下手な小説を読んだ時こそ研究しろ! うまい小説の書き方とは

 世の中につまらない小説はごまんとある。書籍として流通している本の中にも自分に合わないものは沢山あるし、ネット上には喩えではなく星の数ほどつまらない小説がある。

 そんなつまらない小説には「さっさと見切りをつけて次を探す」というのは、もちろん有効な時間の使い方だし、私も普段はそうしている。

 しかし、つまらないと感じる小説の中にこそ「面白さとは何か」が詰まっているかもしれない。

 これは、「何故つまらないと感じるのか」を分析し、「面白いと感じる小説」と引き比べ、解決策「どうすれば面白くなるのか」を提示しようとする試みである。

 今回、上手い小説として主に引き合いに出すのは「ハリー・ポッター・シリーズ」(J.K.ローリング/松岡祐子 訳)になると思う。理由は、私が個人的に上手いと思っているからと、世界的なヒット作であり「上手い小説」としてコンセンサスを得ているとみなせるからである。つまらない小説はネット上の連載作で人様の小説である。晒し目的ではないためタイトルや人物名、あらすじなど特定に繋がるものには一切言及しない。作者の名誉のために書いておくが、該当作は私の小説よりも読者が多く、感想も多くもらっている様子である。

 「要するに嫉妬じゃないか!」。直接の動機は違うが、そうなっている可能性はある。嫉妬に狂う可能性を避けるため該当作の感想の分析はしていない。したがってマーケティング対象の違いという観点は抜けている。だから、参考にする場合にはその点に留意し、「言いがかりではないか」をよく考えて応用してもらいたい。

・評価観点:最後まで読めるか(読めない場合は、脱落箇所とその理由)

 二章の終わりまでに当初の期待感が切れて読書スピードが失速。その後、読むのが辛い。

 当初の期待感とはジャンルと序章で得られたものである。話の構造としてはトリップもので、うちのサイトで言えば、夢想に近い。序章で冒険を終えた後の主人公をちらっと見せ、一章から時間軸がトリップする過去の時点に飛ぶ。ジャンルの期待感とは『新撰組』や『トリップ』という、小説の材料に寄せるものである。序章の期待感はそのまま、冒頭のさわりを読んで「面白そうだ」と思ったものである。ここまでは良かった。「つかみはオッケー」だったのである。

 二章の終わりまでの文字数はおよそ七万三千字である。序章は五千字で一章は二万六千字。一章は設定開陳と割り切れたので期待感は高度を下げながら持続した。つまり、五千字で得た期待感で五倍相当の字数を読んでいる。数値化することに意味はないかもしれないが、今後考えるときの参考になるかもしれないから書いておく。二章時点で興味の持てる事件が起こらず、特にお気に入りのキャラも出来なかったので、通常なら三章に入る前に切っただろう。二章の終わりまでで、この連載作の一割くらいの分量である。

 ちなみに電撃小説大賞の長編の応募規約は八十~百三十DP(いわゆる電撃ページ。四十二文字×三十四行を一ページとする原稿単位。ワナビがよく使う。一DPは文庫本の見開き一ページ分に相当する)だが、これは文庫本一巻分の原稿量と考えていい。改行による空白があるため、文字数換算には揺れがあるが、いま私が書いている『戦と災厄の運び手』では、八十DPで六万九千字、百三十DPで十一万四千字である。話数的には八十DPで『十七、ラグナロクの条件』、百三十DPで『二十四、誓わざるもの』である。

 文庫本一冊分読んで期待感が満たされなかったら、普通は切っても怒られないと思う。

 そんな個人的な呟きは置いておいて、これはどういうことかというと、すくなくとも一つの事件が解決していいだけの分量だと言うことだ。冒頭で期待感を持たせられれば、文庫本一冊分の三分の一程度は継続して期待感を持って読んで貰えるし、一冊分くらいなら惰性で最後まで読んで貰えるかもしれない。これは、私が本を読み慣れていて、一冊分の身体感覚が馴染んでいるからなのか、それとも人間誰でも一冊分くらいは我慢して読めるものなのかは分からない。ただ、いくら冒頭が良くても後が続かないことには意味がない。文庫本一冊分くらいの分量で事件を起こして閉じる、という意識は案外大切なのかもしれない。

・なぜ期待感が続かないのか

・物語全体を牽引する目的がない

 いいエンタメは、必ず物語の早い段階で結末の集点を受け手に伝えている。ハリポタならハリーがヴォルデモートを倒す。ちはやふるなら、千早がクイーン戦で勝つ。指輪物語なら指輪を破壊する。

 これらには真新しさや独自性はないが、受け手が最後まで物語についていくための指針になる。

 トリップ型の物語なら、せめて「元の世界に帰ることを目指す」のか、「異世界で何かをやり遂げることを目指す」のか、くらいは最初に示して欲しい。それさえ曖昧では、何を軸にして小説を読んで行ったら良いのか判らない。

 また、主人公が好むと好まざるとに関わらず、結末に向けて突き動かされることにより、それを邪魔する『障害』を用意することができる。物語の面白さやダイナミズムは「キャラクターが如何にして壁を乗り越えるのか」に集約されるのだから、最終目標とそれを邪魔する障害は非常に重要である。

 2016/07/28
 そういえば、ジャンプ漫画では一度人気が出ると延々と「終わりの来ない物語」を連載しているが、そういう連載ものを読み慣れている人は、結末の示唆がなくても読んでいけるのか、とも考えた。

 しかし、そんなことはないはずだ。『ドラゴンボール』でも「ドラゴンボールを集める」という目標がある。『ワンピース』なら「ワンピースを手に入れて海賊王に成る」とルフィが公言している。

 あとは、『銀魂』とか、『地獄先生ぬ~べ~』とかの、日常系の一話(少数話)完結ものになるだろうか。だが、一話完結ものでも、それぞれの話の「起」で毎回しっかりと「問題提起」を行うことで、その話の「結末の集点」をはっきりさせているはずだ。

・桃太郎型と浦島型

 目標が「鬼退治」とはっきりしている『桃太郎型』に対して、「助けた亀に付いていったら……云々」と、目標が明確でない『浦島太郎型』の物語もある。確かにある。小野不由美の『月の影 影の月』がそうだ。巻き込まれ型の主人公である。

 この場合、牽引力になるのは「主人公はこの後どうなるのか?」という疑問だと思う。この疑問が出てくるのは主人公に対して次々に『事件』が襲い掛かってくるからである。

 普通の人は「海の中深く潜り続けること」はできないので、これは事件であるといえる。事件を畳み掛けるなら、事件自体が魅力的である必要がある。該当小説の事件は主人公は選択的に関わることができるもので、主人公が関わっても関わらなくても結果に大差があるようには思えなかった。つまり、私にとっては魅力的な事件ではなかったのである。

 巻き込まれ型主人公で「選択的に関われる事件」は危険だ。「否応なく関わってしまった事件」は「否応なく」の時点で危機的状況だが、「選択的に関われる事件」は「選択肢がある」のだから危機的状況とは言えない。人はもちろん、危機的状況にドキドキハラハラするものだ。

・異世界譚というアドバンテージ

 「竜宮城」は一種の異界である。つまり浦島太郎は異世界トリップ譚なのだ。

 異世界トリップの場合、異世界を描くこと自体がアドバンテージになる場合がある。こちらでは考えられない習俗や物理法則を「興味深い、面白い」と思わせられれば作者の勝ちである。鯛やヒラメの踊りとか、人が木に成るとか、魔法界の授業の様子とか。

 時代小説やSF小説もそういう面がある。ただし、これには落とし穴もある。奈良時代や飛鳥時代の習俗に詳しい人は少ないが、江戸時代の習俗イメージを持っている人は多い。そうすると、江戸時代の習俗を描くことはアドバンテージにならない。生半可な知識でSFを書く場合もこれに当たる。異世界の場合も、「ふーん、人が木に成るんだ。でって言う?」というやつは絶対いる。そこを切り捨てるか、拾い上げるかは作者の自由だ。けれども、世界観だけで読者を引っ張れるわけではないことは意識しておいて損はないはずだ。

 たぶん、私は今回これで弾かれた。小説の題材になった地域の習俗を私は好いていて、それがジャンルの期待感に繋がった一方、書かれる習俗自体に真新しさは感じない。小説読むくらいなら研究書で正確な知識を仕入れたい。小説で読みたいのは、そこじゃないのだ。

・登場人物が多すぎて覚えられない

 これは作者が犯しがちな勘違いなのだが、読者は作者が考えているほど登場人物を把握してくれない。

 小説を読むことは『娯楽』である。繰り返す。小説を読むことは【娯楽】である。よって読者は、受験に挑む学生が教科書に出てくるわけの分からない人名を必死で覚えるようには、小説の登場人物を覚えてくれない。

 作者はそれぞれのキャラのことをよくわかっている。性格の特徴、容姿の特徴、雰囲気などなど。しかし、それらの情報を読者は持っていない。読者にはキャラの見分けなどつかないのだ。

 名前のついたキャラクターを出すことは読者を混乱させるリスクを伴う。キャラクターは役割ごとに統合し、できるだけ少ない人数で物語を回したほうが良い。キャラクターをたくさん出すには、相当に高度な技術が必要である。

 「嘘だ!」と、思った方は『戦と災厄の運び手に貰った評価』を読むこと。

・キャラが薄い

・役割を持たせる

 キャラクターのパーソナルな役割と、物語における役割は違う。族長や鍛冶屋などの職業、父、母などはパーソナルな役割だ。協力者、邪魔者、傍観者、敵などは物語上の役割だ。この物語上の役割がはっきりしないと、キャラクターの輪郭はぼやけ、存在感が薄くなる。

 物語上の役割は「主人公に対してどういう立場の人物か」を考えると判りやすいかもしれない。

・外見描写は一度にしない

 私のように薄ぼんやりと読書をしている受け手に対して、初登場時にキャラの容姿の特徴をずらずらと並べ立てるのは逆効果だ。間違いなく読み流し、印象に残らない。

 容姿を印象付けたいなら、しつこいくらいに繰り返し書き込む必要がある。これを凄く上手くやってるのがJ.K.ローリング。主役の三人組の容姿を即答できない読者はいないだろう。

 覚えてもらいたい容姿にはエピソードを添える(意味付けする)のが効果的。『月の影 影の月』の陽子の髪の色がこれ。

 ちなみに、ハリポタの一巻でハリーの容姿の詳細が出てくるのは、二章でハリーが登場してから日本語版で二十七行も後である(原著のペーパーバック版だと三十三行あと)。それはこんな風だ。

 暗い物置に住んでいるせいか、ハリーは年の割には小柄でやせていた。その上、着るものはハリーの四倍も大きいダドリーのお古ばかりだったので、ますますやせて小さく見えた。

 ハリーは、膝小僧が目立つような細い足で、細面の顔に真っ黒な髪、明るい緑色の目をしていた。丸いメガネをかけていたが、ダドリーの顔面パンチがしょっちゅう飛んでくるので、セロテープであちこち貼りつけてあった。自分の顔でたった一つ気に入っていたのは、額にうっすらと見える稲妻形の傷だ。物心ついた時から傷があった。ハリーの記憶では、ペチュニアおばさんにまっさきに聞いた質問は「どうして傷があるの」だった。

 ハリーが小柄でやせていること、丸いメガネをかけていること、額に稲妻形の傷があることが、エピソード付きで語られる。ひとまず読者は、ハリーについては、この三点を覚えればよいのである。

 この後もハリーの容姿は「ジェームズに瓜二つ」「リリーの輝く緑の目を持っている」として、何度も何度も何度も繰り返し言及される。

 そして、あなたは気づいただろうか。この時点でハリーの容姿で特徴的な「癖の強いくしゃくしゃの黒髪」の、「癖の強いくしゃくしゃ」の部分は全く言及されていない。容姿は一度に並び立てればいいってものではないのだ。

・キャラクターにフックを作る

 主人公以外のキャラクターの言動には、わかりやすいフックを一つ作っておくと読者はフックを頼りにキャラクターの性格を見分けやすくなる。フックがわかりやすければ、キャラクターもそれだけ強く印象に残る。

 ハーマイオニーは「知ったかぶり」、ドラコは「気取り屋」、ハグリッドは「お人好し」、ネビルは「気弱」。みな、第一印象は一言で言い表せるわかりやすい性格のフックを持っている。

 ロンは性格面は一言では整理しにくい。あえて言うなら「自分に素直」といったところか。それでも、ロンの場合、ウィーズリー一家の様子と併せて「魔法界の普通代表、かつハリーの初めての友達」という『役割』はすぐに察せられる。

 フックはわかりやすく単純な方がよい。「性格の深み」は読者がキャラクターのフックをよく了解した後に、そこから少しずらすからこそ生まれてくるものである。

・物語の起伏を意識する

 小説の書き方を扱っていても物語の起伏の作り方を具体的に説明できている文章は少ない。ざっと検索しても目ぼしいページは出て来ないし、書籍でも私はあまり読んだ覚えがない。改めて、自分の書き方を振り返ってみても、これを説明するのは容易ではない、と感じる。

 説明するのが容易ではないということは、自分でもよくわかってない(よく分析できてない)、つまりは技術的に未熟であるということなので、この部分は他の部分にも増して眉に唾をつけながら読んでもらいたい。

 さて、小説の書き方において起伏は「物語の起伏」とか、「起伏のある物語」とか、「話に起伏がある」とか、物語や話の構成に関係ありそうな使われ方をしている。けれども、小説における起伏とは「感情の起伏」であり、もっと正確には「『読者の』感情の起伏」である。つまり、究極的には起承転結や話の構成、作中で起こる事件とは切り離して考えられるものなのである。

 考えてみて欲しい。小説の冒頭で突然アクションシーンが始まったり、目の前に死体を転がされたりしても、それらが「淡々とした描写」で書かれていたら、読者はそこに「驚き」や「焦り」、「恐怖」などの「感情の起伏」を感じるだろうか。感じるわけがない、と私は思う。

 「読者の感情の起伏」を引き出すのは登場人物の感情である。小説に登場する人物が「驚き」や「焦り」、「恐怖」などを感じるからこそ、読者もまたそこに感情を見出す。起伏のある物語にしようと思ったら、登場人物の感情を書かねばならない。

 重要なのは「何が起きたか」という出来事(起承転結や構成)ではない。「何を感じたか」という感情なのである。感情描写の仕方が充分に読者の感情移入を促すものであり、かつ、描写される感情が移り変わっていくのを指して、人は「この物語には起伏がある」と言うのである。

 『ハリー・ポッターと賢者の石』の一章を読んでみるといい。大したことは起きていない。ダーズリー氏が出社して就寝するまでの、他人の目から見ればごくありふれた一日を描いているにすぎない。しかし、一章を読んで「面白そうだ」と思った読者は自分の中に「感情の起伏」を感じたはずだ。

 朝からフクロウが飛び交った以外には特に注目すべきこともない一日は、「普通であること」を至上命題とするダーズリー氏の目を通してみることによって、どこか奇妙で普通ではなく、不気味で、薄気味悪い一日と化す。

 この日ダーズリー氏が感じた感情は多い。朝は「いつも通りのご機嫌」で家を出て、通勤渋滞と街中の奇妙な格好をした妙な連中に「イライラ」し、昼までは「いつも通りに不機嫌にすごし」、昼食の買い出しでまた目撃した妙な連中に「不安を覚え」、午後はまた「不安と闘いながら」いつも通りすごし、就寝するときには「無理やり自分を安心させて」いる。(さらには、追い打ちをかけるような語り手の「なんという見当違い」という地の文。)

 この「感情の揺れ」こそが、「物語の起伏」の正体である。感情の振れ幅が大きければ大きいほど、「起伏に富んだ物語」だと言える。

・一人称小説という不利

 異世界譚において、一人称小説であることは不利である。異世界譚では「現実と違うこと」を説明しなければならず、説明をしている間、主人公(ここでは語り手とほぼイコール)の感情は脇に置かざるをえないからである。いや、脇に置くくらいならいい、問題は説明を入れることで主人公が「必要以上に冷静に見えてしまうこと」である。さらに深刻なのは、「状況描写」をすることで作者が満足してしまい、主人公の「感情描写」を疎かにしてしまい易いことだ。

 本来、一人称小説は語り手の感情描写がし易いと認識されている。実際そうだし、地の文にかなり砕けた言い回しを使うこともできる。しかし一方で、的確な状況描写を感情豊かに一人称で行うには相当高度な技術が必要だ。

 その点、三人称小説では状況描写と間接話法は明確に区別され、状況描写の過多は人物の「冷静さ」に影響を与えない。「説明しなければならないこと」が多い小説は、一人称よりも三人称で書いた方が有利だと私は思う。

 もちろん、どちらを使うとしても、説明はエピソードで消化できるのが一番いいことは言うまでもない。

・全体イベントとしての起承転結と小イベントの有機的な繋がり意識

 私が起承転結信者なので起承転結と書いたが、別に三幕構成でも文章構成でもなんでもいい。具体的には「千月流物語の作り方」で扱った「シーンの目的」を決める技術である。要は、「作中の如何なるシーンも全体に寄与してなんぼ」という意識である。

 これはよい長編小説を書くときには絶対的に必要だと思う。そして、非常に習得しづらい技術でもある。なぜならば、長編小説を完結させなければ身につかない技術だからだ。長編小説を完結させられる人は非常に少ない。

 長編小説に「寄り道」は付きものである。寄り道が多ければ、それだけ世界観やキャラクターに幅ができ、物語世界は豊かになる。けれども、「寄り道」は「無駄」であってはならない。あくまで「本筋」を補填、補強するエピソードであることが求められる。本筋に寄与しない「無駄なシーン」を読んでくれるほど読者は暇ではないのだ。

 そのシーンがあることによって、「物語の本筋はどう進むのか」、あるいは「物語の本筋に関するどんな情報が開示されているのか」。これは非常に重要である。その時点で読者にとっては判らなくても、作者は意識している必要がある。

 『ハリー・ポッターと賢者の石』でいえば、カエルチョコのカードやハーマイオニーと仲良くなる一連のエピソード、ハグリッドのドラゴン騒ぎや『みぞの鏡』のエピソードなどだ。上記のエピソードは読み進めている時点では読者にとって「寄り道」と認識されるエピソードである。その実、どのエピソードも「賢者の石を奪おうとするヴォルデモートと、それを防ごうとするハリー」という本筋に関わる重要な情報を開示している。(ニコラス・フラメルの功績、ハロウィンに乗じたのトロールの侵入、三頭犬の突破方法の聞き出し方、賢者の石をどこに隠したか。)

 これらの一見無駄に思える「寄り道」が、実は無駄ではなかったことが中盤から終盤に向けて徐々に開示されていくことで、読者は物語のシーンに有機的な繋がりを見出す。すると読者は「そういうことだったのか!」と感じ、これがいわゆる「謎解き」や「どんでん返し」の快楽に繋がる。

 長編小説を書く時に、この「作中の如何なるシーンも全体に寄与してなんぼ」という意識がないと、連続するシーン同士の繋がりが薄れ、物語がバラバラになってしまう。集積しても一つにならない物語は「長編小説」ではなく、「単なるシーンの集まり」にしかなれない。一連のシーンに時間軸以外の繋がりが見いだせない長編小説もどきは、特に作者の一作目に顕著な傾向である。(うちのサイトで言えば『夢想』が好例。ついでに言うと全体の構成が意識できていないということであり、全体の構成が意識できていないということは作品が未完に終わる可能性も非常に高い。)

 「どのシーンが全体に寄与していて、どのシーンが寄与していないのか」を判断するためには、「小説全体」が必要である。未完結の小説は「全体」を持ち得ない。よって、長編小説を完結させたことがない作者は、この能力を持ち得ない(あるいは非常に持ち難い)。

 わざわざ「長編小説」としたのは、短編小説の場合は全く逆方向の能力を必要とするからである。短編小説で必要なのは、無駄なシーンを削ぎ落としていく技術である。短編小説では、「寄り道」の全体への寄与は関係なく、むしろ一切の「寄り道」を発生させないことが重要なのだ。

・主人公はsegeるな、ageろ

 主人公と書いたが、主役に対しても同じだ。視点人物や物語の中心人物を語り手が貶してはいけない。

 主人公は読者が物語に感情移入するための(よすが)である。大抵の読者が一番お気に入りの人物として主人公を挙げる。そのことは二次同人で主人公関連のCPが、いかに盛況かを見ればわかる。同人に縁のない人だって、少年ジャンプの人気投票で殆どの場合、主人公が一位を取ることくらい小耳に挟んだことがあるだろう。

 七巻で完結したハリー・ポッター・シリーズで、一番好きなキャラに「セブルス・スネイプ」を上げる人が多くなろうとも、「ハリー・ポッター」が嫌いだ、と言う人は読者の中にはいないだろう。ハリーが嫌いだ、と思った人は、多くの場合一巻を読み終わらずに脱落する。脱落する読者を私は否定しない。実際、ハリーは案外腹黒いし、特に低学年時は周りの見えていないお子様だし、五巻では凶暴化する。途中で読むのを止めることは、嫌な思いをしてまで読み続けるよりも有効な時間の使い方だ。

 つまり、こういうことだ。

 主人公が嫌いな奴だと、読んでいて楽しくない。

 そして、語り手が貶すようなキャラクターを、大抵の読者は好きになれない。語り手は「物語を語る」ことによって、読者にキャラクター達のプレゼンテーションをしているのだ。敵役は読者に嫌われるように語らなければならないし、主人公は読者に気に入られるように語らなければならない。だから、語り手は主人公を貶してはいけない。貶すくらいなら過剰に持ちあげる方が、いくらかマシなくらいだ。

・御器谷先輩は主人公になれない

 SOUL CATCHER(S)というジャンプ漫画があるのだが、その中に御器谷(みきたに (しのぶという非常に自己評価が低いキャラクターが登場する。

 彼は卑屈さが売りのキャラクターであり、自己卑下がギャグとして成立していて、読者の人気も高いキャラクターである。私も好きだ。

 しかし、小説において彼のようなキャラクターは主人公になれない。

 理由は簡単で、「ボクの都合なんてカンケーないよね」「ボクなんてインクの切れたボールペンみたいなものだし」「ボクなんかいなくても誰も困らないもんね」という、自己卑下が口癖だからだ。SOUL CATCHER(S)という『漫画』において、御器谷先輩は脇役である。だから、いくら卑屈なことを言っても即座に主人公や周りのキャラクターからフォローという名のツッコミが入り、自己卑下がギャグとして成立する。

 これが、御器谷先輩が主人公で、しかも媒体が『小説』だったらどうなるか。

 一人称小説では自己卑下のオンパレードとなり、自分を貶す表現が出てくる度に読者の主人公に対する評価はストッパーもなく下がり続ける。小説において、主観評価はほぼ絶対的な価値を持つ。そうでなければ、読者は物語世界のルールを認識できないからだ。

 つまり、「一人称小説の主人公による自己卑下」であっても、「語り手」が「こいつはダメな奴だ」と断じた瞬間に、読者の評価も「ダメな奴」になる。読者のキャラクターに対する評価は、基本的に語り手の評価に準じる。

 語り手の評価が低いキャラクターに対して、読者は冷たい。そうでなければ、悪役を成敗した時にカタルシスを得られない。

 主人公に対する読者の評価が低ければ、いくら周りのフォローがあっても、「みんな主人公を買いかぶりすぎ」「作者に都合のいい世界観だなぁ」と、読者は冷めていくばかりだ。

 主人公が良い奴だったり、読者のお気に入りだったりするから、主人公が持ち上げられたり、いい目を見たりすると楽しいし、快いのである。嫌いな奴やダメな奴が持ち上げられたり、いい目を見たりしても不快なだけだ。

 もっと最悪なのは三人称小説の場合だろう。客観視点の語り手が主人公を貶めると、一人称の時よりも読者の悪い評価を強化、固定化することになる。さもなければ、主人公の思考を続く地の文で延々とフォローするような文章になりかねない。

 主人公は、僕なんかの少ない知識ではとても教えられない、と思った。しかし、実際には主人公の知識は他人に『歩く音楽辞典』と言わしめるような膨大なもので、吹奏楽部の中で彼以上の知識を持つ人間はいない。

 ……。

 こんな小説を楽しんで読めるだろうか。「作者の主人公への自己投影が酷い」と切って捨てられるのがオチである。

 上記の文章に書かれていることは、御器谷先輩のキャラ設定において「事実」である。この場合、実際に作者が主人公に自己投影しているのか、設定が事実なのかどうかは、もはや大した問題ではない。作者が自己投影していると感じさせるようなキモい文章になりやすい、ということが問題なのである。

・エンドマークは死ぬ気で付けろ

 読み終わりましたよ、件の小説。見たか! 俺は義理を通したぞ!

 該当小説の公開情報によると、総字数51万5千強。読了目安は1,034分。千三十四分って、何時間だよ。六十で割ってみ? およそ十七時間半だぞ? たぶん、実際にはもっと時間かかってる。よく頑張った、俺! よくやったよ、俺!

 しかし、しかしだな! この小説、未完なのだよ! 淑女紳士の諸君、この意味がわかるか! 51万字かけて未完! この虚しさがわかるか! 51万字も読んだのに未完! この徒労感がわかるか! 中途半端は評価に値しない。評価するべき感慨も読後感も、どこにも無いからだ! 未完の名作なんてありはしない。ちなみに、これは個人の感想のため異論は認めない。

 確かに、物語が未完になることはある。特に小説を書き始めたばかりの頃は自分の力量がわからない。だから、自らの手に余る物語を書こうとしてしまう。そうすると、これ以上は、にっちもさっちも進めない、どうにもできない局面にぶつかる時が来る。そんなとき、その小説は教えてくれる「このスケールの物語は、今の私の手には負えないのだ」と。

 けれども、それだけだ。未完の小説が作者に教えてくれることは、あまりにも少ない。

・物語とは問いである

 物語が完結するとはどういうことか。それは、「問いに対して答えを出す」ということだ。その答えが物語の着地点であり、答えが出る時点が物語の収束点だ。

 物語には必ず、問いがある。三幕構成で言うところの「セントラル・クエッション」だ。物語の主題となるドラマ=葛藤とは、つまりは問題であり、問いかけだ。本の帯や宣伝文句を考えてもらえばわかりやすいだろう。「主人公は果たして○○できるのか?」とか、「○○の運命とは?」とかいうあれだ。誰がどう見たって、これは問いかけだ。

 そして、その問いかけに答えが出た状態が、すなわち物語が完結した状態である。

・物語を完結させる価値

 立てた問いには答えねばならい。それが問いを立てたものの責任だ。答えは何も、イエスかノーだけではない。わからないや保留だって構わない。それでも、その時点の答えとして読者に提示することに意義がある。

 なぜ物語が未完になってしまうのか。それは、物語を通して提示したい答えも、答えの探し方も、ひょっとすると問いの立て方さえ、作者自身が知らないからだ。

 そして、これらの技術は、書き上がった物語の構造を見渡してみた時に初めてわかってくる。しかし、未完の小説は構造を持ちえない。その小説には「終わり」が、「答え」が、ないからだ。ここに、未完の小説の弱さがある。

 どんなに素晴らしい、続きが気になる小説であっても、未完である以上は答えの提示の仕方も、答えの探し方も、上手い問いの立て方も教えてくれない。

 どんなに下手くそで、つまらなくて、作者以外の誰にも見向きもされないような駄作であっても、立てた問いに答えを出し、完結させた場合は、答えの提示の仕方や答えの探し方、上手い問いの立て方を教えてくれる。少なくとも、「この方法は上手くいかなかった」ということを教えてくれる。

 「この方法は上手くいった」、「この方法は上手くいかなかった」。あらゆる技術の向上は、この二つの積み重ねの結果に他ならない。それは、小説を書く、という行為においても同じことだ。

・未完の名作を目指すより、駄作であろうとも完結させろ

 小説(ここで私が想定するのはエンターテイメント小説)において、作者は物語の初めから提示する答えを意識しながら書いていく必要がある。そうでなければ、「全体イベントとしての起承転結と小イベントの有機的な繋がり意識」なんて、とても持てないだろう。

 推理小説作家の中には、「書いているときには犯人が判らず、謎解き部分まで書き進めて、やっと犯人がわかる」という人もいる。こういう人は、「答えの探し方」の方法論を持っている人だ。その方法で何度も小説を完結させ、「この方法は上手くいった」を積み重ねてきたから、こういう書き方ができるのだ。

 推理小説で犯人がわからないまま書き進めても、完結できれば問題ない。しかし、途中で投げ捨てる未完の小説ばかりを書いていたら、永遠に犯人はわからないままだし、いつまでたっても小説がうまくなることはない。(言うまでもなく、犯人がわからない推理小説を読みたがる人は少ない。)

 スケールの大きい物語、つまりテーマが壮大だったり、長編だったり、ましてや大長編だったりする物語は完結させることが難しい。大きなものを扱うには、やはり、それなりの慣れと技術力がいる。

 だから、小さいところから初めるべきだ。小さい物語なら、やる気と根性があれば、完結させることができる。完結させられれば、小説の構造が見えてくる。小説の構造がわかってくれば、大きな物語だって、完結させられるようになってくる。

 だから、上手い小説を書けるようになりたかったら、エンドマークは死ぬ気で付けろ。付けたエンドマークの分だけ、あなたはより良い小説を書けるようになっていく。

 小説を完結させることについては、こちらにより詳しく書きましたので、よろしければどうぞ。「字書きの進化録3 自作品大反省会 物語の構造について解説する

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