人魚姫からアリエルへ

ディズニーの語りなおしへの評価

この話は中村うさぎ氏の
私は、『ゲド戦記』をアニメ化するのがディズニーじゃなくてよかったと、本気で思っている人間のひとりである。なぜなら、ディズニーは、すべての物語からメタファーの魔法を剥奪し、きわめてわかりやすく薄っぺらい物語に消化してしまう天才だからだ。「リトル・マーメイド」を見るがいい。アンデルセンの『人魚姫』に込められた深刻な愛の葛藤は跡形もなく、「愛」を笠に着た勧善懲悪のハッピーエンドに物語を塗り替えてしまった。
『別冊宝島 僕たちの好きなゲド戦記』2006年8月宝島社(『ゲド戦記を読む』から孫引き)
という言葉に切れて書いた。後悔も反省もしていない。
※2011/03/24追記 後悔はしていないが、反省はした。切れた勢いで物事を悪し様に言うものではないな。

そもそも、アンデルセンの『人魚姫』は、愛の物語はない。そこに描かれた葛藤や心理描写は確かに『アンデルセン自身の愛の葛藤や心理の反響』ではあるかもしれない。けれども、私にしてみれば人魚姫は恋物語ではなく、自己実現の物語であるとしか読み取れない。私には、人魚姫は王子を真実愛したことよりも、『不死の魂を手に入れる』という命題の方が、物語の重要な主題だと思われる。
それを愛の物語に変えたのは、誰あろうディズニー社である。愛なんてものは、見る目のない人に言わせれば、昼ドラやメロドラマと同じ、薄っぺらな物語でしかない、つまらないものだ。
ディズニー作品を薄っぺらな勧善懲悪ものと批判しているが、私はそれは間違っていると思う。
そう言う人は、「ディズニー映画は子供向け作品だから」と言って、きちんと『鑑賞』していない人だ。「漫画なんてものは子供が読むもので、大人の鑑賞に耐えうるものではない」と言っている人と同じだ。
子供は感覚で生きている。つまらなければ、すぐに見るのをやめる。一時間半近く、子供が座って静かに見ていられるということは、それだけその作品が面白いからだ。
一体どれだけの人が、アンデルセンの人魚姫を(絵本ではなく全訳で)きちんと読み、リトル・マーメイドを最後まで見ていることか。千夜一夜物語を読んだことがある人は? サンドリヨンは? 美女と野獣は? 白雪姫は? いばら姫は?
ディズニー映画は最初の長編カラー作品である「白雪姫と七人の小人」から数えれば半世紀近く、ファミリー向け映画として世界中で愛されてきた。ディズニー映画のなかにも「コルドロン」や「アトランティス」のように淘汰されてしまったものもある。今、残っている作品には残るだけの理由があるのだ。
それはウォルト・ディズニーの「信じれば夢は叶う」という信念に基づいたハッピーエンドの法則と、『現代に合わせた物語の語りなおし』によるのだろう、と私は思う。
リトル・マーメイドを例にとれば、原作のアンデルセンの「人魚姫」のテーマの面影は、ディズニー映画には実はほとんど残っていない。
そこに残るのは、「主人公が人魚の王の末娘で、人間の王子に恋をする」といった物語の表面的なあらすじ部分の重なりだけであり、それはかすかな残響音として作品に響いているにすぎない。
アンデルセンの描いた「人魚姫」は、『魂を持たない人魚が魂を持つ人間に焦がれる物語』であり、ディズニーの描いた「リトル・マーメイド」は『一人の女性が種族や慣習を越えて一人の男性と結ばれる物語』である。
二つは、同じあらすじを進みながらも違う道筋をたどり、その障害や到達点、結末、メッセージ性も異なっている。
まず持って認識して貰わなくてはならないのは、『アンデルセンの人魚姫は、恋物語では終わらない』ということだ。アンデルセンの物語の主人公たる人魚姫の最終的な目的は『人間と同じ不死の魂を獲得すること』であって『王子の愛を獲得すること』ではない。
これはアニミズム信仰を持つ日本人には、実に、実に理解しがたいが、キリスト教の考え方では「人間以外の生物は魂を持たない」。そのため、「崇高なる人間様と同じように魂を持つための話」が、語るに足る物語になり得る。と言うと、少しばかり意地が悪すぎるだろうか。しかし、人魚姫は、そういう話である。
そして、この『人間と同等の魂を持つための条件』として提示されるのが、『人間を心底から愛し、また愛されること』(これには、人間に恋をした水の精を描いたフリードリヒ・ド・ラ・モット・フーケの『ウンディーネ』の影響があるらしい)。しかし、そうなった瞬間に、『王子の愛を獲得すること』は人魚姫の自己実現のための低俗な手段に成り下がってしまいはしないか。私はそういう意味で、アンデルセンの人魚姫を手放しで賞賛することができない。
※2011/03/24追記 ここの表現は正確には正しくない。人魚姫は恋する王子のことを知ろうとする中で、不死の魂についても知る。そうして、『王子の愛を獲得すること』と『不死の魂を獲得すること』が同軸的な目的として物語上に表出してくる。
これは、恋物語の笠を着た自己実現の物語である。『王子を愛すること』が『自己実現の手段』になった瞬間、どんなに健気な自己犠牲を人魚姫が行おうと、それは人魚姫の自己中心的な願望のために行われることである。いかに真摯に人魚姫が王子を想おうと、畢竟それは自分のため。いくら王子に心を向けたところで、それは真実の愛ではありえない。王子は人魚姫の思いに気づくことなく、隣国の王女の元に去っていく。
※2011/03/24追記 これは正直、過ぎた表現。私も頭に血が上っていた。ここまでアンデルセンの人魚姫を貶める必要はまったくない。彼女は心底、王子の為につくしただろう。しかし、最終的にそれが『不死の魂を獲得するため』に繋がることは否めない。そういう意味では、やはり王子が隣国の王女の元に去っていくのは順当だとは思う。
それに対して、アンデルセンは別の解答を用意している。人魚姫は『王子の愛を獲得すること』によってではなく、『空気の精として善行を積むこと』で魂を与えられると提示されて終わる。
自己中心的な願望で王子を求めても、その願望は達成されない。そうではなく、自身でコツコツと善行を積むことによって、人魚姫は不死の魂を得る。つまり自己実現を達成する。これは順当な終わり方だ、と自分は思う。自己実現のために他人を利用することを、私は決して良いことだとは思えない。
また、アンデルセンが本当に描きたかったのは、おそらくこちらのテーマだったのだろう、とも思う。しかし、人魚姫は前述のウンディーネへのアンチテーゼのためか、王子への恋がクローズアップされすぎている。「人魚姫が魂を得る手段はウンディーネよりも崇高なものにした」とは、アンデルセン自身の言葉だが、そこに私は一抹の光があると思う。
※2011/03/24追記 コメントレスから引用。
人魚姫は恋愛ものとしてよりも、生と死のドラマって感じがします。王子に愛されなければ、魂もなく完全消滅しまう人魚姫と、なんとかそれを阻止しようとする姉姫たち。自分の生の為に愛する人を殺せるか、という大命題。
優しい人魚姫は、どうしても王子を殺せない。例え王子が寝言で隣国の王女の名前を呟いても。王子を手にかけるくらいなら、自分が今この場で死んだ方がましだ、と。その心や思いに、偽りや利己主義は微塵もなかったと思います。
そして、だからこそ、人魚姫は空気の精として受け入れられる。不死の魂の可能性を与えられる。
空気の精になって天に登る前、花嫁にキスを贈る人魚姫は本当に心根の優しい子です。この時、王子には笑いかけるだけなんです。


繰り返すが、人魚姫は恋物語ではない。これは、魂を持たない人魚の自己実現の物語である。翻ってディズニーの「リトル・マーメイド」を眺めれば、これは完全に恋物語である。
ディズニーのリトル・マーメイドは、アンデルセンの人魚姫が自己実現のために利用しようとして失敗した『王子との恋物語』をやりなおしている、と受け取ることも可能だ。それは、主人公の人魚姫に与えられた名前がアリエルであることから推察できる。
アリエル、エアリエルというのは本来、空気の精の名前だからだ。なぜ、海に住む人魚姫に空気の精の名前が与えられたのか? 答えは明瞭だ。
空気の精になったアンデルセンの人魚姫は、長い時間をかけて善行を積み重ね、一人の男性に心を傾けるに足る魂を獲得した存在として、ディズニーのリトル・マーメイドに再び登場しているのだ。
ディズニー映画の描く人魚姫は、魂を得るという高い自己実現を目指す人魚の話ではない。そうではなく、違う種族である人間に恋をした少女の物語だ。そこに立ちはだかる障害は、海と陸という二人の住む世界の違いであり、父親の無理解である。
アリエルが人間になりたいと望むのは、それが愛する王子エリックと共にいるための手段だからだ。彼女が「あなたの世界の一部になりたい」と望むのは、エリックに少しでも近づきたいからであって、魂を得るという自己実現のためではない。
人魚姫では、『不死の魂を得ること』が目的で、『王子の愛を獲得すること』が、その手段であった。けれども、リトル・マーメイドでは、『王子の愛を獲得すること』が目的で、『人間になること』は、その手段である。この手段と目的の逆転は、二つの物語の最も大きな違いだと思う。
ディズニーでは、この物語の目的や手段の転換がしばしば行われる。他にわかりやすいのは『美女と野獣』だろう。
J・L・ド・ボーモン夫人の『美女と野獣』では、美女ベルは無教養な女性であり、教養ある野獣に触れていくうちに高い見識を身につける。それによって、彼女は隠されていた野獣の真実の姿、美しい王子としての彼を見つける。
逆にディズニーの『美女と野獣』では、ベルは高い見識を持つ美女であり、美しい王子は、その心の獣性のために姿まで野獣に変えられている。ベルはその獣性の奥にある優しい心を見抜き、野獣はベルに触れることによって高い見識を身につけていく。そうして、美しい王子の姿にふさわしい心を手に入れることで、本来の美しい姿をも取り戻す。
どちらがより深い愛の物語かは、ここでは論じない。どちらも等しく美しい人間模様を描いた話だと私は思う。
ボーモント夫人は野獣の姿を高い知性を覆い隠すものとして利用したが、ディズニーはそれを王子の心を映す鏡として使ったのである。こういう転換は、ディズニー映画をきちんと見ていれば、いくらでも探し出すことができる。けれども、その転換が物語のメタファーを剥奪しているかといえば、答えは否である。むしろ、この例ではディズニーの方が野獣の姿を純粋なメタファーとして使用している。
閑話休題。話をリトル・マーメイドに戻そう。
アリエルが人間になるという手段は、最初は悪意を持った魔女からもたらされる。それでも、アリエルはエリックの心を掴むが、悪意を持った手段は悪意の華を咲かせる。
真実、人間になるための条件に出されたキスは間に合わず、アリエルは人魚に戻り、海の王トリトンは魔女の支配下に下る。荒れ狂う海の中、アリエルたち人魚を助けるのは、人間の王子エリックである。
ハリウッド的な演出と言ってしまうのは容易い。しかし、エリックが魔女に立ち向かうのは、愛する女性のためであり、二人が種族を越えて心を通わせたことを、その勇気で持って証明してみせている。
それは、本来相容れない海と陸、二つの異なる世界の共存の可能性をも示唆してみせる。その示唆は、アリエルの父親の凝り固まった心にも、彼女の想いへの理解をもたらす。
アリエルが『王子の愛を獲得する』目的を達成したとき、『人間になる』という手段は父親からもたらされる。アリエルは無事に人間となりエリックと結ばれる。彼女は自分の恋を成就させ、父親と和解する。
リトル・マーメイドの描く人魚姫は、バイタリティの強い現代の少女・女性像である。親との確執は思春期の誰もが感じるものであり、住む世界の違う恋人同士というテーマはロミオとジュリエットを上げるまでもなく、恋物語の王道である。その意味で、ディズニーはリトル・マーメイドの現代化と、テーマの普遍化に成功している。『不死の魂の獲得』というアンデルセンのテーマは、確かに崇高なものである。しかし、キリスト教信徒ではない、アニミズム信仰の人間には、どうしても理解しがたいものがある。
それらを、陳腐化の一言ですませてしまうのは容易い。しかし、ロミオとジュリエットの死によって、モンタギュー家とキャピュレット家の確執を終わらせたシェイクスピアのように、愛し合う恋人同士によって海と陸を結びつけたディズニーの語りなおしは、決して否定されるだけのものではないはずである。
そもそも、ディズニー映画のテーマの多くは「夢と希望(そして、愛——ロマンス)」であり、そのメッセージは「信じ続ければ、夢は叶うもの」である。ヒーローが悪者を倒す話ではない。それを「薄っぺらな勧善懲悪もの」と評してしまう時点で、その人はディズニー映画を全く観ていないも同然なのである。


※今回、アンデルセンの人魚姫を随分と貶めるような形になったが、私はデンマーク語が全くわからないので、その音韻やリズム、言い回しなどの文学的表現の価値も全く理解しないで書いていることに留意して頂きたい。
ただ、アニミズム信仰を持つ者として人間以外に魂が宿らないという思想には、全くもって賛成できない。まして、魂を得る手段が人間との交流によって、などというのは、キリスト教圏でよくある人間の驕りだと思う。
そのキリスト教圏の価値体系を身に付けたアンデルセンが、あえて人間を介さないで人魚姫が魂を得るという結末を選んだことこそが、勇気ある斬新なこと、評価されるべきことなのかもしれない。それでも、『不死の魂を得るために王子を愛する』人魚姫に、どうしても浅ましさを感じてしまうのは、やはり私の性格が悪いからだろうか。
※2011/03/24追記 私の性格が悪いのと、頭に血が上っていたためと判明した。アンデルセンの人魚姫は決して浅ましくない。
だって、300年後に人間になったって、人魚姫の愛した王子はもう死んでるじゃない。それでも、『人間になって不死の魂を得る』のが救いになるってことは、人魚姫のそれは、我が身を焦がすような、『この人しかいない』という激しい恋の衝動ではなかったのだ。人魚姫は不死の魂に比べれば、王子のことなんて本当はどうでもよかった、ってことなのではないのだろうか。
※2011/03/24追記 この部分は完全に私の勘違い。人魚姫は300年後に人間に生まれ変わるのではなくて、300年後に神様の世界に迎え入れられる。キリスト教的には、天国いき+最後の審判の後も神の恩恵を受けられるということだろうか。いずれにしても、その部分をもってハッピーエンドとして物語が終わることから、人魚姫は『王子との非恋物語』ではなく、『魂の獲得を目指した人魚の話』としての主題の方が重要であることが判る。
2011/03/21
2011/03/24 追記、加筆修正
及び一部単語を手元の『完訳 アンデルセン童話集』 大畑 末吉訳 岩波文庫 のものに統一

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