ハリー・ポッターは、プリベット通り四番地の前に突っ立っていた。ヴォルデモート卿に打ち勝った後の最初の夏休み、ハリーが十八歳の誕生日を迎える夏の日だった。右手には魔法の道具がたくさん詰まった重たいトランク。それが、ハリーの持ち物のすべてだった。
夏の昼間の太陽の光が、ドアに取り付けられた真鍮製の四の数字をきらめかせる。ここが、十七年間ハリーにとって「帰るべき家」であり続けた場所だった。
ここですごした最初の十年間は、ハリーにとってよい思い出を一つも残さなかった。その後の七年間、ハリーがこの家に帰ってきたのは、学年の変わる夏休みのときだけだった。
その短い六回の夏期休暇の間でさえ、ハリーにはプリベット通りでの良い思い出など、数えるほどもありはしなかった。学校を卒業して自由の身になったら、自分は何よりもまず、この家を出て行くのだと、この家に住んでいるダーズリー一家とおさらばするのだと、ハリーはずっとそう考えていた。
ヴォルデモートとの最終決戦を前に、ダーズリー家はこの家を引き払っていた。ほかならぬハリーがそう薦めた。ダーズリー一家がこの家に戻ってきているのか、ハリーは知らなかった。
危険な魔法使いに狙われたことがあるこの家に、ダーズリー一家が住み続けたいと思うかどうか、ハリーにはわからなかった。彼らの方こそ、ハリーのことも、魔法界のことも、家ごと綺麗サッパリ引き払って、おさらばしてしまいたいと思っていただろう。ハリーだって、同じような気持ちだった。
それなのに、最終学年が終了して、ホグワーツ特急から降りたハリーは、まっすぐにここへ来た。ホームにダーズリー一家がいないのを確認したハリーはため息をついた。「ホグワーツから帰ったら、まずダーズリー家」と、六年も同じことを繰り返して、すっかり習慣になってしまっているのかもしれなかった。
不意に最後に別れたときのダドリーの言葉が思い出された。
『あいつは粗大ゴミなんかじゃないだろう? なんで一緒に来ないんだ?』
それに、ペチュニアおばさんは最後にハリーに何か言いたそうだった。一体、なんと言うつもりだったのか、ハリーにはわからなかった。ただハリーはなんとなく、「無事で帰って来い」と、もしかしたらそう言いたかったのかもしれないと、あのとき感じたのだった。
ハリーは今までのことを思案しながら、延々と玄関前に突っ立っていた。この扉を開けたいのか、開けるべきなのか、ハリー自身でさえ、わからずにいた。
どれくらいそうしていただろうか。足が棒になるくらい長い時間がたっていた。太陽はいつの間にか傾き始め、玄関にかかった真鍮製の四の文字が夕焼けの橙色に光っていた。そして、何の前触れもなく、ハリーの目の前で玄関扉が開いた。
目を見開くハリーの前に、ダドリーが、「あきれた」という顔をして立っていた。かつてぶくぶくと横にでかかった従兄弟の体は、三年前に始めたボクシングのおかげで、すっきりと引き締まっていた。すっかり見違えるようになったダドリーは、その顔にハリーが見慣れた嘲り笑いを浮かべて、たくましい肩をひょいとすくめてみせる。
「お前、いつまで家の玄関前にいるつもりだ? なんで呼び鈴を鳴らさない。それとも、玄関前にじっと突っ立って中の住人が出てくるのを待つのが、魔法使い流なのか?」
「き、きみ、いま……」
驚きに声も出ないハリーを見てダドリーは再度、軽く肩をすくめた。
「きみ、いま魔法使いって言った!」
「そりゃ、言うさ。だってお前は魔法使いだろう?」
ダドリーは、まるでハーマイオニーが「『ホグワーツの歴史』に書いてあったわ」と、言うのと同じように、自分はさも当たり前のことを言ったという顔をした。ハリーは目の前で起こったことが、まったく信じられずに目をぱちぱちと瞬かせた。
だって、こんなことが起こりうるだろうか? ダドリーが、あの、魔法の一切合財を嫌悪しているダーズリー一家の申し子が、ハリーが魔法使いであることを、極当たり前のこととして口に出す、なんてことが。
「早く入れよ。ママがディナーを用意して待ってるんだ」
ダドリーはハリーを押しのけて重たいトランクを手に取ると、軽々と持ち上げて二階の一番小さい寝室へと運んでいく。ハリーは、一体なにが起こっているのか、半ば呆然とし、半ば訝りながら、ダドリーの後をついていった。
二階に荷物を置いた後、ハリーはダドリーの後についてダイニングに入った。
驚いたことに、そこには四人分、同じ内容の食事が用意されていた。
「どうして……?」
思わずハリーの口からこぼれた疑問にペチュニアが鋭く答える。
「家族の食事を用意することに何か特別な理由が必要かい? 質問は許さないよ」
――質問は許さない。
それは、ダーズリー家で平穏無事に暮らすためにハリーが覚えなくてはならない第一の規則だった。
帰ってきたのだ。ここに、この家に。ハリーは怒りで胃がむかむかするような、悔しいような、懐かしいような、不思議な感覚にとらわれた。
同じように食事が盛られた皿を見て、ハリーは今まで一度も気づかなかったことに気づいた。テーブルに出ている使い慣れた皿は四枚組みのセットだった。今までは、ダーズリー家の三人とハリーの皿に乗っている食事の内容があまりにも違ったので(それは量だけの時もあれば、メニュー自体がダーズリーとハリーとで全く違うことも、しばしばあった)、まったく気がつかなかった。
けれど、皿のすぐ脇に置かれたカトラリーも、その下におかれたランチマットも、ガラスのグラスも。決して、五つセットでも、三つセットとあまりもの一つでもなく、四つで一セットだった。
プリベット通り四番地に住んでいたのは、ずっと、そう十七年も前からずっと変わらず、四人家族だった。例え、その中の一人が、どう考えても不当な扱いを受けていたとしても。
ハリーは、急に数年前に当時魔法省大臣だったファッジに言われたことを思い出した。
『あー、きみたちも本当のところは、お互いに愛し合っているんだよ。あー、心の深いところではね』もしかしたら、あの元魔法省大臣の言ったことは正しかったのかもしれない。
ハリーはなぜだかプリベット通りに帰ってきたし、そのハリーをダーズリー一家は歓迎した。今までにない、普通の、まともなやり方で。
ハリーは自分の席の椅子を引いた。座りなれた固い木の椅子は、クッションの入ったダドリーの椅子よりもいいものとは決して言えない。それでも、その椅子はダーズリー家でハリーのために用意された居場所だった。ハリーはニッコリと笑って自分の椅子に腰掛けた。
去年一年の、魔法使いに警護されて過ごした時間が、ダーズリー家に劇的な変化をもたらしているらしいことを、今やハリーは感じずにはいられなかった。そして、それが一番現れているのがダドリーだった。
食事を終えた二人は、今はダドリーの寝室で、隣り合ってベッドに腰掛けていた。ダドリーとこんな風に隣同士で話す日がくるなんて、ハリーはまったく夢想だにしなかった。もしも、十一歳の頃の自分に、今日のような日が来ると伝えたところでハリーは絶対に信じなかっただろうし、そんなものはこちらから願い下げにしたい、と思ったことだろう。
開け放した窓から昼間の暑さを忘れたように、ときおり涼しい風がそよぐ。ハリーはまだ信じられない気持ちだった。
幼い頃憧れた従兄弟の部屋で、それ以上に大っ嫌いだった従兄弟の隣に座っている。それでいて、ハリーはグリフィンドールの談話室にいるようにくつろいだ気分だっだ。この部屋にヘドウィグがいないことだけが、唯一の心残りだった。
ベッドに腰掛けたまま、何を見るともなしに二人して寝室のドアを見つめていた。しばらく二人で何も言わずにそうしていたが、ついにおずおずとダドリーが口を開いた。
「お前、これからどうするんだ?」
「うーん、僕、留年になった」
ハリーは正直に白状した。
「留年? お前、そんなに成績悪くはなかっただろう?」
驚いてハリーの方を振り返ったダドリーに、ハリーはニヤリと笑って見せる。
「ビッグD、君に僕の魔法の成績が判るとは思えないけどね」
「あー、そりゃわからないけど。でも、お前、そんなバカだったか?」
「もちろん、僕は馬鹿じゃない」
ハリーは自信あり気に肩をすくめてみせた。しかし、非常に残念ながら、ハリーはこの答えにはあまり自信がなかった。
「じゃあ、どうして」
「先学期、僕は学校に行ってないんだ。あー、ヴォルデモートを倒すためにさ。それで、最終学年だけ、もう一度やり直すんだ」
「行ってない? 俺はてっきり、あの狂った学校ですごしてるんだとばっかり……。だから、あの時、一緒に来ないかって言ったのに」
「ああ、あの君の言葉は、けっこう励みになったよ」
ハリーは去年一年、ダドリーの言葉なんて全く思い出さなかったのに、嘘をついた。ハリーは今や、まるでダドリーが普通の友達であるかのように感じていた。いや、むしろ古くからの友人であるように思い始めていた。
そうだ、一年前、ダドリーは自分のことを命の恩人だと認めたんだ。
「それで、卒業したらどうするんだ?」
「僕、闇払いになろうと思ってる」
「オーラー?」
「悪い魔法使いを退治するんだ。特殊警察みたいなもの」
「すげー。かっこいいじゃん」
「だろ?」
感心したようなダドリーに気を良くして、ハリーは片眉を上げて見せる。
「俺は、ボクシング続けようと思ってる」
「へぇ」
「俺、勉強はできないし、これくらいしか特技がないからさ」
そう言ってダドリーはボクシングの構えをとって一、二度パンチを入れる仕草をして見せる。闇雲に殴りつけるのとは違うその動作は、随分と洗練されて様になっているように見えた。
「そっちも、充分かっこいいと思うよ」
「本当に?」
「ああ」
不安そうなダドリーにハリーは笑顔で請け合った。
「たまには手紙くれよな」
「きみ、字が読めたの!?」
わざと驚いて見せるハリーにも、ダドリーは笑って言葉を続ける。
「もちろん。ふくろうはなしだぜ」
「ああ、普通の郵便にしておくよ」
じっと、数秒お互いに目を見交わして、それから二人は同時に吹き出した。クスクスと陽気な笑い声が部屋に響く。
こんな風にダドリーと笑い合うのは初めての経験だった。それなのに、とても自然で、どこか懐かしい気がした。本当は、こうなることが当たり前だったんだ。ただ、自分たちはここに辿りつくまでに、随分と長い長い回り道をしてしまったようだった。
夕食の食器の後片付けをした後、ペチュニアとバーノンは淹れたてのコーヒーを前に並んで座っていた。食事を終えた子供たちは揃って二階の自室に引っ込んでしまっていた。
お互いに言葉もなく、テレビも付けていない室内はしんとして静かだった。
確か、ハリーが最初に家に来た晩もそうだった。ミルクの瓶を取りに玄関を開けたら、おくるみにくるまったあの子と一通の手紙が置いてあったのだ。二人はさんざん悩んだ末に、その子を引き取ることを決意した。同時に、魔法なんてまともじゃないものは、あの子の中から追いだしてやるんだ、とも。
それを決めたのも、大騒ぎの後の晩に、こうして二人で静かにコーヒーを飲みながらだった。
リリー・ポッターとジェームズ・ポッターは魔女と魔法使いで、闇の帝王に抵抗したために殺された。――一人息子のハリー・ポッターを残して……。
魔法使いだなんて! まったくもってまともじゃない。リリーは夏休みにはポケットの中をカエルの卵でいっぱいにして帰ってくるようなおかしな女の子だったし、結婚相手のジェームズだってろくな男じゃなかったに違いない。そんな二人の子どもであるハリーだって、きっとダーズリー家に相応しくないくらい、ヘンテコでまともじゃないに違いない。
それでも、二人は十七年前の今日のような晩に、ハリーを家族として受け入れたのだ。幼い命が、なんの保護もなく殺されてしまうなんて、まったくもって『まとも』じゃない。夫妻が手を差し伸べることで少年の命が保障されるのなら、手を差し伸べてやるのが「まもと」な判断だ、という理由で。
「バーノン、私は……」
言ったきり、ペチュニアは手元のコーヒーカップを見つめて押し黙った。何か重要なことを告げようか迷っているようだった。
ペチュニアの手の中にあるコーヒーカップは、まさにダーズリー家にふさわしい、どこからどう見ても『まとも』な、ごく普通の白いカップだった。カップの外側には繊細なタッチで、かわいらしいピンクと青紫色のペチュニアの花が描かれていた。ずっと、もう二十年近く大切に使ってきたカップだった。同じカップが、バーノンの目の前にも同じようにコーヒーを湛えて置かれている。
同じ店でペチュニアが買ったそろいのカップには、百合の模様が入っていた。本来ならば、こことは遠く離れた場所で、同じようにコーヒーを湛えて夫婦の前に置かれているはずだったカップは、ずっと昔に持ち主ともどもバラバラに壊されてしまっていた。
ペチュニアはしばらく押し黙って、揺れるコーヒーの黒い水面を見つめていたが、とうとう静かに口を開いた。
「私はきっと、本当は、ずっとリリーのことが大好きだったんだわ……」
ペチュニアの口から発せられた声は、頼りなく自信なさげで、まるで自分の言ったことが間違っているんじゃないか、とヒヤヒヤしているようだった。
バーノンは黙って、そのぶっくりと太い腕を頼りなく細い妻の肩に添えた。そのまましばらく、なんと言ったものかと考えを巡らせていたが、やがてため息を一つついて話し始めた。
バーノンのため息に、ペチュニアは一瞬びくりと肩を揺らす。
「なあ、ペチュニア。血を分けて、一緒に育った兄弟を果たして嫌いになれるかどうか……、私は、はなはだ疑問に思うね。ずっと仲良く暮らしてきたんだろう? あー、少なくとも、最初の十一年間は? ちょっと考えてみればわかるだろう? そんな妹を心から嫌いになるなんて、まったく、そんなことは、本当に、……まともじゃないと、思わんかね? ん?」
続いた言葉にペチュニアは、すぐに肩に入った力を抜いた。
バーノンの言葉に、ペチュニアは何も言わなかった。答えようと口を開けても何も言えなくて、ただしゃくりあげる様に息を吸い込むだけだった。
結局、ペチュニアはなにか言うことは諦めて、肩に置かれたバーノンの手に自分の手を添えて握りしめた。リリーがホグワーツに入学してからずっと、自分の中に閉じ込めていた思いが、これ以上ないほどに膨らんで、爆発しそうだった。
リリーがホグワーツに入学してから、魔法界の闇はいや増していた。そんな危険なところに、妹を置いておきたくなかった。本当は、ずっとずっと一緒に居られるはずだったのに、魔法界はペチュニアからリリーを奪っていった。
妹が死んだなんて知らせは聞きたくなかった。だからずっと、魔法界からの知らせには耳をふさいで過ごしてきた。それなのに、あの赤ん坊が、あの小憎らしいジェームズ・ポッターと同じ顔をした赤ん坊が、妹の訃報と共に現れた。最悪だった。
せめて、危ない世界に興味を持たないように魔法界のことは一切口に出さずに育ててきたのに、それもすべて、あの子の十一歳の誕生日にだいなしになった。それからというもの、あの子は毎年毎年、危険な冒険をして帰って来るのだ。今回だってそうだった。妹を殺した奴のところへと、のこのこ出かけていって、一体どれほど……。
一体どれほど……、心配したことか。
しかし、それも今年で終わり。あの子はやり遂げてきた。あの子は、生きて帰ってきた。これからは、こちらも、あちらも、同じように平和になる。
そう、もう自分の心に素直になってもいいのかもしれない。家族に魔法使いがいることは、正直、ちっとも自慢にはならないけれど、けれども、あの子を家族だと、自分が育ててきた家族だと、認めてしまってもいいかもしれない。
ペチュニアは静かに首をかしげて夫の肩に頭をもたれさせた。抱きとめてくれる広い肩幅が暖かかった。
ペチュニアはそのまま、何も言わずに目を閉じた。明日になったら、もしかしたら言えるかもしれない。そう思いながら。
次の日、トランクを引いて出て行くハリーを玄関まで見送りに来たのは、結局ダドリーだけだった。
居間で「今までお世話になりました」と、ハリーが挨拶をしたとき、バーノンは不服そうに鼻をならし、ペチュニアは去年と同じように黙ったままだった。
今までと大して変わらない反応なのに、ハリーには何故か、今までとは違った様子に見えた。ハリーにはバーノンが「ああ、清々した」と心から思い切れずに戸惑っている様に見えたし、ペチュニアは去年と同じように、なにかハリーに励ましの言葉をかけてやりたいけれど、どうしたらいいのかわからないような様子に見えた。
もしかしたら、それは、ハリーのダドリーへの心象の変化が見せた幻だったのかもしれない。けれども、ハリーは二人の反応に満足して居間からトランクを引っ張り出した。
ハリーは昨日と同じように玄関前に立ち、昨日とはまったく違う思いでプリベット通り四番地の扉を見つめた。今は扉は開かれて、玄関には見送りのためにダドリーが立っていた。
ハリーは突然、いつか未来のクリスマス休暇には、この家に帰ってきたいと思うようになるかもしれない、という考えに囚われた。それは、なんだか泣きたくなるような、切ない想像だった。ここはやはり、曲がりなりにも十七年間、ハリーの帰るべき家だったのだ。
ニヤリと笑って顔の高さに拳を掲げて見せるダドリーに、ハリーも笑って右手で拳をつくり、ダドリーのそれにコツンとぶつけた。
「じゃあな、ハリー」
「ああ。元気でな、ビッグD」
お互いに笑って、もう一度軽く拳をぶつけ合う。そうして、ハリーはプリベット通りを後にした。角を曲がるまでずっと、ダドリーが玄関口からハリーの背中を見つめているのを感じていた。ハリーは、一度も振り返らなかった。
これから、新しい生活が始まる。
※ローリング女史のインタビュー内容を確認したところ、ハリーとロンはホグワーツには戻らずにキングスリーにスカウトされてオーラーになったとのこと。
ハーマイオニーはホグワーツに戻ってNEAT試験を受けたらしいです。
戦争時とはいえ、それでいいのか? 魔法界。
ハリーとダドリーはクリスマスカード交換をする仲にはなったらしい。
ペチュニアが原作の別れ際にハリーにかけようとした言葉は"Good lack"。