グリフィンドールの談話室に、思い切りよく男の頬を張る小気味いい音が響いた。

 音の発生源はジェームズ・ポッターとリリー・エバンス。もちろん、リリーがジェームズの頬を張ったのだ。談話室中の視線が二人に集まる。みな、ハラハラしながら二人の次の挙動を見守っていた。

「今の言葉、取り消しなさい」

 リリーがヒリヒリと痛む痺れを逃がすように右手を振りながらジェームズを睥睨する。ジェームズはその燃えるような緑の目を怯むことなく強気に見返した。

「嫌だね」

「ポッター……っ!」

 激昂したリリーが二の句を告げないでいるうちにジェームズが言葉を続ける。

「いいのかい? 僕ならできる。信じてみる気はない?」

「誰が、あんたなんかっ!」

 リリーは憤懣やるかたないといった様子できびすを返すと、女子寮へと駆け戻った。

  

 リリーは自室のドアを力任せに思いっきり叩きつけた。バタンと派手な音を立てて閉まったドアが、リリーの乱暴さを非難する。そんなことは歯牙にもかけずに、リリーは大股で部屋を横切るとベッドに仰向けに横たわった。途中、床に放ったままになっていたトランクを蹴っとばしたせいで中身が少し散らばったが、そんなことはどうでもよかった。

 荒い息をつく。にじんできた涙を隠すように右腕で目元を覆った。ベッドの上に出しっぱなしだった教科書の角がリリーの左頬に触れた。魔法薬学の教科書だ。大好きな科目だったのに、最近は授業にまったく身が入らなかった。教科書を開く度に所々に但し書きをしてある繊細そうな細い筆跡が目に入るからだ。去年まで一緒に予習をした跡だった。もう学年も変わったというのに、但し書きのあるページはまだまだ何ページも続いている。こんなことになるなら、あんなに予習なんてするんじゃなかった。

 でも、とても楽しかったのだ。セブルスと二人で鍋と教科書を交互に覗き込んでは、あーでもない、こーでもないと議論するのが、この上もなく楽しかった。あの時間に終わりがあるなど夢にも思わなかった。セブルスとこんなに疎遠になるとは思わなかった。

 リリーはギリリと歯を噛みしめた。元はと言えば、あのポッターとブラックが二人がかりでセブルスにちょっかいをかけるから……!

 ——そうだ、あいつらがいけなんだわ。あいつらがあんなことをするから。あんなことを……!

 リリーの心に最悪の記憶が苦く広がっていく。逆さまに宙吊りにされた友人。お世話にも綺麗とは言い難い、着古した下着が丸見えだった。屈辱的な状況から、リリーはただ純粋に友人を助けたかった。

 セブルスとは少しずつ意見が食い違うことが多くなり、二人で堂々と表立って会わなくなってきていた。リリーはそれが寂しかった。だから余計に、「やっぱり、私がいなくちゃダメじゃない!」と心密かに喜んでもいた。

 ただ、リリーは忘れていた。彼がスリザリン生で、純血主義者たちと上手く付き合っていくべきだと考えていることを。そして、彼女の友人は人一倍プライドが高いということを。

「お前のような穢らわしい『穢れた血』の助けなど必要ない!」

 吐き捨てられたセリフに頭にカッと血が上った。他の誰に「マグル生まれなのに優秀だ」と言われるよりも、高慢ちきなジェームズに付きまとわれるよりも嫌だった。

 何より自分を支えてくれた人からお前なんか要らないと、穢らわしいと言われた。許せなかった。

 ——でも、あの後、彼は私に謝ったんだわ……。

 一晩中、寮の入り口に陣取って必死に何度も頭を下げた親友。誠実だった。本当のところは、幼かったあの頃と何一つ変わってなどいなかったのだろう。見栄っ張りな彼がみんなの前で不名誉にも(リリーはまったくそうは思わなかったが、ともかく世間一般から見たら不名誉にも)、男子が女子に助けられる状態に甘んじられる性格ではないことも、リリーは心の奥ではわかっていた。それでも、リリーはセブルスを許さなかった。

 ——本当に傲慢なのはポッターじゃない……。

 帰ってきてくれると思っていた。寮の考え方になんか染まらずに、自分のためにそれを捨ててくれると思ってた。セブルスなら闇の魔術の一切と手を切って、自分の元に戻ってきてくれる。自分は彼のことを、許さないと、近寄らないでと、つっぱねたにも関わらず。

 ——傲慢なのは、私だ。

 セブルスにとって、自分は全てを捨てるだけの価値があると思っていた。

 闇の魔術への関心を捨てろと言うのは、セブルスにとっては、それまでの人生を捨てろと言うのに等しい。彼の幸福とは言い難い幼少期をリリーは知っている。ホグワーツでできた同寮の友人たちが、彼にとってほとんど最初の同性の友人であることも知っていた。それにも関わらず、リリーはそれらを捨てることを彼に要求したのだ。

 リリーだって、セブルスが散々嫌いだと言っていたポッターとの縁を切ることはなかった。同寮生で、縁を切るのは難しい。それに信条も、家族も、寮のしがらみも、全てを捨てて、ヴォルデモートにつく覚悟もないのに、それと同じことをリリーはセブルスに一方的に要求した。彼を許すこともなく。条件として提示する事さえしなかった。

 リリーと決別してから、セブルスはそれまで以上に闇の魔術に傾倒していった。

 ——許せばよかった。そうして、二人で納得できる道を探すべきだった。

 必死で頭を下げるセブルス。単なる見栄から出た言葉だと知っていたにも関わらず、つまらない意地を張って最後まで許すと言わなかった自分。

 自らの浅はかさを思い知らされる、最悪な思い出。

『取り戻してあげるよ。僕が、あいつを、闇の魔術から』

 丸眼鏡の不遜な顔が脳裏に浮かぶ。想像の中でさえ、あちこちに跳ねたおさまりの悪い黒髪が癪に触った。

 どうせいつもの口から出ませに決まっている。自分にできないことはないと思い込んでいる、鼻持ちならない高慢ちき。

 ——私にできなかったことが、あんたにできるわけないじゃない。セブはあんたが嫌いなのよ! 私と同じでね!

 それでも、沈むとわかっているような藁であっても、リリーは縋りつかずにはいられなかった。

 

 一方、談話室に残ったジェームズはどっかりとソファに腰をおろした。赤く手形が浮き出た左頬を確かめるように指でそっと触れる。ヒリヒリと熱を持つ頬がリリーの怒りの大きさを告げていた。深いため息が漏れる。

「なにもひっぱたくことないのにさ……」

 ジェームズは鞄から真鍮製のゴブレットを引っ張り出した。銀色の縁が、明かりを反射してキラリと光る。ゴブレットを眺めながら、ジェームズはそもそもの発端になった一ヶ月前のことを思い出していた。

***

 叫びの屋敷への狭い通路を歩きながら、セブルスは自分の胸がどうしようもなく高鳴るのを感じていた。あの、尊大なるジェームズ・ポッターのご友人であらせられるリーマス・ルーピンが、月に一度この暴れ柳の根元から続く狭い通路に姿をくらますことを、セブルスは随分前から知っていた。当然、それが何のためにかも。

 しかし、彼にも自分の力だけではわからないことがあった。それは、どうやってあの暴れ柳の根元をくぐり抜けるのか、ということだった。それが判明したのは半年ほど前のことだった。高貴なる純血の一族から粗野なグリフィンドール寮に入った異端児が、そっと彼に耳打ちしたのだ。

「長い棒か何かで、根元のコブを叩いてやれば木はおとなしくなる」、と。

 そうしてセブルスは今、その時以来二度目に暴れ柳の根元をくぐり、リーマス・ルーピンの元へと向かっていた。時刻は夕暮れ時だが、あいにくとこの通路には窓や通気穴といった気の利いたものはなかったので、正確な日の暮れ具合は計りかねた。

 セブルスは、右手に持ったゴブレットに視線を落とした。深緑色のいかにも苦そうな薬が時折コポリと泡を立てていた。細く立ち上る湯気さえ苦い。最新のアネモネ系脱狼薬だ。

 季刊雑誌「THE 治療薬——ハイリスクだがハイリターンな最新薬、血豆から記憶修正まで——」の最新号に載っていた。近場にいい検体がいることはわかっていた。自分の実力を確かめてみたかった。

 学校の校庭からホグズミードの叫びの屋敷へ延々と狭い通路を通って行くのは、想像以上に骨が折れた。前回もこんなに大変だったか、セブルスは思い巡らせた。昼間の明るい太陽の光に照らされた心地よい道を行くならいざしらず、暗い洞窟の通路をむき出しの岩に足を取られながら進む距離は遠かった。

 それでも延々と三十分も歩いただろうか、いい加減ゴブレットを平行に保つのが辛くなってきた頃、通路はようやく上へと傾斜をつけ始めた。出口の予感にセブルスの心臓が狂ったように胸を叩き出す。

 階段状になった行き止まり。出口だ。セブルスは天井を見上げた。思った通り、そこには木板の蓋がついていた。ゴブレットを左手に持ち替えて、セブルスは蓋になっている木板を右手で押し上げた。ギギギ、とこすれた床板がきしんだ音を立てる。

 壁際に明るい茶色の髪が見えた。ルーピンだ。打ち付けられた窓を透かして空を見上げていた。木板に遮られて月が出ているかはわからなかった。ライトブラウンの髪がサラリと揺れる。目が合った。ルーピンは一瞬おどろいたように目を瞬いた。次の瞬間には、彼の姿は奇妙に歪んだように見えた。

 ——まずい!

 間に合わなかった、と思ったのと同時に右肩を強く引かれた。セブルスは勢いのまま後ろに引き倒された。ゴブレットがガラガラと音を立てながら足元に苦い薬をぶちまけた。頭上の床板が音を立てて閉まり、セブルスにパラパラと土埃を浴びせかけた。

「何をするっ!」

 振り返った先にいたのは、できることならもう一生見たくない顔だった。くしゃくしゃの黒い髪、丸眼鏡、ハシバミ色の目。ジェームズ・ポッター。全速力で走ってきたかのように息を切らしている。

「見たのか?」

 ハッハッと切れ切れの息の下からジェームズが詰問した。眼鏡のグラスがかすかに曇って、睨みつける眼の力を削いでいた。どうやらジェームズは、前回セブルスは何も気づかなかったと思っているらしかった。その鈍感さを、セブルスは腹の底で嘲笑った。

「見たのかって、訊いているんだ!」

 ジェームズは答えないセブルスのローブの襟元をひっつかんで無理やり立ち上がらせると、荒々しく壁に叩きつけた。ゴツゴツとした壁に押し付けられた背中が痛んだ。

「答えろ、スニベルス!」

 イライラとがなりたてるジェームズにセブルスはふっとため息をついてみせた。足元に広がる深緑色の薬は未だ細い湯気を立てていた。雑誌と睨めっこしながら、一月半かけて作り上げた薬がパァだ。期待に高鳴っていた胸には、今や惨めな喪失感が広がるばかりだった。

「どうやら、学年一の秀才であらせられるジェームズ・ポッター殿は、人にものを尋ねるときには、それなりの態度というものがあることさえお判りにならないらしい」

 セブルスの返答にジェームズはますます眦を吊り上げて、歯の隙間から唸るように声を出した。

「見たんだな」

「だったらどうした」

「もしも、このことを誰かに言ってみろ……」

 ジェームズがどんな酷いことになるか脅し文句を考えている間に、セブルスがくつくつと喉を鳴らして笑い始めた。

「……何がおかしい?」

 ジェームズが険のこもった目でセブルスを睨みつけたが、大した効果はあげられなかった。なおも笑いながら、セブルスが言葉を吐き出す。絹のようになめらかな声が余計に嫌味っぽさを強調していた。

「きみは友人の事情には敏感のようだが、残念ながらその敏感さは周辺事情には発揮されないらしい」

「……どういう意味だ」

「ルーピンの『ふわふわした事情』に気づいているのが自分たちばかりだと思っているのなら、それは大いなる間違いだ、ということだ」

 頭上から狼男の遠吠えが響いた。人間の匂いに興奮しているらしい。近くにいる筈なのに姿が見えないことに苛立っているようだ。

「帰る」

 ピシャリと言ってセブルスは襟元を掴み上げているジェームズの手を外し、元来た道を帰っていった。

「何なんだ、あいつ……」

 あとに残されたジェームズは、一人になって少しだけ冷静さを取り戻した。周囲には嗅ぎ慣れない苦い匂いが広がっている。

 頭上を振り仰いだジェームズの足に当たったゴブレットがガラガラと音を立てて転がった。

「これは……?」

 ジェームズはゴブレットを拾い上げて顔をしかめた。何か、自分がひどく間違ったことをしでかしてしまったような、言われもない焦燥感がじわじわと胸の中に広がっていた。

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