ヴェールの下から現れたのは記憶にある黒髪ではなく、見たことのないほど美しい、光そのもののような金の髪だった。
違う。脳裏に浮かんだ黒髪の少女の面影がリザに重なってブレる。思い出す。幼い頃に見た光景を。透明な棺の中で眠る黒髪の少女と、その前に立つ金髪の少女を。二人の少女の顔は、まるで判で押したようにまったく同じだった。
けれど、オレは直感で知っていた。彼女を閉じ込めたのは、金髪の少女だ、と。
今、オレの目の前で薄ら笑いを浮かべている、この光そのものであるかのような少女だ、と。
全身から力が抜ける。石の床に崩折れた衝撃で、ぶつけた膝に痺れが走った。手をついた拍子に何もしていない手首が目に入る。オレは、なんてことをしてしまっただろうか。
「カイ、どうしたの?」
のろのろと顔を上げた。
「リザ……」
覗きこんでくるリザの薄く唇にひかれた笑みが取ってつけたように不自然なものに見えた。
「約束……」
呟いたらリザが「何?」と、耳元に手を当てて身をかがめた。
「オレ、約束したよなっ? この城からリザを出してやるって!」
震える声が最後には叫び声になっていた。涙のにじんだ目でリザを睨む。彼女はにっこりと微笑んで頷いた。
「そうよ、私と約束してくれたわ。でもね、城から出して欲しいなんて言ってないわよ。私も」
リザは肩ごしに棺を指さした。
「彼女もね」
リザの指先を追ってガラスの棺に閉じ込められている少女に目をやる。見たことある。どこかで。ずっと前に。オレは、今は目を閉じている彼女の笑顔を知っている。
今ならわかる。九年前、オレが会ったのは彼女だったに違いない。なんで、こんなになるまで気づかなかった。気づけなかった。タイトは最初から気づいてたんだ。だから、あんなに必死になって……。それなのに、オレは——。
「ねぇ、カイ。思い出してみてちょうだい」
視界の端でリザの唇が楽しげに弧を描く。ねっとりとしたリザの声が頬を撫でる。声につられるようにして記憶の奥底を探る、約束した、あれは、この城で——。

「ね、また会いに来るな。今度はタイトとユリアも連れてくるよ。そしたら、みんなで外で遊ぼう!」
「ううん、ダメよ。もう来ちゃダメ」
「どうして?」
「どうしても、ね?」

「オレ、どうしたらいい? どうすればお姉ちゃんを助けられる?」
「その腕輪が、あなたをもう一度この城へ導くでしょう。もし、あなたが本当に棺の少女を助け出したいと心から願うのなら、あるいは、棺の蓋さえ、開ける手助けになるかもしれない」
「わかった。大きくなったらまた来る。そんで、今度こそここから出してあげるよ!」
「待ってるわ」
あれは、そうだ、あの時、あの少女は、黒いヴェールを被ってはいなかったか?
「リザ……?」
「思い出したの? 彼女は外に出ることなんて望んでない。あんたがここまで来たのは全くの無駄だったってわけよ」
「全部、リザが……?」
「そうよ、腕輪を渡したのは私。城にもう一度来るように言ったのも私。最上階まで来て欲しかったのも私。だけど、城に閉じ込められた少女を助けて欲しいなんて言ってないわ。私も、誰もね。つまり、みーんなあなたの勘違いだったってわけよ」
「どうして?」
オレは言葉を絞り出すようにして呟いた。床についた自分の両手が細かく震えていた。とてもじゃないが、リザの顔を見られない。
「どうしてですって? どうして?」
リザの尖った声に思わず片に力が入る。
「この城に入った人間を野放しにしておくわけにはいかないのよ。身の内に闇を宿すものは危険因子なの」
「キケン……」
「闇は感染するの。始めは小さい黒いシミでも、心の奥底で気づかれない内に育って、ある時爆発的に増える(パンデミックを起こす)のよ。そして、増えた闇は他人の中に感染ってそこでまた増殖するわ。そんなことを繰り返されたら、せっかくここに闇を閉じ込めた意味がなくなってしまうじゃない。だから、ね。災いの種は早いうちに摘み取らなければいけないの」
オレはリザから視線を逸らして床を見つめた。磨き上げられた石の床に、限界まで目を見開いた自分の姿が写っていた。タイトはこのことを知っていたに違いない。だから、あんなに必死になってオレを止めようとしてくれてたんだ。
思い至った途端、目の前が真っ暗になった。そんなタイトを、オレは——。
床についた両手の震えが大きくなる。
「どうしたの、カイ?」
「タイ……ト……」
「ああ、あのお友達ね。大丈夫、安心して。あなたも見たでしょう? 彼の体に冷たい鉄の剣がズッポリ食い込むのを。ね、大丈夫。今頃は下の階で動かなくなっているわ」
励ますように肩を叩かれてずっしりと全身が重くなる。
「あ、あ、あ、あ、あ」
ずっと見ないように目をそらしてきたこと情け容赦なく突きつけられる。手の中にあの時のぐにゃりとした感触が蘇った。それ以上は、もう耐えられなかった。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
悲鳴が喉を切り裂いて溢れ出す。自分の体のことなのにどこか遠くに感じられた。腕で上体を支えるのさえ辛く、黒い床に突っ伏して荒い息をつく。
冷たい石の床に熱い涙がにじんだ。喉が焼けるようだ。そんなことを感じる資格さえ、オレにはもうないのに。
「泣いてるの?」
笑いを含んだリザの問いかけに唇を噛むことで応える。このまま消えてなくなってしまえたらいいのに。
「おかしいの。彼のを刺したのはあなたなのに。親友だったんでしょう? 小さい時からずっと守ってもらってたんでしょう?」
言葉に重量があるだなんて知らなかった。リザの声が聞こえる度に、肩に、背中に、ズシンと言葉がのしかかる。とうとうオレは床にベッタリと腹這いになった。
風船の空気が抜けていくように手足の先からエネルギーが抜け落ちていく。拳を握ってみても、力の流出は止められない。顔を上げる気力さえ残っていなかった。
リザの手がオレの髪を柔らかく撫でる。暖かい手。ずっとオレを騙していた手。その手をオレは振り払えなかった。
「大丈夫、あなたも直ぐに彼のところに逝けるわ」
真闇の中に響いたリザの言葉は、とても信じる気にはなれなかった。光に見捨てられたオレの世界には、上下の感覚さえあやふやになりそうな黒い空間だけが広がっている。すぐ近くにいるはずのリザの存在ですら遠い。
何もかもが不明瞭だ。闇の中に体の輪郭が溶けていく。涙のせいか、目がかすんでよく見えない。オレはどうして泣いているんだろう。ああ、こんなのは知らない。親が死んだ時だって、こんなに一人ぽっちじゃなかった。こんなに広いところに置いてきぼりにされたわけじゃなかった。こんなに狭いところに閉じ込められたわけじゃなかった。こんなにみんなから離れたところに、うずくまっていたわけじゃなかった。
まぶたが重くてこれ以上は持ち上げていられない。息を吐く度に、体が重くなっていく。思考までが闇に飲まれたみたいに、ポツポツと幼い頃の光景が取り留めもなく浮かび上がっては消えていく。
オレの胸の中心にはぽっかりと穴が開いていて、血の代わりに涙を流していた。苦しくて苦しくて仕方なくて、オレはただこの胸の痛みから開放されることだけを願った。
だって、どうやったってできっこない。
彼女を棺から救い出すことも、タイトを助けることも、ユリアを見つけて城を出ることも、それどころか、この階から出ることさえ。
できっこない。オレはここで、目を開けていることすらままならないんだから。だから、このまま——。
頭の中に棺の周りにいくつも転がっていた死体のイメージが浮かぶ。その中にはうつ伏せに倒れたオレの姿もあった。深く息を吐く。脳裏に浮かんだ映像が徐々に薄れていく。同時に、オレは最後の思考から手を放した。
「カイ!」
甲高い声が響いて、オレは手放しかけていた意識をぐっと握りこんだ。途切れそうな思考の糸をなんとか手繰り寄せて繋ぎ止める。
タタタッと軽い足音をさせて駆け寄ってきた誰かが、オレのすぐ側で立ち止まった。いや、それが誰かなんて考えるまでもなくわかっている。ゆるゆるとまぶたを持ち上げると思った通り、目の前に桃色の布の靴が踏ん張っていた。ユリアの靴だ。
ああ、来てしまった。来させてしまった。ユリアは、オレみたいな思いをしなくてよかったはずなのに。
「何の真似だ?」
居丈高なリザの声。応えるユリアの声も負けないくらいに硬質だった。
「こっちのセリフよ。カイに何をしたのっ?」
「何をしたですって? 何もしてないわ。私はただ、最上階まで来て欲しいと言っただけよ」
息を吐いて肩をすくめるリザにユリアが食ってかかる。緊張のせいか、その声はかすかに震えていた。
「嘘つき! あんた、今までずっとカイを騙してたくせにっ!」
「騙す? 人聞きの悪いことを言わないでくださるかしら? 私は嘘なんてついていないわ。その子が勝手に勘違いしただけよ」
「勘違い? こんなところにまでカイを来させておいて勘違いだっていうのっ?」
「あなたも、なにか勘違いしているようね。カイがここまで来たのはカイ自身の意志よ。彼は自分で選んでここまで来たの。その責任を負うべきは、負えるのはカイだけだわ」
リザの言葉にオレは再び目を閉じた。乾いた眼球に涙が染みる。
そうだ。城門をくぐったのも、最上階まで登ってきたのも、誰かにやれと言われたからじゃない。オレが選んでやってきたことだ。タイトに剣を向けたのだって——。
「それに、あなただって」
責めるような口調でリザが続ける。攻撃の矛先はユリアに向けられていた。
「なに、よ」
声の調子からユリアが少し怯んだのがわかった。
「あの子をカイと一緒に引っ張りこんだのは、あなたでしょう? 可哀想ね、彼。考えなしの友だちのせいで、あんなことになってしまって」
「あたしのせいだって言いたいの?」
閉じたまぶたの裏に広がる暗闇に、訝しげに眉を寄せたユリアの姿が浮かび上がった。
「あなたがそう感じるなら、ね。そういうことなんでしょう」
答えるリザの声は無機質で取り付く島もない。まるで真昼の太陽のように容赦なく辺りを照らし、ジリジリと皮膚を焦げ付かせる。その声で、リザは殊更ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ねぇ、よく考えてみて頂戴。最初に城に行きたいと言い出したのは誰だったかしら? 彼を城に連れ込んだのは誰かしら? 彼に剣を向けるカイを止めもせずに黙ってみていたのは、一体だぁれ?」
タイトに剣を向けたことを言われて、オレは胸がしめつけられるようだった。もう、何も感じたくない。このまま、闇に溶けてしまえたら、どんなにか楽だろう。
「全部、あたしよ」
聞こえてきたユリアの声は、予想に反して震えてはいなかった。暗闇の中に小さな存在感放つ言葉がぽんと浮かんでいるみたいだ。そして、その言葉が消え去る前に次の言葉が置かれる。
「でも……」
リザが息を詰めて続くユリアの言葉を待っているのが気配でわかった。伝わってくるリザの緊張に飲まれたのか、オレは思わず目を開いた。
「だから何だって言うの?」
ユリアの態度はふてぶてしすぎて、いっそ爽快だった。リザが不快げに柳眉を寄せるのが、まだぼやけた視界の中でさえ、しっかりと見てとれた。
「あなたが自分で言ったんじゃない。自分で選んだことは自分で責任を負うしかないって。タイトのことは、タイトが決めたの。それに、頼まれたんだから」
一瞬、戻ってきた感覚が遠くなる。ユリアの力強い声が、遠ざかっていく。まるで、全ての物事が透明な黒いガラスの向こうで起こっているみたいだ。棺の中に閉じ込められているのは、彼女だけじゃない。
「帰るのよ。カイと、タイトと、三人でここから出るんだから」
「あなた、ここから出られるとでも思ってるの? この、扉のない城から」
リザは唇の端を吊り上げ、空間全体を指し示すように両手を広げた。今や、リザの声は妙に甲高く奇妙に引きつって聞こえた。
「扉ならタイトが見つけたわ」
「あぁら、あれを見つけたの。けれども、残念ね。あの扉はあなた達には使えないのよ。あれは、光(わたし)専用だから」
「どういうこと?」
「光はね、透過するのよ。わかるでしょ。あの扉は玻璃と一緒。光は通れても、人は通れない。人がこの城から出る方法は一つしかない。つまり、ああするのよ」
リザが足元に転がった死体に目を向けて薄ら笑った。
「さあ、お前も絶望の淵に沈むがいいわ」
けれど、ユリアはリザの言葉の一切を無視した。
「カイ、起きて! ね、一緒に帰ろう」
「……ユリ、ア」
ユリアがしゃがみこんでオレの肩を揺する。起き上がりたかったけれど、うまくいかなかった。腕が異様に重くて、力が入らない。磁石にくっついちゃった砂鉄みたいだ。一度くっついたら、どんなに指先でつまんでも絶対に取れなかった。磁石は床で、オレは砂鉄だ。
「無駄よ」
コツ、とリザの近づく足音。
「望みのない暗闇に沈んだ人間は、そう簡単には浮上できない。闇に囚われた人間は、闇の中で息絶えるのよ」
「そんなことない」
オレの頭上で、ユリアの声。
「そんなこと、あるはずない」
もう一度言うと、ユリアはオレの名前を呼びながら肩を揺すった。何度も、何度も。その度に全身に力を込めたけれど、相変わらず床は超強力磁石でオレはちっぽけな砂鉄のままだった。
「馬鹿な子」
悔しくって、情けなかった。今のオレにはユリアに気を使ってもらう価値なんてない。オレなんかに構ってないで、早く、ユリアだけでもこの城から出たほうがいいのに。タイトだって、きっとそう思ってる。ユリアだけ助かった方がいいって。
なんとか視線だけ動かしてユリアの姿を捉える。その向こうにリザの輝くような金の髪。さらに向こう側には、ガラスの棺で眠る少女。オレが、助けたかったはずの少女。思った瞬間に、まぶたの下から黒い瞳が覗いて、まっすぐにオレを射た。
ああ、でも、本当は——。
まだ助けたい。一緒に外に出たい。俺自身には丸められたメモ用紙ほどの価値もないけれど、でも、彼女には笑っていてほしいんだ。
言うことを聞かない手を動かそうとしていたら、ユリアが手を握ってくれた。暖かい。春風の柔らかなエネルギーが流れ込んでくるみたいだ。少し、体が動かしやすくなった。黒い床に膝を立てる。
「ユリア、ごめん。もうちょっと、待っててな」
「カイ……?」
不思議そうに目をまたたくユリアの肩に手を置いてなんとか立ち上がる。粘りつくような空気が下半身にまとわりついて、足が床から離れない。仕方なしに、引きずるようにして少しずつ、一歩ずつ前に出す。流れの早い川を逆流しているみたいだ。気を抜くと何かに足を掬われそうになる。
「お前……!」
驚愕にリザが目を見開く横を、ふらふらしながら急いで通り過ぎた。オレはガラスの棺によりすがって、倒れこむのをぎりぎりで回避した。すぐ目の前、ガラスの向こうに黒髪の少女の顔があった。無機質な、感情のうかがい知れない表情で、オレのことをじっと見つめている。
「やっと、見つけた」
そう言ったオレは、たぶん笑っていたと思う。声は泣きそうに震えていたから、本当はどんな顔をしていたのか、自分ではわからなかった。
「すごく遅くなっちゃって、ごめん。今度こそ、一緒に城の外に出よう」
オレは目を閉じて、棺のガラスにコツンと額を押し付けた。熱い液体が一筋、頬を伝っていった。
しばらくして、棺の中の彼女から返事があった。
「私は、外に出ない」
返事があったことが嬉しくて、オレは胸が熱くなるのを感じた。吐く息が、震える。
「うん、知ってる。ここから出ないことが、きみの復讐なんだよな」
「そうよ」
「でも、オレはきみと一緒にこの城をまわって凄い楽しかったし、もっと一緒にいたいって思ったよ。なぁ、外に出てきてはくれないのか?」
「私を捨てたのは、あなた達じゃない。世界が闇を捨てたのよ。リザだけ居ればいい、私は要らないって」
「ねぇ……」
続けようとした言葉は、途中で遮られてしまった。
「無駄よ」
突然、割り込んできた声に思わず口をつぐんだ。リザがオレのすぐ後ろ、棺の正面に仁王立ちしていた。
「いくら呼びかけたって、その子はそこから出てこない」
オレはゆるく首を振ってなんとか否定の言葉を口に出した。
「そんなことない」
そうは言っても確信なんて微塵もなかった。彼女を、ニザを棺から出させるなんてできないんじゃないかと、オレ自身どこか胸の奥の方では諦め始めていた。これ以上リザに何か言われたら、ニザのことを説得できなくなってしまう。
「あるわ。棺から出ないことを決めたのは、ニザ自身なのよ」
「やめて!」
淡々としたリザの言葉を止めたのは、それまでおとなしく様子を伺っていたユリアだった。
「カイの邪魔をしないで!」
ユリアがリザの肩を掴んで振り向かせる。オレは立っていられなくて、棺に背中をついたまま、ずるずると床に座り込んだ。膝頭に目を押し付ける。なぜだか、涙が溢れてきそうだった。
「……お前は」
暗闇の中で耳がリザの声をとらえる。その声は慌て、少し戸惑っているようだった。
「なぜ気に病まない。なぜ後悔しない。なぜ悲しまないなぜこの空間で光を保っていられる。なぜ……」
リザが一度途切れさせた言葉が、ポンと空間に投げ出される。
「闇に沈まない」
俯いたままズボンで涙を拭ったオレは顔を上げた。こちらに背を向けているリザの表情はわからなかったが、ユリアはまっすぐにリザを見つめていた。その目はガラス細工のように透き通り、怒りも、疑念も、その他なんの感情も映していないように見えた。
「……なるほど、そうか。お前は、私と同じか」
「同じ……?」
リザの呟きに、ほんの微かにユリアの眉が寄せられる。首をかしげたいのはオレも同じだった。
「私と同じ、闇を知らぬ者」
「そうかもしれない」
自信なさげにユリアが呟く。でも次の瞬間、胸に手を当ててキッと強くリザを見つめた。
「だって、あたし、わからないもの。どうしてカイが苦しそうなのかも、どうして二人が言い合いになったのかも、どうしてタイトやカイが涙を流していたのかも。あたしには、わからない。だけど、ううん。だからこそ、わかりたいと思う。知りたいと思うの! だから、あんたにカイの邪魔はさせない!」
リザの頭がカクッと垂れた。柔らかな金の髪が、さらさらと揺れて肩から滑り落ちていく。広い城の最上階を彼女の細い髪が擦れる音や息を潜めた呼吸の音が支配する。
やがてリザの喉が鳴るクッという音が響いた。次には「ふふっ」と、息が漏れる音。くつくつとリザの喉が鳴る。その間隔はどんどんと短くなり、音は大きくなっていく。
困惑するオレとユリアの間で、リザは城中に響き渡るような哄笑を上げた。
「お前は、闇を知らぬからそんなことが言えるのだ。苛立ち、怒り、妬み、疑い、悲しみ、嫉み、卑劣さ、劣等感、そして、絶望。闇のもたらすものに、良い物など一つもない。だから、お前たちは闇をこの城に封印したんじゃないか」
「違う!」
割り込んできた声にオレはリザから視線を外し、階段へと続く扉を見た。ドアノブにすがるようにして、タイトが立っていた。肩を大きく揺らして苦しげに呼吸を繰り返している。胸のあたりでショルダーバッグの黒い肩紐を強く結んで止血しているようだったが、白いシャツは赤く染まっていた。
「タイト!」
すぐにユリアが勢い良く飛び出した。いつものようにタックルをかまそうとして、直前で思いとどまったらしい。代わりにタイトの周囲を狼狽した子犬のようにうろうろし始めた。
そんなユリアの肩に手をやって押し留めたタイトと目が合った。気まずくて逸らしそうになるのを腹に力を入れて、琥珀色の瞳を見返した。
「言ってやれよ、カイ」
荒い息の下から呟いたタイトの声は、奇妙な感じにかすれていた。それでも不敵に笑ってみせる親友に、オレは唇を引き結んで深く頷いた。
膝に手をつき、力を入れて立ち上がると、目の前のリザを強く睨んだ。
「確かに、闇はいいものばっかじゃないかもしれない。つらいものばっかりかもしれない。だけど、闇がなかったら、本当の光だってわからないんだ」
リザは冷たく、ふっと笑うと傲岸に言い放った。
「戯言を。光は私だ。私が光だ。私(光)は、闇などなくとも存在できる」
「お前(光)はそうなのかもしれない。だけど、モノに光が当たった時には影ができる。光しかない世界では、何も存在できない。オレたちは、闇がないと存在できないんだ。光しかない世界なんて、偽物だ!」
「ええい、黙れ!」
髪を振り乱して掴みかかってくるリザの手を逆に握って押し返した。華奢な体の一体どこにそんな力があるのか。彼女の体を押し返すだけで精一杯で、それどころか踏ん張っているオレの膝は床へ向かって深く沈んでいく。
「カイ!」
走ってきたユリアがリザの腹の辺りに取り付いて押し返した。後ろからタイトがリザを羽交い絞めにして、二人がかりでなんとかオレから彼女を引き剥がした。
「カイ! お願い、棺の女の子を説得して!」
ユリアに言われるまでもない。オレは急いで後ろを振り返った。ニザは目を開けていた。底なしの井戸みたいな黒い瞳で、棺の外で起こっていることを眺めていた。
「オレ、小さい時の夏休みの宿題でさ。朝顔を育てたことがあるんだ」
「え?」
突然の話題転換にニザは目を瞬いた。だけど、唐突に思い出したんだ。オレたちが眠るときに厚手の遮光カーテンを閉めるように、植物にも暗闇が必要だってことを。
「日当たりのいい場所に置いて、毎日水をやるんだ。夜にはダンボールで作った四角い囲いを被せて、暗くしてやらなきゃならない。朝になったらダンボールを取って、また日に当てる。オレさ、全然ダメだったよ」
その頃のことを思い出して、苦笑いする。いつもダンボールを被せるのを忘れていた。毎朝、水をやる度に今日こそはって決意するのに、外で遊んで帰ってきたら朝顔のことなんて頭の中からすっかり姿を消していた。
「ダンボール被せるの忘れて、日に当てっぱなしになっちゃたんだ。そうしたら、オレの朝顔、ちっとも大きくならなくて、花が咲かないどころか、つぼみさえ出来なかった」
タイトやユリアの朝顔が大輪の花を咲かせている横で、オレの朝顔は二人の半分くらいの大きさで、つぼみもつけずにひょろひょろしていた。オレの朝顔には、暗闇が足りてなかったんだ。
「知ってる? 朝顔って一年で枯れちゃうんだよ。花が咲かなかったら種ができなくて、次の年にはなくなっちゃうんだ」
オレは棺の向こうに呼びかける。ニザが世界に必要とされてないなんて嘘だ。
「なぁ、ニザ。なんで外に出ないのが復讐なんだ?」
「それは——」
棺の向こうから響くくぐもった声をオレは振って遮って続けた。すぐ後ろから、リザが必死になって暴れている音がする。
「本当はわかってるんだろ。きみは世界に必要な存在なんだってこと。だから、外に出ないことが復讐になるんだ。要らないものが欠けてたって誰も困らない。だけど、要るものが欠けていたら、とても困る。世界に闇がなければ、みんな困る。だから、きみはここから出ないことで復讐しようって思ったんだ」
「私は——」
「オレたちには、きみが必要だ」
オレはニザの目を覗きこんで、はっきりと言った。底なしの穴のような黒い瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「ほんと……?」
「ニザだって、わかってたんだろ。だから、待ってたんだよな。ずっと」
涙を流し続けたまま、ニザが深く頷いた。
「出てきてくれ、ニザ。オレには、オレたちには、きみが必要なんだ」
棺に手をついて、分厚いガラスの向こうにもしっかり聞こえるように宣言する。ニザの目から溢れ出る涙の量が増える。オレは力を入れて、棺の蓋を横へとずらし始めた。
「ダメよ! やめなさい! やめてぇ!」
背後で暴れるリザの声が甲高く尾を引いて伸びる。オレは無視して力を込め続けた。全身から汗が吹き出すのがわかった。
透明な棺の正面に、黒々と闇の紋章が浮かび上がっていた。靄(もや)が広がるように棺の中は黒く染まり、ガラスのフタが重たい音を立てながらゆっくりと右へ動く。
棺の中で充満した黒い靄が、わずかに開いた隙間から足元へ漏れだし始めた。靄は、まるでドライアイスの煙のように、黒い床の上を這うようにして広がっていく。その間にもフタは開き続け、流れ出す靄の量は増え続けた。
「ダメ、ダメ! 私は世界に必要なはずだ。望まれて生まれて来たのだ。その私(光)を、お前たちは拒絶するというのか!」
「あんたに閉じ込められたニザだって、きっと同じように思った!」
叫びながらオレは全身に力を込め続けた。床がなめらかなせいで、スニーカーが滑る。棺のフタは開き続け、三十センチ、五十センチと、隙間とはいえないほどに靄の出口が広がっていく。溢れだした闇は、もうオレの膝あたりの高さまで渦巻いていた。
「オレたちは闇を選ぶ」
嫌だ、嫌だ、と半狂乱で叫ぶリザに聞かせる為に、オレは強い調子でもう一度宣言した。
「だけど、闇だけを選ぶわけじゃない」
「あたしたちには闇と光、その両方が必要なの」
オレの言葉に、タイトとリザが続いた。
棺を開ける最後の二十センチは、ほとんど何の抵抗もなくフタが動いた。ニザが棺の中から一歩外へ踏み出すと同時に、リザの両腕がだらんと垂れ下がった。暴れなくなったリザからタイトとユリアが離れる。リザは、目の前の事態に呆然としているようだった。
気が抜けたせいか、タイトが石の床にばったりと倒れ伏した。肩で荒い呼吸を繰り返している。
「タイト!」
ユリアが屈みこんで頭を抱き寄せる。オレは二、三歩足を踏み出したが、それ以上は動けなかった。視界の端で二人の様子を伺う。タイトのことはもちろん心配だったが、ニザとリザの動向から目が離せなかった。オレは、ちょうど二人の中間あたりに立っていた。
ユリアは泣いていた。貯水量の限界を超えたダムが決壊したかのようにユリアの目から次々に涙が流れだしていく。
「タイト、やだ。いやだよ。なんで、あたしの胸が苦しいの。やだよ。お願い……」
泣き崩れるユリアとタイトの姿を黒い靄が覆って飲み込んでいく。
「ニザ……」
言葉も無く立ち尽くしていたリザは、それだけ言って口を閉ざした。
「リザ……」
答えるように、ニザが名を呼び返す。黒い靄が、いつの間にかオレの胸のあたりまでを覆っていた。
向かい合った二人は本当にそっくりだった。眉根を下げたニザが小首を傾げて微笑んだ。黒い髪がさらりと揺れる。
「リザ、あなたにはやっぱり、白い服の方が似合うと思うわ」
告げられた瞬間、リザの目から涙が溢れた。膝を付いたリザは顔を覆って、声を上げて泣き始めた。リザの姿は靄の中に消えて、ただ泣き声だけが聞こえてくる。ニザが微笑んだまま、こちらを振り向いて口を開いた。
彼女の口が言葉を発する前に、オレの視界が闇に染まる。そこから先のことは、覚えていない。


   

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