嫁ぎ先である邇邇芸命ニニギノミコトに父である大山津見神オオヤマツミの元へ帰されてからというもの、石長姫イワナガヒメは日がな一日鏡に写る自分の顔を眺めては、その醜さに涙を流しておりました。その悲しみの深さと言ったら、娘のためにニニギノミコトを呪ったオオヤマツミもなんと慰めてやったら良いのか、検討もつかない程でした。
ある日のこと。いつものようにイワナガヒメが鏡を覗いてはため息をついていると、若い男神が通りかかりました。そして、熱心に鏡を覗きこんでいるイワナガヒメに声をかけました。
「いったい何をそんなに熱心にご覧になっているのですか?」
「自分の顔を見ているのです」
イナワガヒメは慌てて深く俯いて、ごわごわとした黒い髪で顔の周りを覆いました。
「そんなにじっと見つめておられるとは、さぞかし美しいかんばせ をお持ちなのでしょう」
「いいえ! いいえ! そうではありません」
イワナガヒメは激しく首を左右に振りました。
「わたくしの顔があまりにも醜いために、わたくしは親元に帰されてしまったのです」
「そんなまさか!」
「いいえ、本当なのです。妹のコノハナノサクヤヒメと違って、わたくしはあまりにも醜いのです」
そう言うとイワナガヒメは鏡を放り出し、両手で顔を覆ってさめざめと泣きました。男神は投げ出された鏡を拾い上げると、そっとイワナガヒメの肩に触れました。
「それは酷いことをされたものだね。面をあげなさい。わたしは速津瀬神ハヤツセノカミ。あなたは?」
同情するでもなく、憐れむのでもない、ハヤツセノカミの態度があまりにも普通だったため、イワナガヒメは思わず顔を上げて男神をじっと見つめました。
イワナガヒメの顔をみたハヤツセノカミは、ぱちりと瞬きしました。きっと何か酷いこと言われるに違いない。そう思ったイワナガヒメは俯いて唇を噛み締めました。
しかし、ハヤツセノカミはイワナガヒメの顎(おとがい)に手をかけると、そっと顔を上げさせました。イワナガヒメの目には、驚きのあまりにあんぐりと口を開けたハヤツセノカミの顔が見えました。
「こんな美しい女神を醜いと言った男神がいるなんて」
イワナガヒメは慌ててハヤツセノカミの手を振り払うと厳しい声で言いました。
「どうか、からかわないでくださいまし! わたくしは己が醜いことをよくよくわかっておりますから!」
けれども、ハヤツセノカミは怯みませんでした。
「からかうなど、とんでもない! どうか、御名を教えてはくださいませんか」
イワナガヒメはためらいました。しかし、ハヤツセノカミがあまりにも熱心に頼み込むものですから、とうとう根負けしてぽそりと、御名を唇に乗せました。
「イワナガヒメ、と申します」
ハヤツセノカミは微笑んでイワナガヒメの両手に自分の手を重ねました。
「美しいイワナガヒメよ。どうかわたしと夫婦になってはくださいませんか?」
にこりと微笑んだハヤツセノカミと対照的に、イワナガヒメは怒りで体を震わせると、掴まれた手を振り払い、その場から逃げ出してしまいました。

「それで、断ってしまったのかい?」
オオヤマツミは大声を上げました。あまりの声の大きさに、山中の鳥達がばたばたと羽音をさせて飛び立って行きました。
「だって、とても信じられなかったのです」
イワナガヒメは俯いて声を震わせました。
「わたくしのことを美しいと仰ったのです」
オオヤマツミは息を呑みました。
「なんだって?」
「あのお方は、わたくしのことを美しいと仰ったのです」
「それならどうして……」
「どうしても、こうしても! そのようなこと、とても信じられません」
オオヤマツミは黙りこみました。こんなにも深く傷ついている娘に、なんと声をかけてやったら良いものか、わかりませんでした。ただ、イワナガヒメを美しいと言った男神が、一度の妻問いの失敗で諦めないでいてくれることを願うばかりでした。

ハヤツセノカミはオオヤマツミの願いどおり、一度の失敗では諦めませんでした。ハヤツセノカミは日が昇るごとにイワナガヒメの元を訪れました。
しかし、しつこく女神の美しさを称えることはしませんでした。代わりに男神は山の向こうのこと、青々とした田圃の広がる平野のことや今は跨いで渡れるほどの清流が驚くほど広い川幅を持つようになることや、見渡す限り水をたたえる海のことを話しました。
特にイワナガヒメの心を惹いたのは海の話でした。オオヤマツミの住まいからも海を見ることはできます。彼方では空と海が交じり合うさまも見て取ることが出来ました。けれども、それは遥か遠くに目を眇めてやっと見えるものでした。イワナガヒメは舐めると塩辛いという海の水の話がとても信じられず、ハヤツセノカミが自分をかつぐためにした法螺話に違いないと思いました。
日々は楽しく過ぎて行きました。いつの間にかイワナガヒメはハヤツセノカミのせせらぎのような笑い声を聞かないと一日が始まらないような気持ちになっていました。
ある日のことです。イワナガヒメがぽつりと呟きました。
「わたくしも、海を間近で見てみたいわ」
ハヤツセノカミは喜んでイワナガヒメの案内役を買って出ました。そうして二人は、オオヤマツミの許しを得て、海へと向かう長い長い旅に出ることになりました。

川をたどっていけば、必ず海に出られるから、と言ってハヤツセノカミはイワナガヒメの手を引いてせせらぎの脇に立ちました。
ごろごろと大きい石が転がる隙間を茶色の枯葉が埋め、その上を透明な水が涼し気な音を立てて流れています。歩幅の小さいイワナガヒメでさえ、跨いで渡れるほどの狭い川幅です。まだオオヤマツミの領地を出ていない、イワナガヒメもよく知る川の姿でした。
「あら、サワガニがいるわ」
枯れ葉に隠れるようにして、小指ほどの大きさのサワガニが川の中を歩いていました。その足元で、さざれ石がころりと転がって少しだけ川下へ移動しました。
「さあ、行きましょうか」
「はい」
ハヤツセノカミの手をしっかりと握りしめて、イワナガヒメは川下へ向かって、遥か遠い海へ向かって一歩を踏み出しました。

しばらくはイワナガヒメにも馴染みのある光景が続きました。木々は青々とした葉を茂らせ、今を盛りと初夏の日差しをいっぱいに浴びています。ところどころに、藤やグミの木が花をつけているのが見えました。
オオヤマツミの領地を出る頃には、川は膝を濡らす程の深さになっていました。川幅も、もはや飛び石がないことには濡れずに向こう側に渡ることができない程でした。
「そろそろ歩くのに疲れてきませんか」
どこか楽しげに声をかけたハヤツセノカミにイワナガヒメは少しむっとして首を振りました。やはり海の水が塩辛いなどというのは出任せで、疲れたならと、家へ追い返すつもりなのかもしれません。
「いいえ、ちっとも疲れてなんかおりません」
「そう、それは残念だ。せっかく良い乗り物を用意いたしましたのに」
ハヤツセノカミの物言いにイワナガヒメは興味を惹かれました。ついつい、疑問を口に出してしまいます。
「……それはなんですの?」
「船ですよ。川下りには船を使うのが最高です」
「けれど、どこにもそのようなものは見当たりませんけれど……?」
ハヤツセノカミは自信ありげに笑みを浮かべると、懐から折りたたんだ風呂敷のようなものを取り出しました。
ハヤツセノカミが朽葉色のそれをさっと川へ投げると、それは見る見るうちに船の形に姿を変えて川の上に浮かびました。
ハヤツセノカミは優美に微笑んで、先ほどと同じ問いを繰り返しました。
「イワナガヒメ、そろそろ歩き疲れてきたのではありませんか?」
今度はイワナガヒメもおもしろそうに微笑み返しました。
「ええ、そうなのです。ちょうど何か素敵な乗り物がほしいと思っていたところですの」
「それはよかった。さあ、どうぞ、わたしの船にお乗りください」
「まあ、ありがとう」
イワナガヒメはハヤツセノカミに手を引かれて先に船に乗り込みました。女神が腰を落ち着けたのを確認すると、男神は船の縁を掴んで川の真ん中へと押し出します。船が川の流れに漂い始めると、ハヤツセノカミもイワナガヒメの後ろに乗り込みました。

船はすいすいと順調に進みました。時折、ハヤツセノカミが長い櫂を使って岸にぶつからないように進む先を正していきます。
しばらくすると船は平野に出ました。見たことのない光景にイワナガヒメが目を輝かせます。
「木々がないわ!」
「森を抜けたんだね」
いよいよオオヤマツミの領分を完全に脱して、未知の世界が始まったのです。
「あの一面に広がっている緑はなんですか?」
イワナガヒメが周りをもっとよく見ようと身を乗り出します。
「あれは稲田です。人々はああやって米を作っているのですよ」
ハヤツセノカミの説明にイワナガヒメは感嘆の声を上げました。人が御贄みにえとして献上してくれるので米俵や餅は見たことがありましたが、山の上からでは稲作の様子は遠すぎてよく見えず、どのようにして作るのかは知らなかったのです。
「山からの眺めとは随分と違います。あ、あの木は何かしら?」
イワナガヒメが田圃のあちらこちらにぽつりぽつりと立って青々とした枝を広げている木に気がついて問いかけました。
「あれはサクラの木です」
「あ……」
イワナガヒメは視線を下げて透き通る川の流れを見つめました。妹のコノハナサクヤヒメのことを思い出してしまったのです。
「春になると、山からの神がいらして、あの木にクラすのです。だけども、まあ、この時期はね。あまり皆さん、サクラの木の下には寄り付かな いですよ」
イワナガヒメは目を瞬いて後ろを振り返りました。
「あら、どうして?」
「風が吹くと毛虫が降ってきますからね。好き好んで刺されに行く者はおりますまい」
「まあ!」
ハヤツセノカミのいたずらっぽい返事にイワナガヒメはころころと笑いました。

船での旅路は楽しい物でした。陽は暖かく、風は涼しく、足も疲れません。里の風景は目に新しく、木々や飛び交う蝶や鳥も山で見るものとは違っていました。
海に近づくにつれて川幅は広く、船の進みは緩やかになっていきました。
流れていく景色を眺めながら、ときおり振り返ってはハヤツセノカミと楽しくおしゃべりしていたイワナガヒメは、ふと視界の端に遠く離れた山々をとらえて動きを止めました。
「どうかされましたか?」
突然、食い入るように遠くを見つめて黙りこんでしまったイワナガヒメを訝しんで、ハヤツセノカミが声をかけました。
「山が……」
「山?」
ハヤツセノカミは振り返ってイワナガヒメと同じように遠い山を眺めました。しかし、ハヤツセノカミには特に変わった様子には思われませんでした。
「山が、青く見えます」
遥かに見やる山々は空気に霞んで、緑を内包しつつもほの青く見えました。それは、今までイワナガヒメが見たことのない色合いでした。
「なんとも言えない、不思議な色です。わたくしはずっと、山とは緑なすものだとばかり思っていました」
「そうですね。確かに遠くから見る山は幻のような水色……空が濃くなったような色をしている」
「はい」
「そば近くに寄らなければ見えないものは沢山あります。葉の形、住んでいる虫や鳥、咲き誇る花の香り。しかし、同じように遠く離れなければわからないものもあるのです。雲間に見える峰の鋭さ、裾野の大らかで広い様子、山々の連なる形——」
イワナガヒメはハヤツセノカミの言葉一つ一つに頷きながら、改めて故郷の山を眺めました。今までこんなに長くあの山で暮らしていたのに、女神は自分の山のことを半分しか知らなかったのです。
「さあ、イワナガヒメ、前を向いて。わたしたちは海までやって来ましたよ」
食い入るように船の後方を眺めているイワナガヒメを微笑ましく思いつつ、ハヤツセノカミが前を向くように促しました。
振り返ったイワナガヒメの黒水晶のように艶やかな髪が海風に吹かれて、軽やかに広がります。すぐそばで、カモメが甲高い鳴き声を上げながら飛んでいました。陸地は左右の両脇で切れ、その先には見渡すかぎり青い波が穏やかにうねる光景が続いています。
イワナガヒメは吹き抜けていく風が山とは違った匂いをまとっていることにすぐに気づきました。思わず目を閉じて嗅ぎなれない海の匂いを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと目を開けました。
「これが、海……」
ごうごうと、浜辺に打ち付ける波の音が聞こえてきます。それは川の音とも、滝の音とも全く違った、初めて聞く音でした。
暫くの間、イワナガヒメは言葉もなくただそこにありました。青い空、刷毛で刷いたような薄い雲、陽の光の暖かさ、遠く近くに聞こえる波の音、甲高く伸びる海鳥の鳴き声、空気に交じる磯の香り、皮膚に感じる潮を含んだ風、小舟を揺らす波、船縁に当たる水のしぶき。イワナガヒメはただ全身で海を感じることに専念しました。
どれくらいそうしていたでしょう。ハヤツセノカミが優しくイワナガヒメの肩に手を置いて言いました。
「今なら、わたしの言ったことが嘘ではなかったと証明できるように思います」
イワナガヒメが振り返ると、ハヤツセノカミがにっこりと微笑んでいました。イワナガヒメはハッとして、ぱちんと両手を打ち合わせました。
「そうでした! あなた、海の水は元から塩辛いなんて言っていましたね! わたくしを担ごうとしたって無駄ですからね。今からそれを確かめてみせます!」
イワナガヒメは船の縁から手を伸ばして意気揚々と海の水をすくい取りました。自信満々の勝ち誇った表情でイワナガヒメは海の水を一息に飲み込みました。
しかし次の瞬間、あまりの塩辛さにイワナガヒメは大きく咽てしまいました。涙を浮かべなから、慌てて口元を抑えて何度も咳き込む様子にハヤツセノカミはこらえきれなくなって笑ってしまいました。
「わ、わたくしを騙しましたのね!」
笑い転げるハヤツセノカミに憤慨してイワナガヒメは声を荒らげました。ハヤツセノカミは自分の目に浮かんだ涙を払いながら言い返しました。
「騙しただなんて、とんでもない! わたしはずっと、海の水は塩辛いものだと申しておりましたよ! 信じられなかったのはご自身じゃありませんか」
「それは……! あなたがあまりにもふざけた調子で仰るものですから、わたくしはてっきり……!」
「わたしはいつだって真面目に申し上げておりましたよ」
ハヤツセノカミは笑いを引っ込めて、イワナガヒメの目からそっと涙を拭い去りました。赤く火照った女神の頬に手を添えて、優しい目でその顔を覗き込みます。
「それに、もう一つ。あなたが決してお信じになられなかったことも、今ならわたしの方が正しかったのだと証明できるでしょう」
ハヤツセノカミは懐から丸い鏡を取り出しました。それは二人が出会った時に、イワナガヒメが山の中で放り捨てた手鏡でした。
「あなたは、この世で最も美しい方だ」
目の前に鏡を差し出されて、イワナガヒメは目を瞬きました。そこに写っているのが自分の姿だとはとても思われませんでした。
ゴワゴワとして木の櫛の歯を何本も折ってきた髪は光を透かしてツヤツヤと輝き、茶色くゴツゴツとしていた肌は一皮向けたようにつるりとして鋭く光を跳ね返しています。暗いうつろのようだった瞳は、洞窟の天井から差し込む陽光のように希望に輝いて見えました。
コノハナノサクヤヒメが持つ優しく柔らかい草木のような美しさとは違った、鋭く硬い鉱物だけが持つ美しさが、そこにはありました。
「これが、わたくし……?」
「石の持つ美しさは、たちどころに万人が理解できるものではありません。晶洞は割らない限り美しい中身を覗かせてはくれません。磨かれない金剛石はただの硬い石ころでしかなく、山の根に埋もれたままの翡翠は単なる土塊つちくれにすぎません。けれども、山を出て川を下り、磨かれ、あるいは割れて本来の姿を表した石の美しさは、どんなものも敵いません」
ハヤツセノカミは握っていた櫂を脇に置き、イワナガヒメと視線を合わせて言いました。
「イワナガヒメ、どうかわたしと夫婦になってくださいませんか」
イワナガヒメは手鏡から顔を上げてハヤツセノカミの顔を覗き込みました。まっすぐに見つめてくる目は、誠実で嘘をつかない信頼できる者の瞳です。イワナガヒメは山や川でハヤツセノカミと過ごした楽しい日々を思い出し、にっこりと微笑みました。
「はい、喜んで」
こうして二人は無事に夫婦となりました。二柱は今でも仲良く過ごしているようです。どうしてわかるのかって? 明日にでも川原や浜辺に行って足元をよく見てごらんなさい。
そうすれば、きっとあなたもハヤツセノカミが磨きあげたイワナガヒメの美しいかけらに出会うことができるでしょう。




この話は記紀神話を元にした二次創作です。
ハヤツセノカミは私のバカな頭で考え出した川の神様です。
なので、元々いらっしゃる日本の神々とは一切関係ないです。

石長比売が石、つまり鉱物を象徴する女神なら、
彼女が醜いはずがない!と愚考し、この話を書きました。
昔からある民話とか、風土記とは一切関係がありませんので、
誤解なきよう、ここに書き記しておきます。

ついでに→の石は、近所の河原で拾った石長姫の欠片です。
スマホなどで、背景が出ていない方はこちらをクリック!
山奥とかじゃなく、普通に市街地を流れている川です。
駅(新幹線も止まるよ!)から100mくらいのところで拾いました。
拾った私がびっくりだよ!
鑑別に出したところ、石灰岩だと言うことがわかりました。
ルーペで見ると2~3mm程度の結晶が集まっている様子がわかりますので、
結晶質石灰岩ですね。なじみのある名前だと大理石です。
栃木はマンガン鉱山が多いので、ピンクの発色原因はマンガンだと思われます。
興味がわいた人は是非ぜひ河原の石を観察してみて下さい。
きっと素敵な出会いが待っているはずです。

※2015/05/14追記 背景に設定している石長姫の欠片を
「神玉工房」の千徒さんにお願いして、
大珠と勾玉に仕立てて貰いました。
もう、超絶可愛いです。美麗な写真を是非ご覧下さい。→作品紹介 2015/05/12

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