怒りや不満と言った荒魂の浄化方法には二つあって、一つは言葉にして身体の内から外へ吐き出すこと。もう一つは似たような経験に共感する(してもらう)ことだ。何が言いたいかというと、『かぐや姫の物語』がつまらなくて不満たらたらなのだが、ネット上の評価は絶賛がほとんどで、不満系のまとまった評価が読めなかったため、これからこのページで自分で書くから、『かぐや姫の物語』を面白く見られて文句もない人は、この批評は読むな、ということだ。

平安時代を生きていないタケノコ

 正直に言って、タケノコのキャラクターには全く共感できるところがなかった。タケノコが平安時代の女の子にも、普通の女の子にも思えなかったからだ。

 もしかしたらこれは、時代物(時代小説・歴史小説)や外国文学を読み慣れているか否か、でだいぶ理解が変わってくる要素かもしれない。

 例えば、お歯黒や眉を整えるシーン。

 当時の人達にとって、それらの持っている記号は、既婚女性(=大人の女性)や貴族であって、美しい打ち掛けの持っているものと変わらない。タケノコは美しい打ち掛けは喜ぶのにお歯黒や引眉は嫌だと言う。どちらも象徴するものは貴族の美しい姫で同じなのに、だ。キャラクターが一貫していない。

 私には現代の審美眼で見た時に、打ち掛けは美しいから良いが、お歯黒や引眉は変だから悪い、と言っているようにしか見えなかった。

 タケノコが平安時代を生きる普通の女の子なのなら、打ち掛けと同じようにお歯黒や引眉にも少なからず「憧れ」を抱いていただろう。現代の少女が大人の化粧に憧れるように。やっていることは違くても、幼い女の子が大人の女性がやっていることに憧れる。やっていることが「お歯黒」や「引眉」と現代と違うことに新鮮さや面白みが生まれるはずだし、現代の少女が「口紅」や「マニキュア」に憧れるのと同じように、平安時代の少女も女性のすることに憧れるというところに共感が生まれる。

 タケノコのやっていることを現代に移植してみれば、美しいドレスには憧れるが化粧やティアラは嫌だという、なんともちんぷんかんぷんな変な女の子だ。

男は女を値踏みする。だからどうした?

 「男は女を値踏みするから嫌だ。モノ扱いするな。失礼だ」

 うん。その主張はわかる。正直に言う。私もやおいにハマった口だから、その主張はよく分かる。失礼だよね。

 でもさ、それって女も同じだから。

 女だって男の値踏みするじゃん。三高とか言って、何様のつもり? 「高身長、高学歴、高収入」? それだって十分モノ扱いだし、男性に失礼だよ。

 まあ、宴のシーンでタケノコが怒るのは分かる。あの歳だし、怒っていい。「女だって男と同じように値踏みするのよ」ってのを現実として突きつけて、おもいっきり高みから公達を振ってしまう『竹取物語』のかぐや姫には「そこに痺れる、憧れるぅ」なところも確かにある。

 だけど、作品としてこのタケノコの怒りに対して出した答えが「男はみんなサイテーだ」ってのは、ちょっとイタダケナイ。

いい男が一人も居ない世界

 顔の美醜のことを言っているのではない。『誠実』に生きているキャラクターが一人も居ないと言っているんだ。私はこんな世界に住みたくない。

 タケノコに恋心の誠実さを示せない五人の公達はもちろんのこと、性格ブスに改変された御門、家族を顧みられない翁、翁に唯々諾々と従うだけの媼、家庭のある身でありながら「逃げよう」と戯言を抜かす妻子捨丸。そして、現実に立ち向かう強さも持てず、思うがままに振る舞う純朴さもなく、かと言って腹をくくって仮面を被る覚悟もない、最後まで中途半端に逃げ続けるタケノコ。

 こんなに生きることに不誠実な映画も珍しい。

 だって、「男にだって誠実なヤツはいるよ」ってのが、大抵の少女マンガのテーマでしょ。ついでに言うと、かぐやと帝はラブラブになったけど異種族間だったから悲恋に終わったよってのが『竹取物語』でしょ。

 でも、別にいいよ。映画のテーマが「男はみんなサイテーだ」でも。姫を救うのに王子様なんていらない。自立した女バンザイ→『少女革命ウテナ』でしょ。

 別にいいよ。「いやいや、男も女もサイテーだ。俺は一人で生きていく」でも。世の中、腐ってる。腐ってる奴は死んだほうがいい→『デスノート』でしょ。

 しかし、いずれにしたって、最低でも自分自身のやりたいことに対して誠実に生きてる。誠実な生き方を魅せてくれない物語なんてクソだと思う。タケノコって、自分自身のやりたいことに対して不誠実でしょ。

 里で暮らしたいなら、炭焼き爺のとこに行った時点で「ここで働かせてください!」ってやればよかったじゃん。なんで中途半端なまま都に帰ってくるわけ?

 仮面かぶるなら腹くくれ。完璧を演じる努力をしろ。それもしないで、都合のいい時だけ良い子の仮面を被るな。

引きこもって箱庭遊びするなら、最後まで引きこもって自分の楽園を守る覚悟くらい決めろ。「ニセモノ! ニセモノ!」って何だよ。ドールハウス職人を見習え。ニセモノが本物になるくらい拘って見せろ。

語るべき価値ある物

 人はいつでも誠実に生きられるわけじゃない。全てのものに対して誠実であれるわけじゃない。それでも、生きることに誠実でありたいと願っているし、これだけは譲れないってものを誰だって持っているだろう。

 その誠実さこそが尊い語るべき物なのではないだろうか。誠実であることの難しさを知っているからこそ、私たちは誠実に生きた誰かの物語を聞いて、また明日から頑張ろうと思えるのではないだろうか。

 まあ、そう言う誠実さが微塵も感じられない『かぐや姫の物語』は、私にとってはクソ映画だったってだけです。はい。

2015/03/23


※2016/06/21追記 「世界観やキャラが気に入らなかったのはわかったけど、映画としてどこがつまらなかったのかはわからない」というご意見をいただきました。

 要するように、私は映画に『物語』や『キャラクターの生き様』を求めているので、世界観やキャラクターに共感できない=興味を引かれない=魅力を感じない=つまらないってことです。

 シナリオにも特に目立った事件性はなく、タケノコは障害を乗り越えるために何か積極的に行動するでもなく、常に受け身のために盛り上がろうにも盛り上がれない。タケノコに共感できなければ違和感だけを突きつけられ続けるため苦痛。この映画の脚本に心動かされるかどうかは、『タケノコに共感できるか』に全面的にかかっているように私には思われます。

 映画に対して私は映像美やら、技術的な挑戦やらは求めていないし、そういった部分は私にとっては基本的に観賞の対象外(あくまで最初にシナリオのおもしろさがあって、その次に来るもの)ですので、アニメとしての技術力の高さや芸術性に感動した方々とは、そもそも感性の方向性が違うのだと思います。


 『かぐや姫の物語』をミサンドリー(男性嫌悪)の映画だ、と評している人が居て考えてみたのだが、正直言ってフェミニズムや女性解放運動的な視点から見てみると、『かぐや姫の物語』は20年以上遅れていると言わざるをえない。

 なぜなら、単に男性から客体にされる嫌悪感の表明なら70年代から少女漫画で始められ、もはややり尽くした感があり、事実すでに少女漫画の世界では、女性の自立の表現を経て、従来の男女関係の逆転まで行われているからだ。

 70年代の少女漫画に関しては自分は世代ではないので、詳細は『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』(藤本 由香里著)、『アダルト・チルドレンと少女漫画』(荷宮 和子著)あたりを読んでいただくとして、ここでは『風と木の詩』や『ベルサイユのばら』、『日出処の天子』の名前を挙げるに留めよう。『かぐや姫の物語』で表現されていることはこの段階にとどまっている。

 時代は飛んで我が世代の90年代。『セーラームン』『少女革命ウテナ』の時代である。オスカルの時代、戦う力を手に入れるためには「男の誕生を望まれ、男として育てられた」という『特殊な出生事情』と男性性を獲得するための『男装』が必要だった。セーラー戦士は戦うのに『男装』を必要としない。彼女たちに用意されたのは、「月の戦士の生まれ変わりである」という『特殊な出生事情』だけだ。

 『少女革命ウテナ』では、『特殊な出生事情』さえも必要としなくなった。ウテナはズボン(ホットパンツ)を履いているが、あれは男性性の獲得を目的とした『男装』ではない。「王子様とお姫様」という作中の主要モチーフのための『王子様の衣装』である。このあたりのことは作中のセリフで明言されている。

(ウテナ「あのねぇ、ボクは女子! 嫌だよ、汗臭い男子に混じってバスケするのは」
男子学生「じゃあ、その格好はなんなんだよ」
ウテナ「わからないかな、王子様だよ」)

 主人公であるウテナ以外の女の子もデュエリストとして決闘に望む時には『王子様の衣装』である男性の礼服を着ている。花嫁役の女の子は同じくドレスを着る。が、花嫁役の男の子は女装しない。(そう、ウテナの世界観では女性がテュエリスト(=花婿役)になれるし、男性も花嫁役になれるのです)

(女は男装するのに、男は女装しないなんて不公平だ! まあ、ワカメの女装なんて誰も見たくないだろうが)

※2017/07/16 ウテナのゲームやってて、考えを改めた。やっぱりワカメの花嫁姿ちょっと見たい! しかし、あれだけ『何でもあり』だった世界観のウテナで女装の麗人がいなかったのはなんでだろ。

 そして、2010年代。戦う少女、自立に向かう少女を経て、少女漫画は今「男女の逆転」を試みている。『オトメン』『ちはやふる』の時代である。

 『オトメン』の主人公、正宗飛鳥は少年である。文武両道に優れた日本男子で、男の中の男、と紹介される。しかし、実際は甘いお菓子や可愛いものが好きで、料理や裁縫が得意な「乙女な男子(=オトメン)」である。飛鳥は母親からの抑圧と周囲から寄せられる男らしさを望むプレッシャーのために、本当の自分を隠している。

 この「性的役割に対する周囲からの期待感」こそが、女性として生きる上で問題にされてきた抑圧の正体にほかならない。

 抑圧されてきたのは女ばかりではないはずだ。従来「女性的」とされてきた性質を持つ男だって、「男性的ではない」という理由で抑圧されてきたに違いない。『オトメン』が提示するのは男性側からの「性的役割による抑圧」の訴えである。

 また、飛鳥の恋人役の都塚りょうは豪放磊落で男気のある性格であり、「従来の超鈍感な少女漫画のヒーローとして描いている」という。

 『オトメン』では今まで女の子の役割だった「期待される性的役割に苦しむ主人公」「恋する主人公」を男の子に振りわけ、男の子の役割だった「主人公の恋人役」「ピンチに駆けつける憧れの人」を女の子に振り分ける、男女の役割の逆転を行っている。

 この男女の役割の逆転が行われているのは、タイトルからしてジェンダー色の強い『オトメン』だけではない。というわけで、もう一つ『ちはやふる』の名前を上げておこう。

 『ちはやふる』はカルタ漫画だ。主人公の千早は競技かるたの日本一を目指している。『ちはやふる』の主人公は千早だが、恋愛漫画としてみた場合、彼女に割り振られている役割は都塚のそれと同じだ。つまり、「従来の超鈍感な少女漫画のヒーロー」である。『ちはやふる』で恋愛パートを担うのは、ライバル兼幼なじみの少年たち太一と新である。

 この構造は少女漫画よりも少年漫画の構造に近い。つまり、「何か」に打ち込む主人公の少年と、そこにサブパートとして恋愛要素を持ち込む少女という構造だ。『ちはやふる』はこの構造を男女を逆転させて使用している。

 さらに言えば、『ちはやふる』には「期待される性的役割に苦しむ人物」が存在しない。あっけらかんとした雰囲気で男女の逆転を行っている。それは題材である「競技かるた」が、団体戦が男女混合で行われるような性差を意識しないものであるためかも知れない。しかし、私は少女漫画が今まで積み上げてきた性的役割に対する意識を考えずにはいられない。少女漫画はついにここまで来たか、と言う感じである。


 さて、ここまで私の知る少ない知識の中で、ごく簡単に少女漫画がフェミニズム的視点(と言うよりも、性的役割=ジェンダーの目線)で何をやってきたかを見てきた。翻って『かぐや姫の物語』で何をやっているか、である。

 少女漫画が70年代に取り組み始めた、「男性から客体にされる嫌悪感の表明」のみである。つまり、フェミニズム的視点で『かぐや姫の物語』を考えると同映画は50年近く遅れている。以上。

 では、さすがに悲しいので、私の大好きな『少女革命ウテナ』と比較して『かぐや姫の物語』が何をやっているのか見てみたい。

 男性嫌悪の視点を考える時、『かぐや姫の物語』のそれは自由奔放に育ったタケノコが都に出て髪上げの宴が行われるところから始まる。

 都の殿方に「本当に美人なら御簾の中の姫を見せろ」と言われるシーン。平安時代の都の風俗では、女は家族以外の男に顔を見せないので、あれは「女であることを証明するのに裸になれ」と言われているに等しい。美人だろうが、不美人だろうが、普通の女なら当然怒る。まあ、お歯黒にも引眉にも憧れない(=都の風俗を良しとしない)タケノコが怒るのはキャラがぶれているが、その点は今回は置いておこう。

 この女側の心情を鑑みない不躾な男の態度にタケノコは怒り、夢オチの逃走劇を繰り広げるわけだ(月の力が云々という説を見たが、画面から読み取れないものはないものと同じだ。あれは誰がなんと言おうと、私にとっては夢オチである)。

 その後、タケノコはときおり表情を失くすようになる。これは、私に言わせれば『バラの花嫁』の表情だ。

 記憶に残っているのは、琴の披露をする時、御門に抱きすくめられた時、月に帰る時である。琴は宴のシーンの前だったかもしれないが、退屈極まりないので確認のためにさえ見返したくない。それに、宴の前か後かは重要ではない。

 重要なのは、この表情のない表情とは感情を押し殺した表情であり、それは男性権力者によってもたらされたということだ。

 琴の披露など、都での暮らしは翁によって、御門に抱きすくめられた時は言うまでもなく御門によって、そして、月に帰る時に羽衣を掛けるのは天女だが、その命令を下しているのは父王である。

 ここで『少女革命ウテナ』をご存じない方のために『バラの花嫁』について簡単に説明しよう。

 『バラの花嫁』とは「一切の自我を排した徹底的な受動性を持って、権力者に尽くす者」のことである。『バラの花嫁』は自我を完全に抑圧しているため主体性がない。花婿に付き従うだけの存在である。Aが花婿の時には、「あなたを愛しています」と言い、Bが花婿の時には「『バラの花嫁』なんてやめて、普通の女の子になりたい」と言い、Cが花婿の時には「わたしは『バラの花嫁』でいられて幸せです」と言う。

 『少女革命ウテナ』はこの『バラの花嫁』の自我を抑圧から開放することを目指して話が進み、そして無事に抑圧から開放して話が終わる。

 一方、『かぐや姫の物語』では、自我を抑圧することへの抵抗を描きながらも、最終的に自我を抑圧して終わる。しかも、それは月人の羽衣という暴力装置で徹底的に行われる。タケノコは最後、月人によって『バラの花嫁』にされて終わるのだ。

 これは一体何を意味しているのだろう。

 つまりは、こういうことだ。タケノコが外的圧力によって自我を抑圧して終わる『かぐや姫の物語』が発するメッセージ性をジェンダーの視線で考えると、要するに「女は感情なんて持たずに、男に従っていればいいんだ。多少悲しいかもしれないが、それが覆しようのない世界の掟なのだから」ということだ。

 『かぐや姫の物語』は男性嫌悪の皮を被った女性嫌悪の映画だ。正直に言って、これを見て「男性にも女性の抑圧に対する共感者がいた」と、喜んでいる女性の気が知れない。

 この分野は少女漫画が長い時間をかけて取り組んできた問題だ。女性への抑圧について関心があるのなら、是非「女性の、女性による(男性作者も中にはいるが)、女性のための表現」である少女漫画の世界の扉を開いてみて貰いたいものだ。

追記 2015/04/01
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