だだっ広い二階に比べると空間が壁で仕切られている一階は随分と狭く見えた。細長い廊下が奥へと続いている。手始めについさっき四人で入った階段に一番近い扉に手をかける。
「ユリアー?」
中はシンとして、窓から見える雲のような海の波が現れては消えるのを繰り返しているだけだった。扉を閉めて次の部屋へ向かう。次の部屋も、その次の部屋も、中の様子は全くと言っていいほど同じで、違うのは窓から見える景色の角度がほんの少しだけずれていることくらいだった。内装も、テーブルや椅子の様子も寸分違わず同じだった。
こんな何もない無機質な空間でリザは長い時間を一人で過ごしてきたのかと思うと、ゾッとする。絶対に彼女をこの城から開放しなければならない。
タイトもユリアも部屋の中にはいなくて、二人とも見つからないまま廊下の端までたどり着いてしまった。いなかったらどうしようかと、少し不安になりながら玄関ホールへの扉を開ける。不安は半分ハズレで、半分当たっていた。
玄関ホールには、ユリアが一人で立っていた。こちらに背を向けていたが、何をするでもなく突っ立っている様子は、途方に暮れているように見えた。
「ユリア!」
急いでユリアに近づく。
「カイ!」
振り返った彼女の目には涙が溜まっていた。
「どうしよう。タイトが、どこにもいないの!」
ユリアは顔を伏せて両手で覆った。肩が震えている。
「いないって……」
「見つからないの! 部屋は全部見て回ったのに、廊下にも、どこにもいない!」
「先に帰ったんじゃ……?」
ユリアは激しく首を横に振った。
「ここ、出られない」
「え?」
「出られないの。だって、扉が……」
ユリアが口をつぐんで、彼女の後方を指さした。彼女が指し示す先を視線でたどる。最初に来た時には、背中を向けていて気づかなかった。本来、玄関扉があるはずのそこには、出口のドアが無い。壁だけがある。
「どういう……?」
ことだろう、と続くはずだった言葉は飲み込まれた。そもそも扉を開いて入ったわけではないんだから、どうしたもこうしたもない。扉は元から存在しなかったんだろう。
「入れ違いになったんじゃないかしら」
「入れ違い?」
ユリアが顔を上げてリザを見た。リザはこっくりと頷いてみせる
「私たちが螺旋階段に出た時には三階への道が拓いていたから。タイトくん、上に行ったんじゃないかしら」
「そうだよな! 外に出てないなら上にいるよな! うん、間違いない」
早口でまくし立てる。目の前の前の大問題から目をそらしたくて、オレは彼女の言葉にすがりついた。そうだ、上に行けば彼女を城から連れ出せるんだから、オレたちだって一緒に外に出られる。胸の内で何度も言い聞かせて気を落ち着かせる。
だって、玄関ホールに扉がないなら、どうやってこの城から出ればいいんだよ。
「とにかく、上に行ってみましょう。ここにいたって仕方がないんだから」
「そうだよな」
「タイト、いるかな?」
不安げに俯いたユリアの手をリザが取った。
「ええ、きっと」
ユリアを安心させるようにリザはにこりと笑った。
「じゃあ、行こう」
リザとユリアが頷き返してくれたのを確認して、オレは廊下へ向かって走り出した。
螺旋階段を登る。延々くるくると回っていると目が回りそうだ。随分と長い階段だ。二階の天井はかなり高かったから仕方ないのか。少し膝が痛くなってきた。運動不足かもな。
「あ」
突き当たりだ。踊り場に足をかける。突き当りの壁には竜の壁画はなかった。
「あれ?」
壁に手で触れる。冷たい石の感触。一階でも二階でもここの部分に壁画があったのに。
「この階は、ここに壁画はないんだ……」
「行きましょう、カイ」
リザとユリアに頷き返して、三階へと続くドアを開いた。扉の向こうには細長い通路が続いていて、十歩ほど先で右に折れ曲がっている。
三人で並んで進むには少し狭いくらいの通路に、靴の音が響く。しばらく進むと十字路にぶつかり、オレたちは右に曲がった。左右の壁は黒いばかりで味も素っ気もなく、部屋へ続くドアも見当たらない。一本道を道なりに右に折れる。右に折れる。
「うん? 行き止まりだね」
ユリアが首を傾げる。突き当りには道がなかった。ここは——。
「迷路だ」
「どうする? 一旦、螺旋階段に戻る?」
「いや……」
リザに訊かれて、口元に手を当てて考える。螺旋階段へ戻っても、上へ続く階段はない。下へ降りても、この城の玄関ホールには扉がないから出られない。だったら、やっぱり。
「きっと、どこかに竜の絵があるはずだ」
「竜の絵?」
ユリアが不思議そうに聞き返してきた。
「ほら、最初に城に入った時、廊下の突き当りにもあっただろ」
「見つければ、上への道が拓くわ」
リザが口添えしてくれた。
「螺旋階段が見つかったみたいに?」
ユリアの言葉に頷く。それに、他には手がかりもない。
「今はとにかく、先へ進むしかない」
「そっか。うん、そうだよね」
「なあ、リザはここの迷路の道順、知ってたりしないか?」
リザは目を伏せて首を横に振った。
「ほとんどは一階にいるから」
「じゃあ、しょうがない。少しずつまわっていくしかないか」
「全部まわれば、タイトにも絶対会えるよね。 確か迷路って、壁づたいに歩いていけば出られるし!」
ユリアがパチンと手を叩いて、明るい声で言った。
「あら、そうなの?」
首を傾げるリザに、ユリアが大きく首を縦に振った。
「それ、オレも聞いたことあるな。じゃあ、今まで右に曲がってきたから、このまま右の壁に沿って行くか?」
「賛成! さぁ、行こう!」
ピッと右手を上げたユリアが必要以上に足を上げて歩き出した。賑やかな彼女の振る舞いに気分が浮き上がって、オレとリザは笑いながらユリアに続いた。
右手で壁に軽く触れながら、てくてくと迷路を歩く。小さい時学校帰りに近所の家の塀やらフェンスやらを同じように触って歩いて、よく手が真っ黒になっていたのを思い出した。
「迷路かぁ。本物の迷路に入ったのなんて初めて」
ユリアの声は楽しげに弾んでいて、わくわくしているのが隠しきれていなかった。雰囲気につられて笑いが漏れる。
「本の迷路ならよくやったよな」
「そうそう、図書館で借りてきてね」
三人で本を囲んで頭をぶつけながら、ああでもない、こうでもないと、絵本の迷路をあちこち指でたどった。週末には朝から出かけていって、日が暮れるまで遊んだこともあった。
「ゴールから逆にたどったりさ」
「カイはズルばあっかり。いつもタイトが一番先に解いてたね」
「二人ともいいな。楽しそうで」
「リザもやればいいよ」
笑いかけてリザの手を握る。
「城から出たら、一緒に図書館に行こう。学園からはちょっと遠いけど、途中に大きい公園もあるし。天気のいい日に芝生の上でやったら、きっと気持ちいいよ。な?」
リザは一瞬、眉根を寄せて痛みに耐えるような顔をした。でも、すぐに笑顔になって「うん」と、頷いた。オレはリザの手を強く握りしめたけど、リザはオレの手を握り返してはくれなかった。
すぐ後ろを歩いていたユリアの呆れたようなため息をが聞こえてきた。途端に顔の血が集中して頬が熱くなる。
「ねぇ、あれ、出口じゃない?」
ユリアがタタタッと素早く前に躍り出て、すぐ先の壁を指さした。目を凝らせば確かに黒い壁に四角く切れ込みが入っている。
「やったぁ!」
「行こう!」
リザの手を引いて走り出す。勢いのまま扉を開ける。気持ち冷たい空気が頬を撫でる。扉の先は階段の踊場だった。左側には壁が、右側には下りの螺旋階段があった。
「あれ?」
見覚えのある光景に首を傾げる。
「ここって——」
「最初に来た場所?」
リザとユリアと顔を見合わせ肩を落としてため息をつく。
「途中に出口なかったよね? 見逃してないよね?」
眉を下げて不安げなユリアに頷く。ずっと壁に右手をつけて歩いてきたんだから、扉があったなら絶対に気づいたはずだった。
「見逃してない。この迷路は、ゴールが真ん中にあるタイプなんだ」
「じゃあ、『右手を壁に』は使えないのね」
リザが頬に手を添えてため息をついた。長い時間歩いてきただけに、気落ちするのは否めない。
「もっかい、最初から挑戦だ」
ユリアが拳を握って扉の正面の道を真っ直ぐに突き進んでいく。大げさに腕を振って大股で歩く。カラ元気だったとしても、ユリアの陽気さに励まされて、オレとリザは彼女の後を追った。
簡単に言うと、迷路は難しかった。一度通ったところに何度も出たり、行き止まりの連続だったり、同じ場所をぐるぐる回ってしまっていたりした。特に厄介なのは、円形の広場になっている場所だった。
「まぁたぁ、ここぉお?」
通りを抜けた途端にユリアが不満気に語尾を釣り上げたユリアが盛大に肩を落とした。オレも思いは同じだったので隣に並んで肺の空気を全てため息にして吐き出す。
円形の広場は教室よりも少し狭いくらいの大きさで、中心に円柱形のモニュメントがある。森の塀に使われていた石材と同じものだろう光沢のある黒い石に、オレにはわからない文字がびっちりと彫り込まれている。
それを中心として放射状に八本の道が伸びていた。いわゆるロータリーというやつだ。あちこち道なりに曲がって方向感覚を狂わせれている上に、特にこれと言った特徴や目印になるものがないせいで、どれがもう試した道で、どれがまだ試していない道なのかわからなくなってしまう。それどころか、少しでも気を抜くと、たった今自分たちがどこから来たのかさえ、わからなくなる。
「あーあ、きゅうけーい! ユリアちゃん、休憩するー!」
ユリアが思いっきり両腕を伸ばして、モニュメントの台座に腰掛ける。ユリアの隣に腰掛ける。
「リザも座りなよ」
「ありがとう」
手を引いて、彼女も隣に座らせる。リザはスカートの裾を整えて、チョコンと台座に腰掛けた。膝を擦る。歩き続けて膝が少し痛い。
「はぁ。どこなんだろうな、出口」
膝頭に肘をついて頬杖をつく。正面に見える道の先は十字路になっていて、その先は見えない。通った道かどうかも判然としなかった。
「ねぇ」
隣のユリアが気が抜けた声を出す。もう一度ため息。
「このまま見つからないのかな」
「カイ……」
台座についていたオレの手にリザの手が重なって、軽く握った。たったそれだけのことなのに、凄く励まされた。
「だぁいじょうぶだって! ほらほら、元気出して行こう!」
重たくなった雰囲気を払拭するようにユリアが、ぴょこんと勢い付けて立ち上がった。次の瞬間、聞こえてきた腹の虫の音。ユリアが腹を抑えて頭を掻いた。
「あ、あははは。お腹すいたね」
「そう言えば、そろそろお昼か」
言われて気がつく。外の様子は見えないが、もしかしたら太陽はもうとっくに中天を過ぎているかもしれない。だけど、あんまし腹減ってないなぁ。
「カイ!」
突然呼ばれて、思わず肩が跳ねた。広場につながる左の道から現れたのは——。
「タイト!」
「カイ! ユリア! 探してたんだ、二人とも」
「探してた?」
タイトは肩をすくめて背負っていたショルダーバッグを投げて寄こした。バッグと入れ替わるようにして、ユリアがタイトに抱きつく。
「もう、タイト! どこに行ってたんだよ〜。探したんだよぉ」
「悪い。出口がないかと考えてたらはぐれちゃったみたいだ」
タイトがユリアの頭をなでる。ユリアはタイトが見つかって凄く喜んでいるし、オレだって嬉しくないわけじゃない。けど、タイトが言ったことを思うと素直に喜べなかった。リザを城に閉じ込めておいた方がいい、だなんて。
二人から目をそらして、手元のバッグのファスナーを開けて中を覗く。脇が格子状になっているランチボックスが三つと少し大きめの水筒が入っていた。
「サンドイッチだ」
声に出したら、なんだか急にお腹がすいてきた。自分でもちょっと現金かもしれないと思うけど、うん、昼飯は大歓迎だ。
「どうせ、お前らは用意なんてしてなかっただろ?」
したり顔のタイトにムッとするものの、目の前のごちそうの誘惑にはかなわない。ユリアがタイトの腕を引いて、彼女の隣に座らせる。ランチボックスをとり出して、ユリアに渡した。向こう隣に座ったタイトがリザに視線をやって、すまなそうに眉を下げた。
「悪い、三人分しかないんだ」
リザが首を振る。
「リザにはオレの分をあげるよ」
「いいの?」
「いいからいいから」
笑顔で請け合うとリザは少し困ったように、でも嬉しそうに笑った。視界の隅でタイトが眉をひそめたのが見えた。タイトにしてみれば、オレとリザが仲良くしているのはおもしろくないんだろう。
「タイト? どしたの、どっか痛い?」
ユリアが話しかけているのをなるべく聞かないように意識の外に追い出す。こんなところでまたタイトとやりあって、嫌な気分になるのはゴメンだった。
ランチボックスの蓋を開ける。中身は卵サラダのサンドと、ハムとレタス、それにアンズのジャムサンドだった。
「リザはどれがいい?」
中がよく見えるようにボックスを彼女の方に向けて傾けながら訊けば、リザは少し悩んでから「じゃあ、これ」と、ジャムサンドを手に取った。
「一つで大丈夫? どっちか、半分こにしようか?」
「ううん、一つで大丈夫よ」
リザのことはまだ心配だったけど、それよりも空腹感に耐えられなくて遠慮無く卵サラダサンドにかぶりついた。卵とマヨネーズの風味が口の中いっぱいに広がり、時々黒胡椒のぴりっとした刺激と香りが混じる。口の端が自然に上がる。空腹も手伝っていつもよりも余計に美味しく感じた。
「ねぇ、カイ。タイトくんっていい人ね」
「えっ、うん」
リザに笑顔で言われ、思わず口の中の卵サンドを飲み込んだ。
「小さい時から仲が良かったんでしょう?」
「そう、だけど……?」
リザが何を言いたいのかよくわからなくて首を傾ける。タイトがリザを閉じ込めたままにしておいたほうがいいって言ったのはリザも聞いているのに、どうしてアイツを肯定するようなことを言うんだろう?
「お昼ごはん持ってきてくれたり、お兄ちゃんみたいね」
お兄ちゃんみたい、か。確かにそうかもしれない。タイトとユリアとは初めて会った時の記憶がない。家が近所だったから、きっとオレが生まれた時から交流があったんだろう。近くの公園や図書館で遊ぶことを教えてくれたのはタイトだったし、土手に近づきすぎたり、オレやユリアが調子に乗って川の流れの速いところに行ったりしないように注意てしくれてたのもタイトだった。
そう言えば、小さい時にオレがリザに会った話を大人は最後まで信じてくれなかった。一番最初に信じてくれたのはタイトで二番目はユリアだった。なのに、どうして今回は——。
「カイ?」
「えっ」
「どうかしたの?」
リザに呼びかけられて我に返る。
「なんでもない」
慌てて答えて、オレは最後のサンドイッチを飲み込んだ。
「なあ、リザ。いくつか確認しておきたいことがあるんだが、いいか?」
オレと同じタイミングでサンドイッチを食べ終わったらしいタイトが妙に緊張した面持ちでリザに話しかけた。
「なにかしら」
リザが可愛らしく小首を傾げる。オレはタイトがまた何かひどいことを言うんじゃないかとハラハラしながら、二人を交互に見やった。
「この城を造った奴のことを知っているのか?」
リザはしばらく無言でタイトの目を見返していたが、やがて口を開いて言った。
「知っているわ」
「誰だ?」
間髪入れずにタイトが問い返す。リザは無言で答えなかった。タイトは彼女から片時も視線を外さずに、瞬きもせずにじっとリザを見つめ続けていた。その雰囲気の硬さに思わず息を呑む。
「答えられないのか?」
「言いたくないの」
答えるリザの声は震えていた。これじゃ、問い詰めるを通りこして、リザを責め立ててるみたいだ。
「タイト」
さらに言い募ろうとタイトが口を開く前に牽制する。タイトは口を引き結んで質問を変えた。
「……わかった。じゃあ、この城に閉じ込められているのはリザで間違いないんだよな?」
今度はいくぶん柔らかい声だったが、リザは口を閉ざしたまま俯いて睫毛を震わせた。
「はいか、いいえで応えてくれれば、いいんだ」
リザは答えなかった。かわりのように伏せた目にじわりと涙が盛り上がって、今にもこぼれそうになった。
「タイト、もういいだろ。わざわざリザに言わせなくたって、そんなことわかりきってるんだから」
泣きそうなリザの様子を見てられなくて、横から口を挟んだ。少しでも慰めになればと思ってリザの肩を優しく叩く。
「カイ、その腕輪、少し見せてくれないか?」
「え、なんでだよ……」
「確かめたいんだ。リザを、信じてもいいんだって」
見慣れないタイトの硬い雰囲気に素直に渡してしまっていいのか戸惑う。それでも、タイトがあまりに真剣な目で訴えてくるから、オレは視線を逸らして手首に巻いたブレスレットに移した。
「頼む」
なにがしかの決意のこもった声にため息をついて、オレはブレスレットの留め具を外した。タイトが真剣すぎて、断ってはいけない気分になった。
差し出された手のひらの上に載せれば、チャリと、チェーンの擦れる音がする。
「ありがとう」
受け取ったタイトはブレスレットをつまみ上げて検分し始めた。そう言えば、勢いに押されて渡してしまったけど、いったいブレスレットの何を調べるとリザが信じられるかどうかわかるんだろう。内心で首を傾げていると、タイトがブレスレットを握りしめた。
「……カイ、ごめんな」
「えっ?」
呟く声があまりに小さかったから、聞き間違いだと思った。次の瞬間、タイトはオレに背を向けて走り出した。
「タイト!?」
ユリアの声が背後から聞こえる。オレは一も二もなく後を追って駆け出していた。あれは大切なものなんだ。あれを受け取って、オレはリザを助けに来ることを約束したんだ。上の階に行くのにだって必要だ。あれは、あのブレスレットは、オレとリザとの約束で、この城の鍵なんだ。
背の高いタイトの後ろ姿を追いかけていく。迷路の中で、右へ左へ道を曲がっていくタイトの姿がチラチラと見え隠れする。あいつの走りには迷いがなくて、まるで正しいルートを知っているみたいだ。
後を追いながら思わず舌打ちする。コンパスの違いか、タイトとの距離が徐々に開いていっている。長い直線の先のT字路をタイトが右に曲がる。追いかけて角を曲がったオレは急停止した。すぐ目の前に十字路。タイトの姿は見えない。
「くそっ!」
感情に任せて、壁を殴りつけた。返せよ! あの野郎、どっちに行ったんだ!
「きゃあぁぁ!」
「リザっ!」
響いた悲鳴に顔をあげる。
「右かっ!」
声を頼りに再び走り出す。リザの悲鳴は上がり続け、合間合間に助けを求めるようにしてオレの名前を呼んでいる。急ぎすぎて足がもつれそうになりながらも、一瞬でも早くたどり着きたくて必死に足を前に出す。
「カイっ!」
「リザ!」
見つけた! リザを。そして、竜の壁画を。リザの半身は壁の中へと引きずり込まれ、助けを求めて必死にこちらへ向かって手を伸ばしていた。
「リザっ!」
「カイ……!」
リザの体が見る間に壁の中へ、壁画の向こうへと飲み込まれていく。壁に手を突っ込もうとして指に衝撃が走る。硬い壁に突き当たった指先から肩へとしびれが広がっていく。石の壁はオレの手を拒み、リザを、リザだけを飲み込んでいく。
リザがこちらへと必死に伸ばしている右手を掴む。強く握りしめ引き止めるが、リザの体はどんどん見えなくなっていく。
「カ……イ……ッ!」
リザの表情が恐怖に歪み、見開かれた目に涙が盛り上がる。
「リザ! リザ! ダメだ!」
唯一残った右腕が壁の中に沈んでいく。リザの手を胸元で抱きしめて、決して離さないように力を込める。それでも、引き止められずに腕はどんどん短くなっていく。
とうとう握りしめていたオレの手が壁にぴったりと張り付いた。力を込めた手が震える。願いは虚しく、リザの手がオレの手から滑り抜けていく。こんなに握り締めているのに、こんなに近くにいるのに、壁はリザだけを通し、オレの手は壁に沈み込む気配さえない。
もう、壁の此方側に残ったリザの手はわずかで、どんなに掴もうとしても掴みどころがなく滑ってしまう。第一間接が飲み込まれた。それでも掴もうとするオレの手をリザのつめ先がかすかにひっかくように動いたのを最後に、リザは完全に壁の向こうへと消えていった。
「リザアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァ!」
オレは床に膝をついて、道を開けない硬い壁を何度も何度も殴りつけた。
「返せ! 返せよっ!」
ありったけの力を込めて壁を叩く。壁の向こうから、かすかに笑い声が聞こえる。握りしめた手のひらに爪が食い込む。食い縛った唇からは鉄サビの匂いがした。

「ふん、手間を取らせおって」
吐き捨てるような声だった。声の主は忌々しげにリザの手首を睨みつける。カイが必死に掴んだせいで赤くなってしまっている。
「リザアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァ!」
壁の向こうからカイの咆哮が聞こえてきた。闇の中でコーラルピンクの唇が半月形の弧を描く。
「怒れ、そして嘆くがいい。それがお前の終焉になる」
ふふふと、女の肩が震える。こらえきれなくなった笑いが哄笑に変わっていく。硬質な靴音を響かせて、女は目の前の階段を登っていった。



   

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