恋の呪いは強力だ。恋をすると、相手の写真を見ただけで腹側被蓋野デグメンタが活動しだす。

腹側被蓋野は快楽中枢。恋の虜になったが最後、文字通り捕虜のように思考を制限される。ヘロインを吸入したかのような強い快楽によって、相手のことしか考えられなくなる。

それでいて、恋の呪いを仕掛けるのは至極簡単だ。

必要なのは、なるべく相手との接触時間を長くすること。二、三の個人的な依頼。それから、ちょっとした心拍数の上昇(できれば、不快でない状況が好ましい)。たったこれだけで事足りる。

あとは無意識の作用によって脳が勝手に作話する。

人間の脳とは思いのほか厄介な代物で、物事すべてに理由をつけなければ気がすまない。脳が勝手に理由をつけることを作話と言うが、脳がどのような作話をするかは意識的に選ぶことができない。そのくせ状況に大きく左右される。

つまり、状況を操ることさえできれば、脳に思いどおりの作話をさせることは拍子抜けするほど簡単だ。

恋の呪い

私はエアコンのリモコンで部屋の設定温度を二度上げた。別に寒かった訳ではない。ホテルの室温は常に快適な状態に保たれている。ましてや、ここはスイートルームの上、ワタリの手も入っている。室温を上げたのは快適さの問題ではなく、もうあと十分ほどもすれば夜神月が戻って来るからだ。

彼に渡したメモの依頼には、難しいことは何も書いてない。

ここから歩いて十分ほどの個人経営のケーキ屋とそこで取り扱っている六種類のケーキの名前がただ羅列してあるだけだ。律儀な彼は書いてあるとおりのケーキを携えて帰ってくることだろう。なぜ、自分がこんなことをしなければならないのか、などと考えながら。

彼の脳に引き起こそうとしている変化を思って、私は静かにほくそ笑んだ。

それから間もなく、カチャリとドアが開いて夜神が顔をのぞかせた。

「ほら、買って来たぞ」

「ありがとうございます」

ぶっきらぼうに白い箱を差し出す夜神から、笑顔でケーキの入った箱を受け取る。取っ手を掴むときに、指先で彼の手に触れる。夜神が気づかないほどの、ごくわずかな接触であることに意味がある。

ケーキの箱をテーブルに置いて、紅茶を淹れるためキッチンへと向かう。

「どうぞかけてください。お茶を淹れましょう」

私の言葉を受けて、夜神は上着を脱いでソファーに腰掛けた。初夏の終わりではあっても、夕方にはまだ時折冷たい風が吹く。

それでも、日差しは夏の暑さを内包し始めている。薄手とはいえコートを羽織って早足で歩けば(夜神は一人の時、まるで長いコンパスを誇示するかのように常に早足で歩く)、体温は上昇し発汗する。軽い運動は心拍数も上昇させる。さらに、その状態を保つよう室温は高めだ。

手元からふわりと紅茶の香りが広がる。ワタリ直伝のゴールデンルールで淹れた紅茶が、白い陶磁のカップの中で色鮮やかに揺れていた。

「竜崎? 茶葉から淹れてるのか」

移動してきて背後から手元を覗き込む夜神に肩ごしに返答する。

「はい。インスタントの紅茶なんて飲めたものではありませんから」

「とか言って、何か怪しいものでも混入してるんじゃないだろうな」

夜神が白い目を向けてくる。キラにしては面白みに欠ける発想だし、とても実行しようなどとは思えない。

「怪しいものってなんですか?」

「自白剤とか」

「馬鹿馬鹿しいですね。少々意識が混濁した程度でキラが自白するとは思えません。それに、日本警察の皆さんの反対が凄そうなので、やめておきます」

肩をすくめて見せれば、夜神は「まあ、そうかもね」と気のない返事をして紅茶の入ったカップをすでに皿とフォークの載った盆に載せていく。流れるような無駄のない美しい動作に見惚れてしまう。

「ベリタセラムのように効能が確実なら試してみたいものですが。まあ、どちらかと言うと今の私は、ベリタセラムよりもアモルテンシアの方が欲しいですね」

「ベリタセラム……?」

聞いたことなどないのだろう、盆を持った夜神は私の挙げた薬品名に首をかしげた。ぱちぱちと、まばたきするのに笑みが込み上げくる。

さすがに彼の知識も児童文学までは網羅していないらしい。あの夜神に知らないものがあることが妙におかしい。

忍び笑う私を夜神が眉根を寄せてねめつける。

「……なんだよ」

「いえ、気にしないでください」

左腕でリビングルームを指し示せば、なおも訝しげな顔をしながらも夜神は大人しくソファーセットへと足を進めた。

夜神が買って来た白い箱の中から指先でケーキを取り出す。その内の一つを夜神の前に置いた。

「竜崎、悪いけど僕は甘いものは……」

「あなたの分です」

断りの言葉を途中で遮った。そんなことは、お前が喫茶店でコーヒーを砂糖もミルクも入れずに飲んだのを見たときから知っている。

「あなたの分です」

「……わかったよ」

仕方なさそうに肩をすくめて夜神は銀のフォークを手に取った。繊細な手つきで切り取られた一かけが夜神の口の中に消えるのを見届けてから、私は自分のケーキに取りかかった。

「月くんは、」

ケーキを二つ平らげて、とりあえず満足した私は口を開いた。夜神はペースは遅いけれど、目の前のケーキを三分の一ほど食べている。当然だ。彼のケーキは甘くない。私の嫌いなやつ。

ケーク・サレという、フランスの惣菜ケーキ。名こそケーク、つまりケーキとついているが、サレは塩の意味。中身はハムやチーズや香草だ。

「ずいぶん沢山お付き合いしてる女性がいるんですね」

ケーキに差し込まれた夜神のフォークがほんのわずか止まり、すぐにまた何事もなかったかのように淀みなく動き出した。動揺しているのは明らかだった。

このまま狡猾で手段を選ばないキラが、どうやって優等生であるべき夜神月の倫理観に合わせて回答するのかを待つのも興味深いが、残念ながらそれは今日の目的ではない。ここは答えに詰まる夜神の為にも、こちらの情報を提示してやろう。

「清美さんにシホさんですか。羨ましいです」

もちろん、部分的に。

弥の名前が出なかったことに夜神はホッと息を吐き出した。細く長く、常人なら決して気づかないだろう小さな吐息。けれど、その消え入りそうな小さな呼吸が、かえって私の注意を引く。例え関係のない男相手とは言え、二股が発覚して胸をなで下ろす男はいまい。

「ときめきます」

夜神の眉の端がピクリと動いた。

「どういう意味だ」

怒気を含んだ彼の声に、ああ、とばかりにわずかに眉を上げ(むろん、わざとだ)私は言い直した。

「彼女たちと一緒にいて、ときめきますか?」

問い直されて、夜神は安心したように息を吐いた。

「何が言いたいんだ?」

「純粋に個人的な好奇心からの質問です」

「好奇心、ね……」

呟いた夜神の目に剣呑な光が宿る。

「私は夜神くんのようにはモテませんから」

夜神は腕を組んでソファーの背もたれに身体を預けた。

「単純な性選択の理論で言ったら、お前だってモテないわけはないと思うけどな」

「そうかもしれません。が、私は人前には出ないので、まったく意味のない議論ですね」

ぱくりと、目の前のタルト・シブーストを一かけ口に入れる。

「で、どうなんですか?」

改めて問いただすと、夜神は降参とでも言うように小さく両手をかかげてみせた。

「お察しのとおり、とくにときめかないよ。彼女たちがどうしてもって言うから、断りきれなくてね」

断りきれなくて、か。相手の心情を慮る優等生としては悪くない回答だ。

「そうですか。それを聞いて安心しました。私にも、まだチャンスはあるようですね」

「チャンス? どういうことだ」

夜神は怪訝そうに眉をひそめた。私はテーブルに手をついて、夜神の方にグッと身を乗り出す。

「こういうことですよ」

殊更にリップ音をたてて夜神の頬にキスをみまって、くすりと笑う。いたずらっぽく見えているといいのだが。

夜神の米神がピクリと動いた。あ、怒っているかもしれない。

「竜崎、なんのつもりだ」

「それは秘密です」

それはお前に考えてもらわなくては意味がない。考えろ。そして気づくがいい。自分の身体の状態に。

火照る頬、高鳴る鼓動、頬に残る口唇の感触。直前にされた恋愛の話題、今日ここに呼ばれたわけ、目の前に用意された自分の為のケーキと紅茶。

さて、彼の無意識は一体どんな作話をするだろうか。

結果が楽しみで仕方がなく、私は自然と笑みをもらした。

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