ハリーはグリフィンドール塔の寝室で寝返りを打った。ハリーたちの乱入はあったが学校は通常運営なので、何をするにも皆まだ授業中だった。昼食の時にアティーネに話を聞こうと思っていたのに、それは野次馬に囲まれて叶わなかった。仮にアティーネと会話できていたとしても、昨日聞いたこと以上のことは彼女も知らないかもしれなかった。

 深緑と銀に替えられた天蓋付きベッド横の机には、必要の部屋でマルフォイが作った花束が花瓶に入れられていた。放課後にビアトリスに渡しに行くらしい。マルフォイが一体どこをほっつき歩いているのか、ハリーには検討もつかなかった。どうせ同じ部屋にいたって息が詰まるし、喧嘩するだけなのだから、それでいいのだが。

 ハリーは枕に顔をうずめて唇をとがらせた。グリフィンドールとスリザリンを仲直りさせろと言われたって、正直どうしたら良いのか、さっぱり思い浮かばない。だいたい、ぽっとでの他人に親友との仲直りなんて大切なことを頼んではいけないと思う。

 二年前にロンと大喧嘩した時にはどうやって仲直りしたんだっけ? 確かあの時は僕がドラゴンに殺されかけて、それでロンが、『こんな危険なことをきみが自ら望むはずない』ってわかってくれて……。いっそ、スリザリンにドラゴンでもけしかけようか。

「純血主義かぁ」

 どんな説明をすれば、スリザリンを説得できるのだろう。マグル生まれにだって、ハーマイオニーみたいに優秀な魔女はいるのに。あれ? でも、ビアトリスはマグル生まれだけどスリザリン寮生なのか。ってことは、この方面からの説得は無理かもしれない。

 そもそも、どうしてマグル生まれがそんなに忌避されるのだろうか。意思疎通が困難なわけでも、能力が劣るわけでもないのに。

「スクイブ、か……」

 呟いてハリーは目をつぶった。瞼の裏でハーマイオニーがS.P.E.W.のように、スクイブの地位向上を声高に叫び、ロンがハリーに向かって『うぇ』と舌を出すのが見えるようだった。

 寝室のドアが開く音で、ハリーは目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたようだった。衣擦れの音とともに花の甘い香りが漂ってくる。

 ハリーが上半身を起こすとマルフォイが花瓶から花束を取り上げるところだった。視線に気づいたのか、マルフォイが振り返った。目があったところで、お互い話すことなど持ち合わせていない。仕方ないので目についたもので話題を振る。

「渡しに行くのか?」

 ハリーはマルフォイの手の中にある花束を指さした。

「ああ」

 よく見れば、太陽はすでにだいぶ高度を下げていた。窓から見える空の端がわずかに金色に色づいている。六年生といえども、もう授業が終わる時間だ。

「それ、僕も行っていい?」

 不意に思い立ってハリーが重ねて訊いた。スリザリンとグリフィンドールのケンカについてアティーネが言った通りだったとしたら、その原因や仲直りの鍵はビアトリスが握っているのかもしれない。

 マルフォイはこれみよがしに眉をひそめた。肩をこわばらせ、表情だけでなく全身で『怪しい』と警戒していることを示している。

「アティーネに聞いたんだ。ビアトリスはスリザリンとグリフィンドールの喧嘩を目撃したんじゃないかって」

 僕も早く元のホグワーツに帰りたいしね、と付け足せば、マルフォイは納得したようで無言で頷いて扉へと向かった。慌てて飛び起きて後を追う。歩きながらハリーは手櫛で何度か髪を梳いて、少しでも寝癖を押さえつけようと無駄な努力を重ねた。

 

 放課後の人通りの多い階段を下へと降りていく。ハリーたちが二階から一階へと降りている時に階段が移動を始めた。仕方ないので、手すりを握って階段が廊下へ接続するのを待つ。ハリーの顔よりも下にマルフォイの頭が見えた。プラチナブロンドのつむじを見下ろしながら問う。

「教えてくれると思う? 理由」

 マルフォイがうろんげな表情で振り返った。物言いたげな視線だと思ったが、肝心の何を言いたいのかは全然わからなかった。

 石同士がぶつかる重い音を立てて、階段が廊下と繋がった。さっさと先へ進んでいくマルフォイをハリーが早足で追いかける。ちょうど真横に並んだとき、マルフォイが口を開いた。

「彼女は、どうも喧嘩の原因は自分だと思っているらしい」

「はいぃ?」

 ひっくり返った声を出したせいでマルフォイに睨まれた。しかし、ハリーは驚きで目を瞬かせるのに忙しくて、それどころではなかった。喧嘩の原因がビアトリスって……、生徒を挟んで恋の三角関係でも演じていたのだろうか。

「昨日、談話室を出た後に彼女をなだめながら事情を訊いたら『心の準備をしたいから、可能なら明日話す』と」

 ハリーは内心冷や汗をかきつつ、曖昧な返事をした。もしも、恋愛が原因だったら、どうしよう。ロンとハーマイオニー(とラベンダー)のいざこざを間近で見ていた身としては、恋愛関係のこじれ以上に他人がとやかく言って解決に向かうことがありえない問題は思いつかなかった。

 ハリーの心配に気づきもせずにマルフォイは足早にビアトリスの元へ向かった。たどり着いたのはスリザリンの談話室ではなく、人気のない小さな中庭だった。空にたなびく雲を沈む夕日が、甘い夢のようなローズ・ピンクに染めていた。

 周りを高い城の壁に囲まれた中庭では、こんもりとしたポプラの枝がまだ薄い新しい葉を広げ、心地良い木陰を作っている。その下に寄り添うように置かれた木製のベンチにビアトリスは一人で座っていた。彼女はまばたきもせずにじっと一点だけを見つめていて緊張している様子だった。

「ハイ、ビアトリス」

 マルフォイが花束を差し出す。ビアトリスは少し目を見開き、次いでほっとしたように微笑んだ。

「ありがとう」

 両手で花束を受け取ってビアトリスは花の香りを胸いっぱいに吸い込む。深呼吸の効果か、だいぶ緊張がほぐれたようだ。少し顔色が良くなったように見えた。

「あの……?」

 戸惑いの視線を向けられてハリーは苦笑いした。そういえば、昨日はまともな自己紹介をしていない。

「僕はハリー・ポッター。よかったらマルフォイ……」

 ハリーはビアトリスもマルフォイ姓であることを思い出して言い直した。

「ドラコと一緒に話を聞かせてくれないかな」

 ビアトリスは頷いたが、その顔はさっきよりも蒼白だった。マルフォイがビアトリスの右手を両手で包んだ。

「無理にとは言わない」

 ビアトリスは首を横に振った。

「昨日から、何から話すべきなのかずっと考えていたわ」

 手渡された花束をベンチに置いて、ビアトリスは語りはじめた。

「この間のイースター休暇に、アルと一緒にリザベリルに行ったの」

 ハリーが目線だけで「どこ?」と尋ねると、心あたりがないのかマルフォイも首を傾げた。ビアトリスが唇だけで笑って付け足した。

「ここから南東にある小さなマグルの村よ。アルの恋人が、そこに住んでるの。私、彼女に会わせてもらう予定だった」

 ビアトリスは急に喉に何かが詰まったかのように、苦しげな息を吐いた。細い指で喉元を抑える。その指がかすかに震えていることにハリーは気がついた。

「会えなかったのか?」

 マルフォイの言葉にビアトリスはビクリと肩を跳ねさせ、視線をさまよわせた。ハリーはちょうどこんなふうな様子の女の子を見たことがある。秘密の部屋について話そうとした時のジニーだ。自分にとって不都合な何かを言うべきかどうか迷っているんだ。

「……し、死んでいたの!」

「えっ?」

 ハリーは思わずマルフォイと顔を見合わせた。マグル相手の恋愛ならそういうこともあるのかもしれない。魔法族の寿命は魔力に依存する。ダンブルドアはあれで百五十歳を超えているし、グリフィンドールだってあの外見で四十歳をとうに超えているのだろうから、いくつまで生きるのかわかったもんじゃない。若い頃にできた年上の恋人なら、マグルの相手はよれよれのお婆さんでもおかしくない。

「それは、ご愁傷さま……」

 ハリーは他になんて言っていいのかわからなかった。ビアトリスが涙を浮かべて首を振った。

「ち、違うの……! 彼女、彼女、殺されたんだわ!」

 ビアトリスは白い両手に顔をうずめて泣きだした。痩せてとがった肩が震えていた。

「リザベリルの端にアルと一緒に姿現しした時、とても嫌な匂いがした。ツンと鼻を突く何かが焦げる匂いよ。村の中央辺りから煙が上がっていた。火事でもあったのかと思って、急いで二人で走っていったの。私は頭の中でアグアメンティの呪文の復習をしたわ。それで、見たの!」

 ビアトリスは畳み掛けるように話しだした。嫌なことは早く全て吐き出してしまって、楽になりたいと思っているようだった。ハリーは首の後ろがぞわぞわするのを感じた。ビアトリスが勢い良く顔を上げ、泣いて充血した目で天を睨んで金切り声を上げた。

「焼けていたのは家じゃなかった! 村の中央広場に薪が積み上げられて、真っ赤な炎を吹き上げなから燃えていた! 薪の中央には太い柱が一本立っていて、そこに!」

 ビアトリスは息を詰まらせた。まるで見えない誰かに腹を殴られたかのように。彼女はもう、それ以上は言葉にできないようだった。

 ハリーにはさっきまで明るく安心できる場所だった中庭が、いつの間にか暗くて薄気味の悪い空間になったように感じられた。太陽はすでに完全に山の彼方へ沈んでいる。

「広場には村の人たちがみんな集まっていた。ただ黙って彼女が焼けていくのを眺めていた。アルはその中の一人に杖を突きつけてこう言ったわ。『デイビット、きみは彼女に山で折った足を治してもらっただろう? どうして!』男は何も答えずに目をそらした。赤ちゃんを抱えた若い母親がいたわ。『ベス、きみはリズが熱を出したとき、ナタリーから咳止めを受け取ったはずだ!』母親は赤ちゃんを強く抱き締めてあとじさった。『エリク、彼女のおかげで夜にぐっすり眠れるようになっただろう?』アルは一人一人、全員に声をかけていったけど、みんな黙って視線を逸らすだけだった」

 ハリーの脳裏に血走った目で髪を振り乱す男の姿がありありと浮かび上がった。彼をあざ笑うかのように空は抜けるようなミントブルーで、春先のまだ冷たい気温に不似合いな焦げた熱い風が混じっている。男は唇を真一文字に結んで、怒りに燃える目で世界を睨みつけている。その隣で、ビアトリスが口元に手を当てて、小さく首を振りながらあとずさった。

「そのうちに誰かが言い出したの。『こんなに確実に病気や怪我を治せるのはおかしい。彼女は悪魔と契約していたに違いない』って。そんなわけあるはずがないのに! 一人、また一人と、つられるように声を上げて、そのうち村全体がごうごうと唸り声を上げてるみたいになった。私たちは、とてもじゃないけど、もうそれ以上リザベリルに留まってはいられなかった!」

 ハリーは嫌な想像を首を振って追い出した。そして、なけなしの知識で悪夢のような光景を否定しようとあがいた。

「でも、魔法族に火刑や水もぐりは意味がないって、変人ウェンデリンは好き好んで五十回近く自ら火刑を受けに行ったって教科書で……」

 ビアトリスが首を振った拍子に、彼女の灰色の目からぽろぽろと涙がこぼれた。

「ス、ス、スクイブなの!」

 言ってしまってから、彼女は肩を揺らして警戒して周囲を見回した。彼女の正面に跪いていたマルフォイが安心させるように、彼女の両手を握った。

「わ、わたし、怖かった! スクイブは魔法界でもマグル界でも受け入れられないって聞いたの。私の領地でもスクイブの子が一人死んだのを知っているわ。魔女である母親に虐げられていた。でも、村の人は誰も彼を助けなかった。私も、あんな親になってしまうんじゃないかと思うと……! それで、アルに相談したら、恋人がスクイブで、彼女は『村の魔女』として受け入れられているって、それで一緒に……」

「『村の魔女』?」

 ハリーが首を傾げると、ビアトリスは小さく首を縦に何度も振った。時折しゃくり上げながらも、懸命に説明する。

「む、村の、相談役のことよ。マグルの村なら、どんなに小さくても、か、必ず一人は『村の魔女』がいるものなの。もちろん、本物の魔女や魔法使いがその役を務めることもあるわ。だ、だけど、本物の場合はむしろ少なくて、大抵はマグルなの。そ、それか、スクイブよ。スクイブなら、マグルには見えない魔法生物の姿が見えるし、対処法も知ってる。薬草学や占いの心得がある人も多いわ。彼女は、薬草学が得意で、そ、それで、村のみんなにも尊敬されてるって、アルは、う、嬉しそうに、説明してくれて、そ、それなのに、あんな……!」

 ビアトリスはしゃくりあげて、両手に顔をうずめた。マルフォイが彼女の背をさすって、「もういい、もういいから」と声をかけている。ハリーは頭が真っ白になって、その場に立ち尽くしていた。

 純血主義者のスリザリンとスクイブの恋人。それはとても奇妙な組み合わせに思えた。でも、それがスリザリンが純血主義者になる前だったら? あるいは、スクイブの恋人がスリザリンの純血主義への転向のきっかけだったとしたら?

「わたし、もうこんな思いはしたくない! マグルの中で一生変な目で見られるんでも、自分の子供があんな目に合うより何倍もマシだわ。だって、私は魔女だから、たとえ杖を持っていなくても、なにも学んでいなくっても、火刑にされそうになったら逃げられる……。それで、アルもその方がいいのかもしれないって。スクイブは混血の結果生まれるものだから、純血同士の婚姻を続けていけば、彼女みたいな不幸な娘は生まれなくなるに違いないって!」

 一四世紀、徐々に広まりだした魔女狩り。教科書に書いてあることが本当なら、その犠牲者はほとんどがマグルだったことになる。その中に、スクイブは一体どれくらい含まれていたのだろうか。あるいは、魔法族に対して機密保持法が施行されたのはマグル保護のためではなく、マグルからのスクイブ保護のためだった可能性は?

「私達が話しているのを、リックが偶々聞いていたのよ。それでアルと喧嘩になったんだわ。でも、リックは……、リックはアルの恋人がスクイブだったがために殺されてしまったってことを知らないのよ!」

 言葉にできることは全て出し切ったのだろう。ビアトリスは顔を覆ったまま、わっと泣きだした。しゃくりあげながら、ときおり弱々しく「私のせいよ」と呟いている。マルフォイは彼女を慰めるのに忙しく、ハリーは黙って突っ立っていた。

 スリザリンとグリフィンドールをどうやって仲直りさせればいいのかは、相変わらず全然わからなかった。でも、スリザリンが純血主義に傾いた気持ちは、少しだけわかったような気がした。

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