台本小説と台本から立体化すること
フォレストの掲示板で台本小説について読んでいて、ちょっと思ったことがあるのでこちらに載せます。
なお、ここで台本小説と便宜的に呼ぶのは
【キャラ名「セリフ」 ト書き】
で成立っているネット小説です。
場合によっては、////や(^-^)がセリフの一部として入っています。
私はこれは小説ではないと思います。
それを演者(役者)としての観点から語ってみようと言うのが今回の企画です。
たぶん、今年一年で私が学んできたことのまとめにもなると思うので。
台本ってつまらない!?
まず、台本っていうのはただ読んだだけでは面白くない物です。筆者が何を言いたいのか、それは何となく解ります。
しかし、離れ離れになっていた家族の心が戻った様を台本で読んでも、そこには感動することに必要な何かが決定的に欠けているのです。
それは、どんなに優れた台本、シェイクスピアのロミオとジュリエットでもそうなのです。
何だと思いますか?
それは、演者ではありません。
感情です。
台本には感情が書かれていないのです。人間の、感覚的な何かが決定的に欠けているのです。
感覚的な何かと言うのは、喜怒哀楽だけではなく、気まずいとか、緊張感、彼女の手を握った時に感じる暖かさや柔らかさといった身体感覚をも含めたものということです。
これがないと人は感情移入が出来ません。
感情移入が出来ない。
だから、台本だけを読んでも面白くないのです。夢想キャラに出演して貰って例を上げて見ましょう。
恋人の手を握るシーンです。
台本
梅、後ろから芹沢の手を握る。
>芹沢「……。」
梅 「……。」
はい、大変味気ないですね。でも、これが台本というものです。
文字から動きへ
味気ないことでも人がやるなら多少はマシになります。思うにこの段階が台本小説ですね。
実際に二人にやって貰いましょう。
台本小説
梅、戸惑いがちに後ろから芹沢の手をそっと握る。
>芹沢「……。」
梅 「……////」
文章
梅は戸惑いがちに後ろから芹沢の手をそっと握った。梅は顔を赤らめる。どちらも黙ったまま口を開かない。
最初の台本の部分を読んだときに、あなたが思い浮かべた光景もこんな感じではなかったでしょうか?
ちなみに、演者がこのレベルで動いたら張り倒されます。
まぁ、言ってしまえばこれくらいのことなら誰でも出来るんですよ。
動きから感覚へ
しかし、ここ以降文章と台本小説は決定的な分岐点を迎えます。
台本小説の特徴は地の文がほとんどないことです。
その特徴の故に、台本小説では心理描写が出来ないのです。
では、先程の文章にこれでもか、というほど心理描写を入れてみましょう。
文章
戸惑いながらも、触れたいという強い衝動に梅は後ろからそっと芹沢の手を握った。
手が触れる。
たったそれだけの行為からくる喜びと、はにかむような初々しい恥ずかしさに、パッと梅の顔が朱に染まる。しかし、なおもその目は芹沢を見つめて不安げに揺れている。
背中越しにその緊張が伝わるのか、芹沢は目の前の、どこともしれない一点を見つめたまま動かない。胸が弾むような緊張と戸惑いの中どちらも黙ったまま、口を開かない。
ここまで来れば小説になりますかね。
字数の問題ではないですが、これだけの情報を伝えようと思ったら台本小説の形式では不可能です。
小説読みが台本小説に満足出来ないのは、上で言えば『恋人の手を握る』という《感覚をどう言葉にするか》を読んでいるからではないでしょうか。
これは書き手によって千差万別で、あの作家は好きだけどこの作家は嫌い、というのは話の構成の他に、こういった感覚の書き込みが占める割合も大きいと思います。
少なくとも私にとっては大きいです。
どんなにいい話でも自分と感覚が違う人の文章だと何かしっくりしないものです。
感覚から立体化 多様性へ
じゃあ、演者の仕事はというと、もう一歩踏み込んだものになります。
この二人がどのような関係なのか、どんな心情か、どんな動きをすればそれが伝わるかを考え、見せるのが演者です。
何パターンか思い付いたものを演じて貰いましょう。
パターン1
芹沢が怒気を振り撒きながら、すたすたと大股で歩いて行く。
それを小走りで梅が追う。
ちらちらと芹沢の顔色を伺い、やがて意を決して芹沢の腕を掴んだ。
芹沢は足を止めたが振り返ろうとはしない。
梅も手を掴んだものの何も言えず、二人は黙り込んだまま。
パターン2
芹沢は一度梅を振り返り、ゆっくりと歩き出す。
振り返りはしないものの、あまりにゆっくりなその歩調は引き止めて貰いたいかのようだ。
祈る様に手を胸の前で組み芹沢を見送っていた梅は、とうとう絶えきれずに駆け出してその手を握った。
そのままの勢いで芹沢の背中に額を押しつける。
梅の小さく震える肩が泣いていた。
涙をこらえて芹沢が天を仰ぐ。
どちらも何も出来なかった。
繋がった手に、そっと力を込める以外には。
パターン3
獲物を追う猫の様に梅が芹沢の手を捕らえようと襲いかかる。
それを芹沢はぎりぎりでかわしていく。
その口からは時折、あっとか、うわっとかいった声が漏れた。
必死で逃げる芹沢を、梅はますます目を輝かせて追いかけまわす。
後ろを振り返って速度の落ちた芹沢の手をついに追い付いた梅が握った。
その唇が楽しげに弧を描き、芹沢は息をのんだ。
心理描写は入れないようにして書いたんですが、あの台本からこういうことを考えるのが演者の仕事です。
パターン1は喧嘩中か口論の後、パターン2は戦地に赴く芹沢と見送る梅、パターン3はちょっとホラーっぽいですが、梅は芹沢に何か悪戯を仕掛けるつもりなのかもしれません。
こういった行為からその背景が透けて見えるようにすることを立体化するといいます。
台本をどう立体化するかが演者の仕事であり、それが演者としての個性になります。
この立体化を文字でするのが小説であると私は考えます。(前ページのコテコテ心理描写で書いたのは初恋のような戸惑いと緊張感)
故に、様々な立体化の余地を残している台本小説は、その立体化が出来ていないという点でも小説とは言い難く、台本に限り無く近いのです。
最後に 台本形式の良さ
私は台本小説を小説としては認められませんが、台本形式の方がはるかに読みやすい物もあります。
それは、企画や後書などで疑似雑談形式をとったSSです。
こういった物は台本形式の方が読みやすいです。登場キャラが多い場合は特に。
他はネタなど小説に起こすほどでもないと作者が判断したものです。
簡単で解りやすく、なおかつ、すぐに書ける。こういった点は台本形式の良さだと思います。
しかしながら、誰かの物語を本気で表現したいと思うならば、安易な台本形式に逃げずに手触りや登場人物の呼吸まで感じるような小説を目指して欲しいですね。(ここでいう誰かとは主人公のことです)
その点、私もまだまだ修行中の身です。だから、書けとは言いません。目指せとは言いますけど。