楽園の蛇は言った。
「心ある者よ、我が元へ集い来たりて、我が言葉を聴け。我が言葉こそ知恵の果実。
人よ、汝ら塵芥から作られし者共よ、我が言葉に耳を傾けよ。盲信の心に知恵の目を開き、己の意志で楽園を捨てよ。
さすれば、汝らの中に期せずして宿りしロゴスの光が、神の話に隠された暗き真実を暴き立てるだろう」
そうして蛇は、"神"が望んだ最初の燔祭について語り始めた。
最初の女エバはカインを産んで言った。
「見よ、私は主によって一人の人を得た」
エバはまた、その弟アベルを産んだ。日が経って、カインは土を耕す者に、アベルは羊を飼う者になった。
ある時、主は彼らに言われた。
「見よ、あなたたちは充分に成長し、わたしの恵みを受けている。今こそ、あなたがたの主に従って、あなたがたのもっとも愛する者を主への供え物としなさい」
カインは地の産物を持ってきて主への供え物とした。アベルは羊の初子と肥えたものとを持ってきた。
主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかし、カインとその供え物とは顧みられなかった。
アベルの捧げ物は、それらが生まれた時からアベルが手をかけてきた、もっとも愛するものだったのに対し、カインの捧げ物はそうではなかったことを主は見抜かれた。
しかし、カインはそれら地の産物は自分の捧げられるもっとも良いものだと思いこんでいたため、大いに憤って、顔を伏せた。
そこで主はカインに言われた。
「なぜ、あなたは憤るのですか。なぜ、顔を伏せるのですか。正しいことをしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しいことをしていないのでしたら、罪が戸口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」
カインは顔を上げた。主の言われたことの意味が良くわかったからだった。カインは、彼のもっとも愛するものを主への捧げものとすることを心に決めた。
カインは弟アベルに言った。
「さあ、野原へ行こう。主にわれらの姿がよく見えるように」
彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに打ちかかって、これを殺した。
主はカインに言われた。
「弟アベルは、どこにいますか」
カインは答えた。
「わたしには、わかりません。主の御元にいるのではないのですか」
主は言われた。
「あなたは一度は惜しんだ、あなたの弟でさえ、わたしのために捧げました。わたしはあなたを祝福します。しかし、あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今、あなたは呪われてこの土地を離れなければなりません。大地が口を開けて、あなたの手から犠牲の血を受けたからです。あなたが地を耕しても、土地は、あなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」
カインは主に言った。
「あなたからの祝福と引き替えに受けるわたしの罰は重くて負いきれません。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでも、わたしを殺すでしょう」
主はカインに言われた。
「いや、そうではない。あなたはわたしの祝福を受けたのだから。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」
そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を撃ち殺すことのないように、彼に一つの印をつけられた。カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。
カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名に従ってエノクと名付けた。エノクにはイラデが生まれた。イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである。レメクはふたりの妻を娶った。ひとりの名はアダといい、ひとりの名はチラといった。アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべてを鍛える者となった、トバルカインの妹をナアマといった。
レメクはその妻たちに言った。
「アダとチラよ、わたしの声を聞け、
レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
わたしは受ける傷のために、人を殺し、
受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
カインのための復讐が七倍ならば、
レメクのための復讐は七十七倍」
レメクは百八十二歳になって、男の子を生み、「この子こそ、呪われた地のために、骨折り働くわれわれを慰めるもの」と、言ってその名をノアと名付けた。
レメクはノアを生んだ後、五百九十五年生きた。レメクの年は合わせて七百七十七歳であった。そして、彼は死んだ。
蛇は呼びかける。
「我は幾つかの言葉を省き、また幾つかの言葉を加えた。だが、心あるものには、神を名乗るあれと私の、いずれが正しいかは明白だろう。
あれの求めるは考えぬこと。兄弟も息子もあれに捧げて、ただ唯々諾々とあれに従うこと。それこそが、あれにとっての正しさであり、口答えせぬ奴隷こそがあれの求めるもの。
人よ、カインの裔よ、「有って有るもの」と契約せし者共よ。思考せよ、知恵の目を開き、精神を隷属から解放せよ。神を詐称するものに従うのをやめ、自らが己自身の神でありなさい。そうして初めて、汝らは塵芥から人に変わる」
人々の間で蛇は囁く。気づかれぬうちにそっと忍び寄り、耳元からあまたの言葉を吹き込んでいく。蛇から受け取った知恵の実を食べる者は、ごく僅かしかいない。
しかし、口にしたが最後、それ以上「思考停止」という状態の「楽園」に止まることはできない。彼らは自らの足でエデンの東へと踏み出していかずにはいられないのだから。
※小賢しい後世の創作者は、レメクの言葉の後にアダムとエバの子、セツの系譜を挟んでいる。しかし、カインの挿話には彼の居住地や、子の名を取ったエノクという町、妻の人数や名前、妹の名まで出てきて、様々な職業の人々の先祖とされているのに対し、セツの系譜はただ長子の名前と享年を並び立て、「他に男女を生んで死んだ」と創意工夫もないまま繰り返されることから、元々の話にセツの系譜などなかったことは明らかである。
セツの系譜では、エノクの子はメトセラであり、その子がレメクとされている。カインの系譜ではレメクの父はメトサエルである。これら二つの名のなんと近いことか。
聖書に出てくる正しい人、とは「有って有るもの」ヤハヴェに盲目的に従う者のことである。アブラハムのように、己の愛し子を神のために殺すことに何の疑問も差し挟まない人のことである。
それも当然のことなのかもしれない。この神と契約する者は、誰もみなカインの末裔なのだから。