暗闇の中でキコは目を覚ました。ハッとして両手で自分の喉元に触れる。触れた皮膚は温かく、つるりとして滑らかだった。どこにも傷はなさそうだし、血でぬめったりもしなかった。キコは詰めていた息を吐き出した。

 視線だけを動かして、恐る恐るあたりを見回す。暗すぎて何も見えやしかった。右手を目の前まで持ってきてみても、指の先さえ見えなかった。床についたままの左手からはザラリとした冷たい土の感触が伝わってくる。キコはゆっくりと両手を持ち上げ、慎重に周囲に彷徨わせてみた。

 どうやら、手が届く範囲に壁はないようだ。キコは床に右手をついてゆっくりと立ち上がった。左手を頭の上に掲げて、天井に頭をぶつけないように用心しながら立ち上がる。

 キコの腰が伸び、両膝が伸びきっても、左手は天井に届かなかった。静かに息を吐き出しながら、キコはもう一度あたりを見回してみた。やはり、真っ暗闇で何も見ることはできなかった。

「敷島?」

 ごく小さな声で呼んでみる。返事はなかった。

「敷島!」

 今度は大声を出した。あたりはそれなりに広いらしく、声が少し反響した。

 キコの背筋をぞわりと悪寒が走り抜けていく。急に不安が襲いかかってきて、キコは両腕でぎゅっと自身を抱きしめた。

 自分は今、何処とも知れぬ広い空間に一人取り残されている。

 キコは、音を立てないように大きく息を吸うと、そろそろと足を踏み出した。左足を地面に着けようとした瞬間、足の裏に、ぐにゅりとした生暖かい感触が伝わった。キコは悲鳴を上げて転がり、尻餅をついたまま飛び退った。振り返って、見えない闇の中に目を凝らす。

「なに!? なんなの!?」

 キコが踏んづけた何かは、低い声でうめいていた。キコは恐怖のあまり息をするのも忘れて暗闇を凝視し続けた。一気に膨れ上がった心臓が、肋骨から耳の後ろあたりまで内側から叩きつけるように拍動している。

 そろそろ息を吐かなければ苦しい。正体不明の闇の生き物に気づかれる危険を冒してでも、息を吐くべきかキコが迷っていると、それは衣擦れの音と共に情けない声を出した。

「……痛い」

 どうやらキコが踏んだのは敷島だったらしい。

「し、敷島!?」

 キコは恐る恐る手を伸ばして敷島らしき物体に触った。さらりとした布の感触がした。どうやら服らしい。そのまま布の感触を辿る。最初に肩らしき場所を見つけ、そこから腕、肘と辿った。最後に手に辿り着いたので、握って引っ張ってみる。

「廣瀬さん?」

 敷島が起き上がった気配がした。

 不気味な物体Xの正体が判明し、キコはほっとして詰めていた息を吐き出した。気が緩んだキコの目にじわりと涙が浮かんでくる。安堵と申し訳なさが綯い交ぜになったキコは涙声で必死に敷島に謝った。

「ああぁ、よかったぁ。一人じゃなかったぁ。敷島、さっきは思いっきり踏んじゃって、ごめん!」

「いいけど……。ここ、どこ?」

 敷島が腹を擦りながら、あたりを見回すような気配がした。やはり、暗すぎて敷島にも何も見えないらしい。

「わからない。ねぇ、私達、あの男に……」

 「首を斬られたよね?」とは続けられず、キコは途中で口を閉ざした。代わりにもう一度、首筋に触れる。そこには確かに温かい皮膚の感触があった。手触りはなめらかで傷の跡は見当たらない。

「とりあえず、ここがどんなところなのか確かめよう」

 相変わらず、どこかぼんやりとした暢気さを感じさせる口調の敷島に、キコは不安を押し殺して頷いた。

「……うん」

 「そんなこと、本当にできるんだろうか」とは、とてもではないが口には出せなかった。言ったら、胸の内にわだかまっている懸念が全て現実になってしまいそうで、なんだか恐ろしかった。

 そもそも、よく考えてみれば、兎を追いかけ始めたところからして、おかしかったのだ。なんだってキコは、鍵がかかっていたはずの店の扉が勝手に開いたり、狭い室内から広い王宮に出たり、首を切られて暗闇に放り出されたりしているのだろう。

 これらが現実なら(とても夢とは思えないリアリティだ!)、この先も、どんな荒唐無稽なことだって起こり得るに違いない。あまり変なこと、ましてや恐ろしいことは考えない方がいい。良かれ悪しかれ、現実とは、想像したことが実現したものにすぎないのだから。

 キコは頭を振って悪い想像を心から追い出し、とにかく目の前のことに取り組むことに専念しようと大きく息を吸いこんだ。

 空間の幅は、敷島とキコが並んで両手を広げるとそれぞれの左手と右手が壁につく程度だった。横幅に比べて前後の奥行きは計り知れない。

 どうやら、ここは洞窟や洞穴のたぐいらしかった。ちらとも明かりが見えないから、どちらに進めば正解なのか見当もつかない。仕方なしに、二人はなんとなく向いていた方向にそのまま進むことにした。

 右手を敷島と繋いだまま、ゆっくりと慎重に移動する。周囲の壁は余り整形されていない土壁で、キコの左手に冷たいざらざらとした砂混じりの土の感触と、時折、小石や木の根っこの感触を残した。

 少し進むと、キコは道が緩やかに登っていることに気がついた。

「ねぇ、この道、登ってるよ」

「うん、そうだね。こっちの方向で正解だったみたいだ。登っていけば、いつかは地上に出られるはずだから」

 敷島の答えに、なぜだかキコは強い違和感を覚えた。

「ねぇ、それって本当に正解なのかな?」

 キコは足を止めた。繋いだ手を引っ張られる形になった敷島が振り返る。

「どういうこと?」

「さっき、あの女の人に言われたことが気にかかってて……」

 敷島は首を傾げた。

「言われたことって?」

「ほら、一番下は一番上に繋がっている、みたいなこと言ってたじゃん」

 言葉にならない焦燥感に駆られながら、なんと言ったら伝わるのだろうか、と焦れるキコの口調はいくらか尖ったものになった。

 そんなキコの口調の棘を気にすることなく、敷島はおっとりと応える。

「ああ……。でも、ここはどうやら地下というか、地面の中のようだし、普通は上に向かえば、地上に出られるはずだろ」

「私達がしようとしていることって、普通のことだったっけ?」

「えっ」

 キコの突飛な指摘に、敷島は目を瞬いた。

「自分が物語の中の登場人物だと仮定して、自分の作者を探すことは、普通のこと?」

 これには敷島も少し口ごもりながら、言いにくそうに応える。

「そりゃあ、普通、では、ないとは思うけど……」

「私は、引き返して下へ向かったほうがいいと思う」

「下へ向かって、それはどこに続いているの?」

 責めるでもなく、純粋に不思議そうに敷島が尋ねる。

「それは、わからないけど……」

 応えられずにキコはうつむいた。それでも、自身の主張を曲げることはせずに、もう一度重ねて訴える。

「でも、その方がいいと思う」

 敷島はしばらく黙りこみ、やがて「わかった」と頷いた。

「僕は、自分ではあの人を見つけられなくて、きみに頼んだ。ここがどこだかはわからないけど、でも、ここは確かに普通じゃない場所だし、今までのことを考えると作者探しは前に進んでいるんだとも思う。だから、きみの意見を優先しようと思う」

 キコは敷島の声のする方向へ顔を向けて頷いた。二人は踵を返し、再び手を握り合うと、手探りしながら壁伝いに歩き始めた。

 暗闇の中を手探りで奥へ奥へと潜り込んでいくに従い、二人の不安も段々と深くなっていった。キコには、自分の心臓が五倍くらいに膨れ上がって、肺を圧迫しながら拍動しているように感じられた。息苦しさは緊張のせいなのか、それとも、酸素が薄くなっているせいなのか、よくわからない。

 これだけ長い間暗闇に居るのだから、いい加減、目が慣れてきても良さそうなものだが、相変わらず周囲は何も見えないままだった。目を開けているのか、閉じているのかもあやふやに思えてくる。

 キコは殊更に意識をして目を閉じた。まぶたが動いた感覚と眼球に感じる重みだけが、今は目を閉じているのだ、と教えてくれる。

 そのまま地面を踏みしめた瞬間、キコは胃袋が浮かび上がるのを感じた。

 ――落ちる!

 そう思った瞬間に息が止まっていた。ぐっと全身に力が入り、体を折り曲げてぎゅっと小さく縮こまる。いたるところから風が吹き寄せてきて、キコを激しく包み込んだ。風圧で上手く呼吸ができない。

 でも、正直キコはそれどころじゃなかった。だって、普通こんなことはあり得ないじゃないか。どうして突然地面がなくなったんだろう?

 キコは恐る恐る細く薄目を開けた。風圧で涙が次々と浮かんでくる。涙が邪魔をして周りはよく見えない。でも、全身の感覚が落下しているぞ、なんとかしろと叫んでいる。

 キコは体に力を込めて小さく丸まったまま、青い空から緑の草原へと真っ逆さまに落ちていた。

 ――止まれ止まれ止まれ止まれ!

 心の中で強く念じる。

「まあ、素敵! 時計を持っていらっしゃるのね!」

 唐突に脳裏に浮かんできた言葉に、キコは咄嗟に右手にはめた腕時計の竜頭を引っ張った。

 途端に、風が止んだ。落ちる感覚もなくなった。キコはゆっくりと顔を上げ、周囲を見渡した。空に溶けていくような青い塔が見える。

 ――時計塔だ。

 それは空に溶け込むようなクリスタル・ブルーのタイルで覆われた見上げるほどに高い塔だった。塔を辿って下を見れば、塔の周辺には空を写し取ったかのような青地に白い模様が流れるイイモリ・ストーンのブロックタイルが円形に敷き詰められている。その円周部分は、高さ二メートルあまりの塔で十二に分けられている。どうやら日時計のようだった。

 十二の塔は一つ一つ違う宝石で飾られていた。十二時の位置から時計回りに、ラピスラズリ、ハイパーシーン、アメジスト、ロードクロサイト、アベンチュリン、アポフィライト、サンストーン、インペリアル・トパーズ、アンデシン、ガーネット、ブルー・ゾイサイト、ムーンストーン。そのどれもが、明るい陽の光を浴びて、キラキラと輝いている。

 キコは縮こまっていた体をほどいて上体を起こした。地面から十センチメートルのところに浮いていた。隣を見れば、身を硬くしたままの敷島が地面に当たる寸前で止まっている。地面に向かって首から落ちていく姿勢で、このままの格好で地面にぶつかったら、この高さからでも怪我をしそうだった。

 いつだったか、どこかで聞いた話を思い出した。ナンセンスには重力がないらしい。

 キコは右手にはめた竜頭を引き出したままの腕時計を見つめた。その視線を右へと動かし、隣で固まっている敷島に触ってみる。温かい。でも、肺は動いていないのか、胸が上下している様子はなかった。

 このまま時間がたってしまったら、彼はどうなってしまうのだろう。

 ぞっとしたキコは、急いで敷島を背中を下にした受け身が取れそうな体勢に変えさせた。敷島の体は、軽く押しただけで大きな抵抗もなくくるりと向きを変えた。まるで宇宙空間に居るかのようだ。

 キコは左手の親指と人差指で黒い腕時計を挟むと、大きく息を吸って、ぎゅっと目をつぶった。覚悟を決めて、えいやっと竜頭を戻す。途端にキコは落ち始めた。トンと、軽い音を立ててホトケノザやシロツメグサの生い茂る緑の大地に足がつく。

「うわわっ」

 トサッ、と隣で尻もちをつく音がした。キコは慌てて振り返って、敷島を見た。どうやら落ちている途中で急に姿勢が変わったために対処しきれなかったらしい。眩しそうに目を細めた敷島が尻をさすりながら立ち上がった。

「ここ、どこだろう」

 キコは肩をすくめたい気分だった。首を傾げて、敷島に告げる。

「さあ? わからない」

 敷島が周囲を見回す間、キコは時計塔を見上げていた。塔自体は200mくらい先にある。ただ、巨大な日時計の盤面はすぐそこまで迫っていて、ちょうど二人のいる足元から空色のタイル敷きに変わっている。

「……行ってみる?」

 時計塔を見上げたまま、キコが不安げな小さな声で尋ねた。得体の知れない塔は不気味だが、他に行けそうな場所も試せそうなこともなかった。

 敷島は改めてゆっくりと周囲を見回した。キコを見て戸惑うように首を少し傾げ、二度瞬きしてから頷いた。

「他にできそうなこともないしね」

 キコが敷島に頷き返すと、二人は時計塔へと歩き出した。

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