せっかくなので、個人的ユダ萌文学紹介

1. 新約聖書

 イエスの宗教的伝記。そこにどこまでの真実が含まれているかは不明。

 マタイ、マルコ、ルカ、の三つの福音書は共観福音書と呼ばれ、それぞれがそれぞれを参照したような跡がある。成立年代は早い順に確かマルコ、マタイ、ルカ。最後にヨハネ。ヨハネによる福音書は他の三書と大きく違うところが多く、成立年代も遅いことから、多くの創作が入っていると思われる。イエスの性格も、なんか違う。

 取り敢えず、新約聖書の一番の萌えポインツは最後の晩餐で、ユダがイエスの隣で食事をしていること。なんだよ、お前いつも隣に座ってんの? それとも、その日はたまたまだったの? 師の隣で密かにwktkしながら食事してたら、突然お前は裏切り者だなんて言われたらすごいびっくりするよね。やべぇ、想像すると顔がニヤニヤする。

 ヨハネによる福音書で、みんなに信頼されてたけど裏切っちゃいました☆なユダでもいい。会計係おいしいよ、会計係。

 そういえば、ヨハネによる福音書は、一番ユダに対して悪意のある書き方をしている(この香油を金に変えて貧しい人に施したほうがいいと言うユダのセリフの後に、ユダがこういったのは教団の金を着服しているからで云々)一方で、(「しようとしていることを今すぐするがよい」とイエスに言われて出て行ったユダのことを皆が祭りの準備や武器を買いに行ったのかと思ったとか)ユダの記述が詳細で他の弟子たちに信頼されていたとも取れる記述があったりもするんだよね。ヨハネはユダに対して愛憎相半ばする感情を持っていたのだろうか。

とりあえず、ヨハネはイエスの隣の席を今すぐにユダに明け渡すべきだと思います。
新約聖書 岩波文庫

2. ジーザス・クライスト・スーパースター

 イギリスが生んだミュージカルの巨匠、アンドリュー・ロイド=ウェーバーとティム・ライスのロック・オペラ。

 え? そんな名前聴いたことがないって? アンドリュー・ロイド=ウェーバーはキャッツやオペラ座の怪人の作曲者。ティム・ライスはディズニーのライオンキングやアラジンのホール・ニュー・ワールドの作詞者です。二人とも有名人よ。

 発表当時大扇風を巻き起こしたらしいが、残念ながら自分は生まれていなかったので詳しくは知らない。日本では劇団四季が公演している。ジャポネスク・バージョンとか面白いことをやっている。

 1973年に映画もつくられており、エルサレムでロケの準備から始まり、演者たちが撤退するところまでフィルムに映しだされるのは斬新。ただ、年代的にどうしても演出が古く感じてしまうのは否めない。日本ではDVD発売していないのでUK版を買いました。(日本とヨーロッパはリージョンコードが同じなのでPCで鑑賞できる)

 2007年にブロードウェイの映像化版が出ており、こちらは日本でも入手可能(と思っていたら2010/10/03現在はマーケットプレイスの商品になるようだ)。現代の為、映画のように演出を古く感じたりすることは無い。個人的にはこっちの方が好き。

 イエスのエルサレム入りから磔刑までを描いた作品。視点はイエスとユダになっており、神の意志がつかみ切れずに苦悩する人間らしいイエスと、集団の為を思いつつも運命に翻弄され裏切り者になるユダの苦悩が描かれている。

印象的なのは最後のナンバー(途中にも出てくるけど)スーパースターで、ユダがイエスに問いかける形の曲。

「あなたはどうしてその手に余ることをするのか、いつも不思議だった。もっと上手くやれば世界を手に入れることもできただろうに、どうしてあんな古い時代の辺境の地を選んだんだ」

という歌詞は、ユダの心情と現代人の作者や観客の心情と重なって印象深い。

自分のユダ萌の原点。全てはこの作品から。そして、出会いのきっかけは母の「あの映画、ユダの自殺シーンに確かクレーンが映ってるんだよ。確認したい! 探して」の言葉でした。母よ……。(※クレーンは大変見つけにくいですが無事に確認できたようです)
ジーザス・クライスト・スーパースター 2000年BW映像化版
ジーザス・クライスト・スーパースター 1973年映画UK版
劇団四季 ステージガイド ジーザス・クライスト・スーパースター

3. 邪馬台国はどこですか

 ミステリー作家、鯨統一郎のデビュー作。

 「ブッタは悟りを開いていない」その発言から小さなバーの片隅で交わされる歴史議論。参加者は若き天才、早乙女静香、日本古代史教授、三谷敦彦、自称歴史家、宮田六郎。聴衆はバーのマスター松永。

 歴史の常識をコペルニクス的転回で覆していく短編集。読んでいると常識よりも、この本の結論の方が本当だと思えるから面白い。

 目次は「悟りを開いたのはいつですか?」「邪馬台国はどこですか?」「聖徳太子はだれですか?」「謀反の動機はなんですか?」「維新が起きたのはなぜですか?」「奇跡はどのようになされたのですか?」。どれも面白いんだが、私たちが注目すべきは最後です。「奇跡はどのようになされたのですか?」

 この「奇跡」がイエス復活を指していて、最後の議論がイエスはどうやって復活したのか、というテーマ。ここで出てくるトリックがイエスとユダの入れ替わり。素人目では、それなりに納得できる議論になっている。

 惜しむらくは最後、ユダが葡萄園出身者じゃないか、というところ。この解釈は微妙なんだよね。歴史家なんかだと、ユダは南部の商人出身者って人がほとんどで意見が一致しているから、これをつけることで全体の信用度が下がっている気がする。でも、バーで最後、松永が葡萄酒を出してしめるって文学的演出はすごくステキなんだよなぁ。

まあ、でもイエスとユダの入れ替わりは萌える。ユダに会うまで葡萄酒はもう飲まない、って誓っちゃうイエスも萌える。
邪馬台国はどこですか?  鯨統一郎 創元推理文庫

4. ユダによれば<外典>

 ヘンリック・パナスによる文学作品。個人的ユダ萌文学の最高峰。これが理想。なんかもう、ラブラブしてるよ。オーラでてるよ。素敵だよ。

 年老いたユダが友人に当てた手紙、という形で綴られるこの話は、他の外典に引用されている「ユダのみが真実を知っていた。それゆえに裏切りという秘密の技を行った」という文章を出発点にして、ユダの視点からイエスの真実を描く作品。近年発見された「ユダによる福音」を文学的に再現してみせた作品である。発表は1973年。ユダによる福音書は古コプト語で書かれているらしいが、これはポーランド語。直接的関係はなく、そのスタンスも異なっている。

 パナスは確認しうる歴史的資料を参照の上、それらに矛盾なくイエスの人物像を描いて見せる。その視点に選ばれたユダは、商人らしく現実主義者で、信心深くはあっても懐疑的であり、常にイエスを冷静に観察している。その冷静さゆえにイエスはユダを信頼し、その人柄ゆえにユダはイエスに惹かれていく。

 イエスが宣教師、伝導師として活動できた時代背景や、イエスの死後、弟子の集団がだんだんと宗教集団へと変節していく様、そのときに取り入れた様々な慣習などもユダの考察として書かれ、初期キリスト教成立という視点で読んでも面白い。

 政治的扇動、民族独立といった運命の渦に巻き込まれていく『愛の宣教師イエス』というのも斬新な聖書解釈だと思う。聖書の中で割と唐突に行われるイエス逮捕の事情もこういう事なら納得出来る。(十字架での磔刑は、ユダヤの宗教犯罪者の処刑方法ではなく、ローマの政治犯に対する処刑方。イエスは聖書の中では政治的扇動を行っていないので、磔刑に処されるのは、いささか唐突)

 ついでにいうとユダはイエスに関連する書籍はすべて集めており、お前はそんなにイエスが好きか、と読みながら突っ込みたくなる。福音書の中で若いユダが裏切り者として描かれていることに冷めた視線を向けつつも、最後の質問「なぜ、イエスの真実の言葉を宣べ伝えることをしなかったのか」に、「とにかく私はそれを試みたのだ。しかし、世界は欺かれることを望んでいるのだ!」と軽く答える様には真実を伝えたゆえに信頼されなかった実直な男の淋しげな響きを感じる。

 萌えポインツは最初、ユダ→マリア→イエス→ユダだったのが、だんだんとイエス→←ユダに変わっていくところ。なんかもう、最後の晩餐のあたりとかね、泣けるよね。交わす言葉は少なくともお互い認め合ってるのがいい。

 一番萌えるシーンをちょっと引用。

 ゲッセマネ、イエスのセリフから。地の一人称(私)はユダ。


「時が来た。定めの日がやって来た。あなたはこれらすべてのことをどう思うか。」

 彼の望み通りになる、また、彼が予言を成就するメシアだと皆が信じている、と私は答えた。

「あなたはどうか。あなたも信じているのか」と、彼は尋ねた。

ラビよ、あなたは長い間私を御存知ではありませんか。忠実にあなたの手助けをしてまいりました」私は答えた。

「マリアがいたからだ」彼は答えた。

「師よ、マリアがあなたに話したのですか」

「そうだ。話した。」

 そこで私は言った。

「私を愛するように、あなたからおっしゃっていただけなかったものでしょうか。あなたの命令ならよく聞いたことでしょう」

「そうしてもよかった。しかしその時には、あなたはマリアと共に私のもとを去っただろう」

 私は言い返すすべを知らず、そんなことは一度も考えたことがない、と呟いただけであった。するとイエスは、私の言葉を打ち消すように首を横に振って言った。

「わたしは考えていた。あなたを失いたくなかったのだ」

 そう彼は言ったのである。はっきりと。彼女をではなく、私を失いたくなかったのだと。だが自分自身の件に関しては誰も証人としてはふさわしくないものだ。

 そう彼は言ったのである。はっきりと。彼女をではなく、私を失いたくなかったのだと。

 はっきりと。彼女をではなく、私を失いたくなかったのだと。

 彼女をではなく、私を失いたくなかったのだと。

 私を失いたくなかったのだと。

 うは、駄目だ、萌える。萌えてしまうじゃないですかぁ! その後の「だが自分自身の件に関しては誰も証人としてはふさわしくないものだ」も萌える。この冷めた感じがまた。世の中に対して冷静で、信じてくれる人なんていないと思ってるんだよね。それでも言いたかったんだよね。自分と師は特別な関係だったんだって言いたかったんだよね! 言いふらしたかったんだよね! うあ、萌える。

 あと、商人出で財布の中にセールティウスをザクザク言わせてるのも可愛い。さりげなく非道なところも人間らしくて好き。自分の中のユダ像はここがスタンダード固定になってる。でも、正直ユダなら割となんでも萌えるかもしれない。

 ユダによれば 外典 ヘンリック・パナス 小原 雅俊 訳 恒文社

 え、駆け込み訴えはないのかって? 私、太宰治嫌いなんですよ。読んだけど、萌えない。萌えないゴミはただの紙だ!
 あと、遠藤周作の『イエスの生涯』は未読。

その2もどうぞ
2010/09/30
加筆修正 2011/02/25
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