景麒の趣味は、溜息をつくことだ。

 というのは、慶主景王陽子の言である。

  

 机の向かいに座る男から吐き出された溜息に、陽子はピタリと筆を止めた。筆の先端から帳面に黒いシミが広がっていく。帳面には蓬莱の字で、こちらの言葉の意味を書き留めていた。覚えることが多すぎて、そうでもしなければ何度も質問することになってしまう。それを、この男はわかっていないのだ。

 苛々と尖る神経をなんとか腹に収めて、陽子は眼前の金の髪の男を睨み見る。景麒はかぶりを振って、主上、と咎めるように言葉を吐き出す。

「そのようなことをなされては官吏に侮られます」

「ここにはお前しかいない。よって、問題はない」

 景麒の言葉を、陽子はぴしゃりと跳ね除けた。

「しかし、頭に入れていただかなければ……。官吏からの奏上に、いちいち帳面を見て答えるわけにはいきますまい」

「それでは、お前は、私が覚えるまで何度でも素直に答えてくれるのか? 二回目の質問の時にさえ、溜息をつくお前が!」

 心持ち声を荒らげた陽子に、景麒は再びかぶりを振る。そうして、どうしようもない、とでも言いたげに溜息をこぼす。その態度に、陽子は腹の底で怒りが膨れ上がるのを感じた。初めて会った時の景麒の言葉が頭の中で反響する。

 ——私としてもこんな主人は願い下げだ。

 陽子は景麒に溜息をつかれるたびに、繰り返しそう言われているように感じていた。耳の奥で、潮騒の音がする。

「景麒の趣味は溜息をつくことだな……」

 苛立ち紛れにこぼした言葉に返事はない。黙って溜息をついた麒麟に、陽子は己の苛立ちがどうしようもなく深まっていくのを感じていた。

 登極してから半年。尭天は金波宮で、陽子は溜息に囲まれて日々を過ごしていた。先王が禅譲してから一年後に登極した海客の女王に、官吏たちは厳しかった。それが、王のいない間に私腹を肥やしていたものであればあるほど余計に。

 陽子には、こちらのことがわからない。わからないから官に聞く。何が最善かの判断がつかないから、官に任せる。その度に、必ず誰かが溜息をついた。

 溜息の裏には、いつも非難と嘲りが潜んでいた。

 ——また女王か、おまけに海客、こんなことも知らないのか、達王が懐かしい……。

 けれども、景麒は違う。少なくとも、違わなくてはならなかった。彼女の麒麟だけは、私腹を肥やすような官吏と同じであってはいけなかった。

 景麒が陽子に誓約し、景麒が陽子をこちらに連れてきて、景麒が陽子を玉座に据えた。陽子がここにいるのは、ひとえに景麒の責任だったし、金波宮に景麒以外に陽子の味方はいなかった。

 その景麒が、陽子に対して溜息をつく。憮然とした表情と無言の溜息が、何よりも多くを語っていた。

 だから、しばらく市井で暮らしたいと言った時の景麒の反応は、陽子には少し意外なものだった。陽子は今までと同じように、小言を言われ、溜息をつかれるものだと決めてかかっていた。景麒は確かに小言を言って、溜息をついた。

 けれども、その溜息にはどこか安堵の表情があった。

 それが、陽子が溜息には非難以外の色もあるのだと、意識した最初だった。

  

***

「そんなところで何をしている?」

 小さな路亭あずまやに座って雲海を眺めている半身に、陽子は問いかけた。振り向いた金の髪が、さらりと揺れて肩にかかる。

 そこは岩壁に穿たれた短い隧道すいどうの先にある小さな谷間だった。足元は柔らかい緑の草に覆われ、その中にぽつりと小さな路亭がある。その先は岬のようになっていて、ただ雲海が広がるだけだった。

 路亭は陽子が初めてここを訪れた時と同じように、ほとんど手入れされた様子もなく、潮風の中、染料の剥がれるままに残されていた。

「雲海を見ていました」

「そう……」

 陽子は少し笑って景麒の隣に腰掛けた。寄せては返す波の音があたりを満たす。ときおり吹き抜けていく潮風に、切り立った崖の間に生えた木々の葉が、さわさわと音を立てる。陽子は目を閉じて、周囲に溢れる音に耳を傾けた。

 ——沈黙を共有することを心地良いと感じるようになったのは、いつからだろうか。

「……何を考えていた?」

 隣に向かって問いかければ、この上もなく簡潔な答えが返ってくる。

「主上のことを」

「相変わらず、お前は言葉が少ないな」

 陽子はくすりと笑う。景麒はしばし憮然として、そっと溜息を落とした。そこには、諦めの色があったように陽子は思う。

「……やはり、私は頼りないか」

 胎果の女王では頼りない。暗に明に、誰も彼もにそう言われてきた。登極してから随分たつ。官吏にそう言われるのには、もう慣れた。だが、陽子はそれを景麒に問いただしてみたことはなかった。問いただしてみよう、という気になれなかった。

「頼りないか」と訊いて、景麒に肯定されてしまうのが恐ろしかった。自分の足元が、がらがらと音を立てて崩れてしまうのではないか、という予感があった。

「私を玉座に据えたのはお前なのだから、お前だけは私を信じなければならない」と、景麒に言って聞かせたこともあった。それども、それはなにも、自分に自信あってのことではない。自信がなかったから、景麒の信を以って「王である自分」を是としたにすぎない。

 麒麟が王を選ぶのは本能だが、麒麟の好みで王を選定できるわけではない。それが、今更になって胸の奥にわだかまっている。

「そう……。初めてお会いしたときには、確かにそう思いました。この人は、玉座に据えてはいけない人だ、と」

 陽子は内心ギクリとした。言われる覚悟をしていても、実際に言葉にして出されると辛い。けれども、思っていたほどの衝撃はなかった。

「そうか……」

 ただ肯定した陽子に、景麒は小さく息をついた。短い応えに気落ちの色が滲み出ていたせいかもしれない。

「けれども、随分とお変わりになられた。和州の乱の時に、市井に降りたいと仰った主上を見て、私は安心したのです。この方は慶にとってかけがえのない方だ、と思いました」

 それに引き換え、と景麒は小さく首を横に振った。

「私は相変わらずです。言葉が少ないと叱られる」

 景麒がふっと溜息をつく。陽子はハッとした。それらは陽子に向けられたものではなかったのだ。

「実を言うと、怖いのです。予王を、……彼女が道を踏み外したのは、私のせいですから」

「そうか……」

 陽子は頷いて黙り込んだ。何と声をかけたら良いものか、分からなかった。

 耳に聞こえてくる話を総合すると、景麒が蓬山で泰麒と出会った時期に予王が恋に狂い始めた時期が続く。景麒が泰麒と接することで、不器用ながら外に出し始めた優しさが、予王を狂わせただろうことは想像に難くない。

 この麒麟が身につけた憮然さと無表情が、彼にとって一種の甲皮よろいであることに、陽子は薄々勘づいていた。

「まあ、でも、景麒は別にそのままでもいいよ」

 いかにも軽く聞こえるように言って、陽子は組んだ手をうんと伸ばした。

「お前のことも、なんとなくわかるようになってきたし。詳しく聞けば、答えてくれることもわかってるし」

 ——私の言葉が足りませんでした。

 かつて、再三にわたって景麒の言葉を遮っていた自分に向けられた謝罪に、彼の意見を聞いてこなかったのは自分だったと思い知らされた。そして、訊けばきちんと答えてくれるのだ、ということも。

「頼りにしております」

 ふっと、息をつくようにして笑った半身に、陽子は「任せておけ」と、笑顔で請け合った。

 こんなふうに、柔らかく笑うやつではなかった。初めて会った頃に比べたら、お互いによく馴染んだものだと思う。陽子も景麒の表情を読むのに苦を感じなくなった。溜息をつくことが多いやつだが、その色に気づいたのはいつだったか。

 ——やはり、和州の乱の時だったかな……?

 陽子は記憶をたぐり寄せる。登極間もない頃の記憶は、すでにだいぶん薄らいでしまって、どこか遠くのことのように感じる。

 そんな中でも、和州の乱は陽子にとって大きな特別な区切りだった。独力での乱の平定は初めての事だったし、初勅を出したこともそうだ。国官の整理の意味でも、あれを区切りに大きく変わった。もちろん、景麒との関係も……。

 そうだ。確かに、あの頃だった。

 気づいてよくよく観察してみれば、景麒の溜息はずいぶんと表情豊かだった。美しい花を見ればうっとりと息をつき、天候不順があれば心配そうに息をつき、視察から陽子が帰れば安堵の溜息、執務で陽子が疲れているのを見て取れば、やはり息をついて、そろそろ終わりにしますか、と伺いをたてる。

 普段、無口であればこそ、景麒の溜息は言葉よりも雄弁に彼の内実を表していた。

「景麒の趣味は、溜息をつくことだな」

「はぁ……」

 一人得心して、実に楽しそうにそう言った陽子に、景麒は怪訝な顔をして溜息を落とした。その音を、雲海の波の音が柔らかく包みこんでかき消していった。

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