救いの手はいつだって目の前に差し出されていたんだ。ただ、きみが気づかなかっただけで。

崩壊したアーカム・アサイラムの0801号室で彼のガスを吸い込んだせいで、私の思考は鈍り始めている。こんなところでぐずぐずしている暇はないはずなのに、彼のことばかり頭に浮かんでくるのは質の悪い毒ガスのせいに違いない。

アーカム・アサイラムに新人職員が増えたのは、今から一年ほど前のことだ。慢性的に人手不足ぎみな割にアーカムで新人は珍しい。凶悪犯を収容していることもあり、職員の犠牲者が出ることも多いアーカムは勤務先として人気のある職場とは言えない。

そんな場所にあえて飛び込んでくるとは見上げた志を持った者もいるものだ、と強く印象に残ったのを覚えている。

エリック・ボーダー。

心根の優しい男だ。彼は私が感情のままにアンクレスを殴り倒すのを止めてくれた。あの時、壊れた物は戻らないと嘆くアンクレスに彼は「必ず救いはある」と返した。そう、「必ず救いはある」。自分自身の信念でもあるその言葉を、私は改めて強く胸に刻んだ。

私にとって彼は、アーカム・アサイラムにできた初めての味方だった。

振り返ってみれば、ウェイン邸をアーカムとして明け渡したのも、その間に起きた事件のために患者として潜入する決心がついたのも、アーカムにはボーダーが居るから、というのも大きかった。

幾ら出会いが強烈だったとはいえ、私にしては随分すんなりと他人を信頼したものだ。バットマンをやっている時の私は、思考が内にこもりがちで、他者に対して説明不足になってしまうことが多い。しかし、ボーダーとの会話では、いつも自然とテンポが合った。話がうまく噛み合うせいか、あまり初めてという感じがしなかった。

いや、会話だけではない。向かい合った時の視線の位置、覗き込んだ時の目の色や声、ちょっとした仕草や、ふとした時に感じる香り。そのどれもに、何故かよく知っていると思わされる既視感と微かな懐かしさがあった。

そう、本来なら気づけたはずなのだ。いや、気づくべきだったのだ。

バットマンをやっていて、ゴッサム市民からの期待を感じることはあっても、信頼できる味方を得られることは稀だ。アルフレッドやロビン達ファミリーを除けば、ゴードン本部長と幾人かの警官達がせいぜいだ。そんな中で、アーカムに味方がいると思えることは心強かった。

だから、気づかなかった。いや、気づきたくなかったのだ。

エリック・ボーダーはジョーカーによく似ている、ということに。

私はいつも無意識に二人の相違点を探していた。髪の色、肌の色、口元の表情、考え方……。それらはいつも、自分自身への言い訳の材料に使われていた。

――ほら、エリック・ボーダーとジョーカーはこんなに違う。だから、根拠のない疑念にばかり思考を割いて、このささやかな、けれども幸せな時間を台無しにする必要なんてどこにもない。

ああ、なのに……。

そのせいで信頼していた友人が次々と敵に変わり、エリックがジョーカーに変じる、こんな結末を迎えるのなら、冗談めかしてでもエリックに告げてみるべきだった。

「きみは何故か、ジョーカーにとても似ている」、と。

そうすれば彼は満足して、あるいは先程の彼の言に従えば私を助けるために、彼がエリック・ボーダーとして新たに始めた、私との関係は今も続いていたのかもしれない。

けれども、私は口を引き結んで沈黙した。エリックに疑念を伝えることで、せっかくできた彼との関係が崩れてしまうのが怖かったのだ。

それに、他人を頼るのが苦手な性格のせいで、私は相談も要求もできなかった。

助けて欲しいとも、そばにいてくれとも、どうしても言えなかった。

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