人魚姫からアリエルへディズニーの語りなおしへの評価 この話は中村うさぎ氏の
私は、『ゲド戦記』をアニメ化するのがディズニーじゃなくてよかったと、本気で思っている人間のひとりである。なぜなら、ディズニーは、すべての物語からメタファーの魔法を剥奪し、きわめてわかりやすく薄っぺらい物語に消化してしまう天才だからだ。「リトル・マーメイド」を見るがいい。アンデルセンの『人魚姫』に込められた深刻な愛の葛藤は跡形もなく、「愛」を笠に着た勧善懲悪のハッピーエンドに物語を塗り替えてしまった。という言葉に切れて書いた。後悔も反省もしていない。 ※2011/03/24追記 後悔はしていないが、反省はした。切れた勢いで物事を悪し様に言うものではないな。 そもそも、アンデルセンの『人魚姫』は、愛の物語はない。そこに描かれた葛藤や心理描写は確かに『アンデルセン自身の愛の葛藤や心理の反響』ではあるかもしれない。けれども、私にしてみれば人魚姫は恋物語ではなく、自己実現の物語であるとしか読み取れない。私には、人魚姫は王子を真実愛したことよりも、『不死の魂を手に入れる』という命題の方が、物語の重要な主題だと思われる。
それを愛の物語に変えたのは、誰あろうディズニー社である。愛なんてものは、見る目のない人に言わせれば、昼ドラやメロドラマと同じ、薄っぺらな物語でしかない、つまらないものだ。
ディズニー作品を薄っぺらな勧善懲悪ものと批判しているが、私はそれは間違っていると思う。
そう言う人は、「ディズニー映画は子供向け作品だから」と言って、きちんと『鑑賞』していない人だ。「漫画なんてものは子供が読むもので、大人の鑑賞に耐えうるものではない」と言っている人と同じだ。
子供は感覚で生きている。つまらなければ、すぐに見るのをやめる。一時間半近く、子供が座って静かに見ていられるということは、それだけその作品が面白いからだ。
一体どれだけの人が、アンデルセンの人魚姫を(絵本ではなく全訳で)きちんと読み、リトル・マーメイドを最後まで見ていることか。千夜一夜物語を読んだことがある人は? サンドリヨンは? 美女と野獣は? 白雪姫は? いばら姫は?
ディズニー映画は最初の長編カラー作品である「白雪姫と七人の小人」から数えれば半世紀近く、ファミリー向け映画として世界中で愛されてきた。ディズニー映画のなかにも「コルドロン」や「アトランティス」のように淘汰されてしまったものもある。今、残っている作品には残るだけの理由があるのだ。
それはウォルト・ディズニーの「信じれば夢は叶う」という信念に基づいたハッピーエンドの法則と、『現代に合わせた物語の語りなおし』によるのだろう、と私は思う。
リトル・マーメイドを例にとれば、原作のアンデルセンの「人魚姫」のテーマの面影は、ディズニー映画には実はほとんど残っていない。
そこに残るのは、「主人公が人魚の王の末娘で、人間の王子に恋をする」といった物語の表面的なあらすじ部分の重なりだけであり、それはかすかな残響音として作品に響いているにすぎない。
アンデルセンの描いた「人魚姫」は、『魂を持たない人魚が魂を持つ人間に焦がれる物語』であり、ディズニーの描いた「リトル・マーメイド」は『一人の女性が種族や慣習を越えて一人の男性と結ばれる物語』である。
二つは、同じあらすじを進みながらも違う道筋をたどり、その障害や到達点、結末、メッセージ性も異なっている。
まず持って認識して貰わなくてはならないのは、『アンデルセンの人魚姫は、恋物語では終わらない』ということだ。アンデルセンの物語の主人公たる人魚姫の最終的な目的は『人間と同じ不死の魂を獲得すること』であって『王子の愛を獲得すること』ではない。
これはアニミズム信仰を持つ日本人には、実に、実に理解しがたいが、キリスト教の考え方では「人間以外の生物は魂を持たない」。そのため、「崇高なる人間様と同じように魂を持つための話」が、語るに足る物語になり得る。と言うと、少しばかり意地が悪すぎるだろうか。しかし、人魚姫は、そういう話である。
そして、この『人間と同等の魂を持つための条件』として提示されるのが、『人間を心底から愛し、また愛されること』(これには、人間に恋をした水の精を描いたフリードリヒ・ド・ラ・モット・フーケの『ウンディーネ』の影響があるらしい)。しかし、そうなった瞬間に、『王子の愛を獲得すること』は人魚姫の自己実現のための低俗な手段に成り下がってしまいはしないか。私はそういう意味で、アンデルセンの人魚姫を手放しで賞賛することができない。
※2011/03/24追記 ここの表現は正確には正しくない。人魚姫は恋する王子のことを知ろうとする中で、不死の魂についても知る。そうして、『王子の愛を獲得すること』と『不死の魂を獲得すること』が同軸的な目的として物語上に表出してくる。
これは、恋物語の笠を着た自己実現の物語である。『王子を愛すること』が『自己実現の手段』になった瞬間、どんなに健気な自己犠牲を人魚姫が行おうと、それは人魚姫の自己中心的な願望のために行われることである。いかに真摯に人魚姫が王子を想おうと、畢竟それは自分のため。いくら王子に心を向けたところで、それは真実の愛ではありえない。王子は人魚姫の思いに気づくことなく、隣国の王女の元に去っていく。
※2011/03/24追記 これは正直、過ぎた表現。私も頭に血が上っていた。ここまでアンデルセンの人魚姫を貶める必要はまったくない。彼女は心底、王子の為につくしただろう。しかし、最終的にそれが『不死の魂を獲得するため』に繋がることは否めない。そういう意味では、やはり王子が隣国の王女の元に去っていくのは順当だとは思う。
それに対して、アンデルセンは別の解答を用意している。人魚姫は『王子の愛を獲得すること』によってではなく、『空気の精として善行を積むこと』で魂を与えられると提示されて終わる。
自己中心的な願望で王子を求めても、その願望は達成されない。そうではなく、自身でコツコツと善行を積むことによって、人魚姫は不死の魂を得る。つまり自己実現を達成する。これは順当な終わり方だ、と自分は思う。自己実現のために他人を利用することを、私は決して良いことだとは思えない。
また、アンデルセンが本当に描きたかったのは、おそらくこちらのテーマだったのだろう、とも思う。しかし、人魚姫は前述のウンディーネへのアンチテーゼのためか、王子への恋がクローズアップされすぎている。「人魚姫が魂を得る手段はウンディーネよりも崇高なものにした」とは、アンデルセン自身の言葉だが、そこに私は一抹の光があると思う。
※2011/03/24追記 コメントレスから引用。
人魚姫は恋愛ものとしてよりも、生と死のドラマって感じがします。王子に愛されなければ、魂もなく完全消滅しまう人魚姫と、なんとかそれを阻止しようとする姉姫たち。自分の生の為に愛する人を殺せるか、という大命題。 |