デスノートから考える正義と悪

 このノートに名前を書かれた人間は死ぬ。

 ノートに犯罪者の名前を書き次々と粛清していくキラ、こと夜神月。それを悪と断じ、キラを追う青年L。「日常に退屈するすべての人たちへ」というあおり文句からもわかるように、作者としては作品をエンターテイメントととらえているため、善悪の判断は読者に任されている。

 キラとLはお互い、己が正義といって譲らない。では、実際はどちらが正義なのか。一読者として、私も作者に任された判断をしておきたい。

 まず、キラを正義に押すには動機が不純すぎる。月がデスノートを使った最初の理由は、「退屈だったから」であり、犯罪者の名前を書いたのは自分が疑われないようにだ。二人目に至っては、ノートの検証という建前で、積極的に相手を選んでいる。

 そして、二人殺したところで月は、自分が人を殺したことを実感する。一回目と違い、死ぬとわかっていて書いたという意識と、視覚的に死ぬのを確認したのが大きかったのだろう。彼は良心の呵責にさいなまれ、布団の中で震えることになる。このときの月の思考は『末を継ぐ者』(たつみや章:著)のサザレヒコの思考とそっくりである。

 悪いのは自分じゃない。悪いのは自分をそうさせた外の環境だ。いや、あの行為は悪者を退治した、いいことだったのだ。

 その結果が、サザレヒコは"白いカムイは悪いやつなんだ"であり、月は"世の中腐ってる。腐ってるやつは死んだほうがいい"なのである。

 つまり、月の正義は悪いのは自分ではないと証明するためのものだ。ただ月にとって不幸だったのは、それがデスノートという常人が想像もしないような力によるもので、唯一その事実を話せる死神が人間の倫理観とはまったく別の次元の生き物だったということだ。彼を教え、諭してくれる存在がいなかった。

 月の"正義"は悪いのは自分ではないと証明するためにある。そういう前提で考えてみれば、一見突飛な「僕は神になる」という発言も納得することができる。何故なら、神は絶対に間違わない。神が悪に成ることはありえない。だからこそ、月は神になりたい。

 そして、LのTV出演時。普段なら冷静な月が著しく反応したのは、Lに「悪だ」といわれたからだ。月は悪であってはならない。そうでなければ、良心の呵責に耐えられないのだ。

 月は良心の呵責から逃れるために嘘をついた。そして、その嘘を暴いてくれる人がいなかったため、彼は嘘をつき続けなければならなかった。結果として犯罪者を殺し続けることになり、キラと呼ばれるようになっても、やめるわけにはいかなくなった。さらに悪かったのは、キラの行為が犯罪者の粛清ととられ、安易にキラを肯定する人達がいたことだろう。その人達にとって、キラは正義であり、客観的に正義と認める人達がいる限り、月は犯罪者裁きをやめられない。

 では、Lはどうなのかというと、彼も完璧な正義とはいえないだろう。それは彼のやり方、つまり捜査の方法に問題がある。

 はじめ彼は、テレビでのキラへの宣戦布告に死刑囚であるリンド・L・テイラーを使い、キラに殺させることで様々な情報をつかんでいる。似たようなシチュエーションがもうひとつある。四葉キラの死の会議の反応だ。話しているだけでは、キラとして捕まえられないから、殺人が起こるのを待て、という。

 これらは、単純に正義のためと言うことをためらわせる。それは人命が関わることであるからだ。夜神親子が言うように、人命を最優先と考えるなら、Lのやりかたは"間違っている"。

 しかし、それは本当に間違いなのだろうか。キラが遠隔操作で人を殺せると推理しても、誰もそれを認めなければ意味がない。そんな馬鹿馬鹿しいことを万人に認めさせるためには、目の前で人を殺させるしかないし、事実そうやってLはキラという殺人鬼がいることを証明した。

 また、四葉のときも誰が死ねば都合がいいという話をしていただけと、言い逃れられる可能性を排除しようとすれば、それは実際に殺しが起きた後に逮捕するしかない。逮捕できない限り、キラの犠牲者は増え続け、結果的に死者は増える。

 Lは、常に確たる証拠を挙げて事件を解決してきた。それはつまり、確たる証拠を挙げるために様々なものを犠牲にしてきたということだ。

 今、百を殺して万を生かすか、百を生かして万を殺すか、そういう選択を無数にして来たに違いない。命の重さ、切り捨てることの重責を身にしみてわかっている。だからこそ、「尊い犠牲」「相沢さんまで死んでしまったら・・・」といった台詞が出る。他人に冷たい態度をとるのもこの延長だろう。冷たい台詞の所々にLの人への思いやりが伺えるように思う。

 このことから、私はLこそが正義と言いたい。キラの振りかざす正義はあまりにも利己的で、幼稚過ぎる。それに対してLは、その根底に、人への優しさを感じる。私はLの正義観というのは、西尾維新の小説のこの一言に集約されるのではないかと思う。

「正義は他の何よりも、力を持っています」
「力? 力っていうのは、強さですか?」
「違います。優しさです」
『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』
西尾 維新 著  143ページより

作成 2009/05/11
初出 2011/05/10


 久々に映画を見たので、その時のtwitterログ

 金子監督としては、「キラの主張もわかる。けれど、正しいとは言い切れない」って立場なのかな。映画で一番キャラクター像がが変わっているのは月だと思う。何しろ、最初から法大四年生だもんね。

 映画では、世の中の裁かれない犯罪者に憤りを感じていたところに解決の方法=デスノートがもたらされる訳だ。まるっきり、原作と順序が逆。

 でも、ここってデスノートにおいて一番変えちゃいけない所な気がするんだよ。キラの本質は「退屈な殺戮者」であって、犯罪者への憤りって彼の中では二の次だと私は思う。

 別にキラを貶めようっていうんじゃなくて、その「退屈」こそが現代の病理というか、月は人を殺してしか生きられない状況に追い詰められていたというか。

 毎日同じことの繰り返し、狭い教室に押し込められて、同じ制服を着て同じことやってる。みんなと同じ顔をして、表面上は優等生らしくふるまって、なんの問題なく過ごしている。

 その実、月は退屈で窒息しそうになっている。そこで息をする為に、「退屈」から逃れる為にできることって、それらの集団から逃れるか、自分が死ぬか、誰かを殺すかな訳で。

 そこで月は「誰かを殺す」って選択をしたわけだ。それはデスノートってイレギュラーがもたらした選択だけど、死活問題の一つの答えとして、それを選んだ人間を簡単に切り捨ててはいけないと思う。生きるか、死ぬかの瀬戸際の問いの一つの答えなわけだから。

 それが死活問題になりうるのは、思春期の視野の狭さと責任能力のなさ(自分の身に責任が持てないという意味で)がもたらす独特の鬱屈感にあるのではないか、と私は思う。

 で、私が月に共感する部分ってのは、まさにこの部分においてなんだよね。「退屈だったから」ノートを拾い、「退屈だったから」ノートを使った。

 この退屈って言うのは、字義どおりの「することがない様、飽き飽きして嫌けがさすこと」、って意味よりも深い含意があると思う。

 月の現状としては、「飽き飽きして嫌けがさしている状態」なんだろうけれど、そこからもう一歩踏み込んだ闇があるというか。ただ単に退屈していたわけではない。退屈して、かつ彼は死にそうになっている。

 もちろん、命の危険があるわけではない。けれども、「生きている」という実感がない世界っていうのは「死んでいる」ことと同じなんだよ。その「生命としては生きているけれども、精神としては死んでいる状態」ってのが、月の(あるいはリュークの)退屈って言葉の中に含められている気がする。

 自分がその一種独特な鬱屈感に苛まれたとき、私は「集団から逃げ出す」という手を使ったけど、「退屈だったから」ノートを使った月にすごく共感する部分もある。

 そう思うと、自分がデスノートという作品が好きな部分の根底の一つが、月のこの選択にあると思うんだよね。要するに「自分がしなかった選択」をした人生を疑似体験するっていう部分。

 そう考えると、映画の月は私には共感する部分が一切無いわけで……。そもそも、法律によって裁けない犯罪者がいたからって、それを、例えどんな正義感に裏付けされていようとも、独自の基準で裁いちゃったら私刑(=リンチ)になってしまう。そうなると、やっていること犯罪者と全く同じ。

 法をかいくぐってのさばる犯罪者を何とかしたかったら、警察じゃなくて検事になるとか、弁護士になるとか、議員になって法律改正するとかの方向に思考しないとおかしい。ましてや大学四年生がリンチに走っちゃ駄目だろ、と。

 あと、Lの挑発にあっさり乗せられたり、無用心にもFBIを殺したりするには二十一歳はちょっと大人すぎるように思う。あの、「僕が、悪だと……? 僕は正義だ!」って発言は二十歳過ぎた男がする発言じゃない。

 しかし、自分はキラの裁きの理屈には一切共感できないからそう考えるんだけど、キラ賛成派の人は映画の月の方が一本筋が通っているっていう意味では好感度高いのかも。キラの理論は私には真面目に理解できないのでなんとも言えないが。私は人は間違うから複数人で議論しながら、より良い方向を目指すべきだと思う。

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