こちらに来てから三日目の朝、ハリーはアティーネに叩き起こされて夢から覚めた。
「起きて! 起きてちょうだい!」
肩を激しく揺さぶられながら、ハリーは目を開けた。ぼやけた視界の中にハーマイオニーによく似た栗色の髪が滲んでいる。ハリーは慌ててサイドテーブルに手を伸ばして、眼鏡をかけた。はっきりとした輪郭をとったアティーネは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「どうしたの?」
アティーネは大きく息を吸って震えた。限界まで盛り上がった涙が、次の瞬間には音もなくこぼれ落ちていく。
「リシーが……、ビアトリスがいないの!」
アティーネがしゃくりあげた。マルフォイが慰めるようにアティーネの背中に手を当てた。起き抜けなのだろう、マルフォイはナイトシャツを着たままだった。
「今朝は、一緒に薬草を取りに行く約束をしていたの! なのに、待ち合わせの時間になっても来なくて、リシーは時間に遅れたことなんてないの。はじめはまだ寝てるのかと思って、寝室まで様子を見に行ったわ。でも、ベッドはもぬけの殻で。あたし、急に心配になった! 薬草の自生してる湖の畔にも行ってみたけどいなくて! 城中探したけど、見つからないの。もう、どこにいるのか検討もつかない。そしたら、聞いたの。ヘラとウェニーがリックが見当たらないって話してた。わたし、もしかしたらって思った。もしかして、リシーはリックと一緒にいるんじゃないかって!」
アティーネはほとんど一息でまくし立てると、ベッドの上に顔を伏せて肩を震わせた。
「お願い、リシーを探してちょうだい!」
泣き伏せるアティーネを間に、ハリーはマルフォイと目配せした。探してくれと言われたって、つい三日前に会ったばかりだし、どこにいるのか心当たりさえない。アティーネが探し出せなかったものを、見つけられるとは思わなかった。
「アティーネ、めぼしい場所はもう全部探したんだろう?」
マルフォイがなるべく彼女を刺激しないように柔らかく言った。アティーネは顔を伏せたまま頷いた。
「悪いけど、僕には彼女がどこにいるのか思い当たる場所さえないんだ……」
アティーネがひときわ大きくしゃくりあげて鼻をすすった。マルフォイの言うことに小さく首を振って同意していたハリーは、しかし、何か引っかかるような気がした。
「頼ってくれるのは光栄だけど、僕では力になれそうにない」
マルフォイに肩をさすられながら、アティーネは腕から顔を覗かせた。涙に濡れた茶色の目が、ハリーの輝く緑の目を捉える。
「でも、あなた達はリシーから聞いたんでしょう? リックとアルの喧嘩の理由を」
ハリーの中で、パチッとパズルのピースがはまる音がした。
「アティーネ、リザベリルって知ってる?」
突然の質問に、アティーネは面食らったようだった。その向こうでマルフォイまでが、わけがわからない、と目を瞬かせている。
「い、いいえ」
「アティーネは地理には自信ある?」
「あるわ。もちろんよ」
アティーネは少し不審げに眉根を寄せた。しかし、その表情は不安と期待が入り混じっている。ハリーが何を考えているのかわからない。けれど、ビアトリスを見つけてくれるかもしれない。
「つまり、リザベリルはホグズミードと違って魔法族に知れ渡っている場所じゃないんだ」
頭の中を整理しようと、ハリーは声に出して呟いた。
「ポッター、何を考えている?」
「もしかしたら、だけど。つまり——」ハリーは訝しげな二人を見ながら説明した。「グリフィンドールはスリザリンの口を割らせるのにかなり苦労した様子だった。それでも、きちんとした変心の理由は聞き出せていない。グリフィンドールはスリザリンから事情を聞くのをあきらめて、ビアトリスに聞きに行ったんじゃないかな。彼はスリザリンとビアトリスがホグワーツには純血以外を入れないほうがいいと話しているのを聞いていたからね。それで、ビアトリスがグリフィンドールをリザベリルに連れて行った。それか、グリフィンドールは変心の原因がリザベリルにあると睨んだけれど、行ったことがないから姿現しできない。ビアトリスがそこを訪れたことがあるのを知っていたグリフィンドールが、彼女にリザベリルへ連れて行くよう頼んだ」
どうだろう、とハリーは視線だけで問いかけた。マルフォイはあごに手を当ててしばらく床を睨んでいたが、目線を上げて言った。
「悪くない。可能性はあると思う」
アティーネの顔の上に希望の光が差し込んだ。
「探しに行きましょう!」
「でも、問題が一つだけ」
ハリーは喜ぶアティーネに申し訳なく思いながら、人差し指を立てた。ハリーはアティーネの顔がみるみる暗くなるところを想像して胃が重くなるのを感じた。
「僕たちの中の誰も、リザベリルには行ったことがない」
ところが、アティーネの顔は暗くなるどころか、強い意思に輝きを増したように見えた。
「あら、そんなの問題じゃないわ。だって、そのリザベリルって所にはリシーと一緒にアルが行っているんでしょう? アルはホグワーツにいるんだから、彼に連れて行ってもらえばいいのよ」
言い切ってこともなげに肩をすくめるアティーネは、すっかり元気になっていつもの調子を取り戻していた。
「それじゃ、私は談話室で待ってるから。二人とも早くその寝間着を着替えて降りていらっしゃいね」
弟に言いつけるような口調で命令すると、アティーネは返事も聞かずにさっさと部屋を出ていってしまった。軽い音とともに閉じられたドアをぽかんと口を開けて凝視する。
そのままの顔でハリーはマルフォイと目を見交わした。腹の底からじわじわとおかしさがこみ上げてくる。こらえきれなくなった二人は同じタイミングで笑い出した。
談話室で仁王立ちして待っていたアティーネを加えて、三人で地下牢へ向かった。昨夜の怒り狂ったスリザリンを思い出して、ハリーの気は重かった。アティーネはそんなのどこ吹く風で、大股で歩いて二人を先導した。
地下牢廊下の突き当りにある扉は、黒々として重々しく、頑として何人も寄せ付けまいと三人の前に立ちはだかった。ノックするのも気が引ける。アティーネでさえ、この扉の前では及び腰になった。
「ちょっと、どっちでもいいからノックしなさいよ。男でしょ」
アティーネが二人の背中に隠れて肩を押す。ハリーとマルフォイは反動を利用して外側からアティーネの後ろに回った。アティーネがよろめきながら先頭に出てくる。
「きみが、アルに連れて行ってもらえばいいって言ったんじゃないか」
マルフォイがアティーネに耳打ちすれば、反対側からハリーがささやきかける。
「大丈夫、いくらなんでも女の子には優しいって」
「お、押さないでよ……!」
三人して背の高い扉を見上げる。背中を嫌な汗が伝っていった。
「い、いくわよ」
小声で言ったアティーネに頷き返す。アティーネは順に二人に目をやって確認してから、目の前の扉を叩いた。硬質な音が、暗く湿っぽい廊下に響く。三人は息を止めて、両耳に全神経を集中させた。
返事どころか、物音一つしない。廊下は完全な静寂だった。
三人は顔を見合わせた。アティーネが扉に向き直って、もう一度、恐る恐るノックした。
「あの……いらっしゃいますか? アル? スリザリン教授?」
扉の向こうは沈黙を保ったままだった。
「どこかに出かけてるのかも」
ハリーが声を潜めた。マルフォイが腕時計を確認して口を開く。
「朝食の時間まで、あと三十分はある。まだ寝てるんじゃないか?」
アティーネは二人へ向き直って腕を組み、目を見開き口をあんぐりと開けた。
「なに?」
ハリーが振り返って『なに』かを確認する前に、柔らかな声が落ちてきた。
「こんな朝早くに部外者とそこで何をやっているんだね、ミス・グレンジャー」
ハリーはどっと冷や汗が噴き出すのを感じた。耳のすぐ後ろで心臓が拍動しているようだ。とてもじゃないが、恐ろしくて後ろを振り返る気になんかなれない。
「お、おはようございます、アル。それで、私たち……。あの……」
アティーネがうつむいて、もごもごと口の中で呟いた。手のひらの汗をごまかすように、しきりに両手を擦りあわせている。ハリーは直感的にまずいと思った。やっぱり、スリザリンにリザベリルに連れて行ってもらうなんて無謀だったんだ。それも、機嫌のいい時ならいざしらず、悪い時になどもってのほかだ。
スリザリンの声に怒りは滲んでいなかった。ただ遅効性の、しかも致死性の毒をゆっくりと点滴で投与されているような気分にさせる声だった。その声に親しみを覚える奴なんていないに違いない、とハリーは確信したが、意外にも親しみを覚える奴はいた。それも、ハリーのすぐ隣に。マルフォイだ。
「もしかして、サラザール・スリザリン教授ですか?」
明るい声音は演技には聞こえなかった。そういえば、スリザリンの話し方はどこかスネイプを彷彿とさせる。マルフォイはスネイプのお気に入りの生徒だった。ハリーが横目でちらりと確認すると、笑顔で右手を差し出している姿がかいま見えた。
「僕、ドラコ・マルフォイって言います。ビアトリスから聞いていませんか? 彼女の
よくもまあこんなにつらつらと嘘を並べられるものだと、ハリーは初めてマルフォイの能力に感心した。興味が恐怖心に打ち勝って、ハリーは慎重にスリザリンの方を向いた。
彼は小さな忘れな草のブーケを手にしていた。改めて見たスリザリンは、昨夜の迫力など嘘のように静謐な雰囲気を漂わせていた。マルフォイの勢いにあっけにとられているが、ハンサムな顔のつくりはトム・リドルを思い出させた。秘密の部屋にあった猿のような老人の像とは似ても似つかない。
笑顔でスリザリンの手を握って振りながら、マルフォイがアティーネに目配せする。彼女は息を止めて頷いて、意を決して再び口を開いた。
「アル、お願いがあるんです。リザベリルに連れて行ってほしいの」
それまでマルフォイの言葉に毒気を抜かれたようだったスリザリンの白皙の頬に、さっと朱が走った。眉間にシワを寄せ、アティーネを睨みつける。
「なぜ、私がそのようなことをしなければならないのかね?」
消毒用の脱脂綿に劇薬を浸したもので、皮膚表面を撫でられているみたいだ。そう感じたのはハリーだけではなかった。アティーネの顔は血の気が引いて少し震えていたし、マルフォイの顔色は青白いを通りこして今にも貧血で倒れそうだった。
それでも、アティーネは親友のために踏ん張った。
「ビアトリスが、今朝から姿が見えないんですけど、リックと一緒にリザベリルにいるかもしれないんです。私が探しにいかなきゃ!」
「生徒が早朝から城を抜け出していたとしても、それを探すのは教師の役目だ。きみの仕事ではない」
「そんなの関係ありません! これは私がやらなきゃならないんです!」
「繰り返すが、きみには関係のない話であるし、仮にリザベリルにビアトリスがいるとしても、きみには彼女の気持ちはわかるまい。きみは純血だからな」
「スクイブのことなのね? リザベリルで、スクイブのことで何かあったのね?」
アティーネの声は震えていた。質問のようだったが、彼女は声に出して自分自身に確認しているだけだった。スリザリンは沈黙をもってそれに答えた。アティーネにはそれで充分だった。
「だったら余計に、私がいかなきゃ!」
「なぜ、そこまで彼女に固執する」
「それは、私がビアトリスの親友だからです」
アティーネは胸の前で腕を組み、胸を張って鼻息も荒く言い放った。あごを逸らして、「どうだ」とばかりにスリザリンを睨みつける。返事はなかった。
「喜びは二人で分かち合いたいし、彼女の苦しみを私も一緒に引き受けたい。あの子がスクイブを生む恐怖に怯えてるなら、私はマグルと結婚してでも同じ十字架を背負います」
スリザリンは右手に持った忘れな草に視線を落とした。左手でホライゾンブルーの花弁に触れる。
「そのような理由で結婚相手を選ぶのは、己に対しても相手に対しても失礼なこととは思わないのかね?」
スリザリンが視線を上げずに尋ねた。
「だったら!」アティーネが叫んだ。「純血同士の結婚を推奨するのと、どこが違うのか教えてください! 生まれてくる子の為に相手を選別するのは同じじゃないですか!」
早朝の地下牢の湿った冷たい空気に悲痛な声が響き渡った。残響音が消えたあと、冷え冷えとした石造りの地下牢は耳が痛くなるような静けさに包まれた。互いの呼吸どころか、鼓動の音さえ聞こえてきそうだった。
「リザベリルに連れて行ってください。純血主義もスクイブ差別もクソ食らえです」
アティーネの強い意思に裏打ちされた言葉が、静寂の中に浮き上がった。