『君の名は。』(新海誠監督)感想

emotionalとmovingの間で

情動的であることと感動的であることの違い

emotionalとは。意味や和訳。[形容詞]1 感情の[を伴う];情緒の[的な]emotional reactions情緒反応.2 〈人が〉感情に動かされやすいan emotional tendency情に動かされやすい性向

movingとは。意味や和訳。[形容詞]6 (人の)心を動かす,(人に)哀れを感じさせる

じょうどう【情動】とは。意味や解説、類語。恐怖・驚き・怒り・悲しみ・喜びなどの感情で、 急激で一時的なもの。情緒。

かんどう【感動】とは。意味や解説、類語。[名](スル)ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること。「深い感動を覚える」「名曲に感動する」

goo辞書

 『君の名は。』を観た。非常にエモーショナルな映画だった。同時に全く感動的ではない。映画館からの帰り道、以前読んだ物語不要論を非常に強く思い出していた。

実用書『物語工学論』でカットされた賀東×新城特別対談の中盤盛り上がり、どーんと一挙無料公開!

 これの『物語【ストーリー】は(なぜ)必要なのか……そして語り手【ストーリーテラー】は?』という項目だ。

・絵にも音楽にも物語は必要ない。ならば、絵と音の組み合わせであるアニメはどうなのだろう。

 『君の名は。』は非常にエモーショナルな映画だと思った。絵的な美しさと曲の素晴らしさで瞬間的に感情を揺さぶる。そこに理屈や想いの積み重ねはない。重要なのは感覚に訴える「美しさ」や「心地よさ」、「悲しさ」である。これは瞬間的な感情を味わう「情動(emotion)」だ。

 情動的な『君の名は。』の対極に位置している映画として私が挙げられるのは『ショーシャンクの空に』。この映画を観ても瞬間的な感情の高ぶりは起こらない。代わりに見終わった後、静かに胸に迫るものがある。いわゆる「じーんとくる」映画であり、この染み渡るような感覚こそが『感動(moving)』だと私は考える。

 そして、映画ってのはMovieなのよ。まあ、本当のところは単に写真が動くからMovie(活動写真)なんだろうけど、『映画が動かすのは映像ではない。あなたの心です』って方が素敵でしょ。

 ディズニー好きなのでディズニー映画でも例を挙げると『ウォルト・ディズニーの約束』もこっち系の良作だった。この映画は創作物を作ったことがある人には特にグッとくるはず。

(私は、この手の感動が味わえる物語を密かに「脳汁ブシャー系」と呼んでいる。情動を伴う脳汁ブシャー系もあって、最近だとアナ雪が私にとってはソレ。)

 で、私が好きなのは「情動」ではなくて、「感動」なのよ。物語は感動を上手く伝えるための道具。

 確かに『君の名は。』はつまらなくはない。観ていて退屈しないし、絵にも音楽にも心地よさがある。けれど、感動はない。それはやはり『君の名は。』の持つ物語構造が非常にいい加減で、あちこちにガタが来ていることが原因だ。

 これは『輪るピングドラム』も抱えていた問題で、『君の名は。』や『輪るピングドラム』などの演出重視・物語軽視のアニメは観ている間は気持ちいいのだが、見終わった後にモヤモヤとした気持ち悪さがいつまでも残るのが難点だ。せめて、物語が破綻しない程度に仕上げてくれれば、見終わった後もっと気持ちよく忘れられるのだが……。

 ちなみに情動系の良作として私が挙げられるのは、アンドリュー・ロイド・ウェーバーのミュージカル『キャッツ』だ。同作曲家の『オペラ座の怪人』も、どっちかって言うと情動系だな。

・世の中には情動派と感動派がいる?

 たぶん人間には二種類いる。一つは、私のような物語中毒患者が所属する感動派で、もう一つは『君の名は。』を充分楽しめて満足できる情動派だ。

 感動派は基本的に理屈っぽい。なぜなら、物語は理屈でできているから。そして、『君の名は。』は物語を動かしていく為の理屈が非常に弱い。

・ご都合主義をどこまで許せるか。

 いわゆるリアリティラインの問題。制服のスカート切られて気づかないのはおかしいとか、制服なのに刺繍つけちゃダメだろとか、三年の時間のズレに気づかないのはおかしいとか、相手と触れ合ってもいないのに好きになれるのか?とか、彗星の軌道が明らかにおかしいよねとか、そんな険しい山道を体育会系でもない女子がおばあちゃん背負って歩けるわけないだろとか、ほかもろもろ。

 まあ、ある程度は「フィクションのお約束だから」で、目をつぶるのがいいんだけど、それにしても「目をつぶってね」って箇所が多すぎる。引っかかる場所が多ければ多いほど、物語への没入を阻害する訳だから、引っかかりは少なければ少ないほどいいのは間違いない。

 引っかかる場所が多い『君の名は。』は、リアリティラインを意識的に引き下げなければならないため、それだけ感動派の観賞を阻害する。

・物語構造の強さの一つは理屈が通っていること

 物語として理屈を通していく一つの極地がSF(サイエンス・フィクション)だ。これは物理的、科学的に理屈を突き詰めていった先の世界を描くものだ。SFファンは作中の理論に厳しい。

 SFの対になるのがファンタジーだろう。けれども、ファンタジーにだって理論はある。こちらは作者が自由に決める。たとえば、ハリー・ポッター・シリーズの杖のルール。最終巻でハリーがヴォルデモートに勝つために必要だった所有権のルールは、一巻から「魔法使いが杖を選ぶのではない。杖が魔法使いを選ぶのだ」と示されている。

 SFとファンタジーの間に位置しているのが推理小説や時代小説に代表される現実を舞台にした小説で、ルールは私たちの世界と同じだ。

 これらは明確に区別できるわけではなく、ファンタジー風味のSFもあれば、SF風味のファンタジーもある。現代モノに少しSFやファンタジーを混ぜ込んだものが一番多いだろう。

 『君の名は。』はファンタジーよりの現代モノだ。しかし、そのファンタジー部分の理屈は非常に弱い。顕著なのは記憶の取り扱い方で、入れ替わり初期の二人は「入れ替わっている間の記憶」を全く保持していない。記憶は保持されないはずなのに、後半以降の瀧は三葉や糸守町のことを相当覚えている。これは理屈が通っていない。入れ替わり外で得た情報(日記でのやり取り)なら記憶が消えていくのはおかしいし(第一、瀧が糸守の風景を描けるわけがなくなる)、入れ替わり中の記憶を(ぼんやりとでも)保持しているのなら初期の瀧と三葉の反応は説明がつかない。

 作中の理論やルールは「世界観」である。世界観は物語の土台である。土台である世界観が揺らいでいると、その上に構築される物語は強固さを保てない。

・恋愛至上主義者とそうでない人達

 『君の名は。』は恋愛至上主義映画である。まあ、別にそれ自体はいいのだ。ディズニーのプリンセス・シリーズなんかも恋愛至上主義だし。でもね、みんなが乗れる状況設定には限度ってものがあると思うのよ。

 物語の後半、カタワレ時に二人が再開するシーンは、この映画が好きな人はみんな好きだろう。高校生二人のやり取りとしては微笑ましいし、可愛らしくもある。

 でも、私は言いたい。

 お前らそんなことしてる場合じゃねぇだろ、と声を大にして言いたい。

 胸触ったとか、ちんこ揉んだとかで、きゃいきゃいしてる時間はねぇんだよ。普通、彗星は待ってくれねぇんだよ。町の人全員の命がかかってんの! どうやって避難誘導を成功させるのか、親父を説得するのか、寸暇を惜しんで作戦会議すべき時間でしょうが! なんなの? ねぇ、なんなの? 糸守町全員の命よりも二人でイチャイチャする時間が大事って、お前らは鬼か。人非人か。

 これ、状況設定のミスだよ。三葉の危機を演出するために、糸守全体を危機に陥れちゃったから。そうすると当然、恋愛よりも町の危機が重大な問題だと感じる人が出る。むしろ、町の危機よりも恋愛の方が重要だと感じる人の方が少ないと私は思いたい。自分の良心に照らして考えて。

 で、恋愛よりも町の危機の方が重大な問題だと感じる人は、物語の展開として恋愛映画ではなく冒険活劇を期待するのよ。だってそうでしょ。愛の力で彗星の軌道を変えられない限り、瀧と三葉がくっつこうがくっつくまいが、町の危機度は変わらないんだから。町の危機という、より重要な状況が出現したことによって、瀧と三葉の恋愛は(恋愛よりも町の危機の方が重大な問題だと感じる人にとっては)脇に追いやられてしまう。

 それなのに、『君の名は。』は町の危機を脇にうっちゃって、瀧と三葉の恋愛以外はどうでもいいと言わんばかりに最後まで恋愛至上主義を貫き通す。

 これねぇ、状況設定のミスだよ(大事なことだから二回(ry)。「二人の愛の成就が町の危機の回避になる」ってすればよかったのに。それか、もっと逢瀬の時間を長く取って、きっちり作戦会議させる。イチャイチャするのは、その後だ。でなければ、三葉の危機をもっと個人的な規模の小さいものにすべきだった。

 「二人の愛の成就が町の危機の回避になる」の状況の例として、パッと思いつくのはディズニーの『美女と野獣』。こちらは町ではなくて、城だけど。愛の力で彗星の衝突を回避するって設定は、『劇場版 美少女戦士セーラームーンR』でやってたね。

・三葉はどうやって父親を説得したのか

 愛の力で父親を説得したと言えば、個人的には『リトル・マーメイド』が思い浮かぶ。これ、最後の場面ではアリエルは一切の言葉を使わずに、寂しげな背中だけで父親であるトリトンを説得してしまうんだよね。

 『リトル・マーメイド』でアリエルは物語の最初から一貫して「陸の世界」に行きたい、と明言している。行動面でもそうで、アリエルは地上のものを集めては宝物とし、父親の理解が得られないとなると悪い魔女に頼ってまで陸に行ってしまう。

 アリエルは、どうしても陸に行きたいと願い、行動することによって、娘の幸せを願う父親の説得に成功する。

 これ、父親側の描かれ方も重要で、最初に「娘を心底心配しているがゆえの無理解である」って示されている。父親が娘を「心配している(愛している)」ってことは、「娘にとっての幸せを本当に願っているなら、どうするべきか」という部分に説得のための取っ掛かりがあるわけだ。(最後のトリトンのセリフはとても印象深い「だが、一つだけ問題がある。娘がいなくなるのは、とても寂しい」)

 まあ、アリエルくらい積み重ねがあるなら「父親は成長した彼女の姿を見ただけで、全てを了解したんですよ」ってのも解る。

 でも、三葉は父親を説得するために一体全体なにをしたのか、私みたいに薄らぼんやりと観ている観客には、さっぱりわかんないのよ。さらに、父親は話もよく聞かずに無理やり三葉を病院に入れようとしていて、娘を嫌っているようにしか見えなかったし、説得される要素ゼロじゃない?

 そんな凄い強敵にどうやって立ち向かっていくのか、と期待していたのに……。おい、飛ばすってどういうことだよ! 一番の見せ場でしょーが! 打ち切り漫画の最終回かっての!

 

 フィクションの物語は嘘なので、基本的にどんな嘘をついてもいい。でも、たった一つだけ、絶対に吐いてはいけない嘘がある。心についての嘘だ。登場人物の心情を蔑ろにした途端、物語は説得力を失う。

 三葉がどうやって父親を説得したのか、私には想像もつかない。だから、嫌っていた娘に説得されて掌を返す父親の心情は、私には作者にとって都合がいいだけの嘘にしか見えなかった。

・世の中には物語を求めない人もいるのだろう

 で、これだけ不満点を述べられる一方で、あれだけヒットしているのだから、世の中には物語を求めない人もいるのだと思う。そして、今の時代においては、たぶん彼らは多数派なのだろう。

 生きていく中で、どこに感性の力点を置くかは、その人の個性である。たとえば、私は絵画や音楽に対する感性が著しく低い。

 絵画なら見て判るような技術的な凄さはともかく、感情に訴えかけるような部分は上手く感受できない。絵を見て感銘を受けたのは、今までに一度しかない。

 音楽は逆で、技術的な巧拙はよくわからない。単純にメロディが好きか、耳に残るかで判断していて、多くの場合、最終的な好き嫌いは歌詞に頼る。ついでに世間で流行っている曲のいいところは、大抵わからない(少なくとも楽曲を買って集中して聴きたいと思うような流行歌には、あまり出会わない)。

 『君の名は。』がガツンと心にヒットした人は私と逆で、絵や音楽に感性の力点を置いていて、物語にはあまり注意を払わない人なのではないか。

 確かに『君の名は。』の絵は美しく、音楽もよかった(私は『君の名は。』を見る前からRADWINPSのぬるいファン)。これらは、言葉を介さずに感性に響く。

 対して、物語は言葉を介して感性に届く。言葉はすなわち理屈であり、感性に訴えるためにも理屈が必要だ。理屈を伴わない言葉は他人に伝わらない。

 物語のない世界なんて、私には思いもよらない。同じように、言葉を介さない感性の世界に生きている人達にとっても、私のような人間は想像の範疇外なのだろう。

・情動と感動でできること

 小説で表現できるのは感動で、情動は読者の積極的参加、つまり想像しながら読むという行為によって持ち込まれる。

 絵画や音楽は基本的にこれの逆だ、と私は考えている。表現できるのは情動(瞬間的な感情)で、感動は鑑賞者の積極的参加、つまり歴史的な背景や技法、作者の生い立ちなどの知識を持って観賞する行為によって持ち込まれる。(これに関しては素人なので、異論大歓迎)

 アニメや映画、演劇、ミュージカル、歌、漫画などは上記の両方の性質を備えている総合芸術である。これらは大抵の場合、複数人が協力して作り上げる。世の中には情動派と感動派がいるのだから、お互いに力を出し合うことによって、情動を積み上げた先の感動を生み出すことができる。

 情動を積み上げることで感動は力を増し、感動を伴うことで情動は持続性を得る。

 というわけで、総合芸術畑の情動派の方は、ぜひ感動派と組んで作品作りをして欲しい(逆も然り)。ついでに、「高い娯楽性の実現」と言う意味で、これの先端いってるのがディズニーの映画作品だと思う。みんな、もっと技術盗んでこうぜ。

2017/01/20

戻る inserted by FC2 system