もう一つ必要な行程があります。勇気を出すことです。

 やり慣れないことをやるのには勇気が要ります。間違えたらどうしよう、失敗したらどうしよう、みんなに馬鹿にされて、嗤われたらどうしよう。そんな思いを振り切るのには、当人にとってはとてつもない勇気が要るものです。それこそが、『少女革命ウテナ』で語られる気高さであり、デュエリストの条件であり、薔薇の刻印であり、車を動かす鍵なのです。

 今までの自分と違うことをやろうと思ったら、アンシーのようにお城カーの下を正面突破で突っ切るくらいの勇気を出す必要があるのです。勇気を出してやってみれば、それまでは見えていなかった新しい世界が見えてきます。その新しい世界でも、やがては壁にぶち当たり、立ち往生してしまうこともあるかもしれません。けれども、一度殻を破ったデュエリスト達ならば、二度目の殻を破るのは、きっと一度目よりも容易(たやす)いことでしょう。

・劇場版のわかりやすさ

 劇場版のわかりやすさは、上記のいわゆる「ユングの言う個性化の過程」をウテナだけの問題に絞って見せてくれていることから生まれてくるものだと思います。劇場版は、ウテナが黒薔薇編のデュエリストになったように、私には感じられました。黒薔薇編は、言葉で説明できる物語がある分、視聴者に優しい、と言われていますし。

 一方のTVシリーズは、それぞれのキャラクターが個別に上記の心理劇をやりながら、さらに一般的な人間ドラマも見せてくれるという二重構造を持っています。

 人間関係のドラマが排除されている分、劇場版は心理劇としては解りやすいのかなぁ。でも、それも決闘や薔薇の花嫁がなんなのかを解っているTV視聴者ゆえなのでは、と私は思ってしまいます。

 TVシリーズは、心理劇と人間関係が複雑に絡まっている分、難解に思えるのでしょう。けれども、人間関係のドラマがあるからこそ、自分の身に引きつけて考えやすい、という点では解りやすいんじゃないか、と私は思っています。

 私はTVシリーズの、あの複雑に絡まりあったドロドロした感じが好きなので、やっぱり、TVシリーズのアンシーとウテナが好きです。でも、劇場版のカーレースのシーンも最高だった。特にお城カーの登場の仕方は秀逸。

 個人的には、生徒会メンバーにはなれなくても、黒薔薇のデュエリストくらいにはなれる心構えを持って生きていきたいです。

 


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