重苦しいため息をついて、ハリーは夕食の皿に載ったキドニーパイをフォークで刺した。フォークを突き立てられたパイ生地がボロボロと黄金の皿にこぼれ落ちる。

「失礼ですけれど、今は食事中なんですがね。僕は夕食を気持ちよく取ることさえ許されないのか?」

 マルフォイがハリーの皿を不快そうに眺めやって文句をつけた。好物のはずのキドニーパイは何度もフォークに刺されたせいで見る影もなく崩れている。ハリーは目を細めて正面に座るマルフォイを睨み、次いでスリザリンテーブルに座るアティーネとビアトリスに視線を移した。

 ビアトリスはだいぶん落着いだようで、アティーネに話しかけられるのに頷きながら、ときおりフォークを口元に運んでいる。アティーネはビアトリスの皿に料理を取ってやり、しきりに話しかけながら手を握ったり、肩をさすったりしている。視線を感じたアティーネがこちらを睨んできた。ハリーは苦笑いして、顔の横でちょっと手を振った。案の定、アティーネにはツンケンした態度で顔を逸らされてしまう。

 三人が夕食のために大広間に入った時、アティーネは少し遅れてやってきた親友が泣き腫らした目をしているのに気づくとすっ飛んできた。横にいる男どもを睨みつけながら、ビアトリスの手を包み込む。アティーネは優しくビアトリスをうながしてスリザリンのテーブルに着かせ、自分はその隣に座った。それから、時たまハリーたちを睨みつけながら、ずっと世話を焼いている。

 アティーネがスリザリンテーブルに着いたせいで(そして敵意を持って二人を睨みつけるせいで)、ハリーは爪弾きにされたマルフォイと一緒に食事を摂るはめになった。

 ぐしゃぐしゃになったキドニーパイに視線を落としてため息をつく。マルフォイが眉根を寄せたのが気配でわかった。

「そんな原型を留めていない姿にしたのは君だろう。ため息ばかりついてないで、さっさと食べればよかったんだ。嫌いなら最初から皿に取らなければいいだけの話だ」

 取り澄ました声で言われたハリーはムッとして灰色の目を睨んだ。そんなのは、わかりきっている。子供じゃないんだから。

「きみ、まさか、僕がため息をついているのは、キドニーパイのせいだと思ってるの?」

「違うのか?」とでも言いたげに片眉をあげられて、ハリーは脱力した。肺どころか、全身から空気が抜けていく。

「僕らがここに来た原因はわかった。帰る方法もわかっている。スリザリンとグリフィンドールの喧嘩の理由もわかった。幸先は順調だ。何をため息をつくことがある?」

 ハリーはジトリとマルフォイを下から睨み上げた。どうやら現状をよぉくおわかりになっていらっしゃるようで。

「じゃあ訊くけど、一番重要なスリザリンとグリフィンドールをどうやって仲直りさせるかについても、幸先は順調なのか? どうやって仲直りさせるか、もう考えがあるの?」

 笑顔を作りながら、ハリーは自分のこめかみが痙攣しているのを感じた。マルフォイは一度ハリーを睨みつけたが、すぐに視線をレタスと玉ねぎのサラダに戻して、何食わぬ顔で食事を続けた。

「グリフィンドール側にはまだ事情を聞いていないけれど、うまくいくだろ」

 根拠のない自信に満ちたマルフォイの応えに、ハリーは目を瞬いた。

「きみ、今期の作戦は失敗続きなのに、よくそんな楽観的でいられるね」

 普通、何度も失敗したらどんな人間でも弱気になるものじゃないか? それに、マルフォイはどう考えても精神が強い人間の部類には入らない。

 この半年、散々後をつけまわって、忍びの地図で行動を監視して、それでも未だマルフォイが何を企んでいるのかはわからなかった。しかし、何かを企んでいる事はわかっている。そして、それがうまくいっていないことも。

 ハリーの言葉に、マルフォイは喉を詰まらせて席のひとつ開いている教職員テーブルに目を走らせた。慌ててアイスティーでサラダを胃に流し込みながら、星空の浮かぶ天井を見上げて、無数に浮かぶロウソクを数えるかのように視線を泳がせる。やがて一つため息をつくと、ハリーに一瞬目をやり、横を向いて目線を逸らした。

「今回のは奸計じゃないからな」

 口の中で呟かれた言葉は人に聞かせるためのものではなかったようで、ハリーは意図を汲み取りかねた。表情から何か読み取れないかと注意深く観察する。

「何を見ている?」

 訝しげなハリーの視線に気づいたマルフォイがツンと細いあごを逸らした。いつもの人を小馬鹿にした笑いを浮かべている。

 ハリーはため息をついた。マルフォイの態度があまりにも普段通りだったため、問いただしてはいけない気になった。仕方がないので、ハリーは大人しく食べる気のしないキドニーパイを突き回す作業に戻った。

 

 やっと夕食を終え(ハリーがいつまで経っても食べ終わらないので、二人が席を立ったのは一番最後だった)、すっかり人気のなくなった玄関ホールに出た。四面の壁に飾られている肖像画たちが声を落としてささやき合うのが密やかに響く。物寂しさを覚える静寂を男の怒号が切り裂いた。ハリーは、一目散に声のした地下牢へと駈け出した。

 ロウソクの少ない薄暗がりへ降りていく。石造りの地下は春だというのに肌寒い。かすかなカビと薬草の香りが入り混じった地下牢独特の匂いが鼻孔をかすめた。男の声が段々と大きくなってくる。

 階段を降りて廊下に走り出る。いた。廊下の突き当り。赤毛の男がドアを拳で叩いている。ハリーなら絶対にあんな命知らずなことはやりたくないと思う部屋。普段ならスネイプが使っている、薬学教授の研究室だ。

「いい加減にしろ! こっから出てきて、話し合いに応じろ!」

 力任せにドアを叩いていたリックが杖を振り上げたので、ハリーは反射的に廊下の柱に身を隠した。後ろをついてきたマルフォイが怪訝そうな顔をするのを「いいから」と引っ張りこんで、柱の裏から様子を盗み見る。

 構えられた杖が呪文を放つ前に、勢い良く扉が開いた。額縁みたいなドアフレームの中に怒れる魔法使いの見本のような男がいた。銀に近いシルバーブロンドは逆立ち、柳眉は釣り上げられ、暗い緑の目はバジリスクと同じように見たものの命を奪い取りそうな迫力だった。構えた杖先からは彼の怒りが毒々しい緑色の光となって漏れ出している。

「リック……」

 地獄の底から立ち上ってくるような声に、ハリーの産毛が逆立った。隣でマルフォイが恐怖のあまり息を呑んだのがわかった。

「やっと出てきたか。ったく、一週間も手間かけさせやがって」

 相手の怒りなど露とも気にせず、リックは気軽な様子で肩をすくめた。

「さあ、聞かせてもらおうか。なぜ突然、『生徒は純血のみに限るべき』なんて言い出したのか」

 明け透けなリックの物言いに、ハリーは息を詰めた。スリザリンの目の中を赤い光がよぎる。

「ハーフの子だって、優秀さでは優劣などないし、それはマグル生まれでも同じだ。何より、俺たち四人が学校を興したのは『すべての魔法族が己の魔力を制御できるように』だったはずだ」

 リックは「四人が」の部分をことさらに強調した。地下牢の空気が妙に重たい。まるでそれ自体が重さを持っているかのように、四方八方からのしかかってくる。深い海の底にいるみたいだ。呼吸が、しづらい。

「その為には、むしろ純血やハーフよりもマグル生まれにこそホグワーツは必要とされるべきだ。お前の寮にだって、ハーフもマグル生まれも大勢いる。その子たちはどうする? 追い出せるのか? お前が?」

 リックのそれは、絶対に無理だと思っている態度だった。空気を伝って、ピリピリとした怒りのエネルギーが伝わってくる。柱の影に立つ自分ですら背中を嫌な汗が落ちていくのに、どうしてグリフィンドールは平気な顔をして立っていられるのか、ハリーは不思議だった。

「理由、など……」

 スリザリンが食い縛った歯の間から唸る。

「あれほど残酷で、あんなに無情な生き物など、他にいない。相容れないのだ、我々とは。根本の造りが異なっている。奴らは、悪魔だ」

 その声を聞いて、ハリーはゾッとした。体の中に声が染みこんでいく。その怒りが、その恨みが、皮膚の下へと入り込み、うごめく。思わず服の上から腕を擦った。何も入り込んではいないことを確かめずにはいられなかった。

「悪魔、か。だけど、お前、それ、自寮の生徒に向かって言えるのか? そう、たとえばビアトリス・マルフォイに向かって。『この悪魔!』って」

 ビアトリスの泣き腫らした顔がよぎった。言えるわけがない。あんなに傷ついていた彼女相手に、そんな心ない言葉は。それはスリザリンも同じだったらしい。彼が一瞬怯んだのをハリーは感じた。周囲の空気はもはや、彼の怒りを伝えてこない。

「この城からマグル生まれを追い出すのなら、それくらいの覚悟はしなきゃな。それに、俺はまだ理由を聞いていないぞ」

「なんだと?」

「お前が突然心変わりした理由はなんだ? 何があった」

 沈黙が、世界を支配する。

「リザベ……」言いかけて、スリザリンは口をつぐんだ。「いいや、お前に言ってもわかるまい」

 スリザリンが背を向けると、手を触れられていない扉が閉まった。まるで、彼の心が閉じていくのを表すかのように。

「おい、アル! 話しはまだ終わってねぇぞ! おい!」

 元のようにリックが部屋の扉を叩く。返事どころか、物音一つ返らない。

「くそっ!」

 拳で扉を殴りつけると、リックはそのままずるずると膝から崩れ落ちた。扉に取りすがって、それは泣いているように見えた。立ち尽くすハリーの袖をマルフォイが引っ張った。振り向いたハリーにマルフォイは首を振る。

 ハリーとマルフォイは二人をそこに残して、地下牢を後にした。

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