ジョーカーはバットマンを愛している。それは瞳孔を観察すれば判る、紛れもない事実だ。

だから、こんなことはあり得ない。

バットマンを愛して已まないジョーカーが、その正体であるブルース・ウェインは愛さない、なんてことは。

アーカム・アサイラムを訪れたブルースは、相対したジョーカーの目になんの感情も浮かんでいないことに衝撃を受けた。

自傷ができないようにクッション材が使われている壁に向かい無表情で黙って立つ男は、ブルースにチラリと目を向けただけで、一切表情を変えずにまた壁に向き直った。

これは本当にジョーカーなのだろうか。あの、絶えず笑い声を上げて、いつも目を爛々と光らせている、ジョーカーだというのか。これが? この、唇を引き結んだまま笑いもせず、目に光のない、この男が?

呆然とするブルースを現実に引き戻したのは、水を取りに行っていた所長がブルースを探す声だった。この状況では所長の目は短時間しか誤魔化せないだろう。そもそもブルースはジョーカーへのごく簡単な詰問で全て解決すると考えてた。

元々、今日ブルースがアーカムを訪れた目的は、ジョーカーにケイブに入り込まれた衝撃と動揺を沈めることだった。ブルースがすべきことはただ、あの時にジョーカーに正体を知られたのかを確かめることだけだった。知られていないのならそれでいいし、知られていたのならそれなりの対処をすればいい。いずれにしても、やるべきことが定まれば、ケイブでトランプのジョーカーを見つけた時の動揺は落ち着いていくはずだった。それが今や、ブルースはジョーカーのカードを拾い上げた時よりもずっと動揺していた。

「ウェインさん! どちらにいらっしゃいます?」

はっとしたブルースは、素早く周囲を観察した。これ以上ここに居ることはできない。

所長に合流するために踵を返して歩き出す。廊下の角を曲がる前に、ブルースはもう一度ジョーカーの様子を確かめようと振り返った。

彼は相変わらず笑み一つ浮かべずに、じっとクッション材を見つめていた。ブルースに一切の関心を払うことなく……。

それから、ブルースはアルフレッドには告げずに何度かアーカムを訪問した。秘密にする必要はなかったはずだが、アーカム訪問の目的がジョーカーとの面会だとアルフレッドには知られたくなかった。告げれば、彼が顔をしかめる様子が容易に頭に思い浮かぶのが理由の一つだったし、必要以上に心配させるのも、心配されるのも億劫だった。どことなく後ろめたかったのもある。

ジョーカーがブルースに対して口を開いたのは、三度目の面会の時だった。

「あのカード、幾らで買った?」

「幾らで買った……?」

質問の意味が分からず、ブルースは鸚鵡返しに聞き返した。

「俺がバットマンにやったラブレターを何であんたが持ってる? どうせ、その有り余る財力を使って金に物を言わせて手に入れたんだろう? それとも、バットマンからのプレゼントだったか? お前、バットマンの後ろ盾だって噂だもんな」

ああ、とブルースは得心した。

ああ、ジョーカーは、バットマンの正体がブルース・ウェインであることまでは突き止めなかったのだ、と。

アーカムで最初にジョーカーに会った時からブルースの胸につかえていた痼りがほぐれていく。ジョーカーは、バットマンの正体であるブルース・ウェインを愛していないわけではなかったのだ。ジョーカーは、バットマンとは関係のないブルース・ウェインに興味を持てなかっただけだ。

おそらくジョーカーはバットマンの正体を突き止める前に足を止めて、踵を返したのだ。その気持ちはよく解る。

ブルースだってジョーカーの正体が判ったら、まずは捜査が進んだことに喜ぶだろう。しかし、きっと同時に落胆もするに違いない。彼の本名やら、ジョーカーに変わるきっかけになった「不幸な一日」やら、生年月日やら、年齢やらが判ってしまって、ジョーカーが、「バットマンが対決すべき悪の権化」であるべきジョーカーが、血肉を備えたただの人間に堕するなんて幻滅だ。

なにしろ、ジョーカーがただの人間なら、彼に相対するバットマンもただの人に堕してしまう。ジョーカーが悪の権化であるからこそ、バットマンは正義の象徴でいられるのだ。

だから、ケイブに足を踏み入れて、そこで踏みとどまったジョーカーの気持ちは痛いほど理解できた。バットマンが善の概念でありたい様に、ジョーカーも悪の概念でいたかったのだろう。

「それで、感想は?」

「感想?」

問い返すブルースにジョーカーは顔をしかめた。

「お前、案外頭の回転が鈍いのな? お前は今、化粧なしのジョーカーの素顔を見ている。バットマンでさえ見たことがないんだぞ? 感想くらいよこしな」

バットマンでさえ見たことがないという言葉に不覚にもブルースの心臓が跳ねた。

「ああ、なんだろう。その、とても、普通だ……」

ブルースの返答にジョーカーは一瞬目を見開き、次の瞬間、大笑いした。

「お、お前、変わってるなぁ! この口元を見て、『普通』だなんて奴、初めてだ!」

一通り腹を抱えて笑った後、拘束衣を着せられているジョーカーは瞬きで涙を払いながら言った。

「気に入ったぜ、ブルーシー。今度何かする時にゃ、お前を人質に使ってやるよ」

「いや、できれば何もせずにアーカムに居てもらいたいのだが……」

「それじゃ、いつまで経っても俺はバッツに会えねぇだろ」

「バットマンに会えるなら、おとなしくアーカムに居るのか?」

「なんだ? 妬いてんのか、ブルーシー? まあでも、しょうがないだろう? アイツには俺がいてやらないと。なんせ、俺はアイツのお抱え道化師だからな」

なにか背筋を冷たい物が滑り降りていくような感覚に、ブルースの喉がごくりと鳴る。ここに居てはいけない。本能的にそう感じて、ブルースは慌てて椅子から立ち上がり、後ずさりした。

「おいおい、どうした? 面会時間はまだ残ってるぜ? いつも時間ギリギリ、目一杯まで居るくせによぉ」

ブルースは胸の前で鞄を抱え、ジョーカーから目を逸らさずにじりじりと扉へと足を進める。

「す、すまない。今日は少し、急用を思い出して……」

「ああ、ああ、そうだろうとも。じゃあな、ブルーシー。バットマンによろしく」

逃げるように面会室を出たブルースの後をジョーカーの哄笑が追いかけてくる。ブルースは鞄を抱えたまま、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

あんなの反則だ。ブルースに相対している時のジョーカーの表情はごく普通だった。それが、バットマンについて語る時には、なんで、あんな……。

ブルースは訝しんだ守衛に声をかけられるまで、しばらくアーカムの廊下にへたり込んでいた。

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