※これは書きかけのコラムです。完成する予定は今のところありません。頭の中の思考を誰にもわかるように言葉にして説明するというのは、本当に大変な作業であって、感覚で理解していることを論理に仕立て上げることの難しさを感じずにはいられません。

 そういう次第ですので、このページにあるのは、まとまっていない結論の出ていない話です。

高天原に暮らす人々〜日本人の神意識〜

 日本人は皆、神様である。などと言ったら、いくら何でも恐れ多いだろうか。しかし、私は常々そう思っている。少なくとも日本人の神観にはそれを受け入れるくらいの度量がある。

 例えば日本神話には、人間創造神話がない。なぜか。私に言わせれば理由は簡単だ。人(ヒト——()(トど)まるの意)は国津神の一種だからである。イザナミとイザナギが産んだ様々な神の子孫だから、わざわざ別個の項目を立てて説明神話を作る必要がなかったのだ。

 また、アマテラスはニニギノミコトに八咫の鏡を持たせて、鏡をアマテラスだと思って祭るように言っている。磨き上げられた鏡面にきらきらと太陽光を反射させる鏡は、なるほど確かに日輪の象徴だろう。しかし、鏡の正面に立った時、覗きこんだ者の目に映るのは己自身だ。それをアマテラス自身、よく御存知だっただろう。なぜなら、天岩戸隠れの時にアマテラスが差し出された鏡の中に見たのは、光り輝く彼女自身の姿だったのだから。

 鏡をアマテラスのように敬えとは、鏡に映る自分自身を(そして、同じように鏡に映り込む全てのものを)アマテラスのように敬いなさいと言う教えだと私は考えている。

 また、スサノオの例を見てもわかるように、日本人は神を絶対善や絶対悪とは考えない。万物は皆、和御魂と荒御魂をもっており、荒御魂が優勢になれば悪事をおこし、和御魂が優勢であれば善事をなすと考えていた。自然からの恩恵と共に災害も多い日本らしい考え方だが、これは一人の人の中で良心と悪心が葛藤するのと同じだ。

 さらに言えば、平将門や菅原道真など、死後に神として祭られている人は多い。最近の例では、『宇宙船はやぶさ』がその功績を讃え、付喪神として神に昇進している。

科学的思考と感覚的思考が共存する世界

 海外のニュースや本を読んでいて不思議に思うことの一つに、物質世界と神話世界が彼らの中で分かち難く結びついているらしい、というのがある。

 先日、TV番組で紹介されていた宇宙飛行士ガガーリンの『宇宙に神はいなかった』もそうであるし、ISISなどの宗教過激組織の偶像破壊もそうだし、欧米の宇宙学者が「ビックバンは聖書で神が『光あれ』と言って天地創造が始まったことの証明だ」と言うのもそうだ。

 神々がいるのが高天原だろうが、アスガルドだろうが、オリンポスだろうが、その場所は『緯度経度は何度で高度云々メートル上空の場所』ではありえないし、いくら神像やら仏像やらを破壊したところで、それは単なる器に過ぎず、神そのものではありえない。宇宙創造に至っては、ビックバンは聖書でなくとも、「ニブルヘイムとムスペルヘイムが激突した時のこと」とも、「天の沼矛でかき混ぜられた混沌とは、ビックバン以前の状態を指している」とでも、なんとでも言える。

 物事を科学的、合理的に説明することに抵抗のある日本人は少ないだろう。しかし、その一方で日本人は感覚世界の中に神を見出すことにも抵抗がないように思える。

 空のどこにも高天原が見いだせないとしても、それは決して感覚世界の神の存在を否定しない。山や海など圧倒的な自然を前にして、ごく原始的な感情である畏れ、つまり神威を感じない人は少ないだろう。それに、どうしようもない時はやはり神に祈るものだ。人事を尽くして天命を待つ、とも言う。

 神は信じない人でも、縁(えん、えにし、ゆかり)という極々小さく身近な、天の采配を感じたことがないという人はいないのではないだろうか。

 しかし、それらの感覚もまた、物質世界の成立に介入し、その絶対的な物理法則を変更し得る存在ではない。

 日本人にとって、物質世界と感覚世界は、まるでイラストソフトのレイヤーのように重なり合って存在している。重なっているから、偶像や出来事といった物質の中に神や縁といった超自然的な力の存在を見い出せる。同時に、二つの世界は別のレイヤー(階層)に存在しているため、物質の破壊は神の破壊を意味しないし、同じように神の不在は物質の非実在を意味しない。

 この物質世界と感覚世界という全く別の二つの階層の接点、仲介点として存在しているのが人なのである。

神は『どこか』にいるわけではない〜汎神論の神の不在〜

 神は空にいるわけではない。では、どこにいるのか。「どこにもいない」というのが私の答えだ。どこにもいないと言うよりも、「『どこか』という特定の場所に存在するわけではない」の方が正確か。

 「鰯の頭も信心から」ではないが、感覚世界の仲介者である人は、物質世界のいたるところに神を見出すことが可能だ。人の手の入っていない自然をはじめとして、身近な神社や寺はもちろん、あなたの今使っているPCやスマホの画面だって、一体どれだけの人の努力が関わって一つの製品として出来上がったのかを知れば、それさえも神が宿るような尊いものになり得るだろう。

 しかし、それらはやはり所詮は物質であって、壊れもするし、失われもする。では、壊れたり、失われたりしたら、そこにいた神は死ぬのかと言えば、全くそんなことはない。そこに神が宿っていたとしても、神がそこにしかいないわけではない。

 「神が宿る」という言葉こそ、日本人の神観の本質の一つを表しているのかもしれない。 神はあくまで宿るものであって、物質は神の依り代にすぎない。宿るとは、「旅先の宿を取る」という使い方からも分かるように、「一時的に滞在すること」だ。依り代は一時的な滞在場所なのだから、神の本質は物質にはなく常に別にあることを示している。

 要するに日本人にとってこの物質世界は、「いたるところに神が宿り得る物質がある」一方で、「神そのものである物質は存在しない世界」なのではないだろうか。

人間を解剖しても心のありかはわからない

 「神はいる」というのなら、いると言う方がその存在を証明しなくてはならない。これは一般的に「悪魔の証明」と言われる理論だ。私は神はいると言うが、同時に誰も物質世界において神の存在は証明できない、とも断言しよう。

 神というのは徹頭徹尾、感覚世界の存在だ。物質世界に神はいない。存在証明というのは全くもって物質世界の話であるから、感覚世界のことについては役に立たない。そもそも論として、感覚世界の話に物質世界の手法を用いようというのが間違いなのだ。

 例えば、あなたが心から悲しんでいる時に、万人に対してそれを証明することができるだろうか。私は、どうやっても無理だと思う。

 言葉を尽くしても、嘘かもしれない。涙を流しても、嘘泣きかもしれない。胸が痛むことを脳波を使って証明できても(人が悲しくて胸が痛む時は脳も実際に痛みを感じている)、それが演技ではないと誰が証明できよう。(言っておくが、悲しくて胸が痛む状態など演劇やってれば誰でも『演技として』作り出せる。)

 万人が納得する、科学的な方法で心のあり方を証明することはできない。それは心が全くもって感覚世界のものだからだ。同じように感覚世界の住人である神の存在を万人が納得する科学的な方法で証明することはできない。

 いくら仔細に人体を解剖したところで、心の存在は証明できないだろう。しかし、それは『心がない』ことの証明にはならない。同じように、いくら物質世界を仔細に調査しようとも神の存在は証明できないだろう。だからといって、それがすなわち神の存在を否定するわけではないのである。

神と宗教

 日本人にとって宗教という言葉は創唱宗教(教祖がいてうんたら〜)のイメージが強い。しかし、私は「モノには力が宿る」というのが、原初から変わらない日本人の宗教観念だと感じている。

 大切にしている人形やぬいぐるみ、毎日使っている道具(服やら文房具やら)、努力して作った作品(美術品や惑星探査機ハヤブサ)、仕事の相棒(町工場の機械やパソコン)、そして生まれ育った土地の川や海や山。そういったモノには力が宿っていて、人間が大切にすれば応えてくれる。その力のことを私たちは神と呼んでいる。

 宗教が利己的と感じられるのは、日本で意識される宗教活動が助かりたい人がすがりつくものが多いから、という気がする。

 あとは、西洋のキリスト教は割と「私と神様」という個人的な信仰心を大切にしているのに対し、日本の神道は割と「私たちと神様」というか、「特に信心してなくても見守っていてくれる存在」というか、もわ〜んと、ゆるゆる繋がっている感じがする。

 そのため「個人の救済」が全面に押し出されていると、「なんか違う」と感じるのかもしれない。日本には原罪の考え方もない。そもそも生まれながらにして罪があるとするのはユダヤ教を宗主とする宗教に独特な考え方のように思う。だから神道においては、そもそも救われる必要がない。

 神話も本当は宗教そのものと言って良いはずだが、そういう見方をしている人は少ない。西洋では神話時代の神様の信仰からは完全に切り離されてしまっていて、神話=宗教のイメージがあまりないためかもしれない。例えば、ギリシャ・ローマ神話やケルト神話、北欧神話などがそれだ。

 あとは、日本の神道自体が「宗教」の一般的なイメージからかけ離れてるのも理由の一つだろう。身近すぎて意識していないだけとも言えそうだ。

 神社の由来などは、神話であり宗教である。皇族の方が奉られていたりするとそれは歴史でもある(伊勢神宮や、明治神宮、皇族ではないが東照宮もそうだ)。

 この神話と歴史と現代が一続きになっているところが、まさに日本の魅力の一つだと私は思う。

まとまったら執筆予定




初出 2015/03/04
追記(神と宗教) 2015/05/06 

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