字書きの進化録3 自作品大反省会 物語の構造について解説する

 この間、「下手な小説を読んだ時こそ研究しろ! うまい小説の書き方とは」で「エンドマークは死ぬ気で付けろ」と息巻いたので、小説を完結させると作者にとって、どんないいことがあるのか解説する。

 未完の小説と完結した小説の最大の違いは、完結した小説は「物語の構造」を持ち、未完の小説は「物語の構造」を持ちえない。これだと思う。

 そういうわけで、今回は「物語の構造」について解説を試みる。

参考資料は以下の二作品。
・ヴァトンスデーラ・サガ
・闇の城

・ヴァトンスデーラ・サガについて

 ヴァトンスデーラ・サガを読んだことがある人は頷いてくれると思うが、この話は八話までの前半はだるいというか、とろいというか、くそつまらないというか、あまり面白くない(好きっていってくれる方ありがとうございます! ごめんなさい)。しかし、九話、十話あたりからの後半は一転してスピード感が増すというか、そこそこ面白く読めるようになってる。証人は、私自身とにちゃんねるで評価依頼した時に評価してくれた方々。

 時間が有り余っている人は検証のために読んでみてもいいだろう。三、四時間あれば読めるはずだ。長いので、読んだことがなくて暇じゃない人は、わざわざ読むことはない。

 この間、四年ぶりくらいに自分で読み返して、前半と後半であまりにも文章の雰囲気が違うので、この八話と九話の間に作者に一体全体、何が起こったのかと考えていた。恐らくだけど、これ、物語の構造的な問題なんだわ。

・物語は展開してないとつまらない

 構造の問題とはどういうことか説明しよう。まず、ヴァトンスデーラ・サガの起承転結を以下に示す。

起:ソグネフィヨルド(地名)でセームンド(人名)の一族による巨人族の排斥。巨人族の娘が復讐を誓う。
承:セームンドの甥でリョットの息子であるフロルレイフが、母親であるリョットの意思を受けて復讐を実行しようとするも失敗する。
転:セームンドが何者かによって殺害されるが、フロルレイフには身に覚えがない。
結:下手人であるリョットが巨人族の娘だったことが判明し、殺害される。

 今、起承転結にまとめようとして改めて思う。自分どんだけダメダメだよ。起承転結にまとめられねぇよ。お前ら、わかるか? これが長編処女作であるヴァトンスデーラ・サガの構造問題だよ。

 まず、きちんとした起承転結が練られてねぇんだよ。いや、書きながら先の展開は考えてたよ? でもね、物語の核である問いからして決定的にズレてるから、あんま役に立ってねぇわけ。まあ、それは今はいいや。面白い話を作る上では大問題だけど。

 それで、ヴァトンスデーラ・サガは八話までずーっと「起」をやっているわけよ。散々、「起」をやった後にようやく九話から「承転結」って物語が動いていく。そんなのお前、どう考えたって八話までが「展開がのろいなぁ」って感じになるに決まってるじゃないか。だって、のろいどころか展開していないんだもの。

 なんでそういうことが起こったかって言うと、起承転結の意識化ができていないから。これですよ。

・そもそも、ヴァトンスデーラ・サガはどうやって構想したか

 北欧神話オタク超上級者か、アイスランド文学オタクか、はたまた、ヴァイキングオタク上級者か、あるいは、我がサイトマニア特定指定種あたりの方はご存じかと思うが(要は、これを読んでいるだろうほぼ全ての方はご存じないと思うが)、「ヴァトンスデーラ・サガ」は元々アイスランドに伝わっている同名のサガ(邦訳題:みずうみ谷のサガ)の換骨奪胎(に、なれてたらいいなぁ)である。

 つまりは、アレンジ版だ。ディズニーのプリンセス・シリーズの作品を思い浮かべてもらったら近いだろう。「アナと雪の女王」(原作はアンデルセンの「雪の女王」)ほどは改変していないが、「塔の上のラプンツェル」くらいは改変している。

 みずうみ谷のサガは、元々はみずうみ谷(地名。ナウシカの風の谷みたいに思ってくれればおk)の族長であるインゲムンドとその嫡男であるトルステインの伝記である。

 はい、ここで! 今までこの記事しか読んでいない人は「突然沸いて出たインゲムンドとトルステインって誰だよ」って思ったね! 思いましたね!

 ここに! ヴァトンスデーラ・サガの構造問題その二が潜んでいるわけです。

 つまりは、「主人公の選定間違い」である。なぜ「主人公の選定間違い」が起こったのか。

 まず、十世紀のヴァイキング的感覚から二十一世紀の日本的感覚(+作者の好み)に改変していくなかで、ストーリーラインの変更を行った。それによって、物語の核である「問い/葛藤」が変化した。

 けれども、作者は「起承転結の意識化ができていない」ため、物語の核である「問い/葛藤」の変化に気づかなかった。

 そして、変化に気づかなかったがゆえに、物語の中心で「問い/葛藤」を抱え込む人物を見誤った。その結果、主人公の選定を間違ったのである。

 これには作者の二次創作的手法にも問題があり、物語上の役割を踏まえることなく、みずうみ谷のサガで一番気に入った人物を主人公に抜擢したために起こったミスマッチでもある。

・起承転結の意識化ができていない

 ヴァトンスデーラ・サガを書いていた時、途中までは起と結だけ決定されている手探り状態だった。今、書きながら思ったけど、これ、小説を書き慣れない人がよくやる書き方の特徴だよね。「夢想」でも起と結は決まっていて、途中は書きながら手探りしていて結局、現在未完だわ。たぶん、アレの続きは「続き」という形では書けない。完結させる場合は、構想から練り直して、全部書き直すしかないだろう。

 閑話休題。起と結だけ決定している状態で、キャラクターの反応を探りながら書いていた。時代背景とか、年齢差とか細かい設定もたくさん考えた。それらの全部が全部まったくの無駄だったとは思わない。

 けれども、作劇上あまり重要な要素ではない。重要なのはストーリーラインである起承転結と、それを支える道標や目印を決めておくことだ。

 ヴァトンスデーラ・サガの執筆中にメモ書きしていたノートを眺めてみると、これら起承転結と目印が決まったのが、ちょうど前半と後半の境目あたりである。決まったことによってそれに沿って物語りを「展開させていく」ことが出来るようになった。結果として後半はスピード感があり、前半の漫然と話を進めていた部分よりも面白く出来たのだと思う。

 起承転結が決まっていないことの不利が、この流れに諸に出ている。

 起と結だけでは漠然としすぎていて、シーンの目的が決められない。目的がないまま書いた文章は、漫然としていて散漫で無駄が多い。シーンとしてとっ散らかってるし、目的に沿った演出も出来ない。

 当然、読者は文旨とでも言おうか、そのシーンで受け取るべき情報や感情を素早く把握することが出来ないし、シーンの主旨も曖昧だから、読んでいてよく分からない、つまらないと感じる訳だ。

 これらは、物語を前方から、つまり、始まりを起点として時系列順に考えて書くことの弊害だ。

 さらに言えば、ストーリーラインが決まっていない以上、その話はいつ行き詰まるか分からない。未完に終わる可能性がものすごく高い。

 逆に、起承転結がきちんと決まっていれば、終わりを起点として、逆算しながら書くことができる。そうすると必然的にそのシーンでやるべきこと、伝えるべき情報が見えてくる。シーンの目的が決められる。

 シーンの目的、達成すべき目標が決まっていれば、目的に沿わない文章を書くことがなくなる。だから文章から無駄が省かれるし、演出的な地の文を書くことができる。

 読者の方でもシーンの主旨が明確に察せられるから、事態の了解が早くなり、読んでいて心地よい、面白いと感じられるはずだ。

 さらには、細部を調節しながら次の目標に向かって書いていけばいいだけだから、小説を完結させることも、それほど難しいことではなくなる。

・主人公の選定間違い

 執筆直後ににちゃんねるで指摘してもらった時には首を傾げたが、今回読み返して納得した指摘に、「フロルレイフは途中から出てきて物語を持っていってしまう」がある。これ、四年前は「なんでかなぁ」と指摘自体が不思議だったし、理由も分からなかった。

 だが、今ならこの指摘の理由が分かる。ヴァトンスデーラ・サガの中で、「葛藤」を抱えているのがフロルレイフだけだからだ。

 元々のみずうみ谷のサガに出てくるフロルレイフは小悪党で、大した理由もなく人を殺す存在だ。けれども、私は小悪党が嫌いだし、愉快犯的に人を殺す人物を悪役としてでも書きたくなかったので、彼まわりの設定は大幅に改変した。その結果、フロルレイフは「小悪党」から「悩める青年」にクラスチェンジした。「悩める」=「葛藤」である。

 クラスチェンジしたのはいいんだけど、せっかく変えた設定を作者が全く活かせていないんだよね。つまるところは、これも物語全体の起承転結を意識化出来ていない故に、物語上で果たし得る役割を一切理解できずに闇雲に登場させて動かしているわけ。

 ヴァトンスデーラ・サガの中で、「葛藤」を抱えているのがフロルレイフだけである以上、「主人公/主役」にすべきは彼であり、その点でヴァトンスデーラ・サガは完全に主人公の選定を間違っている。

・完結作であるという利点

 今まで、ヴァトンスデーラ・サガの不出来な点を指摘するのに、当たり前のように「構造問題」とか、「物語全体の」とか言ってるけど、これこそがヴァトンスデーラ・サガが完結作である、という利点である。

 完結しているから、物語の構造について語り得るのであって、これが未完だとできない。少なくとも私には絶対にできない。「夢想」の構造上の問題点を上げろって言われても無理ですわ。だって、構造自体がないんだもの。

 こういった、書いた作品の自己分析、自己反省が出来るかってのが、作者にとって一番の利点だと思う。

 あと、今の私には上手く説明、解説できないのだけれど、読み終わった時の「読後感」はやっぱり大切だ。読後感があって初めて、読者は「読み終わった!」という達成感を得られる。

 私は物語の善し悪しの半分を決定するのは読後感だと思っている。読後感の練習が出来るのは、小説が完結する時だけだ。

・ヴァトンスデーラ・サガを踏まえて、闇の城を書く

 闇の城は、私にしては珍しく、一から十まで練習のために書いた小説だ。

 舞台設定である「空に浮かぶ城」は「少女革命ウテナ」から、主役の三人組である「カイ、タイト、ユリア」は「キングダムハーツ」の「ソラ、リク、カイリ」から借りてきている(名前は確かフィンランド語の人名から、響きだけで選んだ。意味は考慮していない)。

 光と闇というテーマは永遠の中二病である私のかねてからのアイディアだ。「リザ」と「ニザ」は北欧神話の「イザヴェリル:輝く野」「ニザヴェリル:暗い野」から。イザがリザになっているのは、リザという音の方が可愛いからだ。

 最初から物語の構成を決めて書き始めた。これは起承転結よりも三幕構成で示した方がわかりやすい気がする。一応、以下に両方示す。

 暇ならヴァトンスデーラ・サガと読み比べてみると良いかもしれない。闇の城の方がテンポが良いと感じられるはずだ。闇の城の方が短いが、最後まで読まずとも最初の二、三話を読めばテンポの違いはわかるだろう。

起:ユリアが空に浮かぶ城の噂を聞きつけ、三人で城に行く。
承:城に閉じ込められた闇の女神である少女リザを解放すべく、カイが城の最上階を目指す。
転:最上階でリザが閉じ込めた方(光の女神)で、閉じ込められた少女ニザは別人であることが判明する。
転承:ニザとタイトの視点から最上階までを描く(承を180度視点を変えた見方で再提供する)。
結:ユリアの協力でニザを城から解放し、世界が光と闇を取り戻して終結。
第一幕 (設定)
 闇のない光だけの世界の説明。カイ・タイト・ユリアの紹介。
第一ターニングポイント
 空に浮かぶ城を見に行き、城に入る。

第二幕 (対立、衝突)
前半
 城に閉じ込められた闇の女神である少女リザを解放すべく、カイが城の最上階を目指す。
ミッドポイント
 カイが最上階に辿り着く。リザが閉じ込めた方(光の女神)で、閉じ込められた少女ニザは別人であることが判明する。
後半
 ニザとタイトの視点からカイを追って最上階までを描く(前半を180度視点を変えた見方で再提供する)。
第二ターニングポイント
 カイが幼少期の記憶を思い出す。リザとニザの記憶がどこですり替わったのか種明かし。

第三幕 (解決)
 ユリアの協力でニザを城から解放し、世界が光と闇を取り戻して終結。

 余談だが、まとめてみて分かった。書いているときは起承転結で考えるのがわかりやすく、すでにある物語の構造を説明するのには、三幕構成の方が説明しやすい。三幕構成って元々出来上がってる映画シナリオの分析方法だからかなぁ。

 これ、創作する方からしたら、見落としがちなだけに重大なトラップになりえるかも。いや、私が起承転結信者なだけかな。それとも、「後半で180度視点を変えて展開する」という闇の城の構成が三幕構成と相性がいいだけなのか。

・物語の構成が決まっていることの利点

 上述したが、シーンの目的を決められるというのが第一に来る。第二は、キャラクターに物語上の役割がきちんと割り振れる点だ。

 闇の城の登場人物は五人である。全員がきちんと役割を持っていて、無駄な人物は一人もいない。

リザ(光の女神):闇を城に閉じ込め、光だけの世界をつくった。敵役。
ニザ(闇の女神):城に閉じ込められ、棺の中に引きこもっている。助けられる姫役。
カイ:光と闇を共に理解できる。闇の女神を助け出そうとする。主人公。
タイト:霊感体質でニザの生霊が見える。ニザとともにカイを止めようとする。ニザの補助役。
ユリア:闇を理解できない新人類代表。最上階で絶望に囚われたカイを助け出す。主人公の補助役。

・物語がキャラクターを作り、キャラクターが物語を作る

 キャラクターの役割を明確に意識化できているか。これは非常に重要なポイントだと思う。ヴァトンスデーラ・サガでは、キャラクターの役割が意識化できていなかった為に、主人公の選定ミスを犯している。

 また、キャラクターが物語上の役割を持つことで、役割を果たすために要請される性質がある。タイトの霊感体質(ニザの生霊とやり取りするため)やユリアの闇を理解できない(誰もが絶望という闇に囚われる最上階で行動するため)がそれである。これが「物語がキャラクターを作る」ということだ。

 逆に、これらの性質をキャラクターが持つことにより、キャラクター同士の掛け合いや行動選択が変わってくる。つまり、「キャラクターが物語を作る」。

 物語とキャラクターは相互に影響する。

 そして、物語を完結させるという視点に立った時「物語がキャラクターを作る」ことが「キャラクターが物語を作る」よりも重要になる。役割を持ったキャラクターがいないと物語が展開しないからだ。小説をある程度書き慣れてこないと、この視点を持つことが難しい。

 キャラクターの役割は作劇上の重要ポイントであって、観賞上のポイントとしては意識されないからだ。これは、多くの二次創作でも同様である(二次創作はサイドストーリーの作成が主な創作需要であり、物語の構造自体を構築する必要性に迫られないため)。

・意識化とノウハウ蓄積の重要性

 今回、「物語の構造」の他にもう一つ、書いておきたいことがある。それは、「できる/やれる」と「解っている/習得している」は違う、ということ。

 私は、面白い小説を書くのは技術であると思っている。技術とは、誰にでも習得できる技法、ということだ。そして、誰にでも習得できるとは、つまり他人に説明することができるということだ。

 小学生の頃、学校の先生に「勉強の内容が本当に解ったってたら、友達にちゃんとわかりやすく教えられるはずだよ」と、言われた。これは真理であると思う。そして、「知っている/やれる」と「解っている/習得している」の間には、僅かな、しかし、意外と深い溝がある、と感じている。

 スポーツでも、何も考えずにただ体を動かすよりも、どういう理屈でどのように体を動かすのかを常に念頭に置いて練習する方が効率がいいと言われている。私は、小説を書くのも同じだと思う。

 どういう理屈で、どのように書くのか。それを意識化するのには、小説の書き方を他人に教えられるように書くのが、私にとっては一番効率がいい。

 やはり、考えるだけでは意識化できない。頭の中にあるものは、「なんとなく」以上の形を取ることが出来ないからだ。考えに明確な形を取らせるには、文章に起こすのが一番良い。文章にすることによって、今まで見えていなかったことが見えることもある。読み返すこともできて、繰り返し理論を確認できる。

 ノウハウを蓄積しただけ、私にとっての小説の技法は意識化され、意識化されたものは、技術として習得される。技術が上がれば、それだけいい小説を書けるようになるし、自分のレベルが上がれば、他人の小説から盗める物も増えていく。サイトで公開することによって、少しでも他人の役にも立てれば儲けものだ(最低でも暇つぶしくらいにはなっているだろう)。

 もし、自分が書いた小説を他人に面白いと思わせたいのなら、「自分はどうやって小説を書いているか」を少しずつでも意識化し、分析していくことを私は強くおすすめする。意識化することによって書き方は技術になり、分析することによって技術は向上していくだろう。技術が向上すればその分だけ、あなたの小説を面白いと思ってくれる人が増えるはずだ。

 偉そうなことをのたまったところで、今回は筆を置くことにする。

初出 

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